才事記

夏と花火と私の死体

乙一

集英社文庫 1997

 主人公は「わたし」である。九歳、女の子。五月という。「わたし」の同級生に橘弥生ちゃんがいて、よく遊ぶ。今日も二人で遊んでいた。弥生ちゃんには健くんというお兄ちゃんがいる。
 そのうちふとした話のはずみで、わたしは「弥生ちゃんの家に生まれたかった」と言った。わたしは健くんが好きだったので、同じ家に生まれていたらいつも遊べるからだった。そのとき弥生ちゃんがちょっと怪訝な顔をした。そして「弥生は違う家に生まれたかった」と言った。気まずくなってきた。二人で木の上に登ってみることにした。太い枝に腰かけて深呼吸した。弥生ちゃんは「わたしも健くんって呼んでみたい」と言う。そうか、弥生ちゃんはお兄ちゃんが好きなんだ、でも兄と妹だから結婚できないからつまらないんだ、そう思った。だから、そう言ってみた。
 向こうのほうから健くんが歩いてくるのが見えた。わたしは「おーい、やっほー」と声をあげた。健くんも気がつき手を振ってくれた。わたしは嬉しくなった。そのときだった、薄い上着ごしにわたしの背中に熱い手を感じた。弥生ちゃんの手だと思った瞬間に、わたしは枝から落ちて、いくつもの枝にぶつかって体がよじれながら落ちていった。最後に石の上に背中から落ちて、わたしは死んだ。
 
 物語はこのように始まる。主人公は九歳なのに、すぐに死ぬ。その死んだ「わたし」の死体を健くんと弥生ちゃんがなんとか隠そうとする。二人の死体隠しは難航し、何人かの人物が巻きこまれていく。死体の「わたし」はその一部始終を見ていて、その目で物語が進んでいく。
 この小説はなんと十七歳が書いた。作者は一九九六年の「ジャンプノベル」のコンクールの大賞を受賞した乙一君である。ワープロ練習のために書いてみたというコメントを読んだことがあるが、どうしてどうして、この小説はかなりの傑作である。ぼくはそうとうに褒めたい。世間には早熟はいくらもいて、ランボオや春日井建ならひょっとすると万人に一人というより千人に一人くらいはいるのかもしれないのだが、そういう才能は電光石火で暗闇に光芒を放って、やがて消えてゆく。が、乙一君の才能はそういうものではないと見た。
 なんといっても死んだ「わたし」が物語を進めていくのに、描写と視点の切り替えに無理がない。その淡々としたうまさを説明するのが面倒なのだが、いわば文章で考えているのではなく、マウスでダブルクリックしながらサイトのリンクボタンを切り替えているようなのだ。たとえば次のようなぐあいだ。改行は省略する。
 
 おじさんは何も言わずに扇風機の首振り機能のスイッチを押した。その旧い扇風機は、羽を回すモーターの部分についているピンのような部分を押すことで、首をふり始めるタイプのものだ。首を回すと聞いて、弥生ちゃんの肩がぴくんと震えた。奇妙な方向に折れ曲がったわたしの首を思い出したのだった。そんな弥生ちゃんにかまわず、アニメは始まっている。おじいさんとおばあさんはたんぼのことや、畑の西瓜の玉が大きくなったこと、使っていた茣蓙が古くなったので捨てなければならないことなどを話していた。
 
 死体になった「わたし」が事態の一部始終の進行を見ている視点というと、亡霊の視点や死体に住んでいるホムンクルスの目のようなものだろうと予想したくなるかもしれないが、そうではない。何の配慮も操作も加えない「わたし」そのままなのである。九歳の五月ちゃんという「わたし」は、生きていようと死んでいようと同じなのだ。
 そうしてしまえば、あとは物語作家がこれまで使ってきたすべての手法がそのまま生きてくる。ただ、読者は「わたし」がまだそこにいることを描写されるたびに、ぎくりとする。その味がいい。
 少年たちによる死体さがしや異物さがしを書かせたら名人芸を見せるスティーヴン・キングらのホラー作家たちとはまったくちがった味で、この作品は夏休みにおこった小さな恐怖を募らせる。そこへ、犯人の弥生ちゃんの少女っぽい戦慄と、それを庇うお兄ちゃんの健くんの心理が手にとるように伝わってくる。たとえば、こんなぐあいだ。また改行を省略しておく。
 
 低い声で囁くように言って、不安で肩を縮めた弥生ちゃんの手を引っ張る健くん。行き先は広場の見える辺りだ。うまくすれば何か重要なことが聞けるかもしれないと考えている。しかし、わたしが隠されている溝の近くの木陰で、健くんの足は止まった。わたしがいる溝の周り。森の泥や土で巧みにカモフラージュされたその辺りで、二人の捜索隊員が会話していたのだ。弥生ちゃんの顔が蒼白になっていく。健くんはそんな弥生ちゃんの肩を抱いて、二人は叢に隠れた。息を殺して二人の会話に聞き耳をたてる。健くんは汗を浮かばせることすらなく、会話を聞き取っていた。
 
 乙一君、うまいねえ。こういう書き方を成立させたおかげで、健くんを慕いながらも死んでしまった「わたし」のせつなさを感じられるのだ。物語がしだいに夏の花火大会に向かいながら、緑さんというもう一人のキャラクターの意外な活動を通して事態が拡張していく感覚も、よく書けている。
 ごく安易にいえば、これはニューホラーで、となりのトトロやトイレの花子さんの実在がなんの不思議もない世代にとっては、特別に虚構を設定する必要もない工夫だったのかもしれない。けれども、そうしたニューホラーたちのフィクション趣向とちがうのは、この作品があくまで「見る言葉の作品」になっているということである。映画や漫画ではつくれない。そこに注目しておきたい。言葉の組み立てのちょっとした機構の具合こそが、作品のすべてのしくみを作っていくという、その真骨頂を感じさせるところがあるということなのだ。
 どうやらこの作者は、芥川や太宰の才能をもっているのではないかと思わせる。いくつかの場面が素材にさえあれば、それらをその場面にひそむ言葉をもってつなげていける作話術の才能がある。もしその気になりさえすれば、つまりは余計な美学や思想を持ち出す気になれれば、ボリス・ヴィアンやマルグリット・デュラスのような作品も作れてしまうにちがいない。そうなってほしいということではないが。
 
 さて、ここから先はこの作品とはまったく関係ない話を書く。ずいぶん長いあいだ忘れていた話だ。ぼくはいっとき湘南の鵠沼にいたことがある。三歳から四歳にかけての一年未満ほどのこと、母と妹と三人で海岸近くの小さな家を借りていた。ヒヨコを飼い、スイトピーを口に入れ、ヘビに追いかけられ、江ノ電に轢かれそうになった。そんななかで、こういう体験をした。
 ピアノを習わされていたのだが、いつもぼくより前に来て、レッスンが終わるとニッと笑ってぼくと入れ替わり帰って行く女の子がいた。オカッパが眉毛を隠していて、いつも大きなスカートをはいていた。ぼくはピアノの先生が大嫌いで、たいていサーカスに攫われた子のような気持ちで和音を練習させられていた。そのためよく脇見をして叱られた。ところがその脇見が窓のほうに向いたとき、いつもオカッパの女の子が覗いているのである。ぼくが見るとすぐ消える。変な子だなと思っているうちに、先生に叱られたりして、忘れてしまう。
 ある日、その子と入れ替わりざまに「浜辺においで」という声が聞こえた。妙に太い声だった。気になって窓を見るのだが、今日はいない。
 帰りぎわ、先生にその子のことをきいてみた。「サブロー君っておかしいわね」と言った。表に出たら、その子が急に横から走り出してきて、「浜辺に行こうよ」と言いながら先を駆けていった。その瞬間、オカッパがゆれてとても太い眉毛が見えた。夏とピアノとあの子の眉毛――。

[追記]その後、乙一君はなんと押井守の娘さんと結婚した。相当数のラノベを読み、相当数のラノベを書いたが、一転してミステリーやホラーも発表し(『GOTH リストカット事件』が本格ミステリ大賞受賞)、「黒乙一」「白乙一」などと称されてもいるし、映画の自主製作も手がけている。タルコフスキーに憧れているらしい。ぜひ、めざしてほしい。