ルー・バーナード、キャサリン・オキーフ、ジョン・アンスワース
人文学と電子編集
デジタル・アーカイヴの理論と実践
慶応義塾大学出版会
ISBN:978-4766417746
Lou Burnard Katherine O'keeffe and John Unsworth
Electronic Textual Editing 2006 2011
[訳]明星聖子・神崎正英
編集:佐藤聖 装幀:鈴木衛
印刷時代の編集力を十分に研究しないまま、
電子時代の編集技術力が新たな脚光を浴びている。
簡易なウェブブラウザとサーチエンジンによって
テキストの流動化や意味の液状化が
全世界的に目に余るようになってきたからだ。
こうしてデジタル・エディティングによる
編集文献学やテキスト編集学が登場してきた。
これはやっと訪れた「編集工学の夜明け」であるが、
ぼくからすれば、ずいぶん遅きに失したと言うしかない。
けれども、いまこそは二つのG(グーテンベルク/グーグル)が
新たなナレッジサイトの構築と
柔らかいリベラルアーツの発動のために、
エディット・ラディカルに統合されるべきなのだ。

 このところアメリカを中心に「編集文献学」という領域が注目されている。“scholarly editing”あるいは“textual editing”の翻訳だが、本書の監訳者でもある明星聖子がピーター・シリングスバーグの『グーテンベルクからグーグルヘ』(慶応義塾大学出版会)を翻訳刊行したときに、この用語が日本語として定着した。
 明星はその前に『新しいカフカ』(慶応義塾大学出版会)に「編集が変えるテクスト」という画期的なサブタイトルをつけ、カフカの作品は遺稿の編集がつくりだしたものであることを詳細に論証して、マックス・ブロートやハインツ・ポリッツァーの編集方法をめぐる過剰と不足を議論してみせていた。明星はこの一冊によって「カフカは編集によってこそ生まれた」という宣言をしてみせたのだった。明星はいまは埼玉大学教養学部の教授をしている。

 カフカ(64夜)は生前にさまざまな草稿を遺したのだが、それは残念ながら本人によって決定稿にならなかった。そこで友人だったマックス・ブロートをはじめ何人もの「手と知によるエディティング・ワーク」が加わって、それが今日の現代文学の入口としての「カフカ文学」になった。
 カフカは編集されたカフカなのである。が、このようなことは、むろんカフカに限定されるものではない。もとより編集はずっと生きてきた。
 ディケンズ(407夜)や漱石(583夜)このかた、多くの知識人や作家や詩人や研究者につきあって編集の現場にかかわってきた者なら、そんなことはしごく当然のことで、どんな原稿の印刷本も編集のプロセスをもたないで書物になるなんてことはないはずなのだ。
 たしかにカフカや宮沢賢治(900夜)のように遺稿に草稿が多くて複雑なものは特異に編集が重大視されるのだが、それゆえその編集プロセスから多くのことが学べるのだが、そういう特異な例でなくとも、大半のテキストは印刷によって世の中に定着するために必ずや編集を通過した。いいかえればたいていの著書というものは、他者の編集が加わって成立してきたものなのだ。
 ジョイス(999夜)やベケット(1067夜)の作品が、一人の書店主シルヴィア・ビーチによって生まれたことは誰だって知っている。

カフカの『審判』直筆テキスト
何度も編集を繰り返している

 いまさら言うまでもなく、世界史は出版の歴史であり、出版の歴史はテキスト編集の歴史なのである。世界はずっと編集されてきた。おびただしい数の著者(ライターやオーサー)がいて、大小の出版社がそれらのスクリプト(原稿)を「フォーマットをもったテキスト」にして印刷物にしてきたわけだ。
 そこには必ずエディターがいて、著者たちとの相談・催促・判読・訂正・構成・章立て・見出し付け(ヘッドライニング)・目次化・校閲・索引作成・注解作業をふくむさまざまなエディティング・ワークを担当し、そのすべてをダブルページ(見開き)とページネーションをもつ印刷刊行物として世に送り出してきた。
 出版なき編集はいくらでもあるが、編集なき出版はない。そんなことは世のパブリッシャーにとっては大前提なのである。エディターにとっても、これらの仕事をすることはことさらに自慢するほどのことではなかった。もっとも自慢もしなかったが、評価されてきたわけでもなかった。編集の歴史はほとんど丁重に無視されるか、ひそかに認証されるか、あるいは半世紀ほどたってその陰の力がやっと理解されるにすぎなかった。
 それというのも、編集の成果はそれを最も言葉で表現できるはずの著者の活動の中に折りたたまれてしまっていて、著者としても自分の著作活動を超えて編集者たちのエディターシップを過大評価するわけにはいかなかったからだ。編集はつねにオーサリングの歴史の一部に組みこまれてしまってきたと言ったらいいだろう。
 ところが、以上の長きにわたる活版印刷時代における著作作業と編集作業がしだいに電子時代に向かうにしたがって、すなわち、多くの原稿がデジタルテキストになり、オーサリング・データやライティング・コーパスがコンピュータ・ネットワークと連動するにしたがって、これらのエディティング・ワークの重要性があらためて脚光を浴びるようになったのである。そのひとつが編集文献学の登場だった。もうひとつは? もちろんもうひとつはむろん編集工学の登場だ。

 編集文献学とはいささか聞きなれない用語であろう。もともとの英語は基本的には“scholarly editing”である。「テキスト編集の方法を学問する」という意味で、文献学・テキスト学・書誌学などの“textual scholarly”の中に位置づけられる。
 これで見当がつくように、編集文献学は本来はテキストやテキスト群をどのように編集するのかという方法を検証する学問なのだ。
 この領域が急速に浮上してきたのは、お察しの通り、多くのテキストがデジタル化され、それがあたかも決定稿のごとくふんだんにデジタルアーカイブに収納されるようになったからである。たんにアーカイブされるのではなく、そこには同時に検索機能とネットワークが加わった。また、さまざまにリンキングされたアパラタス(編集資料群)がともなっていた。
 つまり、デジタルテキストはその当初において、OSからフォーマットソフトをへてタグ付けにいたるまで、すべてが電子編集されることを前提にしたエディションだったのである。だから編集ソフトの設計思想や性能の出来が少し悪いだけで、そのクオリティは大きく変容してしまってきた。
 そのため早くから電子編集のための組み立てが試みられてきた。現在では、SGMLやXMLのマークアップ・システムによる規定が活用されて、それにもとづくTEI(Text Encoding Initiative)という国際標準もフル稼働している。

 しかし他方、クライアント・サーバー方式のウェブ社会では、スマホやツイッターやフェイスブックがつくりあげるソーシャルメディアがそうであるのだが、どんな情報もがチョイ役であれ自由に登場を許されていて、グーグル型のウェブブラウザとサーチエンジンによる「テキストの分解」が驀進しつつあるとも言わなければならない。
 かつてアラン・ケイが発想した「思考の道具としてのパソコン」は遠景に去り、いまや大半のソーシャルメディアがページランクに従う“選択情報ヒエラルキーの貧相な雛壇”と化したのである。
 印刷本をたんに電子画面に移行した電子書籍も横行しはじめた。手元で多くのテキスト本が指づかいひとつで読めるのはけっこうなことではあるが、しかしこれらの電子デバイスには、読書の工夫が根本的に欠如しているか、コストを削減するためかはべつにして、電子的エディターシップはいっさい省かれたのである。

「ページランク」のアルゴリズム概念図
被リンク数によって"情報ヒエラルキー"を作り出す

 こうした事態を深刻に受け止めたのがピーター・シリングスバーグだった。ロヨラ大学の英文学教授で、サッカレー全集の総編集責任者だった。
 そのシリングスバーグが『グーテンベルクからグーグルヘ』(2006)に、ウェブブラウザやサーチエンジンによって「テキストが乱脈のなかに放り出されていく事態」があからさまに広がっていると警告を発し、知にかかわる文献がリプリゼントされるにはよりいっそうの自覚的な編集がともなわなければならないということを強調した。
 とくに電子時代の人文学やリベラルアーツにとっては、編集が必須であることを強調した。こんなふうに書いている。
 「グーグルなどのウェブブラウザの優先順位をつけるプロセスは、洗練されてきてはいるものの、検索で見つかった情報やニセ情報の質までは明らかにしない。そこには学術的な参照に使えるシステムはない。ウェブブラウザは知識体系を発展させるためではなく、アカデミズムが共同で取り組もうとしている作業とは無関係なのだ」。
 ウェブブラウザが頼っているのは一言でいえば、「大事なクリームが情報の海の表面に浮き上がる」という技術理想である。ところがそんな理想があったとしても、そこにはたいてい「パンとサーカス」(大衆をよろこばす欲望と娯楽)がふんだんに介入して、その理想をやすやすと崩してしまう。だから今日のウェブブラウザは光も影もつくらない。
 光も陰もないということは、境界のないフラットな情報がたれ流されているということで、そんなことが拡がっているうちに、現状のウェブブラウザからはどんな知の境界線も手に入らなくなったのである。

 かくして登場してきたのが、ありうべきナレッジサイトを構築していくための先兵となるべき編集文献学だった。リベラルアーツやナレッジサイトに鈍感な日本ではとんと議論がされていないけれど、アメリカではこれらの議論はウェブ社会における「テキストの液状化」の歯止め役として、いまはかなり過熱しつつある。
 議論は、ジェローム・マッギャンの『現代テキスト批判への批判』や『テキストの条件』、D・F・マッケンジーの『書誌学とテキストの社会学』、ピーター・シリングスバーグの『コンピュータ時代の編集文献学』や『グーテンベルクからグーグルへ』、ジョージ・ボーンスタインの『マテリアル・モダニズム』、ジョン・ブライアントの『流動するテキスト:書物と画面のための編集理論』などなどとして、話題になっている。
 ちなみにシリングスバーグは、こうした議論はおそらく「編集行為をリーンカーネイト(再受肉)することであろう」、あるいは「電子時代の文化をリエンジニアリングすることであろう」と指摘した。
 当然である。遅きに失したというほとだ。ぼくからすれば、電子編集はさらにデジタルリーディング・メソッドの多様なソフト開発にまで、さらには知覚と思索のノンリニア・エンジニアリングにまで踏み込むべきだと主張したい。そうでなくとも、本来のナレッジサイトの構築や21世紀のリベラルアーツが組み上がっていくには、そもそも「知のエンジニアリング」が必要だったのである。
 それでもシリングスバーグがこういうことを主張するようになったこと、いささかホッとする。つまりやっとこさっと「編集の工学化」が重視されるようになったのだ。

 本書はアメリカの編集文献学者が勢揃いして共著したもので、学術的なテキストをどのようなエディション(編集版)によってデジタルアーカイブにするかというルールを模索した一冊である。ただし、前提になっているのはTEI(テキスト・エンコーディング・イニシアティブ)をどのように使いこなすかというものだ。
 だからここには、ぼくが長らく提示してきた編集思想や編集的世界観や編集工学的方法までは言及されていない。
 なぜなら、ここで編集とよばれているのは、印刷時代から継続されてきたエディティング・ワークが、電子時代になってどのように継承されるべきか、あるいはどのように変容すべきかということなのだ。それゆえ、そうした編集力がどのようにグーグル型のページランク手法を超克できるのか、それによって新たな新人文学時代がどのようにやってくるのか、そういう方向に向けてのみに編集技能の効能が絞られている。編集が知覚や思考の発端から始まっていることや、コミュニケーション・プロセスのすべてに編集がかかわっていることは、残念ながら除外されている。
 だから本書が提案している編集文献学のあれこれは、編集工学的にはごく一部のヒントにすぎないのだが、とはいえ、本書のガイドラインが日本のナレッジサイトの構築にそれなりの影響と示唆を与えるものになるだろうとは思われる。

過去に印刷されたもの(左)を
SGMLによってエンコーディングしている(右)

 ふりかえってみると、初期のナレッジサイトのデシタルアーカイブ設計は、洋の東西を問わず各大学のメインフレームの上に構築されていた。それは当時のIBMなどのメインフレーマーの設計仕様をそのまま受け入れたものだった。
 そのためメインフレーム上での印刷テキストのスキャニングとOCRによる読み取りが先行し、そのうち世界中にインターネットが普及するようになると、それらのデジタルテキストのSGML(標準一般化マークアップ言語)化や、さらにはXML(SGMLの進化系)化への転換があわただしく試みられた。
 こうして大半のテクスチュアル・エディティングがマークアップ言語によって進められ、しだいに相互参照が可能なアパラタス(編集資料群)としての電子的体裁を整えていくようになっていったのだ。
 当初、こうしたデシタルアーカイブはフロントエンド(実際の表示特徴)とバックエンド(論理検索と操作)とインタフェースとに分離されていた。しかし時代社会が隅々までウェブ・ネットワークに編み込まれていくと、その中に浮かぶテキストは最低限のインタースコア性を保証されるべく、これらをHTMLスキームかSGMLスキームかXMLスキームかで統合していくようになり、すべてをコンテクスチュアルにすることがやっと重視されるようになっていったのである。
 このことを実現するために学術的に共用されるようになったのが、編集文献学が早くからテキストの共通コード化のためのデファクトスタンダードにしつつあるTEIだった。しかし、いつまでもTEIに頼っていていいのかどうか、TEIに代わる構想にどういうものがありうるのか、こうしたことはいまのところは検討されていない。

 そもそもデシタルアーカイブの編集がナレッジサイトとして機能するには、わかりやすい大原則としては、格納(strage)と検索(retrieval)と表示(rendering)とがそれなりに連続する必要がある。
 編集文献学はこれらの連続性を、プライス・コールドウェルが「意味分子」(molecular semenics)と名付けたものでつなげようとしてきた。けれどもぼくが見るに、この意味分子のアイディアは来たるべきデジタル・エディティングシステムの設計思想にほとんど組み込まれてはいない。いまのところ、共用TEIの上で旧来のエディティングワークが重視されているばかりなのである。
 これは編集文献学が、世にあらわれたベーステキスト(基点テキスト)と編集されたコピーテキスト(基底テキスト)の区別に妙にこだわりすぎてきたからだった。
 しかしながら、これからのデジタル・ナレッジサイトはこの程度で終わってはいいはずがない。約2000年にわたった書物の集積を背景に、そのテキストを時代別・領域別・著者別・アイテム別などにストレージしつつも、まずはそのヴァリアントを自在にリトリーヴァルできて、かつどんな知の抽出にも応じられる自在なレンダリングを可能にした構造が求められなければならないはずなのだ。
 たとえば約2000年にわたった書物の集積は、それらに明示されてきた目次の集積として、またその大目次の束を細部化する中目次や小目次のリトリーヴァルとして、用意されていくべきだろう。ぼくがイシス編集学校の朋輩とともにまだ組み立ての途上にある「目次録」とは、その用意の一例だ。

知のマザープログラム「目次録」
16の親コード、約5000の孫コード、
約25000のキーブックで構成される。

 それにしても、現状のデジタルアーカイブだって、来たるべきナレッジサイトのために、もっといろいろの工夫はできるはずである。少なくとも次のような工夫が試みられていい。
 ①まずは、SGMLやXMLの文法がどのような特定文書のインスタンスに適用するかを規定するDTD(document type definition)を充実させることである。編集工学的にはDTDに12用法や64技法などの活用が想定できる。
 ②多様なデジタルテキストの背景を大学図書館や公共図書館の書棚に対応した情報インデックス組織によって保証して、これに連動した編集可能型リポジトリー(デジタルオブジェクト収蔵庫)の新たな設計にとりくむべきだろう。ただし、このためには日本の大学図書館や公共図書館のデジタルエディティング・システムの改変編集に着手する必要がある。
 ③コンテンツを収納するプログラムとそれをユーザーの要求に答えて抽出するインターフェースをつなぐ「相互リンクのトポロジー」を確立することが望まれる。それには、データ(テキスト、画像、音声ファイル、動画)に対してできるかぎりメタデータを付加し、データのほうをマイクロコンテンツの組み合わせとして多重化して、こうして生じたデータ片による「リンクの束」を多様にクロスレファランスさせていくことが必要だろう。
 ④やがて千夜千冊などもそのようになるといいと思っているのだが、デジタルエディティングの独壇場は、エクスプラネタリー・ノートとテクスチュアル・ノートあるいはコンテクスチュアル・ノートを、いくらでも加えられることにある。エクスプラネタリー・ノートでは解説項目を充実させ、テクスチュアル・ノートやコンテクスチュアル・ノートではユーザーの活用度の拡張が増すにつれ、ナレッジサイトの圧倒的充実をつくることができる。そのささやかな実験成果がイシス編集学校の「離」において8年にわたって蓄積されてきた。いずれその成果をお目にかけたい。
 ⑤以上のようなことが可能になるには、ひとまず明日のナレッジサイトのためのモジュールとなるような、いくつもの互換性に富んだ柔軟な知的リポジトリーを少しずつつないでいくべきである。しかしながら、現時点で各種の大学や企業が運用しているアーカイブやエンジンやリポジトリーは、かつてメインフレーマーが用意した旧態然とした設計にもとづいたマッチング・システムの援用であるため、ほとんど横につながらないばかりか、その機能自体がほぼ死んでいる。ここは急がばまわれで、各自のリポジトリーとマッチング・システムに新たな編集機能を加えていくべきなのである。

 本書は、大学などの研究者が「編集」を知的システムとして積極的にとりこむための入口を示したものだった。それなりの起爆剤にはなっている。
 しかし、おそらく新たなナレッジサイトのためのデジタルアーカイブが劇的に生まれる最大の可能性は、一方ではそうした学知の側からのデジタル・リベラルアーツの構築と編集が期待されるのだが、他方では、知的情報のバリューチェーンとサプライチェーンとを統合できるプロデュース&ディレクター組織が、新たな研究機関や産業界や企業に誕生することにあるのではないかとも思われる。
 それには、スーパーエディターをコアとして、著者、研究者、読書家、批評者、エディター、デザイナー、ヴィジュアルディレクター、情報アナリスト、プログラマー、SE、ウェブマスター、コピーライター、検索者、校閲者などが有機的に連なる組織と、出版・印刷・流通・広告・マーケティングを律する組織とが、新たな「意味の市場」を創発させるべく大胆に組み合わさることである。
 むろん、こんな組織は大学にも研究機関にも企業にも、まだまったく登場していない。それなのに社会は厖大なテキストをあたかも廃棄物のこどく電子排出し、莫大なビッグデータを企業に戻しつつあるわけである。もし、これらの処理に困惑するのなら、そろそろこのような知的編集組織の浮上が必要になっているはずなのだ。

 以上、今夜はあくまで「編集文献学」の断面を紹介するにとどめた。すでに察知されているように、編集が「電子の知」に関与するには、学知と書籍と欲望と商品とをもっとダイナミックにまたいでいく必要がある。
 そのためには、編集文献学は学術テキストだけではなくニューステキストにもポップテキストにもかかわるべきであり、学際的には文化人類学や認知科学や表象科学にもかかわるべきなのである。すでに千夜千冊の各夜で示唆してきたことだった。そのうち“続き”を読相篇で案内してみたい。

『人文学と電子編集 デジタル・アーカイブの理論と実践
編者:ルー・バーナード、キャサリン・オブライエン・オキーフ、ジョン・アンスワース
監訳者:明星聖子、神崎正英
訳者:松原良輔、野中進
2011年9月5日 発行
発行者:坂上弘
発行所:慶応義塾大学出版会株式会社
印刷・製本:萩原印刷株式会社
カバー印刷:株式会社太平印刷社
装丁:鈴木衛
 ISBN:978-4766417746

【目次情報】

まえがき (トマス・タンゼル)
序文
第Ⅰ部 典拠(ソース)資料と方針
 デジタルの地平での編集 (ディーノ・プッツェッティ、ジェローム・マッギャン)
 『カンタベリー物語』(ピーター・ロビンソン)
 記録資料の編集 (ボブ・ローゼンバーグ)
 詩とネットワーク (ニール・フレイスタット、スティーブン・ジョーンズ)
 戯曲のケーススタディ (ディヴィド・ガンツ)
 女性作家プロジェクト (ジュリア・フランダース)
 著者による翻訳 (ディルク・ファン・ヒュレ)
 散文フィクションと近代の手稿 (エドワルド・ファンホウテ)
 哲学のケーススタディ (クラウス・フイトフェルト)
 宗教テキストの電子化 (D・C・パーカー)
 マルチメディアの解剖図 (モリス・イーヴズ)
 碑文研究 (アン・マホーニー)

第Ⅱ部 実践と手順
 手稿と印刷典拠資料からの機械可読テキストを作る効果的方法 
  (アイリーン・ギフォード・フェントン、ホイット・N・ダッガン)
 転写のレベル (M・J・ドリスコル)
 編集におけるデジタル・ファクシミリ (ケヴィン・キーナン)
 電子版の真正性認証 
  (フィル・ベリー、ポール・エガート、クリス・ティフィン、グレアム・バーウェル)
 文書管理とファイル命名 (グレッグ・クレイン)
 書字システムと文字表現 (クリスティアン・ウィッテルン)
 マークアップ選択方法を文書化しておく理由と方法 (パトリック・ドゥルソー)
 格納、検索、表示 (セバスティアン・ラーツ)
 TEIを使わない方が良いとき (ジョン・ラヴァニーノ)
 印刷ベースの編集プロジェクトから電子形態への移行 (ハンス・ヴァルター・ガーブラー)
 電子版における権利と許諾 (メアリ・ケイス、ディヴィド・グリーン)
 電子版の収集と保存 (マリリン・ディーガン)

補遺 ガイドライン
 学術版編集者のためのガイドライン
 原則の概要

訳者あとがき
TEIガイドライン第4版と第5版の違いについて
参考文献
索引
執筆者一覧


【編者情報】 

ルー・バーナード(Lou Burnard)
オクスフォード大学コンピューティング・サービス所長補佐。1990年からTEIのヨーロッパにおける編集者として活動。専門は、コーパス言語学からマークアップ技術まで幅広い。

キャサリン・オブライエン・オキーフ(Katherine O'Brien O'Keeffe)
ノートルダム大学教授(英文学)。2001年に、『アングロサクソン年代記』をC言語で編集し、アングロサクソンの文脈的特徴の研究を行っている。編集文献学委員会の共同議長を務める。

ジョン・アンスワース(John Unsworth)
イリノイ大学大学院教授(図書館情報学)。バージニア州立大学で人文学先端技術研究所の責任者を務める。1996年から2004年にかけて、MLAの
編集文献学に関する委員会のメンバーを務め、2001年から2003年までTEIコンソーシアムの議長に就任していた。 

 

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