渡辺一夫
曲説フランス文学
カッパブックス 1961 筑摩書房 1974 岩波現代文庫 2000
ISBN:4006020023

 出版人と知識人がほどよく遊んでいる韜晦趣味など、いまはもうなくなりつつあるのかもしれない。そうだとしたら残念なことである。もはや耕書堂の蔦屋重三郎も、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店のシルヴィア・ビーチも、なかなか出現してくれないということになる。
 本書が1961年にカッパブックス『へそ曲がりフランス文学』として出版されたとき、ぼくはまだお尻の青い高校3年生だったのに、出版人神吉晴夫と知識人渡辺一夫の“関係”をおおいに羨ましくおもい、いつかそのどちらかの声に接するか、そのどちらかの一端に与したいとおもったものだった。
 そういう意味で、本書では渡辺一夫が神吉晴夫との友情の柵(しがらみ)の顛末をあかしている「まえがき」が、読ませてやまないものになっている。いまふりかえれば、この「まえがき」を読んだことが、ぼくをしてどこかで「編集」に走らせたのかもしれないとも思えた。

 渡辺一夫は周囲から日本のユマニストの象徴のようにおもわれてきた人物である。大江健三郎が“渡辺先生”を語るときも、そういう口吻になる。
 これは、渡辺がルネサンスの“ユマニストの王”であるエラスムスを研究していたこと、それ以上にフランソワ・ラブレーの翻訳と研究の第一人者であったことにもとづいている。
 しかし渡辺のいうユマニスムは、今日語られている「ヒューマニズム」なんぞとはかなり異なっていた。そこには「嘲笑」もあれば「揶揄」も含まれる。ようするにつねにおかしなモノやコトに対する腹の底からの「笑い」というものがある。これを渡辺先生は「寛容と狂信のあいだ」というふうにとらえた。
 寛容はともかくも、狂信までもがユマニスムに入るというのは、いささか意外であろう。けれども、たとえば本書に扱われている宗教改革者ジャン・カルヴァンにとっては、当時の宗教的な状況そのものが「狂信」に見えたのだし、逆に当時の宗教状況にいる者から見れば、カルヴァンその人が「狂信」のかたまりに見えたはずだった。すなわち、何を狂信と見るかということそのものがユマニスムの決定的な境目になることは、宗教改革の時期だけではなく、いくらだってありうることなのである。その境目を丹念にたどっていくことが、フランス文学の歴史という厖大な流れを渡辺流に絞っていくための本書の羅針になっている。

 正直なことをいうと、ぼくはこの本で初めてフランス文学の流れに入っていった。そのころのことは記憶が不確かになっているが、印象にのこったのは次のような文学者たちの考え方や思想的な動向だったと憶う。
 まずは、モラリスト文学の嚆矢にあたるジャン・ド・ラ・ブリュイエールだ。『人さまざまあるいは当代の習俗』を書いた17世紀の文人であるが、その考え方が見えて初めて、デカルトが“ご婦人のために”フランス語で『方法序説』を書いた意味も、パスカルが依拠したポールロワイヤル修道院の役割も見えてきた。のちにぼくはベンヤミンの『パッサージュ』にはまることになるが、ラ・ブリュイエールやピープスの日記(これは本書には関係ないイギリスの司祭の長大な日記)との比較がなければ、あんなにはまりはしなかったともおもう。
 いわゆる新旧論争を知ったのも大きかった。シャルル・ペローとニコラ・ポワローの論争に端を発した古代人・近代人優劣論争は、18世紀にふたたびダシエ夫人とラ・モット・ウーダールによってむしかえされた。ぼくはこの論争を早くに知ることで、フランス人が歴史を相対化する能力や自由に歴史を見る能力を訓練できていることを知った。ポールロワイヤル修道院の言語哲学的な役割とともに忘れられない。
 ヴォルテールのカラース事件を知ったのも、のちのちのための礎になった。ジョン・カーラスの冤罪を数年間にわたって叫びつづけた話であるが、それまで高校の授業で習うヴォルテールが偽善主義に見えてつまらなかったのが、本書ですっかり見方を変えるきっかけになったものである。のちに荒俣宏君とはヴォルテールのSF性をあれこれ議論することにもなり、ぼくは本書以来、日本人がつまらなくしたヴォルテール印象を払拭できて、たのしませてもらったのである。読書の愉快というものは、このようなすぐれた水先案内に早々と出会うところにもあるわけなのである。
 サロンの役割をまざまざと教えられたのも、本書が最初だったようにおもう。

 ジュール・ヴァーブルについては、渡辺先生の筆致も乗っていてとくにおもしろかった。この人は若きヴィクトル・ユゴーを取り巻いていた一人だが、シェイクスピアに異常に傾倒していて、その傾倒ぶりから、ぼくはかえって坪内逍遥や福田恆存や小田島雄志の沙翁癖の接し方が“理解”されたのだった。のちにこの人の『便利箪笥の不便さを論ず』という著書にはお世話になった。
 このほか、本書がぼくにもたらした“青春期の贈り物”ははかりしれないものがあるが、一方、バルザック、ゾラ、ボードレール、サルトルなどの近代の文学者たちの解説については、その後の読書によってずいぶん別の“理解”をするようになったので、本書の印象がいまとなってはかなり薄いものになっている。
 が、読書というものが、そうした読書時期による濃淡を油彩画や水彩画のように色を変えていくことにも、読書というものの「遊弋する醍醐味」ともいうべきを感じるのである。

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