父の先見
ぼくの哲学
新潮社 1998
Andy Warhol
The Philosophy of Andy Warhol 1975
[訳]落石八月月
ウォーホルはそこにウォーホルが関与しているというだけで、完璧なアンディ・ウォーホルなのだから、よっぽどケアする気にならないとウォーホルをおもしろくさせられない。今夜、たまにはそれもいいだろうというつもりになった。
最初に言っておくが、ぼくはウォーホルのアートの並べられ方が好きじゃない。六〇年代終わりから七〇年代前半にかけてのことだが、そのころはまだ名前が出たばかりの原宿や青山のデザイナーやアーティストの真っ白い部屋へ行くと、五人に一人がウォーホルのシルクスクリーンを床から無造作に、つまりこれみよがしに壁の隅のほうに立て掛けていて(他にはドナルド・ジャッドかフランク・ステラ)、まったくバカバカしかった。きっとウォーホルの「あっけら缶」のなかで自分がしている理由のつかないクリエイティヴィティに免罪符がほしかったのだろうと思ったものだった。
ぼくはウォーホルとはほぼ正反対のところにいる。たとえばウォーホルは体に触られるのが大嫌いで体を洗ってばかりいるが、ぼくは触られるのが大好きで、洗うのは面倒くさい。ウォーホルは昨日のことも忘れるほど毎日が新しく見えるのだが、ぼくは次にくるトレンドに興味がないので過去が新しい。ウォーホルは香水が大好きで、三ヵ月ごとに銘柄を切り替えていたけれど、ぼくは香水もタイピンもカフスボタンもつけたことがない。ウォーホルはチョコレートをいくらでも食べるけれど、ぼくは一齧りか三齧り。ようするにウォーホルは化学的だが、ぼくは物理的なのだ。
それなのに今夜めずらしくウォーホルをケアする気になったのは、あの被害妄想的世間感覚が後期資本主義独特のポップカルチャーとコンテンポラリーアートを垂れ流すにふさわしいほどフラットで明快で、そんなことはウォーホルだからこそできたということに、一度は注意のカーソルを向けておきたかったのと、そんなウォーホルとぼくの何かが完全に一致するところもあるからだ。
ウォーホルは八歳で皮膚から色素を失った。綽名は「スポット」、つまりシミ夫くんだ。以来、ウォーホルはミスキャストを大事にするしかなくなった。ようするに「場違いのところにいるまともな人間」か「まともな場所にいる場違いな人間」かになることがウォーホルになった。
ウォーホルは十歳までに三度、一年ごとに神経衰弱に陥っていた。夏休みになると舞踏病にかかった。父親は炭坑に行っていたので、あまり顔を見なかった。そういうことがあったからかどうか、ウォーホルには十八歳まで親友がいなかった。それでやっとひとつのことに気がついた。誰も自分に悩み事を相談してくれない。どうしたらそういう連中にこっちを見させられるか。驚かせるしかなかった。毎日ポートフォリオをもって歩きまわった。けれどもグリーティングカード、水彩画、みんなダメ。喫茶店で詩の朗読もした。これもダメ。
結局わかったことは、みんなパーティが好きだということだ。だから黙ってパーティの準備をして、人に来てもらうようにした。何もできないから黙っていると、少しずつウォーホルが変人であることに人気が出た。「もう孤独でいいやと思ったとたん、取り巻きができたのだ」。パーティの会場をいちいち変えるのは大変だから、ちょっとしたスタジオをもって、そこによく来る奴は寝泊まりもさせた。ウォーホルは確信した、「ほしがらなくなったとたんに手に入る。これは絶対に正しいことだろう」。
ウォーホルにとっては「買う」は「考える」よりずっとアメリカ的なのである。アメリカは人でも金でも会社でも国でも買ってしまう国だから、ウォーホルはアメリカでなければ生きられない。
そのかわり、ウォーホルには人というものはすぐに狂気に走りたがることが手にとるように観察できた。ともかくウォーホルは有名なものを複写して複製して、仕事場を会場にしてポップアート宣言するだけなのだから、あとは集まってきた連中がおかしくなるのを待つだけなのである。
二三歳で髪を真っ白(銀髪のカツラの常用へ)にしておいたのもうまくはたらいた。そのころのヴェルヴェット・アンダーグラウンドに《オールトゥモローズ・パーティズ》という歌があったけれど、たいていはパーティに来ているうちにおかしくなっていった。映画スターやポップスターはみんな成り上がりだが、パーティに顔を出しているうちに成り下がるのが目に見えていた。だから六〇年代はみんながみんなに興味をもって、パーティがつまらなくなった七〇年代はみんながみんなを捨てはじめた。
ウォーホルがメディア・パーティの主人公だと勘違いされた六〇年代は、目立った男や目立った女と親しくなるためにはシャツも言葉も好きな写真も独特でなくてはならず、それで傷つくのを恐れてはいけなかったのだ。いやいや、必ず傷つくために親しくなっていけばよかった。そして親しくなったら、必ず傷ついた。親しくなるというのはウォーホルにとっては、そういうことだった。
こうしてウォーホルは十年に一度しか休暇がとれなくてもどこへも行きたくないという奇人変人になりおおせた。だからたぶんウォーホルは招かれないかぎりは、いつも自分の部屋にいた。テレビを二台つけて、リッツ・クラッカーをあけて、ラッセル・ストヴァーのチョコレートを食べて、新聞と雑誌を走り読む。
ウォーホルは「ひなひな」である。ママ坊である。再生元素が足りないヒップな人間化学物質である。しかしそのぶん、ウォーホルには常套句があった。それがウォーホルの世相哲学だった。「だからどうなの?」と言ってみることだ。これはサブカルズのとっておきの反撃なのである。言わないときは心で呟いてみた。
母親に愛されていなくてねえ。だからどうなの? 旦那がちっともセックスしないのよ。だからどうなの? 仕事ばかりが忙しくてさ。だからどうなの? いまの会社で大事にされているんだけど、なんかやることがあるような気がしてきてね。だからどうなの? これってアートにならないらしい。だからどうなの?
いずれにせよ、人はいつも同じことを繰り返してばかりいるのだ。ウォーホルからすると、それで失敗するのは当たり前で、成功することなど忘れれば、すぐに成功するのにと思えた。そのうち、ウォーホルはまた気がついた。「新しいものとはわからないものなんだ」ということだ。それが何かさえわからないもの、それだけが新しいものなのだ。ということは、「これ、わからないね」と言われれば自信をもてばいいはずだ。ただし、一〇〇パーセントわからないものにしなくてはいけない。できるだけ全部わからないのが、いい。「ここがわからない」と言われるようではダメなのだ。ウォーホルは確信した。「とくにアートは作れば新しくなくなっていく」。このことはバスキア(ジャン゠ミシェル・バスキア)をあんなにも巧みに売り出し、トップ・アーティストにしてみせたことに、よく象徴されている。
以上の話は、ウォーホルがとびきり猜疑心が強くて、ひどく嫉妬心が強いことをあらわしているとともに、そのことを何かでまぶすにはパーティとポップアートが必要だったことだけを告げている。
こういうウォーホルとぼくが一致していることなんてなさそうなのだが、それがそうでもないのだ。たとえば次のようなことである。
①八歳までの子供はみんな美しい。だから傷つけたくはない。それはたいていの動物にもあてはまる。暴力が美しく見えたこともない。暴力は時間をかけるし、美しいものは瞬間も美しい。
②世界中のホテルで一番いいのはロビーだけ。世界で一番いい建物は仮設のものだけである。
③ニュースを作っている者たちは、ニュースはいったい誰のものかということがわかっていない。ほんとうは、名前をもった者がニュースに出たら、ニュースのほうがその名前にお金を払うべきなのだ。
④その人物が静かで落ち着いて見えるのなら、その人物は男であれ女であれ、飛んでいるということだ。
⑤あまりにも何かを売る店ばかりになっている。そろそろ「何かを買う店」があっていい。買う専門店だ。
⑥実はレシートがお金の本質なのである。
⑦たいていの哲学はその内容よりも、それを作った人間がそれに添えないからダメなのだ。
⑧一番エキサイティングでセクシーなことは「無」というものだ。
⑨いつだって「無」は時代を超える。
⑩これからはランクが決まる者と犯罪者だけがスターになるだろう。
たいへん結構だが、これらはすべてぼくとウォーホルの偶然の一致だろう。だから誇るべきこともないし、互恵的になることもない。⑤なんて、これからやっと流行するだろう。ただしひとつだけ、ウォーホルが羨ましいと思うことがあった。仲のいいダイアナ・ヴリーランドが世界でも指折りのクールできれいな女の人だったということだ。ヴリーランドは第八八夜で書いたように、長きにわたった「ヴォーグ」編集長のことである。ウォーホルは彼女のことを「仕事を恐れていないし、したいことをしているのに、とても清潔だから美しさばかりが引き立っていた」と言っていた。
ウォーホルは五八歳で死んだ。早死にだ。かつてのヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバーだったルー・リードとジョン・ケイルは連名で《Songs for Drella》という追悼アルバムをつくった。“Drella”はドラキュラとシンデレラを一種合成した造語だ。ウォーホルをみごとに象徴していた。