カール・ポランニー
経済の文明史
日本経済新聞社 1983
Karl Polany
Trade and Market in the Early Empires 1957
[編]玉野井芳郎・平野健一郎

 いま、世界経済は市場経済主義一辺倒である。ソ連、東独、チェコ、中国といった社会主義国が解体ないしは変容して、軒並み市場経済を導入していった。
 かくして市場経済にはどこか矛盾がありそうなことは誰もが感じているはずなのに、これを否定する者はほとんどいなくなった。たとえ矛盾があったとしても、つまりは経済恐慌のようなものがおころうとも、いずれはアダム・スミスの“見えざる手”がなんとかしてくれるだろうという判断である。
 とくにマル経の凋落は甚だしい。ぼく自身はモーリス・ゴドリエの議論など、けっこうおもしろいと思っているが、全般的には人気はない。マルクス主義経済に威勢がなくなっただけではない。市場経済に疑問を挟む経済学に陽が当たらなくなった。しかし、はたしてそうなのか。もはや市場経済の永遠の玉座を脅かす考え方や方法には可能性がないのか。

 カール・ポランニーの考え方を経済人類学という。もともとは未開社会の儀礼や慣習がどんな経済的機能をはたしているのかといったことを研究していた。
 そのかぎりでは経済人類学はすこぶる機能主義的なもので、古代社会や古代文化を知るうえには興味深くはあっても、歴史的現在である今日の市場社会にあてはまるものはまったくなかった。学問分野としても文化人類学の下方部門に食いこんでいるにすぎなかった。レヴィ=ストロースも経済人類学の機能主義に走る傾向を何かにつけて痛烈に批判した。
 それが、カール・ポランニーが本書の原型である『古代帝国の商業と市場』をもって、非市場社会の「経済」を近代経済学の用語で説明することを拒否して以来、経済人類学の相貌がガラリと変わったのである。

 ポランニーは非市場社会では「経済が社会に埋めこまれている」と見た。古代社会では、親族関係・儀礼行為・贈与慣習などに、経済とは意識されない経済行為が財の生産と配分として動いているという見方であった。
 それらの社会では貨幣でない貨幣さえ“流通”していた。たとえば首飾り、たとえばビーカー型の壷、たとえば珍しい貝、たとえば動物の牙。古代社会ではこれらをなんらかの目的で貯め、なんらかの目的で贈与した。
 このような貨幣でない貨幣は、「おまえを呪って殺してやる」といった呪文のような力をもっていた。しかもいろいろ調べると、そうした呪文の力もまた、ある所有者から別の所有者へ“移動”していたり、“交換”されていたことがわかってきた。
 ポランニーはもうひとつの主著である『経済と文明』で、こう書いている。「一般的にいって、貨幣というのは言語や書くということとか、秤量や尺度に似た意味論上のシステムなのである。この性格は、貨幣の三つの使用法、すなわち支払い、尺度、交換手段のすべてに共通している」。
 ここで、ポランニーが貨幣と言語を同列に見ていることが鋭い光を放った。すでに貨幣の本質は、マルセル・モースが「貨幣として出動するトンガ」や「交換をおこす複合観念マナ」などを“発見”して、その贈与交換的な性格を指摘していた。「物が与えられ、返されるのは、まさしくそこに“敬意”が相互に取り交わされるからである」と、モースは『贈与論』に書いていた。ポランニーはそこに言語の交換的性格をかぶせてみせたのである。

 こうなってくると、経済の起源には言語にも見られるようなソーシャル・コミュニケーションの本質が関与しているという見方も成立してくる。
 別の見方でいえば、一見、貨幣を媒介にして商品を交換しあっている市場社会というのも、実はソーシャル・コミュニケーションの一形態だというふうにも見えてくる。
 こうしてポランニーの経済研究が俄然注目されてきた。市場を価格の自己調整メカニズムでとらえるのではなく、市場の奥に人間の隠された交換行為を見出す視点が浮上した。そしてポランニーとともに「市場は擬制である」という声がそこかしこに聞こえてくるようになったのである。

 本書はポランニーの主著『古代帝国の商業と市場』を土台にしてその他の論文を組みこんだもので、本書の題名をもつ本はポランニー自身にはない。玉野井・平野の両氏が日本の読者のために経済人類学のためのゲートウェイを編集したものである。
 そういう経緯もあるので、構成もいささか強引である。そこで本書を読むには、第3部の「非市場社会をふりかえる」でハムラビ時代の交易状態を知り、アリストテレスが「経済」を発見した経緯を通過したうえで、第1部の「市場社会とは何か」に戻るのが、わかりやすい。ここではポランニーの市場批判がぞんぶんに展開され、その延長に“貨幣の意味論”ともいうべき得意の議論がのべられているからだ。
 第2部は、「現代社会の病理」として世界経済恐慌の病巣が摘出され、返す刀でファシズムの本質が分析される。ここは本書のクライマックスである。ポランニーはファシズムを「キリスト教の堕落と社会主義の倒壊」とみなしたのである。加えて生気論における論理の暴虐に目を寄せ、擬似神秘主義というものがもたらす社会学的な頽廃を突いた。いろいろファシズム論を読んできたが、このポランニーの指摘はそうとうに独創的である。

おまけ・1
 いっとき経済人類学が日本で流行したことがある。1980年前後だとおもうが、その仕掛人の一人に、国会議員になったり、選挙に落ちたりしている栗本慎一郎がいた。
 栗本は経済人類学者である。ポランニーの『人間の経済』『経済と文明』の翻訳をはじめ、『経済人類学』『幻想としての経済』などの著書もある。ぼくは工作舎のころに、栗本慎一郎・小松和彦の対話による『経済の誕生』という本をつくった。担当エディターは後藤繁雄だった。
 栗本はいろいろ誤解されているようだが、経済人類学を操る手練はなかなかうまい。うまいだけではなく、いろいろ示唆に富む。また経済人類学を他の思想領域と結びつけるという役割もはたした。バタイユの普遍経済学と交差させ、情報生物学や動物行動学を引き寄せたりもした。『パンツをはいたサル』といった標題が、もともとデズモンド・モリスの『裸のサル』のモドキなのである。

おまけ・2
 カール・ポランニーの弟が「暗黙知」の研究で有名なマイケル・ポランニーである。兄弟の父がハンガリー人、母はロシア人、ブダペストに学んだ。兄のカールはハンガリーの知的伝統の再興を目的とする「ガリレイ・サークル」を創り、そのリーダーシップなども執っている。

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