ジャン・ボードリヤール
消費社会の神話と構造
紀伊国屋書店 1979
ISBN:4314007001
Jean Baudrilard
La Societe de Consommation 1970
[訳]今村仁司・塚原史

 テロを最終戦争とみなしたがっているブッシュ政権の連日の発言報道を見ていると、かつてボードリヤールが、「もはや現代社会では社会を組織する様式としての本来の交換はない」と断言して、もしそういうものがあるとするなら、きっと人質交換などのテロリズムであろうと述べていたことがついつい思い出される。
 1976年に発表された『象徴交換と死』では、とくにこのことが指摘されていた。つまり市場における価値の等価な交換などとっくに死滅していて、もしそういうものが成立するとすれば、おのれの死を差し出して相手の死を要求するという交換だけが残っているのだろうという“予言”なのである。これは21世紀においても、サブライム(崇高)という象徴だけが、なお交換の材料として残響していることを意味していた。
 同様の意味で、ボードリヤールはマスメディアにも交換価値を提供する能力が死滅していると考えていた。マスメディアは現実の提供すらできなくなっていて、現実の幻惑だけを提供することだけが使命になっていくと予想した。

 しかし、ボードリヤールを文明の予言者扱いをすることは、よろしくない。
 なぜならボードリヤールはあまりにも多くのことの「次」を提示しようとして、そのひとつひとつの予言的提示を集めて総合しようとすると、ボードリヤール自身がたくさんの矛盾の動向の中に浮いている未確認航行隊のように見えるからだ。けれども、いくつかの言明や予想を取り出して、これをピンナップすることは、ひょっとして100人の経済社会屋たちの意見を聞くよりもずっと興奮すべきものになるのかもしれない。最初に、本書を読んだとき、そして次に『モノの体系』を読んだとき、ぼくはそのようにボードリヤールと付き合うべきだと合点した。

 ボードリヤールが言いたいことは、生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっているということだ。
 これをいいかえれば、社会のシステムはもはや余剰を生まないということである。新たな富なんてつくれないということだ。なぜなら欲望の動向は福祉の動向に吸いこまれ、商品の市場民主主義は貨幣の国際民主主義に取りこまれ、何かの均衡はどこかの不均衡のために消費されざるをえないからである。
 つまり、あらゆる国のあらゆる社会システムが、ついに「類似の療法」だけを生み出すしかなくなってきていて、むしろ「構造的な窮乏感」を演出することだけが、システムの活性化を促すための唯一の手段になっているということなのである。
 本書ではそこのところを、こう書いている、「事態はもっと深刻である。システムは自分が生き残るための条件しか認識しようとせず、社会と個人の内容については何も知らないのだ」「ということは、どこにも消費システムの安定化は不可能だということなのである」というふうに。
 これは恐ろしいことだが、ホワイトヘッドが次のように言ったことがもはや成立しないということである。ホワイトヘッドはこう書いた、「ホモ・エコノミクスの美しさがあるとしたら、彼が求めるものをわれわれが正確に知っているという点にある」。

 本書はガルブレイスの『新しい産業国家』や『豊かな社会』の反響に抗して綴られた。どのようにボードリヤールがガルブレイスの幻想を瓦解させたかということは、もう説明するまでもない。その後の現実の進行そのものがガルブレイスを打倒した。
 それよりもいまなお本書を読んで残るのは、より充実した消費社会をつくろうとすればするほど、その消費社会を学習し、それに伴う手続きを普及させるためのコストが、その消費構造を破ってしまうだろうと見ているところなのだ

 このコストがどういうものかをボードリヤールは指摘できていないものの、それが最小共通文化(PPCC)と最小限界差異(PPDM)のために払われて、結局はシステムを根こそぎ割りのあわないものにするだろうことについて、あれこれの事例をあげて説明しようと試みていた。
 とくに「個性」や「個性化」を消費社会が重視すればするほど、実は消費社会がその「差異」の内在化によって腐っていくことを指摘した。「あなたが夢みる体、それはあなた自身の体です」という下着会社のブラジャー宣伝のコピーは、この究極の同義反復によってしか「個性化」を意味に変えられなくなっているのである。
 さらにボードリヤールは本書を書いた1970年の段階で、このように断言してみせた。「今日では純粋に消費されるもの、つまり一定の目的のためだけに購入され、利用されるものはひとつもない。あなたのまわりにあるモノは何かの役に立つというよりも、まずあなたに奉仕するために生まれたのだ」。
 だから、多くの企業や消費者がありがたがっている「個性化の戦略」こそが消費構造のダイナミズムをことごとく消し去ってしまうのだ、気をつけなさいねというふうに。

 ここから先、ボードリヤールは経済社会の展望の処方箋を何も提示しなかったという点では、まことに冷たい。まるで、何をしても無駄なのだと言っているようなものであるからだ。
 読み方によっては、ただアナーキーな発言を繰り返しているか、本当はジョルジュ・バタイユの「蕩尽」を持ち出したいのを我慢しているとしか見えないこともない。
 しかし、ボードリヤール自身はそういうつもりがないようだ(そう思ってあげたい)。彼は、これからの消費社会は言語活動(ランガージュ)の価値を変えるところまで進まないかぎり、きっと何もおこらないだろうと言っているからである。
 この言語活動の価値を変えるには、かなりの作業が必要である。ボードリヤールは一例として、広告が本来の経済合理性を台なしにしていることを指摘しているが(つまり商品とメッセージを相殺しあっていることが気になるらしいが)、そんな程度の指摘や改変では間にあうまい。
 本書では議論が拡散してしまってまとまりがないのだが、のちにボードリヤールが『生産の鏡』や『象徴交換と死』で持ち出したように、ここには「意味するもの」と「意味されるもの」の根本変動が、「シミュラークル」と「シミュレーション」の根本変動が要望される。
 なぜなら、ボードリヤールによると、現代社会は総体としてのシステムの中に意味と根拠を次々に喪失させていっているからで、それでは社会は「模造と分身」の流動化が驀進する以外のなにものでもなくなっていくからである。

 ただし、ここにはボードリヤール自身もすこし気が付いてる難問も待ち受けていた。
 それはひとつには、このように社会の価値の創発契機をシステムの中にことごとく落としてしまっているのは、言語学・経済学・精神科学などの人間科学そのものの体たらくでもあって、まずはその「知を装う欲望消費」をこそ食い止める必要があるということである。しかしここには、いったい人間が発見してきた科学というものは何かという根底を批評するしかない覚悟と計画も含まれて、少なくともボードリヤールのロジックでは二進も三進もしない問題も待ちうける。
 もうひとつは、「メッセージの消費というメッセージ」が頻繁に出回ったときにどうするかという問題だ。この後者の問題は、ボードリヤールの予測よりもなお急速に、いまやインターネットの海の出現によって現実化してしまい、どんな記号の差異や意味の差異もが、つねにウェブ状の相対的自動更新にゆだねられてしまったかに見える。
 こうした難問を、その後のボードリヤールはもはや“予言”しようとはしなくなっている。代わってボードリヤールがその自慢のレトリックを使うのは、たとえば「湾岸戦争などというものはなかったのだ」と指摘することだった。

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