才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ボランティア

金子郁容

岩波新書 1992

 ずいぶん以前の話である。札幌の某高層ホテルはまだオープンしてまもないせいか、ほとんど客が泊まっていなかった。ぼくと金子さんはシンポジウムに招かれて指定のこのホテルに泊まったのだが、あまりに不気味なので二人で薄野(すすきの)のコーン・ラーメンでも食べることにした。
 そんなふうに二人きりで遠出して話しこむのは初めてだったので、つい個人的な出来事の話になった。ちょうどアメリカにいる妹さんが亡くなったばかりのことで、金子さんはこれで家族をすべて失ったとポツンと言っていた。
 すぐに「一人で生きるのもいいかも」と笑っていたが、ぼくは古めかしい「連帯」という言葉をおもいついていた。そのあと、二人で情報のバルネラビリティについて話しこんだ。バルネラビリティは「傷つきやすさ」ということで、ぼくはそれを「フラジリティ」ともよんでいた。情報は人々に利益ばかりもたらすものではなくて、むしろかなりきわどい「際」をもたらすものだという話になった。だからぼくらは情報に小さな目や翅をつけて、その翅で情報ネットワークの中を飛んで、その目でネットワークの動向を見極める必要があるねといった話をした。そんなことを交しつつ、ぼくは金子さんとはずっと仕事をしていくだろうなと確信していた。

 金子さんとは20年以上にわたって、仲間として活動をともにしてきた。そのあいだ、仕事を一緒にすることも多くなってきた。そうした活動のあいまの金子さんはいつもできるだけ陽気にふるまっていたが、そんなとき、ときおりぼくが感じていたことがあった。それは金子郁容にひそむ寂寞(せきばく)とでもいうようなものである。他人の寂寞を説明することなどできないが、それをあえて取り出してわかりやすくいえば金子さんにおいては「他人に迷惑をかけたくない」ということなのである。いいなおせば「自分でできることは自分でやる」ということになるのかもしれない。
 しかしさらにいいなおせば、その寂寞からは「社会も世界も人生も、一人と他人のつながりしかない」という意志が、静かに発信されているようにもおもわれた。金子さんの寂寞は「一人が他を支える」という意志につながっていたのだ。ぼくは札幌の夜にそれを感じた。

司会進行をする金子さん

司会進行をする金子氏

 今夜とりあげた『ボランティア』は岩波新書だということもあって、日本のボランティア運動に最初の指針を公的に示した一冊だった。しかし本書は湾岸戦争とソ連解体の直後、阪神大震災の2年前に書かれたものであるということにおいて、「もうひとつの情報社会」の予告として象徴的な意味をもっていた。
 それまで金子郁容はスタンフォード大学から帰ってきて一橋大学に所属すると、新しい社会の関係性に注目してネットワークとは何かということを研究していた。『ネットワーキングへの招待』や今井賢一さんと組んだ『ネットワーク組織論』なども書いた。けれどもどうも実感がない。ネットワークって実感のないものかと訝っていた。江下雅之さんが『ネットワーク社会の深層構造』で「薄口の人間関係」という言いかたをしていたが、まさに薄口か淡泊質なのである。
 それが本書にも紹介されている何人かのボランティア・ネットワーカーと一緒に仕事をするようになって、変わった。「つながり」と「かかわり」という意味が実感された。「助ける」が「助けられる」であって、「さがす」は「さがされた」なのである。「わりをくう」と見えた活動が「わりをくばる」であったことに気がつかされた。

阪神大震災においてインターネットを通じてボランティア情報を交換した

阪神大震災においてインターネットを通じて
ボランティア情報を交換した

 数学と数値解析を専門としてきた金子さんは「情報」の研究者でもあった。いったい情報とは何かということをずっと考えてきた。372という数字はどうして情報になるのかという研究だ。
 むろん情報なんてどこにでもある。体の中にも新聞の活字にも、道端にも中東にも、記憶のなかにも家族との日々にも情報がある。DNAも免疫情報も情報だし、ニュースも科学技術も電子メールも情報である。しかし、それらの情報がすべていっぱしの情報の資格をもっているのだとしても、放っておけばすべてがデッドストックである。情報はいじってなんぼ、さわってなんぼなのだ。372という数字をいっぱしの情報と感じるには、そこに何かがはたらかなければならない。
 そこまでは誰でも感じていることだろう。けれども、いったい何がはたらいたのか。何がいっぱしを支えているのか。ひとつには、情報をどこかに置いてみることだろう。風力3や家族3人や3色ボールペンが示す「3」は、気候の案配や家族の歴史や用紙やノートとともにある。そうでなければ「裸の3」である。情報はリロケーションやリプレイスとともに姿をあらわすといっていい。
 しかし、情報には知覚や理解や解釈というものも伴っている。それが情報だと感じるには、その情報とどのように出会ったのか、その情報をどんな知覚や解釈でレセプションしたのか、その情報をどのくらいほしかったのかということも関与する。これは、もうひとつの情報の特質だ。情報は「めぐりあい」でもあったのである。まただからこそ、情報には「わかった」と得心できるものがほしくなっていく。

 金子さんが本書で証していることは、一言でいえば、ボランティア・ネットワークを自分が動くことそのものがもうひとつの情報の特質だったということにある。
 かつて金子さんは情報の本質は「動的情報」にあるのではないかと、いくつかの本のなかで書いていた。そう、推理していた。この推理は半ばは当たっていたのだが、もう半分はその情報とともに動いてみなければわからなかったことだったのだ。しかもそのことは情報の特質であるとともに、情報ネットワーク社会そのものが露出しつつあった特質でもあった。

 ボランティアという言葉には、もともと志願者とか義勇兵とか篤志家という意味がある。それらはボランティア活動者という主体の意志をあらわしている。
 なるほどボランティアは主体的である。けれども、本来のボランティアの意味の奥には”WILL”そのものの動向というものがあり、その”WILL”はじっとしているわけではないのだから、それらが「つながり」や「かかわり」や「めぐりあい」をおこしたとたん、そこには関係性というものが形成される。その関係性に結び目をしっかりつけたものがネットワークの正体であって、そのネットワークはもとをただせば何かが自発することで開始された情報の動向そのもののことでもあったのである。
 電話線やコンピュータ・ネットワークのルーターばかりがネットワークではない。そこに相互の出会いをもたらし、「もうひとつの情報社会」の潜在性が立ちあらわれて、見えないボランタリー・ネットワークがそこかしこに見えてくること、そのことが金子さんが実感したかったネットワークだったのである。
 大筋、金子さんは本書を通して、こうしたことを”発見”した。ボランティアとは、ボランタリー・ネットワークを自発させる一人ずつのエンジンのことであり、そのように情報を見直すことだったのだ。ぼくはここから「情報はひとりでいられない」というメッセージを貰った。

 ところで、金子郁容は経済社会や経済文化の研究者でもある。帰国して一橋大学の商学部教授となって、さらに慶應義塾大学のSFCに転じるのであるが(その後、慶應幼稚舎の校長さんもしていたが)、そういう仕事場ではもっぱら情報と経済社会の「関係」を思索した。本書においても、新たな情報ネットワーク社会がもたらすだろう経済社会の問題についての見方が問われている。
 そこで本書では中盤からは一転、アダム・スミスとカール・マルクスとマックス・ウェーバーの比較を通して、高度に発達した資本主義のもと、いったい組織と個人は今後はどんな関係をもつのか、それがコンピュータ・ネットワークや人脈ネットワークでつながったときにどうなっていくのか、そこに分け入っていく。

金子郁容×松岡正剛の「千夜千冊」談義

金子郁容×松岡正剛の「千夜千冊」談義

 1714年のこと、ライデン大学からロンドンに移住してイギリスに帰化した医師のバーナード・マンドヴィルが『蜂の寓話』を書いた。マンドヴィルがそこで書いたことは、個人が悪知恵を絞ってでも儲けようとすることが、ゆくゆくは社会全体のためになるというアイディアの有効性を証明することだった。
 この本が露払いになって、グラスゴー大学にいたアダム・スミスが1776年に、自由主義経済の原理となった『国富論』を書いた。スミスはそれまで「エディンバラ評論」の編集にかかわり、『道徳感情論』を著したのち認められて、そのころはそういうパトロンがけっこういたのだが、バックル公の後援をうけ、2年にわたってヨーロッパを旅行した。そこで啓蒙主義のヴォルテールや重農主義のケネーと交流したことを糧に、マンドヴィルのアイディアにヒントを得ながら『国富論』にとりくんだ。
 マンドヴィルといい、スミスといい、国や民族や社会や思想をまたぐことが新たな経済社会思想の端緒となったのである。
 スミスが『国富論』で示した結論を一言でいえば、国を富ませるには生産力を増大すること、それには分業を促進すること、そうすれば分業と商品の交換が進んで、国民の誰もが商品を媒介に他の多数の人々に依存する関係に入らざるをえなくなるということである。各自が自由な交換をして、それによって手に入った私有財産が国家によって保証されるなら、そして各自が利己心という経済的な動機で最善を尽くしさえすれば、社会はきっと秩序を守ったままに富んでいくだろうというのだ。
 スミスにとっては、経済行為は道徳や倫理に匹敵するものだったのである。だからスミスは「シンパシー」という言葉をつかって各自が共感をえられる経済行為をしているかぎりは、きっと市場に「見えざる手」がはたらいて、結局は妥当な価格を決定していくだろうとも見通した。このとき、経済とはまだ倫理のことだった。

 スミスの楽観に対して、マルクスは異なった見方をした。資本主義が支配的になる以前の社会では、一人の人間や一つの家族がときに機(はた)を織り、ときに畑を耕して、ときに大根を干したままにして、多様な労働を必要に応じて組み立てていた。生産は小規模でも、多くの働く者たちは自分でそれなりの生産手段をもつことができた。
 ところが資本主義が発達してくるにつれ、生産者や労働者は自分たちのためのものではなく、市場や他人のための価値をつくることになっていく。労働そのものが他人のための商品になっていく。マルクスはこれは「労働の商品化」ではないかと考えた。マルクスは、スミスの主張した分業にも痛烈な文句をつけた。過度な分業は機械化をもたらし、人間が働くという行為を疎外してしまうのではないか。のみならず、労働がつくりあげた商品は、資本家や経営陣ばかりに資本をもたらし、あげくは「資本の集中」を促進してしまうのではないか。
 こうして事態はしだいに悪化する。労働者には賃金が支払われるとはいうものの、その賃金は資本家が資本を獲得するのにくらべてあまりにも過小なものになる。それはマルクスの経済学では、資本家による剰余価値の搾取にほかならない。その搾取は人間の意識にも歪みを生じさせるとマルクスは考えた。

 マルクスが『資本論』を出版した年に生まれたマックス・ウェーバーは、スミスやマルクスとは異なる視点をつくりだした。近代社会によって強化されたピラミッド型のヒエラルキーをもった組織が、はたして個人の活動にふさわしいものかどうかを検討した。そのような組織の集合としてできあがった社会がどんな弊害をもつかを検討した。
 むろん組織にはそれなりの合理性がある。一人でできないことがたくさんの人間が集まることによって解決することは少なくない。賃金に不平がないならばそこで働く者は全体の責任を負わなくてすむのだし、生産や加工の過程も多数の者がうまく組み合わさりさえすれば、スムーズに流れるようにもなる。また働く者の権利や義務や責任にルールがつくれれば、マルクスが言うような搾取ばかりがおこるとはかぎらない。ルールさえあれば、以前の”山椒太夫”のようなカリスマ的な支配者を排除することもできる。
 しかし他方、組織は大きくなればなるほど、その担当部分は事務的になり、上下左右とのコミュニケーションを必要としなくなり、それが官僚組織に投影されると、いわゆる窓口のたらい回しに象徴されるような「問題の先送り」も頻繁になってくる。問題が先送りされるだけでなく、「天下り」のように人もヒエラルキーのなかで次々に送られてくる。いまどきハヤリの「官から民へ」といったって、もともとが官僚組織が開いたピラミッドの傘のなかでおこっているのだから、問題の先送りに変わりはない。

 ウェーバーは、このような組織の問題を資本主義の発展と結びつけて考えた。それが有名な1905年の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義』で、実は資本主義はプロテスタント(ピューリタン)がつくりあげた禁欲と成功のための倫理の裏返しとして、そうした国々に発達したものではないかというものだった。
 プロテスタンティズム(ピューリタニズム)には主に二つの倫理が生きている。神の思し召しに従って社会の規範となって暮らすこと、神の思し召しに従って職業的な成功をおさめること、この二つだ。神の思し召しとは「コーリング」ということである。
 前者は信仰的な家族生活や社会生活を、後者は天職をえて社会生活を幸福に営むことを勧める。いずれにしてもプロテスタンティズムには資本主義の営利を神の思し召しとして許容していくという態度が満ちている。ウェーバーはここに、欧米における資本主義の急速な発達が促進されるエンジンが動いたのではないかと見たのである。

 スミスは個人が利益を求めることこそ社会を豊かにすると考えた。マルクスはその富は資本に集中するだけだとみなした。ウェーバーはそうした富に向かうものには信仰や組織がくるまれていると見た。
 これらは視点はそれぞれ異なるが、いずれも「理解しあう社会」とは何かを分析しようとしたものだった。しかし、よくよく眺めなおしてみると、これらはいずれも市場を中心とした社会の理解の仕方を問題にしていたものだった。市場とは「現在」を重視する社会のことである。市場はリアルタイムな理解にピントを合わせて変化する。だからこそ、そこに物価や株価や為替が動く。「現在」の価格と「将来」の売買の差益だけが市場社会の原理をつくる。
 今日、こうした市場を社会のモデルとみなす傾向はますます高まっている。金融ビッグバンがおこり、マネーゲームが歓迎されている今日の資本主義は、スミスやマルクスやウェーバーの時代の状況をはるかに凌駕して、より大胆で精緻な自由主義市場の重要性を発揮しているかのようである。
 そうだとしたら、われわれはもう一度、この3人に立ち戻って問題を見つめなおす必要もあるだろう。
 しかしそれと同時に、今日では環境や医療や教育や老後のことを考えざるをえなくなっている。放っておいて「見えざる手」がはたらいてくれるとは考えにくい。階級闘争になっていくとも想定しにくい。しかもこれらの環境・教育・老後などの問題は「現在」を反映する物価や株価や為替相場とは異なる「時間」をもっている。それらはまた市場とは異なる「外部」をもっている。
 いずれも一朝一夕では成果が出るものではないし、個人や組織が単一にかかわって解決する問題でもない。スミスもマルクスもウェーバーもそういうことは考えてはいなかった。
 金子さんは本書の後半になると、こうした「時間」や「外部」を含む情報ネットワーク社会がこれからは問われるのではないかと考える。そして、今日ではボランタリーな”WILL”に発した自発性が、市場と個人、資本家と労働者、組織と個人といった対比の問題から、相互に依存するタペストリーのような関係のなかに織りこまれていくのではないか、しかもそのタペストリーの糸はネットワークのなかを動くことによってしか裁縫されないのではないかと見た。

 15年前に書かれた本書には、今日なおさらに見落とせないことが書いてある。それは、以上のように情報を”動くタペストリー”として実感していくには、情報につながりをつけるために発生する取引コストと情報を授受するたびにかぶさってくる心情のことを考えなければならないだろうという予見だ。
 取引コストのことは省略して心情のことだけふれることにするが、金子さんがここで持ち出してきたのは、発達しすぎた市場社会以前に人間のコミュニケーションやトランザクションにひそんでいた心情と価値観というものだ。
 ふたたび3人の知恵による発言を参照したい。今度はカール・ポランニーとマルセル・モースとイヴァン・イリイチだ。

 第151夜に紹介したポランニーの見解は、市場経済がもたらした心情は、それ以前の経済社会とくらべるとかなり特殊なものではないかというものだ。
 もともと飢餓や貧富や利得をめぐる心情には、愛や憎しみとまったく同じように、経済的な動機なんてほとんどなかったはずである。そうした心情は宗教や美やセクシュアリティにも似て、経済の対象にすらならなかった。つまり人間は最初は経済的な存在ではなく、根っからの社会的な存在なのである。それゆえその心情も経済行為とぴったりとは合わないものだった。
 そのようなポランニーの見解は、モースの『贈与論』では、人々が交換していた物品には、それを贈った者もそれを貰った者にも一種の”生命”のようなものが連続して維持されていたという見方として一応の説明がつく。”生命”のようなものとはその物品をもつことによって生じる価値観のことである。それが時代が進んで通貨や貨幣が社会を支配するようになってくると、物品は生命や価値観をつなぎとめるものではなくなっていった。価値を示すのはそれを買ったときの貨幣価値となり、美術品ですらそれを売ったときの貨幣価値ばかりになっていった。
 こんなふうになったのは市場主義が専横的になったからではないか。すべてが経済行為に従属するようになっていったからではないか。たしかにそのように見る必要もある。ポランニーやモースの見解にしたがえば、議論はそのように進んでいくはずだ。
 が、そういう見方だけでは足りない、いやいや、それだけでは議論は進まないと言い出したのがイリイチだった。

 イリイチについては第436夜でやや詳しく説明したのでここでは省くけれど、結論をいえば、家庭でおこなわれている主婦の活動は長きにわたって経済行為とは見なされていなかったという指摘である。
 たとえば主婦がつくる料理をもし誰かが店に運んでもらって食べようとすれば、それは特定の料金を発生させるはずなのだ。掃除や育児や教育だって、資本主義市場社会がすべての自由競争の原理の本来だというなら、こうした主婦の数々の活動も”勘定”に入れるべきなのである。イリイチはそうした経済の算定から洩れた活動を「シャドウ・ワーク」とよんで、そのようなシャドウ・ワークがつねにヴァナキュラーの場に押しやられていたということを告発した。ここではヴァナキュラーとはとりあえずは「見えにくい居所」といった意味である。
 では、このような資本主義以前のコミュニケーションやトランザクションにあった行為や心情と、資本主義が発達してなお置きざりにされてきたシャドウ・ワークのようなコミュニケーションとトランザクションにひそむ行為や心情を、これからの情報ネットワーク社会でどう考えていけばいいか。
 この問題はさすがの金子さんをいろいろ考えこませたようであるが、そこにふたたび導入されるのがボランタリー・ネットワークと自発する動的情報のタペストリーがもたらした実感なのである。

 金子さんは韓国出身の父と何代も続いた江戸ッ子の母を両親にもつ。金子さん自身はアメリカでアイルランド人と結婚して、離婚した。子供はない。子供はないが、そのかわり慶應幼稚舎の校長先生をした。
 本書を書いたあと、金子さんはお母さんがもっていた中野のアパートを死後に譲り受けて、そこを「末廣ハウス」と名づけてボランティア活動の拠点に開放した。そこへ阪神大震災がやってきた。金子さんは現地で支援活動にかかわり、その活動には電子ネットワークが必要だと感じた。サーバーを設置し、NPOとして初めてIP接続をして、VCOMという日本で最初のボランティア活動のためのドットコムを開設した(そのほかのボランティア活動については本書に詳しく紹介されている)。
 そうした経歴をもった金子さんには、「一人ずつが町や国や社会や民族だ」という意識があるとおもわれる。ぼくが札幌で感じた寂寞の背後には、その意識が雪原の炎のように燃えていた。
 一方、ポランニーやイリイチの見解と爛熟しつつある資本主義とのあいだには、かなり深い溝がある。それは大地のクリークやクレバスだ。ひょっとしたら埋まりがたい溝かもしれない。しかしながらそうであればなおのこと、その溝には、町や国や病気や森林に向かう一人ずつが”織物をもったネットワーク”を出入りしてみて、その溝を測る必要がある。
 容易なことではない。そこにはリスクが伴ってくる。そもそもボランティアの自発性はごくちっぽけなスタートを切る。震災支援や介護活動でも一人でやれることはごくちっぽけなことである。しかしその活動をボランティアの主体のほうからではなく、その局所で「情報の目と翅」が僅かではあるが重大なアラームを発しているというふうに見直すと、これらの個々のちっぽけな局所はなんとしてでも結ばれ、連なっていなければならないことを知る。
 この動機には資本主義的な動機は発生していない。しかもシャドウ・ワークに類似するシャドウ・アクティビティのところにこそ情報や支援物資が届く必要がある。
 けれども、この行為を一人のボランタリーな自発性がおこす段になると、さらにリスクが伴うのである。「恥ずかしい」とか「やりがいがない仕事しかなかった」とか「やりかたがわからない」といった戸惑いもある。せっかくやってみたのに、感謝されないこともある。非難をうけることすらおこることもある。そこをどう考えるか。

「末廣ハウス」の仲間たちと

「末廣ハウス」の仲間たちと

 話はこうして元に戻っていく。金子さんが本書で一番たいせつにしたこと、それは情報にはバルネラビリティがあるということだったのである。バルネラビリティ(vulnerability)とは「傷つきやすさ」「他からの攻撃をうけやすい状態」のことを意味している。冒頭にも書いたように、ぼくはこれを「フラジリティ」ともよんでいる。
 ボランティアをしてみると、このバルネラビリティが不意にやってくる。「よかれ」と決意してやったことなのに、へこたれそうになる。それはまさしく個人を不意に襲うリスクであるのだが、しかしとはいえ、そのように自分がバルネラブルになることは、かつては体験も実感もできなかったことかもしれないのである。
 ここにはいったいどういうことがおこっているのだろうか。矛盾がおこったのか。無理がおこったのか。金子さんは本書の最後でこの問題の突破を試みる。自分をバルネラブルな状態におくこと、これは実は情報の動向の本質的な側面なのではないかと考えたのだ。
 本書には「自発性にはパラドックスがある」という説明もある。ひらたくいえばこのパラドックスは「わりをくう」というふうにあらわれる。せっかくボランティアをしたのにという「わり」である。しかし、この「わりをくう」という直後に、しばしば事態は劇的に変貌しうるのである。自分がうけたバルネラビリティという鍵がどこかの情報の「窓」をあけ、ネットワークに空いた「席」にやってくるものを劇的に迎えるのだ。情報を運ぶ主客が入れ替わり、ネットワーク端末がぶんぶん唸って交差点になっていくのである。
 さて、それでどうなっていくのかということは、金子さんの次の本やぼくも一緒にかかわった本を読んでもらうのがいいだろう。本書の続きとしてはとくに『コミュニティ・ソリューション』がいい。そろそろ窓と席が空いて、主客が替わるときである。

会場全体をナビゲート

会場全体をナビゲートをする金子氏

 金子郁容さんはナビゲーターやインタビュアーとしての資質も図抜けている。かつてサンヨーが主催したシリーズ・トークでは知と美の異業異能格闘技のようなホストを務めて、万雷の拍手を浴びた。
 ぼくはその才能に惚れて、それから何度も一緒のオンステージを遊ばせてもらった。過不足を感じたことは一度としてなかった。その場にリアルタイムなネットワークが立ち上がっていくのである。それはいつも心の手筒花火をみんなで打ち上げているような楽しさだった。これからもそういうオンステージを続けてほしい。
 ところで金子さんにはアメフトを語らせたら人後に落ちない、ケーキを作らせたら周囲が唸る、クルマの運転はA級はだし、ジョークを挟むタイミングで議事を仕切るといった、あれこれの特技も秘められている。いずれも有名だ。
 けれども金子さんにはもうひとつの特技がある。いや、哲学とか美学といったほうがいい。ぼくがおもうには、それは出口と入口が綺麗な人だということだ。出没ではなく去来があるということだ。
 最近の日本は「出」があると必ず「没」になる。これではつまらない。むしろ「去るもの」と「来るもの」こそ一人一人が体現すべきなのである。ぼくが金子さんに学んだことは、これが一番だったのである。

談笑の一こま

談笑の一こま

附記¶金子さんの著書は次の通り。『ネットワーキングへの招待』(中公新書)、今井賢一共著『ネットワーク組織論』(岩波書店)、『〈不確実性と情報〉入門』『コミュニティ・ソリューション』『企業の社会貢献とは』(岩波書店)、『空飛ぶフランスパン』(筑摩書房)、松岡・吉村伸治共著『インターネット・ストラテジー』(ダイヤモンド社)、下河辺淳・松岡・鈴木寛共著『ボランタリー経済の誕生』(実業之日本社)、『学校評価』(ちくま新書)、鈴木寛共著『コミュニティ・スクール構想』(岩波書店)。