才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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モル・フランダーズ

ダニエル・デフォー

岩波文庫 1968

Daniel Defoe
The Fortunes and Misfortunes of the Famous Moll Flanders 1722
[訳]伊澤龍雄

ロビンソン・クルーソーは
イギリス資本主義の原型なのだろうか?
デフォーが描いたのはそれだけなのか。
ぼくはそうは思わない。
悪女モル・フランダーズの社会のほうに、
ずっと危険な魅力を感じてしまう。

 ジャン゠ジャック・ルソーの教育論『エミール』(岩波文庫)に、エミールが最初に読むべきもので、かつその後の長期にわたる最も重要な蔵書となるべき書物は何かというくだりがある。ルソーは「アリストテレスがいいか、ビュフォンがいいか」と問うて、「いや、やっぱりロビンソン・クルーソーだ」と答えている。
 子供の教育にも人生の一冊にもダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』が最もふさわしいと見たわけだ。
 若きカール・マルクスが『ロビンソン・クルーソー』を愛読したこともよく知られている。だいたい経済学者はロビンソン・クルーソーが大好きだ。デフォーがヨーロッパ社会における最初の「ホモ・エコノミクス」(経済人間)の体現者だという説を唱える学者も少なくない。デフォー、アダム・スミス、マルサス、リカードという系譜は、ある種の学者にとってのメインストリートなのだ。『倒錯の偶像』(パピルス)で唸らせてくれたブラム・ダイクストラには御丁寧にも『デフォーと経済学』(未訳)がある。
 わが大塚久雄も、ロビンソン・クルーソーを「中産的生産者層に属する経営者」のかなりティピカルなモデルとみなし、「さまざまな資材と労働をむだなく、しかも合理的に組み合わせ、そこに人間労働の合理的な組織をつくりあげた」と絶賛した。嘘だと思うなら大塚の『社会科学の方法』(岩波新書)を読むといい。もう少しくだけたものなら、瀬川久志の『ロビンソン・クルーソーの経済学』(新水社)がある。
 しかし、クルーソーがなぜ「ホモ・エコノミクス」の純血種のようにもてはやされるのか、実ははっきりしないことも多い。だいいち、デフォーは経済的純血種を描きたくてクルーソーを作ったのか、いささか疑問だ。

『ロビンソン・クルーソー』初版の口絵(1719年 ロンドン)

 クルーソーがどういう生涯をおくったかということは、いまさら説明するまでもないだろう。無人島に漂着して二八年をおくった。その島で穀物を栽培し、家畜を養い、住居をつくりあげた。
 これを日本人はサバイバルゲームの典型のようにみなし、ときに横井庄一や小野田寛郎のルバング島における不屈の生存能力のように解釈するのだが、クルーソーが無人島で心に決めたことは、神と父に背いた報いをはたすということだった。ピューリタニズムの実践だった。
 柱に刻みを打って日付を確認していたクルーソーが、漂着して三六五日目の一六六〇年九月三十日を記念する場面がある。クルーソーは敬虔な祈りを捧げ、この日を今後も断食日とすることを決意する。サバイバルをしたかったわけではなかった。
 ついで地面から数本の緑色の茎が出てきたことに驚き、それがイギリス種の大麦であることに気がつき、天に感謝する。大麦がすくすく育ち、それを収穫し、また種を蒔いてそれが成長していくことを何年も体験していると、これが天の恵みというより自然のサイクルだということを理解する。こうしてクルーソーはしだいに「自然経済の本質」にめざめていったということになる。
 ここにクルーソーの「神から経済へ」の進展があった、と経済学者たちは言いたいのである。けれどもそれでクルーソーがホモ・エコノミクスになったというのは、どうか。

 漂着十八年目、近海を横行する人食い人種たちが上陸してきて、いくつかの痕跡を残していった。人間の骨だった。クルーソーはそれを見て、人間は人間の肉を食うのだという“現実”を知り、まさかの時のための防衛が必要であることにめざめる。防衛の日々が重なっていった。さらに二三年目に人食い人種たちが再上陸し、まさに捕虜の人肉を貪りあっていることを目撃した。
 クルーソーはしだいに、世の中というものが神の摂理や経済の確立だけではなく、社会の悪によっても成立していることを知る。このあたり、「シンパシー」(同情・共感)と「神の見えざる手」をもって経済の誕生を示したアダム・スミスより、クルーソーのほうがずっとラディカルで、ずっとクールな納得だ。
 二五年目、三十人ほどの人食いたちが上陸したときは、ついにその捕虜の一人が脱走してクルーソーのところに転がりこんできた。これが有名なフライデーである。クルーソーはフライデーとともにより徹底した防衛戦闘態勢を整えつつ、しばし暗澹とする。「人が人を食う」ということに社会と経済の本質があることまで感じはじめたのだ。これはどう見ても、ホモ・エコノミクスの話とは思えない。クルーソーは「ホモ・セキュリタス」(防衛人間)になった。
 たしかにクルーソーにはピューリタニズムが大好きな勤勉精神が生きていて、マルティン・ルターの「ベルーフ」(天職)を思わせる選択がある。また、破損した自分が乗ってきた船の残骸からことごとく物資や材料を運びこんで、これをもって日々の生活の材料としていった展開には、まるで近代制工場生産の基本システムが芽生えているようにも見える。
 しかしその反面、クルーソーをたえず脅かしたカニバリズム(食人習慣)の横行は、社会や人間というものが「悪」を抜いては語れないことも告げていた。経済学者たちはそこを見ていない。経済学者は、ジュルジュ・バタイユなどの僅かの例外をのぞいて、善意の経済学を信奉しすぎるのだ。「悪の経済学」がない。
 そこでぼくとしては、ロビンソン・クルーソーもいいけれど、モル・フランダーズはもっと現代に物語ってくるものが多いのではないかという、そんな見方を強調してみたくなる。

 ロビンソン・クルーソーはまるで実在の人物か、歴史の一角を飾った本物の人物であるかのように思われてきた。これはシャーロック・ホームズがベーカー街に日々実在していたかのように思われていることと似て、イギリス人の嗜好(それとも思考?)のペダンティックだが妙に即物的な側面を暗示する。
 しかしぼくは、それなら「男のロビンソン・クルーソー」に比して、「女のモル・フランダーズ」がもっと語られていいと思ってきた。これは「善なるロビンソン・クルーソー」に対するに「悪なるモル・フランダーズ」ともいえるし、親鸞ふうにミメロギアをするなら、「欲望を管理したクルーソー、煩悩を浄化したフランダーズ」ともいえる。そういう一対だ。もっとはっきりいえば、モル・フランダーズこそ、今日なお実在している社会者そのものなのである。そのことに気がついた者もいた。
 イギリス人がダニエル・デフォーを見直したのは、二十世紀まもなくのブルームズベリー派によるところが大きかった。ヴァージニア・ウルフは『ロビンソン・クルーソー』や『モル・フランダーズ』を「民族そのものの作品」だとみなし、E・M・フォースターは「小説の原型を構築した絶品」だと評価した。
 ただし、この見方はあまり広がっていない。クルーソーのほうはあいかわらず民間に親しまれ、子供の童話にすらなっていったのだが、モル・フランダーズの数奇な物語のほうは無視された。毒婦や悪女の物語では、とうてい子供にも伝えられなかったし、アタマが堅い経済学者たちには悪女の社会学など、とうてい敷衍できるものではなかったのだ。さすがのイギリス人たちも、この物語にはついていけなかった。

 モル・フランダーズとはどういう女なのか。少しだけ説明しておくことにする。これは「かわいくない女」の典型なのだ。
 モルが世にも稀な数奇な運命を辿ることになったもともとの遠因は、母親にあった。母親は窃盗と淫売を糧とする日々をおくったすえ、捕まってニューゲート監獄に収監され、絞首刑になるところを妊娠中ということで、すんでの七ヵ月の執行猶予となり、そのどさくさのあいまにモルが生まれた。そんな出生だったから、モルは生まれてすぐに監獄から親戚の家に移されたのだが、両親がいない幼年少女時代の日々がおもしろいはずがない。あるときロマの群れに紛れこんで、そのままエセックスのコルチェスターの貧しい女のところへ引き取られた。ともかく最初っから流転の人生なのである。
 やがてモルは男を取っかえ引っかえすることをおぼえ、母親そっくりの掏摸や窃盗にあけくれる。あげく、銀食器を盗んだときに現行犯で逮捕されて(『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンの先行モデルだ)、これまた母親同様にニューゲートに送監される。

 モルの数奇はそれだけにとどまらない。やっと結婚した男が、なんと母親が別の男と交わって産んだ男だった。モルは父親ちがいの弟と結ばれてしまったのである。この血族相姦の事実を知ったモルはさすがに懊悩する。自身のおぞましさに呻吟する。
 こんなことばかりがモルを襲いつづけるのであるが、モルは自分が犯した罪や自分が溺れた欲望にはほとんど罪悪感がない。そういう意味でも「かわいくない」。それにもかかわらず、モルはロビンソン・クルーソーとはまったく逆に、自然や経済のサイクルにまったく無頓着で、それどころかそのサイクルを逸脱することにおいてたくましく生き抜いていく。
 まことに奇怪な女なのである。人生だけを見れば、十二年間は娼婦として暮らし、五度にわたって人妻となり、十二年間を盗賊として鳴らし、八年をヴァージニアの流刑地の重罪人としてすごしたのだ。こんな女はめったにいない。しかも、あとでも案内するが、デフォーがこれを書いたのは十七世紀末から十八世紀にかけてのことなのだ。ヨーロッパ文学史において、こんな女が主人公になっていることが、破天荒で、桁外れで、ありえないことだった。

 いったいモル・フランダーズとは何者なのか。デフォーはこの女性の生涯に何を織りこんだのか。なぜデフォーはロビンソン・クルーソーについで、こんな極端な人物像を描いたのか。
 あえて文学史的にいうのなら、モルは、のちにエミール・ゾラやフランソワ・モーリアックやダフネ・デュ・モーリアが描いたヒロインに似て、悲惨と恐怖の体験をしつくしている。つまりはモーパッサンの『女の一生』の先行モデルになっている。
 けれどもその一方、モルは快楽を求めるマルキ・ド・サドのジュスティーヌの先行モデルであって、メリメのカルメンであり、また窃盗を肯定するジャン・ジュネの思想の先行モデルなのである。耽美も逸楽も体験した女なのだ。
 これだけでもそうとうに変わった過剰なヒロインだということになるのだが、さらに他方、そうした近現代の作品の主人公とちがって、モルはきわめて特異な救済感をもたらしたヒロインでもあった。それは、モルが「お母さん」とよぶ女によって救われているという点にあらわれる。物語のなかでは、「お母さん」は実の母親以上に母親的で、モルが子供を産むときや数々の苦難のときに現れて助ける役割になっている。しかし、彼女自身はモルや実母に勝る淫行と犯罪のかぎりを尽くした女であって、それなのにどこかに聖性をもっている。
 つまり「お母さん」は「悪」に染まった女なのである。その悪女がモルという悪女を救っていく。ここに『モル・フランダーズ』の独特の仕掛けがあった。
 なぜデフォーはこのような仕掛けが書けたのか。ぼくはデフォーについてはまだまだ素人なのだけれど(たとえば、ブラム・ダイクストラのような究明についていけないところがある)、それでもデフォーを新たな観点で擁護しておきたい向きがある。

 ずっと以前から感じてきたことであるが、デフォーが書いたものには、『ロビンソン・クルーソー』であれ、ロンドンにおけるペストの蔓延を克明に描いた『疫病流行記』(現代思潮社)であれ(この作品は寺山修司がぞっこん傾倒していた)、ぼくにはジョーゼフ・コンラッドの傑作『闇の奥』(岩波文庫)の大胆な先行作品と思える『名高き海賊船長シングルトンの冒険一代記』(ユニオンプレス)であれ(アフリカ探検の物語だ)、それを物語の筋書きそのままに放置しておけないような奇妙な魅力が出入りする。
 文章も筋立ても、決してうまいわけではない。アラ探しをすれば、陳腐なところはいくらでもある。だいたいデフォーは何であれまるで見てきたかのように書く“誇張リアリズム”と“説教主義”ともいうべきクセを押し通しているので、作品の随所に「嘘っぽさ」と「これみよがし」が目立っている。
 英文学の研究者であるにもかかわらずイギリスを嫌った漱石は、「そこにうんざりした」という感想を洩している。
 それにもかかわらず、デフォーの作品には脱帽せざるをえないものが見え隠れする。とくにロビンソン・クルーソーとモル・フランダーズという一対の男女を創出したということにおいて、同時代のジョナサン・スウィフトがどう逆立ちしても敵わないものがあった。むろん漱石や鴎外には思いもつかない構想だ。いやいや、構想ではない。そういう高尚なものじゃない。仕掛けなのである。デフォーの魂胆なのだ。なぜデフォーはこのような仕掛けが書けたのか。
 これについては、デフォーその人の数奇な人生を見ることからしか窺えないものがある。そのなかにデフォーの魂胆を見る必要がある。前半生は失敗ばかりした男で、後半生の半分は右顧左眄ばかりした男だった。ところが最後の最後になって、デフォーをデフォーが裏切った。

 ダニエル・デフォーは一応は一六六〇年のロンドン生まれということになっている。一六六五年のペスト大流行の五年前のことだ。一応は、と言ったのは、生年がつきとめられないほど下層の出身だったということで、デフォー自身の説明で父親が肉屋か獣脂蝋燭業だということがわかった程度の生い立ちだったからだ。が、デフォーの精神史にとって重要なところはわかっている。父親が非国教派だったので、非国教派の私立学校で育ったということだ。イギリスの国是とされた国教派と対立していた社会に属していたということになる。
 二十歳をすぎると靴下の仲買人として商売を始め、さまざまな事業に手を出しては失敗をした。三二歳のときの債務は一七〇〇〇ポンドに膨らんでいた。詐欺で何度も告訴された。そのあいだにロンドンではジェームズ二世が即位して、これに抗したチャールズ二世の庶子モンマス公が反乱をおこすのだが、デフォーはなぜかこの末席に連なって敗北を味わった。
 これで落胆するか失望するか、道をまちがうか、そういうひどい退落がおこっていてもよさそうなのだが、デフォーはまったくへこたれない。示談を成立させて、まず債務をくぐり抜けた。続いてジェームズ二世がフランスに逃亡して、オレンジ公ウィリアムとメアリーが王位につくと信教自由令が出て、デフォーは自分の社会的信仰の保証にほっとする。
 ついでウィリアム三世の統治が広がった時期には、エセックス州ティルベリーに煉瓦タイル工場をつくったところ、これがけっこう繁盛した。金まわりがよくなっただけでなく、巧みにウィリアム三世にとりいって、スパイまがいの諜報員として政治活動に手を出した。日本でいえば元禄十年(一六九七)のことだ。ロンドンはコーヒーハウスで賑わう時節になっていた。デフォー三七歳である。

 ここからのデフォーの活動は、もっと怪しいものになる。何が本気で、何がブラフやダミーなのか、わからない。デフォーこそ“ロンドンのロビンソン・クルーソー”で、“男のモル・フランダーズ”なのである。
 まず『企画論』(An Essay upon Projects)というものを書いた。一種のアジテーション・パンフレットで、こののちデフォーが得意とする手法の開陳だった。アン女王が即位すると、『非国教徒最短処理法』などというパンフレットもぬけぬけと書いた。きっと女王が非国教派を弾圧するだろうことを予測してアン女王派になりすまし、非国教派を弾圧するアジテーションを書いたのだ。二枚舌である。匿名だったが物議をかもし、正体をつきとめられて逮捕に至った。有罪になった次には晒し台に陳列された。この騒動は数ヵ月続き、結局、煉瓦工場が破産した。
 それでもやっぱりへこたれない。仮面としての御用ジャーナリストの職能をいっぱいに広げた。そこに目をつけたのがトーリー党のロバート・ハーリーである。デフォーもハーリーの要望に応えた。あるいは、そのフリをした。
 一七〇四年には週刊紙「レヴュー」を創刊してハーリーのための論陣を張り、次から次へとアジテーションを書いた。ハーリーがいっとき失脚すると、今度はホイッグ党の政治家ゴドルフィンの肩をもち、ハーリーがふたたび勢いを盛り返すと、またまたハーリーの手先として諜報員になって、トーリー党寄りの文章を書いた。四八歳になっていた。筋金入りの二枚舌だ。まるで両棲類である。最悪低劣な右顧左眄ジャーナリストに見える。
 当然、同業者からは非難を突き付けられた。ジョナサン・スウィフトからは「手前勝手なことしか言わない詐欺師で、とうてい我慢がならない」と批判され、かの「スペクテイター」紙のジョセフ・アディソンからは「嘘つき、ごまかし、言い逃ればかりするごろつき」とこっぴどく罵倒された。当然だ。デフォーはひたすら世の目先をくるくると渡り歩く文筆家にすぎないとみなされたのだ。

さらし台にかけられるデフォー

 しかし、しかしである。ユトレヒト条約が締結され(スペイン継承戦争が終結し)、アン女王が亡くなり、ハーリーが失脚し、さらにハーリーがロンドン塔に幽閉される段になってからのことなのだが、五五歳をこえたデフォーがこれまで伏せてきた才能をしばらく陶冶したのち、一挙に開示することになったのだ。それが一七一九年、日本でいえば還暦間近の五九歳のときに発表した『ロビンソン・クルーソー』だったのである。
 晩年のデフォーの才能はひたすら一代記に向けられた。六十歳で『シングルトン船長』を、六二歳で『モル・フランダーズ』(これはときに『モル・フランダーズ一代記』と訳される)を、休むいとまなく『疫病流行記』と『ジャック大佐』を、さらに六四歳で『ロクサーナ』(美貌のロクサーナの淫靡な遍歴物語)と『盗賊ジョン・シェパード』を書きまくり、六六歳ではやはり大盗賊の一代記を扱った『ジョナサン・ワイルド』をたてつづけに書いてみせたのだ。
 念のため比較しておけば、スウィフトが『ガリヴァ旅行記』を書いたのは、やっとデフォー六六歳のとき、その後の七一歳で老衰死したデフォーの人生からすれば、その最後の最後になってからのことだった。

 デフォーの物語は、一言でいえば度が過ぎた作り話であろう。さきほども書いたように、嘘っぽさも目立っている。政治パンフレットはアジばかりだ。
 けれども、よくよく時代を見ると、ウィリアム三世時代やアン女王時代のイギリスそのものが右顧左眄していた。とくにコーヒーハウス時代というのは、第四九一夜に詳しく案内しておいたけれど、コーヒーハウスの店ごとに主義主張がちがっていた。イギリスは議会政治を発祥させたというものの、その実態は乱立するコーヒーハウスに依拠する党派を適当に糾合し(最近の日本の政党政治のように)、これをやっとトーリー党とホイッグ党に仕立てたという程度のもので、それに合わせて議会を用意したというだけだった。イギリス人はそうしたとってつけたような成果を後生大事に延命させた。イギリス人の悪がしこい能力だ。
 こういう時代に、文章を専門に書くという職能が初めて登場した。それまでは文筆家なんていなかった。まして小説家もいない。それがコーヒーハウスのなかでジャーナリストとも小説家とも政治家ともレキシコグラファーともなったのだ。スウィフトもそうだった。もっとはっきりいえば、この時代に書かれたことはすべてがノヴェル(めずらしいもの)やノヴェリティ(新奇なもの)だったのである。
 「レヴュー」にしてからが、正式タイトルは「新聞記者や諸派の小政治家どもの誤謬と偏見から脱却するための情勢についてのレヴュー」というものだった。どんな書き手もノヴェルをめざすしかなかったのだ。そのノヴェルがデフォーとともに小説になった。
 そうだとすれば、デフォーはそういう「小説という新たなジャンル」を開拓した男だったということになる。

 いまでは日本でも、売れっ子の作家は実生活の日々とは別の専門職になっている。世の中や歴史の日々を適当に取材して、それを想像力を交えて書けばいい。それでもデビュー当時の作家の多くは、自身が体験した貧困や差別や苦悩や快楽を描いて文学賞をとったり、話題になったりするものだ。それがデフォーの時代では、実生活そのものが文章だった。
 しかし、デフォーはそこに仕掛けを装置した。自身の日々を実験台にして、それがあらかたケリがついたところでノンフィクションをフィクションに切り替えた。いや、もともとルポルタージュやアジテーションそのものを虚実皮膜で実験しつづけていたわけで、それがアン女王の死によって時代の落着がおこったことを見届けると、デフォーはまったく新たな「物語作家」という職業の確立に向かったのである。
 その物語は同時代に生きる極端な人間の一代記というものだ。そのためにデフォーは自身のすべての体験をフィクショナルに仕立て上げた。これはダニエル・デフォーだけが、デフォーの編集能力だけがなしとげたことだった(のちにはチャールズ・ディケンズがこれに再挑戦した)。

 ところでぼくは思うのだが、一般に、いったい誰が二股ではない日々をおくっていると言えるのだろうか。少年期から壮年期まで、少女期から熟女期まで、誰が一貫した志操や思想を、趣味や行動を貫けているといえるだろうか。
 われわれの周辺は、仕事を変え、勤め先を変え、ときには交わる相手を変えて、つねに変身の日々をおくっているのがふつうだ。まして失敗や失意があれば、これは自分が向かう矛先を変えるほうが尋常だ。そんなことは文章に残さなければ、おそらく誰もが黙ってやりつづけていることである。
 こういうことは誰もがしていることであるけれど、ただ多くの連中は、それをあからさまになんか、しない。日記にすら、事実を克明に綴りはしない。漠然とした自我や自己というものの継続のため、自分の日々の変節などできるだけ忘れたがっている。その実、みんな生活と仕事の二股工作にひたすら苦しんでいる。
 ところがデフォーは、その変化のいちいちを書きつづけた。自身の向かう方向とテーマと相手を、いちいち書いた。パラメータそのものを書いたといっていいだろう。伝記者たちによれば、デフォーが書きあげた作品やパンフレットは二五〇作に及ぶという。これはほとんど実生活の変化ぶんすべてが文章になったといっていいだろう。いまなら、さしずめブログだと思えばよろしいのだが、そんなこと、サミュエル・ピープスのように日記を書きつづけた例外をのぞけば、デフォーの時代の誰一人としてなしえなかったことだった。
 デフォーを擁護したくて、こういうことを書いたのではない。いまこそSNSブログ時代のなかで、諸君も自身の内なるデフォーをどんどん内発するとよろしいと言いたいのだ。そろそろ「いい人ぶる」のをやめなさいと言いたいのだ。

ロンドン中心部にたたずむデフォーの墓標
附記¶日本はダニエル・デフォーにとんと疎い国である。すでに嘉永年間に蘭学者によって『ロビンソン・クルーソー』が『漂流記事』として漢文になっていたわりに、ほとんど注目されてこなかった。漱石がデフォーを軽視した影響なのかもしれない。そのためか、デフォー研究もほとんどめぼしいものがない。ぼくが知らないだけかもしれないが、古くは天川潤次郎の『デフォー研究』(未来社)が、やや近くに宮崎孝一の『ダニエル・デフォー』(研究社)があるばかりなのである。
 したがって作品の翻訳も著しく少ない。さすがに『ロビンソン・クルーソー』だけは各社で出していて、なかには吉田健一の闊達なもの(新潮文庫)や伊集院静の無頼なもの(講談社)もあるのだが、ほかは『モル・フランダーズ』が岩波文庫で、『疫病流行記』(『ペスト』)が現代思潮社で、『ロクサーナ』が槐書房で出ているくらいのもの、さっぱりなのだ。
 翻訳の研究書もまったくないといっていい。ブラム・ダイクストラの『倒錯の偶像』(パピルス)がややデフォーを浮き彫りにしているが、これとてダイクストラの『デフォーと経済学』が未訳では、まったく資料とはならない。ちなみに大塚久雄のクルーソー経済学は、上記に案内した岩波新書とはべつに『文学と人間像』(東京大学出版会)にも見えている。なお、『モル・フランダーズ』はペン・デンシャムの監督で1996年に映画化された。てっとりばやくは、ここからデフォーに入るのもいいだろう。