デズモンド・モリス
裸のサル
角川文庫
ISBN:4043259018
Desmond Morris
The Naked Ape 1967
[訳]日高敏隆

 ずいぶん前なのに初読の実感がほとんど消えていない。『遊』を2号ほど出してからだから、ドルショック前後のことだったとおもうが、そのとき初めての野人料理を食べたような"脳の中の口中感覚"とでもいうべきものがまだ消えていない。
 読書というもの、こちらが乗ってくるまでにけっこうアイドリングに時間がかかることもあり、読み始めてすぐに弾けるように内容や文脈に引きこまれ、そうそう、これこれ、これなんだよというノリに自分で嬉しくなることもある。ぼくのばあいはなぜか"科学もの"に、このノリの感覚がよくおこる。
 これをさしずめ"高速判読感"といったらよいかとおもうが、本書『裸のサル』がそれだった。

 のちにデズモンド・モリスが矢継ぎばやに書きおろしていった話題図書『サッカー人間学』『マン・ウォッチング』『ふれあい』なども読んだが、同様の“高速判読感”はおこらなかった。
 いや、それらの内容に文句があったわけではなく、なるほどと思わせるものだったのだが、何かがちがう。科学的なアプローチと言葉のスピードが合致していないからなのだ。『裸のサル』はそこが卓抜な合致を次々におこしていた。
 こういうこともよくあることで、たとえばカール・セーガンのものなども、最初の『エデンの恐竜』の"高速判読感"にくらべると『コスモス』『宇宙との連帯』がかったるい。きっと学者が繰り返し同じテーマを書いていると、こんなことになってしまうにちがいない。

 さて、『裸のサル』である。
 この書名はもちろん人間のことをさしている。人間は(ヒトとかヒトザルと書いたほうがいいのかもしれないが)、毛皮を失った「裸のサル」であり、何でもむしゃむしゃ食べたがる「悪食のサル」であり、他の哺乳動物がめったにそんなことはしない同種殺害が平気な「憎悪のサル」なのである。これは考えてみれば恐ろしい。ともかくどんな動物にも似なくなってしまったからだ。しかし考えるべき問題は、われわれがそういう特徴をもっているということではなく(もうそうなってしまったのだから)、なぜそんなふうになってしまったのかということだ。
 デズモンド・モリスが本書で挑戦したのはこの問題だった。地球上にいる193種のサルとヒトザルのちがいはいったい何なのか。すでによく知られているように(モリスがこれを書いたころには知られていないことだったが)、DNAの配列レベルではサルとヒトザル(ヒト)とのちがいはごくごく僅かなものである。それなのに一方は動物園で似たような日々をおくり、他方は洋服を着て戦争をするサルになった。

 モリスが最初に探索するのは、われわれが狩猟型のサルを起源としていたということだ。
 われわれは捕食性霊長類なのである。そのためいろいろな特質が突起した。たとえば、視覚が嗅覚をはるかに上回り、平行視(パララックス)が完成し、捕食感覚をつねに刺激するために、のべつまくなく口に何かを入れていなくてはすまない「過食のサル」になっていた。
 捕食性霊長類は食物をちゃんと貯蔵することをおぼえた。これがそのうち煮炊きをして食物をおいしくするという工夫を生むわけだが、それとともに、いつも担当官たちが狩猟をしていなくともすむライフスタイルをつくっていった。貯蔵は共同生活というスタイルを始める理由になったのだ。群れが分割することをしないですむ家族性を生んだのである。
 もっと重要なことがある。それは霊長類は糞尿に関心をもたない動物になったということだ。捕食型なのに貯蔵型であるということは、インプットは大好きだがアウトプットには責任も愛着も感じない生物になってしまったということである。これがいまになってゴミや産廃に悩みぬく遠因になっている。

 次にモリスが着目するのは、「裸のサル」がネオテニーを利用してサルから決別したということだ。
 第313夜の『神の生物学』のところにも少しふれたように、ネオテニーは人間だけに特有ではないが、とくに人間が活用した異様なシナリオである。これはまずもって脳の発達させかたにあらわれた。サルやチンパンジーの脳は出生時にすでに成体の脳の70パーセントに達するようになっている。ところがわれわれの脳は生まれたてでは23パーセントにしか達しない。そして、その後の5~6年間で急速に成長するようになっている
 これがわれわれが採択したネオテニーである。つまりわれわれは「幼稚なサル」として生まれるようにプログラミングをしてみたわけなのだ。

 なぜこんなことをしたかということは、われわれが直立二足歩行をしたことと関係がある。
 ふつうはサルは性器を露出し、発情期にはフェロモンを発散させて、性交期を決めている。そのためそのときはメスの子宮の入口もふっくらと入れやすいものになっている。また胎児が出やすい大きさになっている。が、われわれは直立したために子宮の入口を狭いものにした。胎児が出にくくなったのだ。このためわれわれはつねに難産を余儀なくさせられ、未熟なままにより外に出ることを迫られた。
 これではすぐに成体にはなれない。それならあえて初期の成長を遅らせようということになる。さいわい脳は、胎児が狭い子宮の出口から押し出されることになったので、トコロテン式に出たあとは膨張するようになった。そこでこの肥大した脳をゆっくり成長するようにプログラミングすることにした。
 これこそが人間が1年も2年も育児をすることになった理由なのである(もっと長期にわたって育児をするばあいさえ多くなった)。この育児の期間に脳は最初はゆっくりと、その後は急速に発達するようになる。幼児の模倣による学習が十分に脳の発達と見合うようになったわけである。
 このモリスの着目は話題になった。実際にはモリスが本書で述べていることのすべてが納得されているわけではない。いろいろ不備もある。けれども、大筋において、「裸のサル」が直立二足歩行をしたことと、ヒトザルが人間になったことのあいだには、かなりネオテニー戦略が活用されただろうことはまちがいがない(もっと詳しい論証は第209夜に紹介したスティーブン・グールドの『パンダの親指』ほかのシリーズを読まれたい)。

 直立二足歩行は、実はもっといろいろのことをおこしている。そのひとつは発情期をなくしたことで、ヒトザルが相手とのコミュニケーションを求めて言葉をつかいはじめたことである。
 もうひとつは、セックスを発情期以外のときでもできるように、オスの文化とメスの文化に差異をつけてしまったことだ。これはいまではジェンダー問題というとてつもなく大きな問題にふくれてしまったが、もともとは発情期の喪失に関係がある。
 これらにくらべると小さな余波のように見えるかもしれないが、われわれは「裸のサル」でありながら、頭髪や腋毛や陰毛だけは残してしまったという、奇妙な事態をうけいれたということもおこった。モリスはこの問題に旺盛な興味を寄せて、本書でいろいろの仮説を紹介してくれている。
 そもそも火の使用が毛皮をなくすことになったのだろうということ、ひょっとするといったん海中(水棲)を選んでからふたたび上陸したから毛をなくしたのかもしれないということ、そのとき親が子を水中で引きずるために頭髪が残ったのだろうということ、その他、あれこれだ。もっともモリスも腋毛と陰毛が残った理由をうまく説明できないでいて、このあたりは読んでいて笑わせる。
 しかし、ぼくはこの水棲説には好感をもっている。そもそもヒトが流線型の体型をもっていること、体毛が背骨にむかって生えているということ、サルとちがって著しい皮下脂肪に富んでいることなどは、どうもわれわれが一時期水の中にいたことを暗示しているような気がしてならないのだ。かつてジョン・C・リリーとこの話をしたときは、リリーさんは「そんなこと言うまでもない、当然のこと」というように、自分でクジラとイルカの真似をしてみせた。

 こんなふうに、モリスはわれわれが「裸のサル」であることを気がつかせるいくつもの証拠と仮説を列挙して、われわれを驚かせたのだった。
 ぼくはこの本で驚かせられたことを感謝する。その後のサル学や霊長類学で、モリスの驚かせ方が極端に走っていることが多かったことも知ったのであるが、まずもって、自分で自分のルーツに驚いたことの衝撃をもったということが、ぼくをしてその後のヒト学に向かわせた理由になったと得心できるからである。

参考¶デズモンド・モリスの本は、おおむね読んで損はない。『裸のサル』以外では、『美術の生物学』(法政大学出版局)が一押しで、次が『マン・ウォッチング』(小学館)。ついで『ふれあい』(平凡社)『サッカー人間学』(小学館)といった順になる。ちなみに本書の初版は、図版として掲げておいたように山藤章二による、あっと驚くブックデザインになっている。ただしこれは絶版。いまは文庫(角川文庫)でおとなしい。

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