才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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苔のむすまで

杉本博司

新潮社 2005

編集:金川功・渡辺倫明 編集協力:花塚久美子・田中樹里・矢野優 協力:ギャラリー小柳
装幀:下田理恵 

象徴をたんなるシンボルやイコンと捉えるなら、今日における象徴表現を歴史的現在として組み上げられるのは困難である。杉本とともにぼくもそう思うのだが、どこか「苔のむすまで」とも思っていなければならないのである。今夜はこのことを平成最後の四月のメッセージに残したくて、あえて杉本博司に肖(あやか)ってみた。

 さすが杉本博司だった。あとがきに「この歳になるまで文章を書くとは露ほども思っていなかった」と書いていたが、どうしてどうして、文体・文意・文飾、いずれもすばらしい。大いに読ませた。「和楽」の当時の編集長だった花塚久美子に唆されて毎月10ページの連載をしたのをきっかけに文筆のおもしろさに目覚めたようで、それで杉本ワールドが本書のような言葉によっても辿れるようになったのだから、杉本ファンにとってはまことに悦ばしいことだったろう。
 今夜は『苔のむすまで』を採り上げたが、このあとも何冊か書いた。『現(うつつ)な像』(新潮社)、『空間感』(マガジンハウス)、『アートの起源』(新潮社)、『趣味と芸術』(講談社)などなどだ。もっとも最初の2冊から先は、だんだんフツーの本になっている。

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杉本博司
ロンドン・王立芸術院で(2012年10月)

『苔のむすまで』(新潮社)
『アートの起源』(新潮社)
『現な像』(新潮社)
『空間感』(マガジンハウス)

 『苔のむすまで』(time exposed)はとても気分のいい本だった。装幀やレイアウトを含めて尻が締まっているし、目が澄んでいる。数週間前に「平成」の世が「令和」の世になって、本書のタイトルが「君が代は‥さざれ石の‥巌となりて‥苔のむすまで」に連調していたことも、本書を今夜の千夜千冊にとどめるには、なんだかふさわしい。
 ちなみに「令和」は、万葉集の大宰府での梅花の宴の序文から採字したのまではよいけれど(やっぱり中西進(522夜)さんの提言だった)、どこか未だしのネーミングだった。令月・令人・令息・令嬢の「令」を使うというなら、たとえば「令元」とか「令望」とかもよかったのではないか。昭和の「和」にお出まし願ったところが、もったいない。そろそろ「おおもと」を令きものと見る時代が来てもよかったのである。
 それかあらぬか本書の帯には次の杉本の言葉が端的に示されている。「私の中では/最も古いものが/最も新しいものに/変わるのだ」。

「令和」の元号を発表する菅義偉内閣官房長官

『苔のむすまで』帯文

 思い返すと、雑誌に杉本博司の写真を最初に掲載したのはぼくだった。そのときは「遊」(1979年1008号)に『劇場』(Theaters)を16ページ一挙掲載しただけで、文章を頼まなかった。
 エディターとしてニューヨークの杉本に会いにいったのも、ぼくが初めてだったと思うのだが、このとき杉本が独自に工夫した暗室と引伸し機を見せてもらうとともに、すでに杉本の言葉がただならないものを暗示していたのを感じた。そのとき杉本は「ぼくは結界を撮りたい」と言ったのである。「結界を撮りたい」だなんて、よくぞそういう狙いに向かっていたものだ。
 たしかそのころは東松照明が「波照間」(はてるま)を撮っていたはずだが、これも聖域に挑んだものではあったけれど、ではあの写真群が「結界」を相手にしたかといえば、そうではなかった。むしろ禁断の聖域と闘ったというべきものだった。東松ならずとも、そういう写真は少なくはない。内藤正敏はそれをずっと撮ってきた。一方、杉本はこの言葉通り、その後ずっと「結界」に挑んだ。たんに結界を撮ったというより、写像による結界をつくっていったのだ。
 というように、杉本には若い頃から重大なコンセプチュアルな言葉が宿っていたのだが、それなのに「遊」掲載のときは、しまった、ぼくは文章を頼まなかったのだ。
 まあ、そのへんのことはともかくとして、今夜は杉本の写真について書いておく。そのあとで考え方にふれたい。写真について書いていれば考え方にふれることにもなる。

『遊 1008号』(1979)
第2期 音界+生命束 

杉本博司「HALL」
『遊 1008号』に全16ページで掲載。20年〜30年代につくられたアメリカの映画館のスクリーンに1本の映画を投影し、その始まりから終わりまでを撮影した杉本博司の代表作。現在「Theater」と呼ばれている「劇場」シリーズは、当初は「Hall」と呼んでいた。

 杉本の写真は一言でいえばすこぶる戦略的な写真だ。最初の最初から「アートなシリーズ」をめざしている。アートではなく「アートなシリーズ」である。そんなことができるのは、いいかえればコンセプトが明確だということなのだが、コンセプトがあるというだけなら多くの写真家がそうなので、そう言うだけでは当たらない。
 杉本のコンセプトの特色は、第一に「秘するもの」に依っている。あからさまではなく、探査的ではないのだ。第二に「類に及ぶもの」を大事にしている。いろいろ「類」があるが、ずばりは人類史か写像史だ。第三に「日本とは何か」に響く。ここには神や仏や傀儡(くぐつ)がいる
 これらが重畳して杉本のコンセプトをかたちづくっている。たいへん好もしい。

ハイパーコーポレート・ユニバシティ(HCU)のゲストとして登場した杉本博司さんと対談
時:2017年2月11日

 シリーズ性が強いから、それなら組写真なのかというと、なるほどまさに組写真に近いのだけれど、さまざまな写真が組まれているのではない。絞り切った同一テーマをめざしたストイックなシリーズなのだ。
 同一テーマによる組写真をつくってきた写真家はもちろんたくさんいる。多くはそれぞれのアングルが異なっていて、それらが組み合わさっている。ぼくはアンセル・アダムスのヨセミテの連作写真、ロバート・フランクの『アメリカ人』、川田喜久治の『地図』、エティエンヌ=ジュール・マレーの連続写真、ジャック=アンリ・ラルティーグの写真集などに影響されて写真にめざめたのだけれど、これらは組写真といえば組写真だが、いずれもショット・アングルは異なっている。
 しかし、杉本は初期の『ジオラマ』もその後の『劇場』も『海景』も、絞り切った同一アングルでシリーズ撮りをすることにこだわった。
 もっとも、この程度の話では杉本の写真にはまだまだ接地できない。限定した同一アングルで写真を撮ることも、いくらでもあるからだ。ぼくが好きで、互いに話しあってもきたリチャード・アベドンは『ナッシング・パーソナル』で、さまざまな人物を白いホリゾントに立たせて、ほぼ同じアングルで撮り続けたものだ。これを踏襲したのが「アエラ」の表紙を長らく担当した坂田栄一郎だ。こういう定点撮影という方法も、けっこう多くの写真家が試みてきた。もともとは科学写真が採用してきた観察のための方法だ。
 では杉本の写真は何を試みたのかというと、定点によって定点では見えない「もの・かたり」を現出した。

アンセル・アダムス《The Tetons-Snake River》(1942)
カリフォルニア州サンフランシスコに生まれる。ピアニストを志していたが、14歳の時、家族と共に初めて訪れたヨセミテ国立公園の圧倒的な自然に魅了され、ストレート・フォトグラフィをめざすようになる。映像の「視覚化」という独自の考え方と、アルフレッド・スティーグリッツの「等価物」という概念をもとに、写真の可能性を追求する。アダムスの作品は、風景や身近な環境、ポートレート、建築物や自然物など多岐にわたるが、その作品を通して、対象の本質を引き出し、美的な価値を高めた。

ロバート・フランク《アメリカ人》
ロバート・フランクは1924年、スイスのチューリッヒ生まれ。「アメリカを撮る」というテーマでグッゲンハイム奨学金を受け、55、56年の2年間、各州を車で撮影してまわり、その成果を『アメリカ人』としてまとめた。繁栄と安定を謳歌しているはずのアメリカの不安と過剰の実像を外国人の客観的な眼差しで暴くものであったため、アメリカ国内では容易に受け入れられず、まずフランスのデルピール社から出版されることになった。

映画『Don’t Blink ロバート・フランクの写した時代』予告編
92歳にしていまなお現役ロバート・フランクの20代から現在に至るまでのキャリアすべてを見ることができるドキュメンタリー映画。監督はローラ・イスラエル。

1882年頃、ジュール・マレイが撮影した飛翔するペリカン
ジュール・マレイは、フランスの生理学者、医師。1882年、ライフル銃の形をした連続写真撮影機である写真銃(リボルヴァー・カメラ)を発明し、映画撮影機の原型ともなった。鳥の飛翔や人物の動きの連続写真を撮り、その動きを解析することで自らの研究に役立てた。

 原初の写真を撮るという行為は、一言でいえば「光をフィルムにうたた寝させる」という行為である。最初は銀塩フィルムではなくて、室内や屋外の実像をピンホールを通してカンバスに投影して、現像・焼付をするかわりにそこに油彩などで絵を描いた。このときカメラ・オブスキュラが実像とカンバスのあいだにあった。15世紀以降にダ・ヴィンチ(25夜)、レンブラント(1255夜)、フェルメール(1094夜)らが使った。
 杉本の写真はこのカメラ・オブスキュラを今日(現在)まで引っ張ってきている。カメラは光学レンズの精度が増し、さらにインスタントカメラを嚆矢に高度な電子化もされるようになったけれど、杉本はフェルメール時代のカメラ・オブスキュラを時空間ごと引っ張っているのだから、杉本カメラにはそのフェルメールから今日までの空間量も時間量も引っ張れているのである。
 似たようなことをやった者たちはいた。バロックの建築家、浮世絵師、覗きからくりの制作者たち、そしてマルセル・デュシャン(57夜)だ。デュシャンの遺作『①落ちる水、②照明用ガス、が与えられたとせよ』は作品全部がカメラ・オブスクラという部屋になっていた。この作品はフィラデルフィア美術館の一室になっている。杉本は見田宗介とここを訪れて、驚天動地した。ぼくは官能の極みに達した。
 それで、なぜ杉本がこういう考え方や見方をするようになったのかといえば、ぼくが察するには、世界が模像であることを早くから見抜けたからである。ただし、ここには二つの大きな仕掛けの理解がひそむ。

ヨハネス・フェルメール《音楽の稽古》
1662年-65年頃。ロイヤル・コレクション(バッキンガム宮殿)
『苔のむすまで』(新潮社)p.21より

カメラ・オブスキュラ
写真の原理による投影像を得る装置で、実用的な用途としてはもっぱら素描などのために使われた。フェルメールら17世紀オランダの巨匠たちは、細部への優れた観察力で知られているが、カメラ・オブスキュラを使用したと推測されている。

マルセル・デュシャンの遺作《①落ちる水、②照明用ガスが与えられれば》
1946年から66年まで、ニューヨークの14番ストリートのアトリエでひそかにつくりつづけ、フィラデルフィア美術館に寄贈する旨の遺言を残したまま亡くなり、死後、公開された。部屋に入ると、壁にアーチ状の古い木の扉が設置されており、扉の小さな2つの穴を覗くと作品が見える。杉本さんは見田宗介と訪れた。

 ひとつは、われわれの視覚像は眼球と脳神経系によるものなのだから、何かが「見えているということ」そのものがすでにして模像だということがある。
 印象として模造っぽくなるというのではない。知覚がそうなっている。このことはすでにエルンスト・マッハ(157夜)の知覚認識論、ケーラーやレヴィンやコフカ(1273夜)のゲシュタルト心理学、数々の脳科学、メルロ=ポンティ(123夜)に始まる「間主観」による知覚哲学、デヴィッド・マーの『ヴィジョン』、最近の人工知能論までもがあきらかにしている。
 もうひとつには、絵画も建築も衣裳も写真も(つまりは大半のアートは)、型と型とを抜きあって成立してきたということがある。「抜き合わせ」だ。風景を描くことも仏像を彫ることも、住居を建てることも衣服をつくることも(着ることも)、何かと何かの「抜き合わせ」なのである。多くは「地」と「図」の抜き合わせだ。
 このことについてもプラトン(799夜)からジャコメッティ(500夜)まで、フォン・ユクスキュル(735夜)からフランシス・ベーコンまで、文晁・北斎からベンヤミン(908夜)まで、三浦梅園(993夜)から中井正一(1068夜)まで、ナムジュン・パイク(1103夜)から森村泰昌(890夜)まで、とっくにわかっていたことなのだが、多くのアーティスト、とりわけ写真家はこのことをちょっと失念しすぎていた。
 いいかえれば、世界はもともと「もどき」(擬き)なのである。だから世界の表象は断乎たる「もどき」としてあらわされてよく、より鋭くこのことを突いた作品こそが文学であり、アートであり、写真であってよかったのである。
 杉本は最初からこのことを見抜いたようだった。「もどき」はシミュレーショニズムではない。むろんたんなるフェイクではない。本物と見まごうばかりの抜きつ抜かれつの接戦を通過しなければならない。そのうえで、見まごうばかりの「ばかり」に向かう。しかしそのように「もどき」に抜けていけるには、やはり「本物」を目利きできていなければならない。

生物ごとの「環世界」を説明するイラストレーション
ユクスキュル『生物から見た世界』より

ゴッホの自画像を徹底してもどく森村泰昌さん
『自画像の告白』より

 杉本は古美術品のコレクターであって、骨董屋でもある。そうなったのは杉本の前夫人の絹枝さんのせいだった。
 話が前後するけれど、杉本は立教大学の経済学部で学んでいるうちに写真をやりたくなって(中高大ともに立教ボーイだ)、ロスアンジェルスのアートスクール(アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン))に入った。1970年のことだ。
 途中シベリア鉄道でヨーロッパをまわったりしているが(このシベリア鉄道経由のヨーロッパ覗きは、五木寛之や安藤忠雄がそれをしているが、なかなかのイニシエーションなのである)、そのロスの4年間で西海岸特有のカウンターカルチャーの波濤を浴び、そのなかで東洋や日本が注目されているのを知る。
 クルアックやギンズバーグ(340夜)によるビートニック世代がタオイズムや禅に依拠していた風土が、まだカリフォルニアのそこかしこに熱を発していた時期だ。ぼくもバークレーの本屋が軒並み「東洋」で埋まっているのに驚いた。
 ところが、そのころの杉本はせいぜい鈴木大拙(887夜)を読む程度のことで、東洋宗教も日本美術も見えてはいない。そのうち74年にニューヨークに移り住んだ。ここで写真のアート化に挑戦するために腰を下ろし、初期の傑作「ジオラマ」「劇場」「海景」などのシリーズを撮った。これらは州政府やグッゲンハイムの奨学金やNEAのグラントをもらっていた。無収入でも凝った写真にとりくめたのは、この軍資金のおかげだった。
 このころ画家の絹枝さんと結婚した。絹枝さんは資生堂の宣伝部にいた人で、広告の仕事に満足できずニューヨークで画家を始めていたのだが、杉本の収入がなく、仕事も途絶えそうなので心配をして自分で小さな店を始めた。いろいろ買い付けをしてソーホーのビルの2階を借りたのである。これが「MINGEI」だ。1978年だ。ぼくが杉本を訪ねたのはこのときだった。

「ジオラマ」シリーズ
アメリカ自然史博物館の古生物や古代人がいる風景をジオラマにした展示を撮影したシリーズ。“ほんもの”と“もどき”のあいだを問う初期から続く代表作。70年代後半からのちの代表作となる。
『苔のむすまで』(新潮社)p.25,27,29,31より

 話によると、銀行には200ドルしか残っていなかったらしいが、初日にはイサム・ノグチ(786夜)もやってきて、一カ月後にはニューヨーク・タイムズが家庭欄で大きく採り上げたため、在庫はすべて売り切れた。
 絹枝さんは1歳の子の育児が忙しい。そこで杉本が買い付けに赴くことになった。「伊万里と鍋島の違いも知らないような、ズブの素人がそば猪口や印判の皿、久留米絣や筒描、はたまた廃仏毀釈で川に流されたとおぼしいズルズルになった仏像など、変なものを含めて買い集めた」のだ。
 そんななか、円空仏に出会った。ギョッとしたようだ。杉本はそれからというもの、年に4度は日本に戻って神社仏閣をめぐり、東寺の弘法市に出入りし、骨董業者と顔なじみになり、目利きの腕を磨いた。「本物」と「もどき」の行き来にだんだん自信がついたはずである。
 このあとの杉本の仕事ぶりは、円空仏や写真術で感じたことを心像にごつんと落として、その「ごつん」を裏切ることなくさまざまに変換するものになっていく。

 写真制作のほうも、もちろん当初から「もどき」に向かった。「ジオラマ」はニューヨークの自然史博物館の古生物や原始人の展示ジオラマをスーパーリアルに撮ったもので、かつて十文字美信(1109夜)が剥製に取り組んで剥製制作所に通っていたことを思わせるが、杉本のものはジオラマだけあってスペーシブだった。一目見たジョン・シャーカフスキーがすぐにMoMAのパーマネント・コレクションに入れた。

「ジオラマ」シリーズの撮影風景

 ぼくが瞠目した「劇場」は、アメリカの古い映画館のスクリーンまわりを撮ったものだが、名作映画が上映されている時間ぶんきっかりを撮影しつづけることによって、当時の映画館の装飾を刻印させるとともに、カメラが開けっ放しになることで真っ白になったスクリーンを告示してみせた。こちらはクロニクルなのである。映像のもつ「はかなさ」も感じさせた。
 「ジオラマ」も「劇場」も、いずれも杉本流の調整と工夫を施した古めかしい大型カメラによる撮影だ。カメラ・オブスキュラの杉本ヴァージョンである。「海景」もそういう大型カメラを世界各地の海岸に運び、同一画角、同一アングル、同一露光、同一深度で撮った。そのため大ボケ写真が少なくない。それなのにじっとしている。これまた見る者を唖然とさせた。

シリーズ「海景」
世界各地の海の水平線を8X10カメラで撮影したシリーズ。すべて微妙にボケている。
『苔のむすまで』(新潮社)p.203より
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ハーシュホーン博物館で展示された「海景」シリーズ

 どんなカメラであれ、それで撮った写真は「写真としてのリアル」を示す。しかし、カメラ・レンズの向こうの被写体も、博物館であれ海であれレストランの料理であれ、やはりリアルだ。けれども、その博物館や海や料理も、もとはといえば目や耳や口で知覚された、いわば「知覚のリアル」なのだ。
 いったい「向こうのリアル」と「写真としてのリアル」と「知覚のリアル」は何がどう、ちがっているのか。メディエートされるフィルターが異なっている。これが一番のちがいだ。けれども見えているものは「同じ」に感じる。それらは「もどき」として貫かれたものなのであるからだ。
 杉本の「ジオラマ」「劇場」「海景」はその「貫かれたもどき」を空間と時間を切り取ったり跨いだりして、面倒を厭わぬ絶妙な方法で表象してみせた。みごとな凱歌だ。
 これ以降の写真制作やその他の仕事も、「もどき」の集約であり拡張であり、その転移や組み合わせだった。今夜はそのいちいちを採り上げないけれど、展覧会や作品集で見てもらうのが一番いい。ついでに、杉本の言葉も噛みしめるといい。ウェブにも杉本博司通信「言葉」が上がっている。木村俊介のインタビュー『物語論』で答えているのもおもしろい。
 そういうなか、ぼくが強調しておきたいのは、それらが「何か」ですべてつながっているということだ。

 一人のアーティストの作品がなんであれ、それらが相互につながった作品群になっているということは、とくに驚くことではない。むしろほぼみんなそうなっていくほうが多い。
 運慶であれセザンヌであれ草間弥生であれ、歌麿であれウォーホル(1122夜)であれ、サティであれ桑田佳祐であれ、マレーヴィッチ(471夜)であれメシアンであれ、そうなる。それを個性があらわれているとか表現のマチエールが継続しているとかと見るのは、当たり前すぎてつまらない。
 そんな流れに抗するかのように、一人のアーティストの仕事とはにわかにわからない仕事が連打されるもある。デュシャンがそれをあえて示したのだが、ウィリアム・ターナー(1221夜)の絵やル・コルビュジエ(1030夜)の建築や早坂文雄(1095夜)の作曲や河井寛次郎(5夜)の陶芸も、そういうものだった。しかし、それらは見た目(アピアランス)ですぐに一人の作品とわからずとも、奥で「ごつんと落としたもの」の多様な再現であったのだから、それが感じられさえすれば、やはり見分けがつく。
 では、一見ちがうものに見えるのは何かというと、それはたいてい当初の「ごつん」で掴まえた「何か」の「分景」(ディマーケーション)や「転景」(トランスヴィスタ)なのである。

 杉本がめざしてきた作品や仕事も、そのすべてが「当初のごつん」の分景や転景の徹頭徹尾にある。メディエーションなのである。それは写真だけではなく、直島の凹みながら立ち上がる神社設計、位相と意匠を変えた『曾根崎心中』の文楽上演、地と建物に自然の運行をも採りこんだ小田原の江之浦測候所などにまで、及んだ。このあたりは新しくパートナーとなったギャラリー小柳の小柳敦子さんとの時代の成果だ。
 こういう杉本の作品と仕事は、今後も次々に分景と転景を試みて、また綜合や編集や組み合わせを通過して、「とことん」をめざしていくのだろうと思う。詳しいことは知らないが、そこに資金やマネジメントがぴったり交差して、美術プロジェクトや文化プロジェクトとして稀にみる成就性に達しているということも特筆できる。
 イメージはマネージされなければならないものなのだ。杉本はイメージメントとマネージメントを切り離さない。

《直島の護王神社》
江戸時代から祀られている護王神社の改築にあわせて杉本博司が設計した。石室と本殿とはガラスの階段で結ばれていて、地下と地上とが一つの世界を形成する。本殿と拝殿は、伊勢神宮など初期の神社建築の様式を念頭におかれている。
『苔のむすまで』(新潮社)p.59,63より

《杉本文楽 曾根崎心中》
杉本博司が構成・演出・美術・映像を仕切った「杉本文楽」、人間国宝の鶴澤清治が作曲を手がけ、現在の文楽公演では演出の都合により一部が割愛され上演されている『曾根崎心中』を近松門左衛門の原文に忠実なまま舞台化している。大きな話題になった。

〈小田原文化財団 江之浦測候所〉
杉本博司が10年以上の歳月をかけて構想、杉本と榊田倫之による新素材研究所が設計・デザイン監修を担い、箱根山外輪山と相模湾の間に位置する陸地の切っ先に建設を進めてきた複合文化施設。敷地面積は9496平米、建築面積は789平米。石舞台、光学硝子舞台、茶室、庭園、門、待合棟などで構成されており、各建築は平安、室町、大正など各時代における日本の伝統的な建築様式・工法によってつくられ、日本建築史を通覧するものとしても機能する。

 それでは、杉本がこれらを通して抱いているのは「何か」といえば、やはりのこと「結界」なのだろうと思う。
 結界には定義はないが、何かが囲われることによって、そこに「おとづれ」が生じるところのことを言う。古代中世の結界には依代(よりしろ)や物実(ものざね)のようなエージェントがあったけれど、利休の「かこい」も結界なのである。
 もう少し広げていえば、ロジェ・カイヨワ(899夜)の言う「ル・サクレ」(神聖な畏敬力=動物から人までが抱く侵しがたいこと)であって、またミルチャ・エリアーデ(1002夜)の言う「エピファニー」(自律する顕現性=見えなかったことが現れること)がおこるところというものだろう。何某かが来て、何事かが生じる。それなのにあらためて確認しようとすると、もう何かが了っている。そういうところ、あるいはそういう仕掛け、それが結界だ。
 ぼくはそのような結界には、おそらく世阿弥(118夜)が重視した「却来」(きゃくらい)がきっと作用するのだと思っている。却来とは是風が非風を凌駕することをいう。気持ちをこめた結界を表現できれば、そういう却来が作用するはずなのだ。

丸善丸の内店内で行われた本屋本談〈杉本博司✕松岡正剛〉
杉本氏の書棚をスライドに写しながら、創作の原点となる読書遍歴が紹介された。親交のあったスーザン・ソンタグの『反解釈』が名作であることや、鈴木大拙の英文の卓抜さについてなど、本にまつわるさまざまについて交感しあった。

《松丸本舗》の「本家」に再現した杉本博司氏の本棚
原研哉や磯崎新といった空間に関する本から、ベンヤミンやデリダのような哲学書も並ぶ。本棚には「日本と世界を結界する写真家にして、本を愛着するヴィジュアライザー」と松岡メッセージが寄せられている。
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〈ヴェルサイユ宮殿〉でミニマルなガラスの茶室《聞鳥庵》を設置した。武者小路千家家元後嗣の千宗屋氏が茶会、ダンサーの伊藤郁女氏のパフォーマンスが行われた。

 さて本書は、最終章にヘンリー・ヒュースケンの『日本日記』(岩波文庫)が紹介されていて、杉本がときどき散歩の途中に麻布光林寺のヒュースケンの墓を詣でていることがふれられている。そして章扉には「苔のむすまで」とあって、昭和天皇の蝋人形を撮ったモノクローム写真が掲げられ、「神の視点をお持ちです」というキャプションが添えられている。
 畏まる雰囲気がある。本の中にこういう雰囲気をつくりだすのはけっこう難しい。みんなすぐに豪華本にしたり桐箱に入れるのだが、ページそのものが凛とするのは、そういうことではない。様式についての思想がなければならず、「しつらい・もてなし・ふるまい」についての抑制がおこるべきであり、出入りする言葉の選定が必要なのだ。「ありがたい」「かしこまる」とはそういうものからしか出てこない。できればそこに「稜威」(いつ)が見え隠れしてほしい。「触れるなかれ、なお近寄れ」だ。

《ポートレイト》シリーズ《empire hirohito》
偉人や有名人たちの蝋人形を撮影した。生命のないものに命を蘇らすことに挑戦している。写真は昭和天皇の蝋人形を撮影したもの。
『苔のむすまで』(新潮社)p.196,197より

 戦後、日本の天皇は象徴天皇になった。誰もがそう思っているし、憲法の規定ではもちろんそうなるのだが、天皇が象徴になったとはどういうことだったのだろうか。
 杉本は後鳥羽院のときから日本の天皇はずっと象徴でありつづけてきたとみなしている。ぼくは崇神・応神にも、雄略・天武天皇にも象徴を感じる。さまざまな事績や歌や伝承に稜威を感じるからだ。
 それはともかくとして、われわれはいま、日本の天皇に去来する「象徴」をどうあらわすかということを、よほどに熟慮したほうがいい時代を直截に迎えているはずである。
 上皇となられる今上天皇は、即位このかたずっと「象徴天皇とは何か」を考えられてきた。昭和天皇の場合は、在位途中から「象徴天皇」だと定められ、時の半分や体の半分を「象徴」にした。では、われわれは何をもって象徴を感じていると言えるのか。また、われわれ自身は何をもって象徴をあらわせると思っているのか。かなり曖昧なままのようだ。
 杉本博司はずうっと「象徴とは何か」を探求してきためずらしいアーティストだ。特別なことをしてきたのだろうか。必ずしも、そうではない。かつては藤原隆信もラファエロも象徴をどのように描くかということを考えたのである。それだけでなく、キリスト教美術をはじめとする宗教美術の多くが象徴芸術だったのだ。とくにバロックはそこに両界宇宙をも加えた。
 けれども、われわれはこうした歴史を過去のものにしてきてしまった。時間を止めた。ウォーホルが毛沢東マリリン・モンローをシンボルやイコンにしてシルクスクリーンにしたあたりをもって、歴史と断絶もした。
 象徴をたんなるシンボルやイコンと捉えるなら、今日における象徴表現を歴史的現在として組み上げられるのは困難である。杉本とともにぼくもそう思うのだが、どこか「苔のむすまで」とも思っていなければならないのである。今夜はこのことを平成最後の四月のメッセージに残したくて、あえて杉本博司に肖(あやか)ってみた。

「ジオラマ」シリーズ《Nature of Japan》
『苔のむすまで』(新潮社)p.215より

⊕ 苔のむすまで ⊕

∈ 著者:杉本博司
∈ 編集協力:渡辺倫明、ギャラリー小柳
∈ 装幀:下田理恵
∈ 発行者:佐藤隆信
∈ 発行所:新潮社
∈ 印刷所:大日本印刷
∈ 製本所:大口製本印刷
∈∈ 発行:2005年8月25日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 人にはどれだけの土地がいるか
∈ 愛の起源
∈ 地霊の果て
∈ 能 時間の様式
∈ 護王神社再建 APPROPRIATE PROPORTION
∈ 京の今様
∈ 塔の昔の話
∈ 不埒王の生涯
∈ 虚ろな像
∈ 骨の薫り
∈ 風前の灯
∈ 異 邦人の眼
∈ 大ガラスが与えられたとせよ
∈ 末法再来
∈ さらしな日記
∈ 苔のむすまで
∈ あとがき
∈∈ 参考文献

⊕ 著者略歴 ⊕

杉本博司(Hiroshi Sugimoto)

1948年東京生まれ。立教大学経済学部を卒業後、ロサンジェルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで写真を学ぶ。1974年よりニューヨーク在住。現代美術作家として活動するかたわら、古美術商を営んでいた時期も。代表作に自然史博物館のジオラマを撮影した「ジオラマ」シリーズ(76年~)、全米の映画館などで撮影した「劇場」シリーズ(78年~)、世界各地の海を同じ手法で撮影した「海景」シリーズ(80年~)などがある。作品所蔵美術館はメトロポリタン美術館(ニューヨーク)、テーとギャラリー(ロンドン)、ポンピドゥーセンター(パリ)、東京国立近代美術館など多数。建築にも造詣が深く、1999年~2002年にかけては「ベネッセアートサイト直島」の護王神社再生プロジェクトにも携わった。2005年、東京・森美術館で回顧展開催。2009年建築設計事務所「新素材研究所」を東京に開設、静岡県長泉町にIZU PHOTO MUSEUMを設計する。2011年、主宰する小田原文化財団が、公益法人として認可され、財団の活動として「杉本文楽曾根崎心中付り観音廻り」を神奈川芸術劇場にて公演する。1988年、毎日芸術賞、2000年、パーソンズ・スクール・オブ・デザイン、ニューヨーク、名誉博士号、2001年、八セルブラッド国際写真賞受賞、2009年、高松宮殿下記念世界文化賞、2010年、紫綬褒章。主な著書に『歴史の歴史』(新素材研究所)、『空間感』(マガジンハウス)、『現な像』(新潮社)がある。