才事記

デュシャンは語る

マルセル・デュシャン&ピエール・カバンヌ

ちくま学芸文庫 1999

Pierre Cabanne
Entretiens avec Marcel Duchamp 1967
[訳]岩佐鉄男・小林康夫

 マルセル・デュシャンに対する驚きが、ぼくを10年以上にわたって支えた時期があった。デュシャンを知ってからというもの、興奮しっぱなしだった。それからいったん鎮まって、ときどき禅の公案のように起問してきた。
 われわれは2つの事柄に長期にわたる興奮をする。ひとつは深くて厖大だ。たとえば宇宙、たとえばアリストテレス(291夜)、たとえばダンテ(913夜)、たとえばリヒャルト・ワーグナー(1600夜)、たとえば道元(988夜)、たとえば三浦梅園(993夜)である。ここにはコスモロジーとシステムがある。もうひとつは暗示的で断片的なものである。たとえば叙事詩『カレワラ』、たとえば小林一茶(767夜)、たとえば石川啄木(1148夜)、たとえば薄情な異性、たとえばエゴン・シーレ(702夜)、たとえばデュシャン。ここには、「そこに何があるか」と容易に問わせないものがある。
 1913年、ニューヨークのアーモリー・ショーに出品された《階段を降りる裸体 No.2》が話題騒然となったとき、人々はデュシャンについては何もわからなかった。1917年に便器をさかさまにして《泉》と名付け、R・マットの署名をつけて出品しようとしたときも(展示が拒否された)、誰一人としてデュシャンを理解しなかった。理解しないどころか、不快に感じる者のほうが多かった。
 デュシャンは「私は何もしていない」と言いつづけた。理解を求めて説明などしなかった。なぜならデュシャンはその存在そのものが深い断片にすぎず、作品そのものが公案であったからである。《泉》は美術史の「全体」に対して「部分」が署名をもって凌駕した最初の事件だった。これは「美術者という存在」の新たなタイプの出現だったのである。デュシャンはこう言っていた。「私はひとつのプロトタイプである。どんな世代にもひとつはそういうものがある」。
 
 デュシャンは生涯にわたって一貫して「創造」という言葉を嫌っていた。最も美しいものは「運動」だとみなしていた。青年期に心を奪われたのは、ガス燈の光とジュール・ラフォルグの詩とアンリ・マティスと数学上の「四次元」である。
 だいたいこんな程度のデュシャン像でもぼくが夢中になるのに十分だったが、そのうえぼくは多くのレディメイド作品も大ガラス作品も青年期に知ってしまったのだから、これは信奉するしかなかった。とくに大ガラス作品については、中村宏と何時間も、何日にもわたって話しこんだ。それがデュシャンを知って数日目のことだったと憶う。早稲田の2年生のころである。江古田の中村宏のアトリエでのことだ。陽差しがいっぱい入りこんでいた。機械部品だけで作った蒸気機関車の模型が置いてあった。
 白状すると、ぼくはもともとフランシス・ピカビアの信奉者であった。また、そのピカビアを投影する者が出現していないことに疑問をもっていた。デュシャンを知ったころも、その驚くべき感覚とピカビアをむすびつけて見ることはしなかった。けれども本書にもしるされているように、デュシャンは美術者としての存在自体がピカビアの射影幾何学だったのである。これで十分だ。ぼくはその後は10年にわたってデュシャンに興奮しつづけた。そして鎮まった。
 
 デュシャンは「大衆との交流」をバカにしていたし、それ以上に「芸術家との交流」をバカにしていた。デュシャンが好きなのは、細縞薔薇色のシャツとハバナの葉巻とチェスである。外出も大嫌いだし、美術館や展覧会にはほとんど出かけない。
 デュシャンが重視していたのは「あらゆる外見から遠ざかっていたい」ということである。レディメイドについてさえ外見の印象を拒否するもののみを選んでいる。デュシャンが嫌いなのは“網膜的な評判”にとらわれて社会が律せられていることなのである。ごく初期に絵画を捨てたのもそのせいだった。

 あまり指摘されていないことがある。それは、デュシャンの最も劇的な特徴は、知識を勘でしか解釈しないところにあるということだ。分析など、とんでもない。分析は絶対にしない。いやいや解釈というのもあたっていない。解釈には党派性がある。だからあくまで勘を重視した。のちのことになるが、ぼくはこの「勘釈」とでもいうやり口を「最初から略図的原型に付きあう方法」と呼ぶことになる。
 こういうデュシャンの態度は、むしろ偉大な一知半解といったほうがいい。デュシャンは一知半解しかしないのだ。これは実のところはけっこう多くのすぐれたアーティストに共通していることなのであるが、ただしデュシャンはその勘が格別に冴えていた。とくに数学的四次元に対するデュシャンの勘は、科学の目でいえばほとんどでたらめに近いものであったにもかかわらず、しかしめっぽう冴えていた。
 なぜ、こんな程度のことがデュシャンを支えられたかといえば、デュシャンは人間の生きかたを見分ける目、とくにニセモノとホンモノは見分けがつかないことを知っていた。また、他人の評判から逃れる術に長けていた。意外に、こういうことが人生を救うものなのである。
 デュシャンに関する本は意外にもあまり多くはないのだが、それでもいくつものまことしやかな本が出回っている。そういうなかでは、晩年のデュシャンがインタビューに答えている本書を読むのが最も無難だ。たとえば東野芳明のものなど、読まないほうがいい。ぼくは「遊」第Ⅰ期に「マルセル・デュシャン解析」を連載したときも、瀧口修造邸で作業をさせてもらったのだが、できるだけ瀧口翁のデュシャン論を拝聴しないようにした。