才事記

キャバレーの文化史

ハインツ・グロイル

ありな書房 1983

Heinz Greul
Bretter, Die Die Zeit Bedeuten Die Kulturgeschichte des Kabaretts 1971
[訳]平井正・田辺秀樹・岩渕達治・保坂一夫

 「人間よ、モダンになれ」というスローガンがロビーに飾られていた。2階ではポエー・シャンソニエたちがロドルフ・サリの司会で歌をうたっている。3階では有名な影絵芝居の設備が動いている。「スノードロッブ博士の通信」には洒落た記事ばかりが書きこまれていた。サリの筆名だった。
 これが「イドロパット・クラブ」の客をごっそり右岸に連れてきてしまったといわれた、例のモンマルトルの「シャ・ノワール」の演出である。表には何匹もの黒猫が飾りつけられていた。

 ロドルフ・サリの「シャ・ノワール」が開店したのが1881年11月18日。それから4年後の1885年にヴィクトル・マセ街に店の住所が移る。1888年には22歳のエリック・サティがセカンド・ピアニストとして雇われ、そして追い払われた。
 一方、元の「シャ・ノワール」の店は「葦笛」と名前を変えて人気を集め、そこではシャンソンの王者アリスティード・ブリュアンが唄いまくっていた。ついでマルティール街には「ディヴァン・ジャポネ」(日本の長椅子)が開店し、ここではのちに“ロートレックの詩神”といわれた“シャンソンの女王”イヴェット・ギルベールが登場した。
 このモンマルトルのキャバレーの興奮がドイツに飛び火し、フランスはフランスで「ベル・エポック」に突入したのである。

 パリのキャバレーは、ミュンヘンやベルリンでは「カバレット」、ウィーンでは「カバレー」という。本書はそのキャバレーの歴史である。実に詳しい。
 もっとも、覗き見しておきたいのはそのすべての歴史ではない。キャバレー文化史が劇的に転換していく何ケ所かの劇的光景である。それをキャバレー・トピカとよぶことにする。

 ぼくは以前、『遊』の特集に「店の問題」を選んだことがある。「凡百の思想家より一人の店主のほうがえらいんじゃないか」という特集だった。当時の日本の各都市のユニークな店をとりあげ、その店主やそのディレクターたちの言葉を集めた。
 店といっても「うまいもの屋」などではない。よくもいまだにそんな特集ばかりでメディアが埋まっているとあきれるが、そんなことはしょせんつまらない。ぼくが集めたかったのは、そこに、ある動向をもった人々が集まり、そこから既存の価値を無視した文化が萌芽するような、そういう店、つまりはどこかボヘミアンで文芸的な日本の地方都市にあるキャバレー・トピカの息吹だったのである。
 本書はその文芸キャバレーの歴史を、20世紀の全部を通してヨーロッパの都市に拾っている。少しだけ案内をする。

 第1のキャバレー・トピカは「シャ・ノワール」周辺にある。
 第2のキャバレー・トピカはベルリンである。パリ帰りのフランク・ヴェデキントがイプセン劇場の監督カール・ハイネに「ドイツのカバレット計画」をもちかけたことに始まる。ビーアバウムは「ドイツにモンマルトルのキャバレーをもちこんでもしょうがない」という判断だった。そこでヴェデキントの要望にこたえ「文学ヴァリエテ」という言葉をおもいつく。ヴァリエテとはいわば寄席のことである。
 ついでイヴェット・ギルベールが1898年にドイツ公演し、ドイツ人が1900年のパリ万博にどっと駆けつけた。このフランスかぶれの熱狂がドイツにカバレットを生む機運を盛り上げた。
 ドイツらしい高邁な狙いとヨーロッパ的な大衆の渇望が結びあったわけである。

 そこに登場してきたのが、ニーチェ大好き人間のエルンスト・フォン・ヴォルツォーゲンによる「ユーバーブレットル」の構想だった。“超寄席”あるいは“超越高座”とでもいうものだ。
 そのヴォルツォーゲン(この人物もぼくが感嘆しているベルリンの蔦屋重三郎である)が、ベルリン東区に開店させた第1号は正式名は「ブンテス・テアター」(いわば多彩劇場)だったが、常連たちはさかんに「ブンテス・ブレットル」(いわば多彩寄席)とよんだ。
 ここに、加えてベルリンのお家芸ともいうべきメトロポール・レヴューが合流し、ベルリン・カバレットの原型ができあがっていった。

 第3のキャバレー・トピカはミュンヘンにある。
 その嚆矢は、他の多くのアートムーブメントの源流でもあったのだが、1896年に創刊された雑誌「ジンプリチシムス」にある。ぼくが敬愛するアルベルト・ランゲンの編集である。
 そのランゲンがミュンヘンにおけるカバレット計画をぶちあげた。ここはなんといってもヴェデキントのお膝元でもあった。
 そこでしばらくは、ミュンヘンの画家が多く住むシュヴァービング地区に「カフェ・シュテファニー」や「宿泊所フュールマン」が賑わって、そこがレーヴェントローの命名にいわゆる“妄想沙汰区”となった。
 これが前哨戦である。実際にミュンヘンのカバレット第1号が登場するのは1903年のことで、カティー・コーブスが「新文学三昧」を開いた。ここはすぐに文学酒場になった。ヨハネス・ベッヒャー、歌手で詩人のエミー・ヘニングス、のちにダダの拠点となる「キャバレー・ヴォルテール」をおこしたフーコー・バル、切り絵のモーリッツ・エンゲルトらは、みんなここの常連である。このミュンヘン・カバレットの動向にはつねに「ユーゲント」(青の世代)というテイストが横溢した。

 第4のキャバレー・トピカはウィーンから東欧北欧に広がっていく道筋にある。ウィーンはマーク・ヘンリーの「常夜灯」である。ここに古き佳き日のオーストリアを物語る語り部のローダ・ローダが登場して、ボヘミアンたちを集めた。ヘンリーは1907年に「蝙蝠」の舞台も演出した。
 ついでブダベスト、ブラハ、クラカウ、ワルシャワ、モスクワ、ペテルブルク、オスロ、コペンハーゲンというふうに文学キャバレーが点灯されていく。
 しかし、こうしたキャバレーの飛び火の歴史に次の決定的な嵐をもたらしたのは、これが第一次世界大戦下の第5のキャバレー・トピカになるのだが、フーゴー・バルがチューリッヒに開いた小さな「キャバレー・ヴォルタール」であった。バル自身が亡命者であったため、ここは亡命者センターでもあった。さっそくルーマニア人のヤンコ兄弟とトリスタン・ツァラ、アルザス人のハンス・アルプが入り浸る。ここから先は時代の舞台はキャバレーというよりも、魔術的で陽気で、たぶなサチュルス的で論争的な「ダダの嵐」に見舞われていく。

 1920年代以降もキャバレーは次々に開店し、また次々に閉鎖されていった。ここではその多芸な出店の過剰と乱舞についてはもうふれないことにするが、ぼくは本書を読みながら、あらためて「店」というものの治外法権的な魅力をたっぷり浴びせられ、心底、酩酊できた。
 近代以降の文化史でいちばんえらいのは店の主人と店のキャストやスタッフである、まったくそう断言したくなってくる。
 なお、本書は他の平井正グループの訳業もそうなのだが、まことにうまい翻訳になっている。とくにドイツ語の店の感覚や文芸動向の感覚が、よく伝わってくる。まるで、その店にぶらりと入ったような気分にさせてくれるのだ。