才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ニーベルングの指環

リヒャルト・ワーグナー

白水社 1992−1996

Richard Wagner ; Der Ring des Nibelungen 1848−1876
[訳]三光長治・高辻知義・三宅幸夫・山崎太郎(編訳)

監修/日本ワーグナー協会

装幀:大石一雄

133年前の今日、2月13日。ヴェネツィアの仮寓の書斎で執筆をしていたワーグナーが心臓発作で急死した。69歳だった。かの4日4晩の大作『ニーベルングの指環』を超えるための『パルジファル』が畢生の祝祭音楽劇として遺されたが、いまなお誤解されたままにある。

【69歳の死】
 133年前の今日、2月13日。ヴェネツィアの仮寓の書斎で執筆をしていたワーグナーが心臓発作で急死した。69歳だった。かの4日4晩の大作『ニーベルングの指環』を超えるための『パルジファル』が畢生の祝祭音楽劇として遺されたが、いまなお誤解されたままにある。いや、いまだ『ニーベルングの指環』に込められた意図が伝わりきれていない。
 

【花狩】
 山村雅昭という写真家がいた。森永純の助手をへて花を撮っていた。劇的で鮮やかな写真だが、白昼に熱情が凍りつくような深紅や純白り花の迫力を凝縮していた。ピーカン(青空の晴天)のもとに花が咲き乱れるところにストロボをあてて撮るのである。ちょっと魔術的な力をもつ写真だった。勅使河原宏さんに見せたら心底、驚愕していた。
 ある日、部屋で首を吊って死んだ。森永さんと未亡人に頼まれ、『花狩』というタイトルにしてぼくが編集して写真集にした。森永純、十文字美信(1109夜)、勅使河原さんにも文章を寄せてもらった。
 山村さんは死ぬ数年前からワーグナーを聴いていたらしい。通夜の席で高名な某写真家が「ワーグナーなんて聴いていたからだよ」と言った。死者を逆なでする軽率な発言だっただけではなく、まことに陳腐な発言だった。ワーグナーをその程度にしか引き合いに出せない“よくある通例の印象”の吐露だ。いつからのことか知らないが、ワーグナーにはこの吐き捨てるような誤解が付きまとっている。
 きっとどこかでショーペンハウアー(1164夜)やニーチェ(1023夜)の厭世思想とごっちゃになっているのだろう。それとも高名な某写真家はワーグナーの舞台を観たこともなければ、ひょっとするとLPも持っていなかったかもしれない。ショーペンハウアーもニーチェも読んでいないかもしれない。だとしたら「ミットライト・ペシミズム」のことも知ってはいまい。
 それなのに、この手の輩が一番、ペシミズムも無常も祝祭も、とくに神話や伝説を勘違いしているのである。今夜はこのことを訂正したい。 

山村雅昭写真集『花狩』(アドバタイズ・コミュニケーション 1988)より
上からヒガンバナ、プルメリア、サツキ

【1600夜・69歳と72歳】
 ご覧の通り、千夜千冊1600夜をワーグナーにした。本としては白水社の『ニーベルングの指環』全4冊(以下『指環』と略称も)を採り上げた。
 むろんこの大作にワーグナーの一部始終を認めていいと思っているからだが、『指環』にこだわらずというか、なぜ『指環』のような破天荒で深遠な祝祭歌劇が仕上がったのかということを書きたいと思う。加えて、本夜とともにぼくは72歳になり、なんだか岩山のワルキューレに背中を押されて何かに向かわなければならないような気がしているということもある。
 この何かは単一ではない。かなり複合的なものだ。「背中を押してくるもの」という奴もいつからかぼくの傍らに張り付いていて、しだいに重くも大きくもなっている。だからたいへん面倒な奴なのだが、この重さや大きさはぼくを怠惰から救ってくれてきた奴でもあった。
 それがここ2、3年でしだいにルシフェロのような「背中の巨人」めいてきて、最近は傲慢にも前にまわりこみ、ぼくを無明に駆り立てたり全知に引っ張るフリをする。これはいったい何なのか。こいつに従えばいいのか、それとも対決すればいいのか、なんらかの折り合いをつけるべきなのか、いささか迷うのだ。
 一方、ワーグナーはこの手の「背中の巨人」をものともせずに、早くから堂々と抱えこむ器量の男だった。それだけでなく、その「背中の巨人」が押し付ける圧力以上のリプリゼンテーションを全面的に引き受けることを覚悟した。それがワーグナー楽劇というものだ。
 それにしてもこんなリスキーなこと、よくも引き受けたものだ。とうてい誰もができることではないし、たいへん危険度が高い覚悟なのに、ワーグナーはそうした。だからワーグナーには通りいっぺんの厭世思想などはなかったはずなのである。

【最後の草稿】
 今夜は以上のようなぼくの個人的な事情のことも少し意識して、ワーグナーについてのメモ的な感想を述べてみたい。今夜が1600夜で72歳を迎えたからといって、それがワーグナーに関係するわけではないのだが、ワーグナーほどの「途轍もない企図」の足下に立ってみることも、何かの因縁になるのではないかと思うのだ。
 ということで、以下、いったいぜんたい「ワーグナー的なるもの」とは何だったのか。時代遅れの代物なのか、それとも誰もがその一部だけを小分けにしてしまったものなのか、いやいややっぱり前代未聞の大掛かりなものなのか。そのへんを観察してみる。なお、最近はヴァーグナーと表記することが多いのだけれど、ぼくはあえてワーグナーというふうに書く。
 リヒャルト・ワーグナーは1882年1月に遺作となった『パルジファル』の総譜を仕上げ、6月には『リエンツィ』から『指環』までの全作品を生まれ故郷のライプツィヒで上演して、いよいよ円熟の総仕上げに達しようとしていた。7月には第2回のバイロイト祝祭音楽祭で『パルジファル』を初演した。轟々たる賛同と非難のなか、不調を訴えてコジマらとともにヴェネツィアに入り、新たな年に入って来し方行く末を考え、『人間性における女性的なもの』という原稿を書いておきたいと決めた。
 その原稿を書いている途中に心臓発作に襲われた。それが2月13日のことだった。遺体はヴェネツィアの船で運び出され、バイロイトに送られた。葬儀でのコジマの美しい悲嘆に参列者が慟哭した。
 ワーグナーの最後の原稿が『人間性における女性的なもの』だったということは、ぼくのワーグナー観を決定付けている。

【ドビュッシーとブーレーズ】
 先だってピエール・ブーレーズが高齢で亡くなった。ブーレーズが日本に最初に来たのは1967年のバイロイト祝祭歌劇場の日本公演のときで、『トリスタンとイゾルデ』を指揮した。大阪のフェスティバルホールであったこともあって、行けなかった。
 後期のブーレーズがワーグナーを今日的に継承しようとしていたのはよく知られている。けれどぼくにとってはブーレーズはずうっとドビュッシーであった。『海』を指揮したときの演奏などたまらない。
 寺田寅彦(660夜)がマラルメ(966夜)の詩に敬慕して生まれた『牧神の午後』ファンだったことを知って以来、また武満(徹)(1033夜)さんや杉浦(康平)(981夜)さんとドビュッシーの「変なところ」をあれこれ愉快に交わしあって以来、ぼくはひたすらクロード・ドビュッシーに加担してきたのだが、オーケストラ演奏はやっぱりブーレーズの指揮のものに惹かれてきたのだ。
 作曲家としてのブーレーズは、シェーンベルクの十二音階技法にもジョン・ケージの偶然音楽にも電子音楽にもとりくんだバランサーである。『ピアノソナタ第2番』などがそうだろうが、ケージの偶然性に対して「管理可能な偶然性」を編み出したりしもした。多様性も偶然性も平気に並べ立て、それを刹那や混乱に預けないで、責任をとる。そういう知的な方法をブーレーズは試し続けた。だからどうして後期のブーレーズが過剰なワーグナーの演奏にのめりこんでいったのか、当時のぼくにはいまひとつわからなかったのだ。
 そのうち、ドビュッシーその人が最初のうちはワーグナーにけっこう没入していたこと、そこで悪戦苦闘を強いられたこと、そのうえでそこから脱出していったことを知った。なるほど、ブーレーズはそのドビュッシーを見ていたのかと少し得心した。
 

ブーレーズによるドビュッシー『海/映像』CDジャケット

指揮を振る晩年のブーレーズ
1976年のバイロイト音楽祭100周年で『指環』を振った。

【アンチディレッタント・クロッシュ】
 クロード・ドビュッシーの若い頃の気分が吐露されているエッセイ集に『アンチディレッタント・クロッシュ氏』がある。クロッシュとは8分音符のことだ。そこにワーグナーについてのこんな一文が入っている。「1889年! 私は熱狂的なワーグナー崇拝者だった。すばらしい季節だった」と。また、こうも書いている、「バッハはグラールの聖杯だ。ワーグナーはこの聖杯を打ち砕いたクリングゾールだ」と。
 手放しの絶賛だ。しかしドビュッシーはそれからワーグナーから浴びたものを気にするようになった。捨てたのではない。最初はワーグナーを真剣に組み替えて、ついで払拭していった。こうして楽劇『ペレアスとメリザンド』が生まれた。あれはどう見てもワーグナーの継承ではない。一部始終がドビュッシーそのものだった。
 きっとブーレーズはそういうドビュッシーの画期的変節から、前期ドビュッシーにひそんでいたワーグナーと、中期ドビュッシーに仕上がった非ワーグナーの両方を組み立てたのだったろう。そんな両方のことを最後まで守ったブーレーズは、やっぱりクラシック界の最後の“知の巨人”だったのである。
 

ドビュッシーと愛娘シュシュ
ドビュッシーはシュシュを溺愛し『子供の領分』を献呈した。

クロード・ドビュッシーのオペラ『ベレアスとメリザンド』(1908)
メリザンド役はドビュッシーから指名を受けたメアリー・ガーデン。

【好きだ・嫌いだ】
 ドビュッシーやブーレーズのように、ワーグナーにどっぷり入って出てくるとか、ときに入りっぱなしなるとか、ワーグナーの酸いも甘いもを味わいきれるといた芸当をやってのける作曲家は、実はめったにいない。多くはワーグナーの気宇壮大な魔術に参ったままか、さもなくば無視あるいは敵視した。だから誰もが適当な距離をおいて見晴らしていたのだが、そこで好き嫌いがかなり決定的に分かれていった。
 ワーグナーを絶賛したり一目をおいていたのは、公私にわたってワーグナー応援していたフランツ・リストを別格とすると、アントン・ブルックナー、カミーユ・サンサンーンス、アルノルト・シェーンベルクなどだ。
 ブルックナーは『トリスタンとイゾルデ』初演以来、何度もナマを聴いたり見たりしてワーグナーに心酔していた。ワーグナーも「ベートーヴェンに近づいている音楽家を僕は一人知っている。それはブルックナーだ」と言っていた。ワーグナーが亡くなったとき、その喪失の悲しみを第七交響曲にしたのはブルックナーである。
 ロベルト・シューマンはどうか。『さまよえるオランダ人』の総譜にちょっと目を通して「ここにはマイヤーベーアの幽霊が見える」と唾棄してみせていたのだが、『タンホイザー』でワーグナーを見直している。総譜を読んだときは「ワーグナーは4小節もまともにつくれない」と感じたのに、舞台を見て感心してしまったらしい。シューマンが譜面と舞台の違いに何を感じたのか、本当はもっとその中身が知りたいのだが、残念ながらぼくにはその見当はつかない。
 音楽家にくらべると、文芸派や美術家ではワーグナー絶賛派は少なくない。ハインリッヒ・ハイネ(268夜)は親交もあったせいでワーグナーを理解していたし、その後も思いつくだけでもボードレール(773夜)、劇作家のバーナード・ショー、画家のルノワールやピカソ、作家のD・H・ロレンス(855夜)、ジェイムス・ジョイス(999夜)、それにアングローズ・ビアズレーやオスカー・ワイルド(40夜)などがぞっこんだった。かれらがワーグナーに引き込まれる理由はよくわかる。魔術的ロマンチシズムのせいだ。もっともルノワールはワーグナーの肖像を描いたものの、音楽を理解していたかどうかはわからない(ルノワールはむしろクープランのほうが好きだったはずだ)。
 

バイロイトでブルックナーを迎えるワーグナー(Otto Böhlerのシルエットプリント)

ロベルト・シューマンと妻クララ
クララはヨーロッパ中に知られるピアニストだった。

ルノアールによるワーグナーの肖像(1882)
ルノアールはパレルモに滞在中のワーグナーに面会、30分ほどで肖像を描いた。

ビアズリー『ワーグナー崇拝者たち』
ロンドンの鬼才・ビアズリーもワーグナーを敬愛。『タンホイザー』や『トリスタンとイゾルテ』を主題に絵を描いている。

【あいつは解せない】
 はなっからワーグナーに対してくそみそだったのは、音楽家ではチャイコフスキーやブラームスやストラヴィンスキーだ。
 ピョートル・チャイコフスキーは1876年8月の第1回バイロイト祝祭に招かれ、ロシアの音楽界にワーグナーのことを知らせた最初の人物だったにもかかわらず、しばらくたつと「ワーグナーのオペラは演劇としては貧弱で子供じみていた」と言って、『パルジファル』にけちをつけた。「管弦楽法はすぐれているが、声楽の魅力が犠牲にさせられていて、あまりにも古典的形式を放棄した異形の失敗作」というのだ。
 ヨハンネス・ブラームスもあきらかにワーグナーに逆らって交響曲第3番をつくりあげた。28歳前後のときのブラームスは『マイスタージンガー』の一部を写譜することなどをしていたのだが、ワーグナーの人物像については「先入観のない男だ」と見ている一方、あまりに先入観がないのは前提となるべき音楽知識を欠いているせいだとこきおろした。
 『春の祭典』のイーゴル・ストラヴィンスキーも、のちに『パルジファル』を愚作呼ばわりし、「芸術が宗教で、劇場が殿堂だなんて、憐れむべき美学だ」と難癖をつけた。ストラヴィンスキーはディアギレフに連れられてバイロイトを訪れたのだが、すっかり失望してしまったのだ。ハーバード大学の講義録『音楽と詩学』(1939)では、「ワーグナーは音楽を勘違いをしている。広げればいいと考えすぎている。音楽は狭い枠組みにすることによって、かえって人々に自由を与えるのだ」と力説した。
 ワーグナーをとりまく毀誉褒貶はめずらしくはない。なかでまっとうに取り組もうとして弾き跳ばされた哲学者や文学者もいた。代表的にはフリードリヒ・ニーチェ(1023夜)とトーマス・マン(316夜)だ。
 ニーチェについてはあとで言及するが、あれほどショーペンハウアー(1164夜)の「意志」で共感しあったのに、ニーチェはついにワーグナーを理解しそこねたままでおわった。マンは『リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大』のなかでかなり肩入れしている一方で、つねに「ワーグナーの天才はもっぱらディレッタンティズムだけで成り立っている」と文句をつけるのを忘れなかった。これはマンのアンビバレンツでもあったろう。
 ワーグナーが好きになるのか、嫌いになるのか、20世紀音楽はそこを深い分岐的にして割れていったのである。 

チャイコフスキー(右)と天才的チェリストのブランドゥコープ

ピアノを弾くブラームス
   

ストラヴィンスキー作曲・ニジンスキー振付によるバレエ『春の祭典』(1913)

【ワーグナー出現以前の主題】
 なぜワーグナーに激しい賛否両論が伴うのかということは、ワーグナー以前とワーグナー以降の両方から音楽事情を挟んでみる必要があるけれど、結論から先にいえば、ワーグナー以前にワーグナーに似たものがなく、ワーグナー以降にワーグナーに匹敵するものがなかったからだ。
 が、そういうことはよくあることだ。どこまでさかのぼって言うかはともかくとして、音楽史というもの、少なくともハイドン以前にソナタ形式をあれほどの鋳型にした交響曲(シンフォニー)なんてなかったのだし、モーツァルト以前には聴衆に「音楽」を愉しませるための作曲なんてなく、またベートーヴェン以前には作曲をみずからの「生涯の使命」とする作曲家なんていなかった。けれどもそれらはさまざまなかたちで踏襲され、継承され、換骨奪胎もされてきた。
 まとめていえば、バッハ(1523夜)の受難曲、ヘンデルのオラトリオ、モーツァルトのレクイエム、ハイドンの合唱曲が、こうして“歴史化”し、古典音楽化していったのだ。
 ところがワーグナーの登場はあれほど巨大で前代未聞だったにもかかわらず、その踏襲や継承が存分におこっていない。音楽的なことだけではない。ワーグナーが取り組んだローエングリンやジークフリートやニーベルンゲン神話といった主題やロールモデルに、新たなヴァリアントを与える者もあまりにも少ない。これがベートーヴェンの時代ならそんなことはなかった。
 ベートーヴェンの時代、いったんファウストとプロメテウスが「世界モデル」をあらわす主人公になると、次から次へとそのヴァリアントがみごとにあらわれた。つまりはベートーヴェンを追随することこそが革新的だったのだ。
 同時代のわかりやすい例でいえば、ベルリオーズの『幻想交響曲』(1829)や『ファウストの劫罪』(1846)、メンデルスゾーンの『ワルプギウスの夜』(1832)や『ファウストからの情景』(1843)、シューマンの『魔女の狂宴』(1835)、リストの『ファウスト交響曲』(1857)、グノーの『ファウスト』(1859)、そしてマーラーの『交響曲第八番』(1906)というように。
 これらは言ってみれば、すべてが“ベートーヴェンのファウスト”なのである。けれどもワーグナーはこうならなかったのだ。そこにワーグナーの謎を解く一つの鍵がある。 

作曲中のベートーヴェン
難聴が進行し有名な「遺書」を書いた1802年以降、唯一無二の作品を生み出していった。

クリムト『ベートーヴェン・フリーズより第3場面―歓喜・接吻』
第九の「歓喜の歌」を表したもの。

【ロマン主義の脈絡】
 端的なことをずばり言うが、1781年のカントの『純粋理性批判』と1789年のフランス革命と1791年のモーツァルトの『魔笛』初演が、ドイツを変えた。18世紀の理性万能主義がここでがたがたと崩れ、理性の裏側や向こう側で動いている大きな未知の力に深い関心が向けられたのだ。ハイネは「これでドイツに精神革命がおこった」と書いた。
 文芸面では18世紀末すでに、ゲーテ(970夜)やシラーの疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)がおこっていたが、決定的だったのはそのあとにノヴァーリス(132夜)の『青い花』が先行したこと(遺作1802)、ホフマンが幻想と音楽を結び付けたこと(ホフマンは作曲家でもあった)、アルニムとブレンターノが1812年から数年をかけて『少年の魔法の笛』を収集編集したことだ。これらが踵を接して試みられてきたから、次の1808年からの「隠者新聞」が代表するハイデルベルク・ロマン派も動き出したのだし、1812年からのグリム兄弟の民話収集がおこり、こうした一連の脈絡がドイツのロマン派オペラの最初の確立だったと言えるウェーバーの『魔弾の射手』になったのだ。
 ドイツ・ロマン派がワーグナーにもたらしたものは明白だ。それは汎神者と普遍者を神秘的人間(homo mystics)とみなし、その役割が今後の未来世界に重畳的かつ両性具有的にあらわれていったとき、はたして音楽家は文明の行方に責任をもつ表現者としてどんな決断を下せるのか、そのことを一人ワーグナーが全身で受け止めたということである。
 しかし、どんなオペラにすればいいのか、ワーグナーはまだその様式の見当を付けていなかった。

モーツァルト『魔笛』よりパパゲーノのソロ曲(NYメトロポリタンオペラシアター2014−15シーズン)

【ドイツ・オペラの前史】
 ワーグナーが生涯をかけてめざしたもの、それは広義の意味でのドイツ的なものだ。そこに汎ゲルマン的なもの、汎アーリア的なもの、汎オクシデンタルなものがぶちこまれた。その大枠だけならゲーテと変わらない。
 しかし、文学と音楽は出自と変遷が違う。長らくドイツ・オペラなんてなかったのだ。初期のドイツ・オペラという括りは「ドイツ語によるオペラ」という範疇以上でも以下でもなかった。事情は、こうなっていた。
 17世紀の初頭にフィレンツェでオペラ(opera)が生まれた。それまでの声楽ポリフォニーに代わって、わかりやすい単旋律と通奏低音(モノディ)を用いたまったく新しい舞台音楽の出現だった。モンテヴェルディが『オルフェーオ』で初めてカストラートを使い(631夜)、ダ・カーポ・アリアが導入され、ベルカント唱法が確立すると、このスタイルはあっというまにイタリア各地に広まり、折からのバロック・ムーブメントに乗ってイタリア語によるオペラ・セリアとしてフランスやイギリスで流行した。
 「オペラ・セリア」は台本詩人のアポストロ・ゼーノがコルネイユやラシーヌの古典悲劇に倣って生真面目さをオペラに持ち込んだものだったけれど、これが受けた。そのぶん民衆的でコミカルな要素は「オペラ・ブッファ」として別の活力をもった。
 バロック・オペラでは主要歌手は5人になる。2組の恋人ともう1人の権威者だ。これにアリアを1曲歌うだけの脇役が何人かつく。このしくみはゼーノの後を発展させたピエトロ・メタスタージョの工夫だったのだが、基本のプロトタイプとなった。これが今日に言ういわゆる「オペラ」の誕生と確立である。
 一方、そのころまでのドイツで歌劇っぽいものといえば、ドイツ語の生活言葉を使った「ジングシュピール」(Singspiel)が相場だった。ジングシュピールは「歌芝居」と訳すのがぴったりのもので、イギリスではバラッドにあたる。そこへイタリア・オペラが次々に届いてきたので、ハンブルクのゲンゼマルトク劇場などでドイツ語化されたオペラが試みられた。

【モーツァルトとベートーヴェン】
 ドイツ・オペラの決定的な始動は、オーストリアの皇帝ヨーゼフ2世が1778年のウィーンに「ドイツ国立ジングシュピール劇場」を創設してからのことだった。
 この啓蒙皇帝は、口語ドイツ語によるジングシュピールの普及を奨励し、その伝統を踏み固めるとともにイタリアやフランスでつくられた作品のドイツ語化に着手した。こうして、この劇場で誕生したのが、かのモーツァルトの『後宮からの逃走』だったのである。
 ドイツの国立劇場でモーツァルトがドイツ語のオペラをつくったことはドイツ・オペラの世界性を端緒させた。続いてモーツァルトは『魔笛』をドイツ語の台本でつくり、評判をとった。これは剛腕の興行師であってフリーメーソンの会員でもあったエマヌエル・シカネーダーが台本を書き、そのころ食えなかったモーツァルトに作曲させたもので、ウィーンのヴィーテン劇場で初演された(1791)。夜の女王やザラストロがオペラ・セリア的になっていて、ドイツ・オペラはここにジングシュピールの世界オペラ化に向かわせた。

モーツァルト『後宮からの逃走』(2014 ミュンヘン)

モーツァルト『魔笛』の二重唱「恋を知るほどのものには」の直筆譜

 そんなとき、フランス革命の余波がドイツにもやってきた。これに反応したのはモーツァルトではなく、今度はハイドンの弟子のベートーヴェンだった。フランスとドイツの両方の熱狂がわかるのは、ベートーヴェンなのだ。マリー・アントワネットが好きなのはハイドンなのである。
 ベートーヴェンはジングシュピールの様式を踏みつつ、フランスのオペラ・コミークを採り入れて『フィデリオ』を作り上げた。これは独裁者の理不尽な圧制に苦しむ者たちを助け出すという、いわゆる「救出オペラ」として一世風靡した。このとき『フィデリオ』で歌手パートを楽器のように扱った手法は、のちのドイツ・オペラの特徴的なクリシェ(常套手段)になっていく。
 

ベートーヴェン『フィデリオ』のポスター(1914年11月23日、プラハ)
指揮はウェーバーがつとめた。

『フィデリオ』ミラノ・スカラ座(2014−15シーズン)

サンタフェ・オペラによる『フィデリオ』(2014)
   

楽譜 ベートーヴェン『フィデリオ』序曲
ベートーヴェンが何度も推敲したため、現在4つの『フィデリオ』序曲が残されている。

【ウェーバーの役割】
 モーツァルトとベートーヴェンから直截にワーグナーが出てきたと思われるかもしれないが、そうではない。このあとにカール・フォン・ウェーバーが登場し、続いてハインリヒ・マルシュナーがこれを継承して「ドイツ・ロマン派オペラ」を確立する。ワーグナーはこのモーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、マルシュナーの踏み台に乗ったのである。
 ウェーバーがドイツ・オペラに果たした決定的な役割はすこぶるはっきりしている。1817年にザクセン王国のドレスデン宮廷楽長に就いたウェーバーは、満を持した5年後にドイツ語による『魔弾の射手』をベルリンで発表した。このオペラは初演からの1年間で50回以上もドイツ各地で上演された。
 こんなに受けたのは、『魔弾の射手』にジングシュピールの民族性、アマデウス・ホフマンやルートヴィヒ・シュボーアのロマン派的神秘幻想性、さらには中世的歴史観、小人や妖精の異人性などが盛られ、伝承的世界観を謳う「ドイツ・ロマン派」によるオペラ化のプロトタイプが確立したからだった。
 さらに1823年、ウェーバーはウィーンで『オイリュアンテ』を初演した。そこには「人間的なるもの」と「人間を超えたもの」との格闘・葛藤・止揚が用意されているとともに、1幕ずつを切れ目なく音楽で追い、レチタティーヴォとアリア・重唱の境界をできるかぎりつなぐという新たな工夫を披露した。これこそはワーグナーが攫(さら)いたかったものだった。レチタティーヴォ(recitativo)とは大規模なオペラ・オラトリオ・カンタータなどの中で告白や状況説明をする独唱様式をいう。
 ウェーバーと並ぶもう一人の画期者マルシュナーは、1824年にドレスデン歌劇場の音楽監督に、3年後にはライプツィヒ市立劇場の指揮者となった音楽家で、『吸血鬼』『聖堂騎士とユダヤの女』『ハンス・ハイリンク』などで大当たりした。ワーグナーはこの『ハンス・ハイリンク』の地底の王ハイリンクの扱い方に影響を受け、『神々の黄昏』(『指環』第3部)の序幕のレチタティーヴォやアリアにその骨格を採り入れる。
 

カール・マリア・フォン・ウェーバー

ウェーバー『魔弾の射手』直筆楽譜
ウェーバーは指揮棒を初めて使った人物でもある。

ドレスデン国立歌劇場『魔弾の射手』(2015−16シーズン)

『魔弾の射手』の衣装デザイン画

【楽劇と祝祭音楽劇】
 ワーグナーのオペラ作品はしばしば「楽劇」と呼ばれてきた。日本でもほぼそう呼んでいる。楽劇はドイツ語では「ムジークドラマ」(Musikdrama)という。テオドル・ムントが言い出した(1833)。
 ムジークドラマはドラマやドラマトゥルギーやライトモチーフが重視される音楽劇である、むろん広義のオペラの範疇に入るものだが、ワーグナー自身がそういう呼称を好んだという証拠はない。むしろ嫌がっていた。
 1852年、ワーグナーは『オペラとドラマ』の中で、こう書いた。「オペラという芸術領域の根本的な誤謬は、表現の一手段である音楽が目的になって、表現の目的であるドラマが手段と化したことである」と。
 もっともワーグナーもいろいろ迷っていた。『ローエングリン』までの作品には「グランドオペラ」という呼称を用い、『ローエングリン』『タンホイザー』では「ロマン的グランドオペラ」という呼称をつかった。けれどもその後は古代ギリシアに対する関心が昂まり、チューリヒ亡命期に『芸術と革命』を書くころになると、悲劇こそが祭祀的な性格をそなえていると確信するようになり、神話的悲恋劇『トリスタンとイゾルデ』ではずばり「劇」(Handlung)とか「ドラマ・ハンドルング」(劇進行)と名付けられた。「行為そのもの」という意味である。
 やがてワーグナーは大作『ニーベルングの指環』を20年以上をかけてじっくり構成するうちに、これらすら満足できなくなっていた。『指環』が完成間近に近づくにつれて新たに「舞台祝祭劇」(Bühnehfestspiel)という名を思いつき、4日4晩に及ぶ壮大な悲劇的スペクタクルを組み立てた。この名はバイロイトに誕生した祝祭劇場(Festspielhaus)に因んでもいた名称だが、さらに最終楽劇となった異様異体の『バルジファル』では「舞台神聖祝祭劇」(Bühnenweihfestspiel)という長ったらしいものに至っている。
 ワーグナーのオペラはたんなるオペラでもなく、また後世のジャンルとなった楽劇でもなかったのだ。
 

『トリスタンとイゾルデ』ミュンヘン初演(1865)
 主演のルートヴィヒとマルヴィーネは夫妻であった。

『トリスタンとイゾルデ』舞台装置のためのブリュックナーの水彩画(1896)

ワーグナー自筆譜『トリスタンとイゾルデ』
ワーグナーは整った美しい楽譜を書くことを心がけていた。

ヴィーラント・ワーグナー演出「トリスタンとイゾルデ」第二幕(1958 バイロイト音楽祭)
ヴィーラントはリヒャルト・シュトラウスにも学び、「新バイロイト様式」を確立した。

現在のバイロイト祝祭劇場

【日生劇場のヴィーラント】
 ここで少し個人的な見聞体験をふりかえっておきたい。そのほうが、このあとの話をするのに都合いい。
 ぼくが最初にワーグナーを体験したのは日生劇場でのことで、日本のファンには眩いほどの“意思の鉄槌”が落ちたベルリンオペラの初来日公演のときだった。ブーレーズが大阪に来た2、3年前のことだったのではないかと憶う。日生劇場のこけら落としシリーズだった。
 演目は『トリスタンとイゾルデ』。ぼくは早稲田の学生で、新聞会のクラシック・フリークの成沢譲先輩が「おい行くぞ」というので引きずられた。村野藤吾設計の日生劇場もピカピカだったが、ベルリンオペラもワーグナーも初めてのことで、圧倒されまくった。どうしていいかわからないほど打ちのめされたと言っていい。成沢先輩は大胆にも下駄で入ろうとして、劇場側からスリッパを履かされた。
 いまおもえば、あれがヴィーラント・ワーグナーの演出と装置だった。指揮はローリン・マゼール。ヴィーラントは来日しなかった。すでに体が蝕まれていて、その後の1966年に亡くなっている。しかし、ぼくが最初に衝撃を受けたのがヴィーラントの構成演出だったということは、こういうことはよくあることだが、その後のワーグナーの見方に大きな視聴覚的なバイアスをもたらした。
 ワーグナー自身がどういう作曲をしてどんな演出をしたのかという話をする前に、こんな話で先走りするのはアトサキがひっくりかえるけれど、ワーグナーの死後、その舞台を(とくにバイロイトの祝祭劇場を)奇跡的に維持したのは、まずは妻のコジマの献身的な情熱であり、続いては子のジークフリート・ワーグナーとその妻のヴィニフレートの徹底した忠誠心によるものだった。このことはあらかじめ強調しておきたい。かれらによって3次元の舞台装置が試みられ、円形パノラマ映写装置が導入され、トスカニーニが呼ばれた。
 ところがジークフリート夫妻のワーグナー上演は、折からのナチスの台頭と進出によってかなり歪んで色付けられた。ワーグナーの作品に漂うイツ民族主義や反ユダヤ的傾向はナチスにとってもってこいだったのだ。このナチス色の払拭に乗り出し、新バイロイトを創り出したのが、ワーグナーの孫にあたるヴィーラントとヴォルフガングの兄弟だったのである。
 1951年、新バイロイトはヴィーラントの構成演出による『パルジファル』で明けた。写真で見るかぎり、その舞台はすぐれて象徴的で、かなり構造厳格的である。というわけで、ワーグナーを語ろうとするとき、何かにつけて想定してしまうのは、ぼくが日生劇場で受けた衝撃がこの1951年のヴィーラントから発していたということなのだ。
 それにしても、ワーグナー音楽はなぜこのような一族を遺しえたのか。バッハの一族を除いて、モーツァルトのあとにモーツァルト一族はなく、チャイコフスキーやマーラーのあとにその音楽一族は継走しなかったのである。とくに20世紀音楽では親子や一族が音楽の血を継承していくなんてことは、まったくといっていいほど、ない。ひたすらワーグナーの一族だけがワーグナーの擬死再生を企てたのである。
 

コジマ(写真中央)と5人の子どもたち
父はワーグナーと前夫ビューロー。

ワーグナー一族の系図(渡辺護 著『リヒャルト・ワーグナー』・音楽之友社より)

ワーグナーと息子のジークフリート(1880)

バイロイト祝祭管弦楽団で指揮をするジークフリート・ワーグナー

ヴィーラント・ワーグナー演出『トリスタンとイゾルテ』

【父なるもの・母なるもの】
 パトリズムとマトリズムはリヒャルト・ワーグナーにとっては、音楽家になろうとすればするほどしだいに巨大な宿命のようになっていった途方もない問題だったと、ぼくは思っている。父なるパトリズムと母なるマトリズムの折り合いは、永遠の神話の矛盾にまでさかのぼらざるをえない問題だ。
 ワーグナーは1813年5月にザクセン王国のライプツィッヒに生まれた。人口3万人ほどの都市だ。ただ、そのときのライプツィッヒはナポレオン軍の砲火の中にあった。
 チャイコフスキーの『1812年』が描いたように、1812年はナポレオンのロシア遠征をロシアが劇的に食い止めた年である。数十万のナポレオン軍はわずか数千となってライン川を渡って退却し、ライプツィッヒを決戦場にした。ワーグナーはその渦中に生まれたのである。この誕生にまつわる時代事情はワーグナーに時代の暗合力を刻印したはずだ。
 もうひとつ生まれたての事情に絡んでいたことで、その後のトラウマになっただろうことがある。ラプツィッヒ激戦の数カ月後、子だくさんだった実父のフリードリッヒが流行中のチフスに罹って43歳で死んだ。このため母のヨハンナは一家の親しい友人だったルートヴィヒ・ガイヤーと再婚した。養父となったガイヤーは多彩な才能の持ち主だったらしく、俳優・劇作家・肖像画家・歌手など、何でもこなした。
 ワーグナーは表現者としてはこのガイヤーの影響をもろに受けたのだが、他方では、自分の父はひょっとしてガイヤーなのではないか、母はずっと以前からガイヤーとこっそり密通していたのではないかという疑念をもつことになった。九鬼周造(689夜)が自分は母ハツと天心(75夜)のあいだに生まれたのではないかと疑念を抱いたのに、ちょっと似ている。
 これらのことがワーグナーのトラウマやスティグマだったとは、どこにも告白されているわけではないが、きっとそうだったろうことは幾つもの作品にあらわれている。『ニーベルングの指環』では英雄ジークフリートは母が身ごもるとすぐに父を失い、母もジークフリートを産むとすぐ死に、侏儒のミーメに育てられることになっているし、『トリスタンとイゾルデ』のトリスタンも父母を知らない主人公だ。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のエーファにおいては、母にまつわる話がいっさい消されたままになっている。これらのことを指摘したのは高辻知義さんだった。
 ともかくも、こうした変則的な父母をもったワーグナーは、一家とともにドレスデン(人口4万人)に移った。ここにはドレスデン宮廷歌劇場が待っていた。待っていたのは劇場だけでない。かのウェーバーがいた。まだ『魔弾の射手』をつくってはいなかったが、ウェーバーはガイヤー一族とすぐに親しくなり、少年ワーグナーにとっての憧れの的になったのだ。
 ワーグナーにおけるパトリズムとマトリズム。これもワーグナーの謎を解くひとつの鍵となる。 

19世紀前半のヨーロッパ
ワーグナーが生きた時代。ナポレオン戦争で国土を再編されたドイツはウィーン議定書によって35の君主国と4自由市による「ドイツ連邦」となっていた。

現在のドイツ地図

ザクセン王国の象徴でもあるドレスデン宮廷劇場
ワーグナーは1843年から6年間指揮者を務めた。

ワーグナー自画像

【読める音楽】
 バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンらが神童や俊才であったのにくらべると、少年ワーグナーにはまったく音楽的神童性がない。ドレスデンの聖十字(クロイツ)学園、ライプツィッヒのニコライ学園、そしてライプツィッヒ大学の学生になるのだが、これらの時期はまだ音楽を学習する時期にあたっていた。
 しかし、ここがぼくにはまだよくわかっていないのだが、技法も技能もイマイチだったろうに、ワーグナーはなぜだか当初から大音楽をめざすという高邁な決断をもっていた。バッハゆかりのトーマス教会のカントルに師事すると、なんとか対位法や作曲法の基礎を身につけていく。
 そのうちまもなく習熟度が早かったのか、19歳(1832)でベートーヴェンばりの『交響曲ハ長調』を作曲し(プラハで初演)、その前後からオペラの作曲にかなりの関心を寄せるようになった。それも最初期にしてすでに台本から手掛けるスタイルにこだわった。ワーグナーにとって音楽はのっけからリテラル・ミュージカルだったのだ。「読める音楽」にこだわったのである。 
 

【青年ドイツ派】
 21歳(1833)、ワーグナーはイタリアの劇作家カルロ・ゴッツィのものを翻案した『妖精』を仕上げると、処女論文『ドイツのオペラ』を書いた。「歌こそは人間がその思想を他者に伝える器官そのものである」という主旨だ。
 この主旨は5年後の26歳のときには初期の悲劇を代表する『リエンツェ』に結実した。ぼくは『リエンツェ』を見ていないけれど、一度でもレコードで聴けば、ここに「ドイツ的でロマン的な悲劇」をめざそうとしたワーグナーがすでに発祥していたことはすぐわかる。
 やがてワーグナーはハインリッヒ・ラウベらの「青年ドイツ派」としきりに交流して、サン・シモンの思想にかぶれるようになった。空想的社会主義である。青年ドイツ派は日本の音楽史では「若きドイツ派」(das Jung Deutschland)と呼ばれることが多いが、その活動舞台は「エレガンテ・ヴェルト」(優雅界)という機関誌にあって、そこにはサン・シモンが主唱した「協同」(Assoziation)の思想による組合主義が盛り付けられていた。『ドイツのオペラ』はこの機関誌に投稿したものだった。
 青年ドイツ派は、1830年のフランス七月革命に熱狂するような過激な行動主義者の集まりで、のちにヘーゲル左派を形成してもいった。ワーグナーの気質がこの流れに乗れるとは思えない。いったん理想の共同体主義にかぶれたワーグナーも、しばらくするとこの運動に背を向け、自分の理想とする「大いなる共同体」を求めていくようになる。それは“神話的共同体”とでもいうべきものだ。ストラヴィンスキーが言うような「狭い枠組」はワーグナーの性分には合わなかったのだ。
 

【リーガからパリへ】
 1834年、ワーグナーはマグデブルクのベートマン劇団の楽長になった。ワーグナーの前半期は各地を転々とする劇場指揮者の時代なのだが、その最初である。すぐさまこの劇団の看板女優のミンナ・プラーナーにぞっこんになると、結婚した。
 年上のミンナは気の小さな浮気者で、ワーグナーに見合う器量ではなかったが、二人はなぜかこの「思慮の失敗」を互いにずっとがまんして、当人たちが望む生活とはほど遠い不如意の境遇と多感な日々に甘んじる。
 ベートマン劇団はやがて解散、ワーグナーとミンナは借金を踏み倒すようにリーガに移るのだが、ここでもさんざん苦労して、ジャコモ・マイヤーベーアのつてでパリに流れていった。マイヤーベーアは『鬼のロベール』『ユグノー』などのグランドオペラで一世を風靡していた売れっ子ではあったし、それなりの紹介役を買って出てはくれたのだが、ここでもワーグナーの期待と野心は次々に挫かれた。
 それでもパリはワーグナーに新たな息吹と人脈をももたらした。1841年に楽譜出版のシュレザンジェを介してベルリオーズに、続いてハイネに出会い、翌年にフランツ・リストと識りあった。かれらからの影響はものすごく、ベルリオーズの『ロメオとジュリエット』『幻想交響曲』には仰天し、ハイネの社会的ラディカリズムには大いに共感し、リストのピアノ演奏にはしこたま驚愕した。
 もっともベルリオーズとワーグナーの共感関係は長くは続かなかった。一言では対比できないが、ベルリオーズは器楽と声楽を多彩に組み合わせれば時間と空間を変える「開かれた音楽」ができると考えたのに対して、ワーグナーは交響曲の主成原理を「無限旋律」にもっていけると確信して、楽劇による言葉と音楽の共生を目論んだのだった。ワーグナーはベルリオーズの言い分を「根拠のない効果」(Wirkung ohne Urasache)とみなしたのである。

ベルリオーズ「幻想交響曲」演奏会の風刺画
大音響に混乱するドイツ聴衆の姿が描かれている。

【ハイネのハブ】
 268夜に書いたように、ハイネは1797年にデュッセルドルフに生まれたユダヤ系のドイツ人で、ギムナジウムを中退して商人や銀行の仕事にかかわり、20歳を過ぎてボン大学やゲッティンゲン大学やベルリン大学を転々としたという変わり者である。ともかくよく動いた。その最初の成果が『ハルツ紀行』であり、グリム兄弟やシューマンとの交流だ。しかしワーグナーと同様にサン・シモン主義にかぶれて当局から睨まれると、さっさとパリに亡命した。
 パリにおけるハイネの交際は賑やかだった。ベルリオーズ、ショパン、リスト、ロッシーニ、メンデルスゾーン、バルザック(1568夜)、ユゴー(962夜)、デュマ(1220夜)たちと歓流した。そこにはマルクス(789夜)も含まれていて、その出国まで親交を温めた。ワーグナーはパリのハイネをハブとして人脈を広げていった。
 

M・D・オッペンハイムによるハイネの肖像(1831)

パリのワーグナーの風刺画
妻のミンナに茨の冠がかぶされている。

ワーグナーの風刺画「フランス人の音感破壊者」
パリの『リエンツィ』初演時に描かれた。

 【リストの影】
 昨年末(2015)、ヤマハホールで太田香保が緊張しまくってリストの『コンソレーション』を弾いた。ピアノはベーゼンドルファー。この曲を薦めたのは先生の岳本恭治だったようだが、岳本さんはヨハン・フンメルの専門で、ピアノ音楽史にめっぽう強い。太田はその影響で“四十の手習い”をすぎてピアノに溺れていったのだが(白洲正子の定義通りに)、リストの『コンソレーション』は岳本さんの愛情が設定した関所だったのだろう。ヤマハホールではこの関所にちょっと躓いていた。それはそれ、太田はぼくに「ワーグナーを書くときはリストのこともよろしく」と笑っていた。
 よろしくも何も、ワーグナーを語るのにフランツ・リストは欠かせない。コジマの父親で、ハンス・フォン・ビューローの師であった。
 リストには指が6本あると信じられてきた。女たちはその演奏を聴いて次々に失神した。そのくらい超絶技巧の持ち主で、10歳で聴衆を相手に華麗なピアノを弾いてみせ、15歳でピアノ教師になっていた。ハンガリアンではあるが、少年時代にハンガリー・オーストリア二重帝国を呑みこまされたので、その複雑な民族事情や言語事情を多重に背負っていた。1822年にウィーン音楽院に入り、カール・ツェルニーやアントニオ・サリエリの手ほどきを受けている。翌年、演奏会を開くと老ベートーヴェンがこれを聴いて褒めた。
 もともとピアノがうまかったリストが周囲から“ピアノの魔術師”と言われるほどになったのは、1831年にニコロ・パガニーニのヴァイオリンを聴いてからである。ここでパガニーニのことをあれこれは書かないが、「悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れた超絶技法」の持ち主と言われたパガニーニの演奏術は、シューベルトが家財道具を売っ払ってもチケットを買ったというほどのもの(そして「天使の声を聞いた」と感動した)、リストも早くから「僕はピアノのパガニーニになる」と決意した。
 リストのピアノ演奏はあまりの超絶技法に達していたため、しばしば即興を交えるほどだった。メンデルスゾーンが初めて自分のピアノ協奏曲の印刷譜面をリストのもとに持っていったときは、その場で完璧な演奏をしてみせた。そのときのことをメンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」と書き、「しかしそれで最初で最後だった」と付け加えている。リストほどになると2回目以降の演奏では譜面にない装飾をふんだんに入れてしまっていたのだ。
 音は繊細であるのに力強かったらしく、演奏中に弦が切れたりハンマーが損傷することもあったようで、あらかじめピアノを3台用意して次々にこれを弾きこなしていったともいう。ベーゼンドルファーだけはリストの強力な演奏に耐えたという逸話ものこっている。
 そのリストが育て上げたのがハンス・フォン・ビューローで、そのビューローに嫁いだのがコジマだった。しかし、ワーグナーはそのコジマに惚れ、お人好しきわまりないビューローはそれを認めたのである。
 

ベーゼンドルファーを弾くリストの演奏会風景その美貌と長身と超絶技巧に女性たちが熱狂した。

リストのアクロバティックな奏法を風刺したカリカチュール

超絶技巧で知られたバイオリニスト・作曲家のパガニーニ
「悪魔に魂を売り渡した」と噂された。

ハンス・フォン・ビューローの指揮を誇張した風刺画
ミュンヘンの雑誌に掲載された『トリスタン』リハーサル中のハンス・フォン・ビューロー。その指揮法はワーグナーの意図を熟知したものだった。

【ミンナとコジマ】
 ワーグナーは女好きである。女好きだが、女にとっては面妖な道徳思想や恋愛論をふりかざすので、よほどの女でなければワーグナーの「まるごと」を引き受けられない。だいたいこの手の男はほとんど女心というものがわからない。
 1834年にベートマン劇団の指揮者になったときに惚れた女優のミンナ・プラーナは、4つ年上の美人だった。ワーグナーは入れ上げ、ミンナもワーグナーの活力に絆(ほだ)された。それで二人は結婚し、30年にわたる夫婦となったのだが、うまくいかなかった。ミンナはワーグナーの野望や英雄感覚にほとんど理解がなかったし、音楽にも関心がなかったと思われる。ミンナはそこそこのお金がいつもほしいのだが、ワーグナーはそのそこそこのお金をつねに野望のためにつぎ込んでいく。
 どこから見ても、ワーグナーは自分の計画の実現のためには何でもやった男なのである。ただ計画の実現以前に生活費を潤沢にしなければ、次の手が打てない。天才ではなかったから、文化芸術にのめりこむための支度金が必要なのだ。この支度金のために、ワーグナーは何でもやった。ベートマン劇団がつぶれてリーガ劇場に移るとその楽長となってリーガに移り、それでも食えないとパリに引っ越して、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったオペラ作曲家のマイヤーベーアや、オペラ台本作家のスクリーブ、パリ音楽院の大もので指揮者のアブネット、オペラ座支配人のデュポンシェルたちにとりいって、その片言節句から稔りもしない約束をもらうために動きまわった。
 そのつどミンナはかれらと付き合い、ワーグナーを慕う貧乏なボヘミアンたちの相手をした。しかしそのミンナも浮気症だったのである。
 ワーグナーが何でもやったからといって、やらずぶった切りだったのではない。めぼしい相手に誰彼かまわず借金を頼みこむ以外は、台本書き、写譜、編曲、執筆などの、音楽がらみの仕事だけを引き受けたのだ。パリではマイヤーベーア、オーベール、ロッシーニ、ボイエルデューの写譜や編曲を次々に引き受けたとおぼしい。生活費のためでもあったが、これがワーグナーの作曲希望の錬磨に欠かせなかったのだ。
 そうこうしているうちに、ハイネやリストと親しくなったワーグナーは、ビューロー夫人のコジマと深く愛し合う仲になる。コジマこそはワーグナーの「まるごと」を引き受けるにふさわしい打ってつけの女性だった。 

フランツ・フォン・レンバッハによるコジマ
   

晩年のコジマ

ワーグナー、コジマ、ビューローのカリカチュア
ワーグナーとコジマの「W不倫劇」は一大スキャンダルだった。

コジマとワーグナー(1872 ウィーン)
身長167cmのワーグナーに対し、大柄なコジマは椅子に座っている。1870年に正式に結婚。

イタリア旅行から戻ったコジマ、ワーグナー、リスト
リストは一時コジマ・ワーグナーと絶縁したが和解した。コジマの左側に『パルジファル』の舞台美術の下絵が見られる。

ビューロー(左)とブラームス(右)
妻を寝取られてもワーグナーを信奉したビューローだったが、後にワーグナーと敵対するブラームスに付いた。

【オーケストレーション】
 1843年、ワーグナーは30歳になっている。ドレスデンのザクセン宮廷劇場で、2年前の『リエンツェ』に続いて、海の呪いにかけられたオランダ人船長ダーラントの宿命を描いた『さまよえるオランダ人』を初演した。同じ年、『タンホイザー』の台本を完成させた。
 32歳、4月に『タンホイザー』の総譜を完成させ、10月には自らの指揮でこれを初演した。その間に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』全3幕の草稿を書き、11月には次の『ローエングリン』の台本を仕上げていた。ものすごい精力であり、ものすごい獅子奮迅である。リストはワイマールで『タンホイザー』を指揮してあげた。
 ワーグナーはオーケストラの役割は「人間の本性の最も奥深い遼遠を再現すること」にあると考えていた。『さまよえるオランダ人』ではこの考え方にもとづいて、オーケストレーションと物語の展開とが接合された。
 それまでオペラの内部構造はアリア・二重唱・重唱・合唱などで構成され、楽譜のアタマに番号が振られていて(ナンバーオペラ)、そのあいだに台詞やレチタティーヴォ(叙唱)が挟まれ、場つなぎ的な役目を担っていた。レチタティーヴォは筋の説明や対話に用いられる話し言葉による独唱である。しかしワーグナーはそういうものにこだわらない。『さまよえるオランダ人』が幕間を設けなかったことにあらわれているように、そういう場つなぎではない根本的な統一感を構想しようとした。
 それは楽器構成にも、また登場人物の構成にも、さらには主題構成にもあらわれた。『オランダ人』にはその後のワーグナーが追い続けたもの、すなわち、時空の超越、夢と現実の脅威の消滅、魂の宿命的な変転、生死をめぐる恐怖、贖罪者にのしかかる共同体の重圧、変身の欲望などが如実に採り込まれている。これこそは世に言う「ワグネリズム」というものだが、ただし、当時の観客(聴衆)にはその真意が伝わったとは思えない。
 『タンホイザー』をワーグナー自身が指揮して初演したのは、ベートーヴェンの『第九』の指揮に聴衆が感嘆していたからだった。それまで『第九』は演奏不可能だと思われていたのだ。それをワーグナーが成功させたというニュースはドイツ中を駆けめぐり、しだいにヨーロッパ各国にも知られていった。
 難曲の『第九』をワーグナーはどうして落城させたのかということは、ぼくには説明が手に負えないが、まずはアプネックというフランス人の指揮者が譜面を解読し、その演奏会をベルリオーズとワーグナーが別々に聴き、別々に感動したのを嚆矢として、ついではリストとワーグナーがピアノに落としたのが大きかったようだ。そのうえでワーグナーは弦楽器にも手を加えて自在に演奏できるようにした。そのワーグナーよりもっと劇的にうまかったのはハンス・フォン・ビューローだったという。
 ちなみにぼくはカラヤンの1950年代後半の鉄板中の鉄板演奏で『タンホイザー』の序曲を堪能していたが(ときどき胸が張り裂けそうな気分にもなったが)、ナマやフルはずっと見当がつかなかった。なんとか目処をつけたくて東急文化村オーチャードホールの『タンホイザー』に駆けつけたのは。バブルの余波がまだ怪しい80年代の終わりだったかと憶う。
 

ワーグナー編曲ピアノ版ベートーヴェン「第九」(ピアノ・小川典子)
ワーグナー17歳のときの作品。

ベートーヴェン『第九』直筆譜
悪筆で知られるベートーヴェンの耳の中で響く「理想の音楽」をワーグナーは研究の末に再現して見せた。

『タンホイザー』第1幕・ヴェーヌスベルクの愛欲の洞窟(1983年ベルリン国立歌劇場)

『タンホイザー』(2007 新国立劇場)

『さまよえるオランダ人』第2幕(1983 ベルリン国立歌劇場)

【ドレスデン暴動】
 はたしてワーグナーは革命家だったのか。それとも革命に挫折した者なのか。この問いはこれまで何度も試みられてきたものの、ロクな見通しが立ってこなかった。答えるには無政府主義者ミハイル・バクーニンの思想にどれほど近づいているかを判定すればいいのだが、ワーグナーはこの判定を下すに足る十分な証拠をのこしていない。ドレスデン暴動にかかわり(巻き込まれ)、そしてリストの援助でチューリッヒに逃れていったというふうにしか、記録はのこらない。
 1848年2月、シチリアでおこった暴動の波がパリに届いて二月革命になって、国王ルイ・フィリップが追放された。この余波がドレスデンにも届いたのである。ワーグナーはちょうど『ローエングリン』を手掛けていて、オーケストレーションにおいてワーグナー独特のアーティキュレーションをつくりあげていた。あとはどこで上演できるかということだったのだが、5月になって何を思い立ったのか、「宮廷管弦楽団に関して」という改革案を書き、さらに「ザクセン王国国立ドイツ劇場設立計画」を政府に提出するという挙に出た。当然、こんなことをしては『ローエングリン』上演の許可は下りない。
 逆上したワーグナーは「劇場は反社会的な鏡である」という主張を叩きつけたくなっていて、6月にはドレスデン祖国協会なる組織に共和制の導入を提唱し、あまつさえ「国王が率先して第一の共和国民になるべきだ」という演説をぶち、当局をあわてさせた。ワーグナーは自宅にバクーニンを招き入れ、その異様異体の外見と思想にびっくりしていたのだ。
 ワーグナーは自分を驚かすものにめっぽう弱い。粗野でごつごつとして、しかし「神と国家」のことしかアタマにないバクーニンは、ワーグナーを揺さぶるにふさわしい男だった。案の定、バクーニンの影響を受けたらしいワーグナーは、かつての空想的社会主義かぶれのときと同様、社会運動に手を染めた。
 ところがその一方で、夏にかけてはゲルマン神話やニーベルゲン伝説にのめりこみ、『ニーベルゲン族伝説』を出版すると、その一部を英雄歌劇『ジークフリートの死』の台本に仕立てている。このあたりの公私の使い分けを見ていると、ワーグナーがバクーニンに匹敵する「革命」の情熱を燃やしたかどうか、かなり怪しくなってくる。
 むろんのこと、政府や社会に文句をつけているばかりでは、家計は成り行かない。ミンナも文句ばかり言う。ちょうどそのころリストがワイマール大公国の宮廷学長になった。ワーグナーはさっそく臆面もなくリストに5000ターラーの借金を申し入れている。しかしリストの年収は1300ターラーにすぎなかったらしい。それでもリストはこのときより以降、なんとかワーグナーの家計を助けようとする。
 翌1849年3月、フランクフルト国民議会においてプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム4世がドイツ皇帝に選出されたにもかかわらず、人民代表が差し出す戴冠を断るという出来事がおこった。この強硬な皇帝の態度に、今度はザクセン王アウグスト2世が憲法を破棄して新たな内閣を任命するという表明をした。これにドレスデンの市民が憤激した。バクーニンが背後で動いていた。これがいわゆる「ドレスデン暴動」だ。
 ワーグナーはあちこちに出没してはビラを配ったり、バリケードを指示したり、煽動したりした。一見、バクーニンの行動思想に従っているようでもあったが、当局の取り締りの手が及んでくると、リストの手助けでそそくさとチューリヒに逃げた。
 

ドレスデン暴動のときのバリケード
プロイセン軍に追いつめられた反乱軍は壊滅、ワーグナーも地下潜伏し、ワイマールに逃亡。


ワーグナーが『指輪』の典拠とした『ニーベルンゲンの歌』(13世紀初頭の写本)

【亡命生活と全体芸術作品】
 渡邊護さんが1988年に書いた詳細な評伝『リヒャルト・ワーグナー;激動の生涯』(音楽之社)で、チューリヒ時代のワーグナーの日々がようやく見えてきた。ぼくはそれまで、チューリヒではオットー・ヴェーゼンドンクの若き夫人マチルデと時ならぬ浮気をしていたくらいに思っていたのだが、そうではなかった。ずいぶんいろいろの恩恵に囲まれて、ワーグナー・サークルとでもいうべきものができていた。
 サークルの最年長者はエットミュラー教授、理想主義者が弁護士のベルンハルト・シュピーリ、ゲオルグ・ヘルヴェークは心の友、音楽教師のバウムガルトナーはワーグナーを尊敬していた。ワーグナーには朗読癖があったので、しばらくすると書き上がったばかりの台本や文章を、彼らの集まるサークルで読み聞かせた。『ジークフリートの死』や『指環』の部分などだ。聞き手には『アルプスの少女ハイジ』の作者ヨハンナ・シュピーリなども顔を見せた。ときにアンデルセン(58夜)がワーグナーの隠れ家に訪ねたりもした。
 バウムガルトナーはワーグナーにフォイエルバッハの『死と不死についての考察』を薦めたようだ。すでにプルードンの『貧困の哲学』を読んでいたワーグナーは、これらからヒントを得て『芸術と革命』『未来の芸術作品』を書いた。ワーグナーの読書力と読解力、その換骨奪胎力と編集力、そしてそれらの成果をすばやく文章にする執筆力はつながっていた。総じて図抜けた表現技能に達していたと思われる。
 こうして、しだいにワーグナーの想像力のなかを「全体芸術作品」というヴィジョンと構想が占めるようになっていったとおぼしい。このヴィジョンはチューリヒ中心の亡命生活のなか、少しずつ『指環』の台本を書いていたことがトリガーになっていたせいでもあろう。

【バイエルンからの訪問者】
 それにしてもワーグナーは一所不在の男だった。なかなか定住というものができない。演奏旅行のためでもあったけれど、ともかくも各地を小さな滞在を含んで動きまわっている。これでは、誰かがワーグナーに会いたいと思っても、なかなか所在がわからない。
 1864年の5月、元ウィーンの楽長だったカール・エッケルトに呼ばれてシュトゥットガルトに滞在していたときである。ホテル・マルクワルトの部屋にバイエルン国王の枢密顧問官なる者が訪ねてきた。何かよからぬことを告げられるのかと思い、この日は居留守をつかったのだが、翌朝、エッケルト家にいたところへ、またその枢密顧問官がやってきた。
 渋々面会したところ、顧問官はこう言った、「わが国王ルートヴィヒ2世は、貴兄の芸術を深く愛しておられます。そのあまり、いつまでも貴兄と交際し、貴兄からあらゆる不運を遠ざけるよう望んでおられます」。顧問官は指輪と国王の肖像画を恭しく手渡すと、さらに「どうぞ、私とともにミュンヘンの王宮にいらしてください」と促した。
 ついにワーグナーに最大最高の「運」がめぐってきた瞬間だった。51歳の初夏である。
 

ドレスデン劇場放火犯などの容疑をかけられたワーグナーの指名手配書

ワーグナーと友人たち。『トリスタン』を初演し絶賛を受けた1865年に撮影

ワーグナーと友人たち(1870年代のヴァーンフリート邸における音楽の夕べの様子)

【月王ルートヴィッヒ2世】
 フィリップ・ジュリアンの『世紀末の夢』はルートヴィヒ2世とサラ・ベルナールとオスカー・ワイルド(40夜)を並べて、19世紀末のデカダンの極北はこの3人に尽きると書いた。
 久生十蘭(1006夜)は『泡沫の記』のなかの「ルウドイヒ二世と人工楽園」に「人工耽美に耽った王だった」と形容し、澁澤龍彦(968夜)は『異端の肖像』に「バヴァリアの狂王」と書いた。バヴァリアはバイエルンの異名だ。詩人ギョーム・アポリネールは「月王ルートヴィヒ」と献辞した。
 頽廃王であって月王で変人とももくされたルートヴィッヒ2世については、千夜千冊ではジャン・デ・カールの『狂王ルートヴィヒ』(781夜)をたっぷり紹介しておいたので、ここで詳しくは書かないが、この稀代の王子はずうっとワーグナーに憧れて育った少年だった。正確にはワーグナーの『ローエングリン』に憧れていた。
 なぜ、そうなったのか。もともとは父親の国王マクシミリアン2世が、バイエルンアルプス山中のフェッセンという町に築かれていた古城のシュヴァンシュタイン城を入手して、これに「ホーエンシュヴァンガウ城」(白鳥騎士の城)と名付けたのが発端だ。バイエルン王家はたいていの夏をここで過ごした。それでこの城に、少年ルートヴィヒが憧れたのである。この城は「聖杯伝説の白鳥の騎士ローエングリン」の城館だったという言い伝えがあり、少年はこの物語に魂を奪われたのだ。
 12歳のとき、白鳥の騎士に会いたくてしょうがない少年は、養育係のマイルハウスから「ミュンヘンでワーグナーという作曲家で、ロマン作家でもある者が『ローエングリン』を上演しています」と聞いた。居ても立ってもいられない。少年はさっそく『ローエングリン』と『タンホイザー』の台本を取り寄せて読み耽り、さらにワーグナーの著作『オペラとドラマ』を何度も読んだ。15歳、ついにミュンヘン王立国民宮廷劇場で『ローエングリン』を観た。めちゃくちゃ感激し、胸が打ち震えた。そして、こう決意した。自分はこの男のためのことなら何でも実行に移してみようと、いうふうに。
 18歳、3度目の『ローエングリン』を観たあと、父のマクシミリアン2世が亡くなった。若き国王となったルートヴィヒは、ついに枢密官や政務官や執事たちにワーグナーの所在その他の一部始終一切合財を調べさせ、本人をミュンヘン王宮に呼び寄せた。ルートヴィヒ19歳、ワーグナー51歳の、1864年5月2日のことだ。
 ここからのちの、父と子ほどの違いのある二人の蜜月関係は、耽美異常であって精神極上である。音楽史上、バッハとプロイセン王フリードリッヒの関係でもこんなことはなかったし、世界史上のパトロネージュの歴史でも、ロレンツォ・メディチとルネサンス画家たちのあいだにも、義満と世阿弥(藤若)のあいだにも、こんなに格別で精神官能的な「眷恋」(けんれん)では結ばれてはいなかった。
 だいたいルートヴィヒがめったにいない美青年だったのである。当時からアポロンともアドニスともローエングリンとも呼ばれるほどで、青年国王のもとを訪れた鉄血宰相ビスマルクにして腰を抜かすほど驚いた。ビスマルクはルートヴィヒに「機敏と才能と未来」を発見したと感想している。ルキノ・ヴィスコンティが監督をした『ルートヴィヒ・神々の黄昏』(1972)では、ヘルムート・バーガーがルートヴィヒに扮したのだが、その美の内面に去来する精神の永遠性を演じて、秀逸だった。
 むろん、ワーグナーにとってもこの青年との「眷恋」は願ってもないことだった。すべての借金を肩代わりしてもらっただけでなく、悲願ともいうべきバイロイト祝祭劇場の建設と祝祭劇の上演を可能にしてくれた。
 

ルードヴィッヒとスタルンベルク湖の「トリスタン号」
ワーグナーに傾倒して建造した。

若き日のルードヴィヒ2世

ワーグナーとルートヴィヒ2世

ワーグナーとルードヴィヒ2世

ヴィスコンティ監督『ルートヴィヒ』より戴冠式のシーン
ヘルムート・バーガーが孤独な”狂王”を怪演。

2012年のドイツ映画『ルートヴィヒ』ワーグナーとの擬似父子のような関係が強調された。

帽子と王冠を交換するワーグナーとルートヴィヒ(1864)

【蜜月と死】
 ワーグナーとルートヴィヒ2世の眷恋事績が重なりあうような略年表をつくってみた。ご覧の通り、ルートヴィヒはワーグナーとの出会いによって夢想に着手し、ワーグナーの楽劇上演を国政よりも重視し、ワーグナーの期待に裏切られて築城にとりかかり、ワーグナーとの再会に託してゲルマン神話の再生に資金と想像力のすべてを投入しつづけたのである。
 バイエルンの国王はこの世にワーグナー・オペラを出現させるために生まれ落ち、この世にワーグナー・オペラの終止符を打つために死んでいったのだ。すべては畢生のローエングリンの「原郷への回帰」だったのである。これをはたして「狂王の40年」と呼ぶべきか。これをはたして「頽廃の月の王の熱死」と呼ぶべきか。

【LⅡとRWの略年表】

1845 ルートヴィヒ2世(Ludwig Ⅱ)、ニュフエンブルク城で
    誕生。ワーグナー32歳、ドレスデン宮廷劇場で『タンホ
   イザー』初演。『ローエングリン』台本完成。
1846 ワーグナー、『第九』を指揮。
1849 ドレスデン暴動。ワーグナー、チューリヒに亡命。
1851 ワーグナー38歳『オペラとドラマ』。『ニーベルングの
    指環』の構想の見取図を書く。
1853 『タンホイザー』ラプツィヒ上演。
1854 『ローエングリン』ライプツィヒ上演。ワーグナー、ショ
     ーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読み大
     いに感銘。
1856 ワーグナー43歳、『タンホイザー』ベルリン初演。『ワ
   ルキューレ』総譜完成。
1858 13歳のLⅡ、『ローエングリーン』『タンホイザー』の
    台本を取り寄せて読む。
1861 16歳のLⅡ、ミュンヘンでついに『ローエングリン』を
    観劇。
1863 LⅡ、ビスマルクと接見。『ニーベルゲンの指輪』の初期
    台本を読む。
1864 デンマーク戦争。父マクシミリアン2世の死。LⅡ、バイ
    エルン国王に即位(ヨーロッパ最年少国王の誕生)。ワー
    グナー探しの開始。51歳のワーグナー、ミュンヘン王宮
    に参内。LⅡはワーグナーに『ニーベルングの指環』の完
    成を公式に命令する。
1865 ワーグナーとコジマに第1子イゾルテ誕生。ミュンヘン宮
    廷劇場で『タンホイザー』『トリスタンとイゾルテ』上演
    (ビューロー指揮)。宮廷に反ワーグナー感情が高まり、暫
    時の退去が命じられる。
1866 21歳のLⅡ、チューリヒにワーグナーを訪ねる。プロシ
    ア=オーストリア戦争勃発。バイエルン王国はオーストリ
    アに与して敗戦。ミンナ死去。
1867 オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。LⅡ、ゾフィー
    と婚約。パリ万国博でヴェルサイユ宮殿を見て陶酔。ゾフ
    ィーとワーグナーを引き合わせ、のちに婚約解消。『ロー
    エングリン』ミュンヘン初演(ビューロー指揮)。
1868 LⅡ、宮廷劇場での『ニュルンベルクのマイスタージンガ
     ー』初演に没頭。女優リラがLⅡをたぶらかす。LⅡ、ワ
    ーグナー55歳の誕生日を祝う。ワーグナー、24歳のニ
    ーチェと会う。
1869 宮廷劇場で『ラインの黄金』初演。ワーグナー、第3子を
    ジークフリートと命名してLⅡを失望させる。以降、8年
    にわたって絶交。ノイシュヴァンシュタイン城に着工。
    『ラインの黄金』初演。
1870 宮廷劇場で『ワルキューレ』初演。普仏戦争勃発、プロイ
    センに与して参戦。『ワルキューレ』ミュンヘン初演、大
    成功。ワーグナー、リストの娘コジマと結婚。
1871 ドイツ帝国成立、ヴィルヘルム1世即位。
1872 LⅡ専用の王宮劇場での非公開上演始まる。ワーグナー、
    バイロイトに移住して祝祭劇場の計画に着手、LⅡ、資金
    を提供する。
1874  『ニーベルングの指環』4部作完成。
1876 第1回バイロイト音楽祭開幕、『ニーベルンゲンの指輪』
    4部作3チクルス上演。32歳のLⅡ、63歳のワーグナ
    ーと8年ぶりに再会。
1877 『パルジファル』台本完成。
1878 ヘーレンキームゼー城に着工。ミュンヘン宮廷劇場で『ニ
    ーベルンゲンの指環』全曲上演。ニーチェが『人間的な、
    あまりに人間的な』でワーグナーを批判。
1879 リンダーホフ城落成。
1880 67歳のワーグナーが『パルジファル』前奏曲を指揮する
    (LⅡとの最後の対面となる)。『我が生涯』の口述完了。
1881 『ニーベルングの指環』ベルリン初演。
1882 第2回バイロイト音楽祭で『パルジファル』初演。9月、
    家族とヴゥツィアへ。12月、ワーグナー心臓発作。
1883 ワーグナー69歳、ヴェネチアで客死。バイロイトで葬
    儀。
1886 40歳のLⅡ、精神鑑定のうえベルク城に移される。翌
    日、侍医グッデンとともに水死体となって発見される。
 

リンダーホーフ城のヴィーナスの洞窟
『ターンホイザー』のヴィーヌスベルクの場を再現、小舟は『ローエングリン』にちなむ。

リンダーホーフ城・音楽の間
リンダーホーフ神話とともにルードヴィヒⅡが享受する太陽王ルイ14世の象徴にも彩られている。

ノイシュヴァンシュタイン城
ルードヴィヒⅡの中世騎士道への憧れを集結した。

ノイッシュバンシュタイン城「歌人の間」
ターンホイザーの歌合戦をイメージしてつくられた。

【聖と狂】
 バイエルンの国王ルートヴィヒ2世がシュタルンベルク湖に入水して謎の水死を選んだのは1886年である。
 これは明治19年のことにあたっている。ちょうどベルリンにいた森鴎外(758夜)がこのニュースを知って、『独逸日記』にそれがいかに異様な気配を告げる猟奇事件であったかを書いている。鴎外はその後、『うたかたの記』に巨勢という男を登場させて、ルートヴィヒが巨勢とともに誤って水死するという場面を入れた。しかし、ワーグナーもルートヴィヒも猟奇なんて好んでいなかったのである。
 白川静(987夜)に『孔子伝』がある。そこに、孔子は「狂簡の徒」を愛したのではないかというくだりが出てくる。「狂簡」とはその文字づらに反して「志が高いこと」をあらわす。白川80歳のときの『文字遊心』では書きおろしの「狂字論」を書いて、思想芸術というものが「狂」を高く掲げてきたことを証したのだが、そこにも「狂」の字は『設文解字』に言うような「噛み癖のある犬」のことではなく、「鉞(まさかり)をあらわす王」に「止」という足を付けたものだと解義した。
 「狂」とは王がいよいよ出行するにあたって、鉞の頭部によって人々に慰霊を与え、それによって途中で遭遇するかもしれない邪悪を匡救(きょうきゅう)するという意味なのだ。
 つまり、「狂」こそは「聖」に匹敵する直前の姿や行為や意志を示すものなのである。ワーグナーもルートヴィヒも、この「聖」と「狂」のせめぎあうぎりぎりの「世界意志」にかかわっていた。 
 

1862年から1885年のルードヴィヒⅡの変貌
暴飲暴食とホルモン異常が重なり、次第に肥満。夢見るような上目使いは狂気をはらんでゆく。

【ショーペンハウアーのミットライト】
 上の略年表に入れておいたように、ワーグナーがアルトゥール・ショーペンハウアー(1164夜)の『意志と表象としての世界』を読んだのは1854年のことで、41歳のときだ。ゲオルグ・ヘルヴェークに薦められた。大いに共感した。
 ヘルヴェークはシュトットガルト出身の、パリでハイネやマルクスと交友してきたちょっと気になる政治詩人で、バーデン革命にかかわって1851年からはパリを逃れてチューリヒに住んでいた。そんなことから同じくチューリヒに亡命中だったワーグナーと知り合い、昵懇になった。
 ちなみにリスト・ワーグナー・ヘルヴェークの3人はフィーアヴァルテトシュテッテの湖畔で「血盟の交わり」などを結んでいる。なんとも羨ましい。
 ショーペンハウアーの思想は『意志と表象の世界』全3巻にあますことなく綴られている。ワーグナーはこれに感応(官能)した。どういうものかは1164夜に千夜千冊しておいたが、ごくかんたんに言うと、「世界は意志が発現したものである」というのだが、この「意志」がやたらに大きい。
 古代ギリシア以来、ヨーロッパの哲学にはいつも世界や宇宙にひそむであろう「リベルム・アルビトリウム」を問題にしてきた。「自由意志」と訳されるのだが、人間の意志をさすとはかぎらない。プラトンは「洞窟の比喩」をもって、この意志を感じるには洞窟の外へ出て、イデアの世界から見てみなければわからないと言った。デカルトはやむなく見える意志だけを「我」(思考する自己)に属するものとした。カントは感知できる意志の現象は感性界をつくっているが、感知や認識の限界を超えている悟性界は可想体(ヌーメノン)としての物自体による世界になっていると見た。みんな、リベルム・アルビトリウムの扱いには手こずっていたのだ。
 ところがショーペンハウアーは見えている現象を含む「感知できない世界そのものに意志がある」のであって、人間はその一部を切り取っているにすぎないと言い出した。これは「原因をもたない意志」、いわば「原意志」というべきもので、世界はこのような原意志(世界意志)の中の適当な個別化されたものを取り出しあう抗争の場であると断言してみせたのだ。そして、世界意志は「共感」と「共苦」とともに人間世界にあらわれていると断言したのである。
 ワーグナーは心臓が止まるほどどきりとした。ショーペンハウアーはこの「共感」と「共苦」の同時性を「ミットライト」(Mitleid)というドイツ語で象徴させていたのだ。しばしば「ミットライト・ペシミズム」と言われる。
 ショーペンハウアーはミットライトを表象させるには「愛」と「救済」をもってするしかないが、それでも世界はミットライトとしての意志で満たされるだけだと説いた。さらにショーペンハウアーはその意志は音楽という形而上学によって伝わるかもしれないという暗示をしていた。
 ワーグナーが陶然としてこの「ミットライトの楽劇化」に向かおうとしたのは、まことに当体全是のことだった。ただそれには、世界意志に匹敵する世界神話や世界伝説が背後で動かなければならず、それには、その表現体験をまるごと感応できる劇場がなければならなかったのである。
 

ショーペンハウアー肖像画

ショーペンハウアーによる自画像

【ニーチェの3年】
 上記略年表には、1868年に24歳のフリードリッヒ・ニーチェ(1023夜)がワーグナーを訪れていたことも示しておいた。ライプツィヒの11月のプロックハウス・サロンで顔見知りになり、翌年にはニーチェがルツェルン郊外のトリープシェンに滞在しているワーグナーの家にやってきた。それからの3年間というもの、ワーグナーがバイロイトに引っ越すまでのあいだ、青年ニーチェは実に23回もワーグナー家を訪れた。
 二人を近づけたのはショーペンハウアー哲学だった。「ワーグナーは現在の時代における最高の天才で、偉人である。それは私がショーペンハウアーから学んだものと並んで私の人生の糧になる」と書いている。
 のちに『この人を見よ』のなかでは、その当時をこう振り返った。「私は私の生活をきわめて深く衷心から多分に急用させてくれたものに対し、一言どうしても感謝の意をあらわさなければならない。それは疑いもなくリヒャルト・ワーグナーとの親密な交際であった。私は私の爾余の人間関係なら安価に手放すが、どんなことがあってもトリープシェンの日々を私の生涯から売り渡したくない。他の人々がワーグナーとともに何を体験したかはわからないが、私たちの大空には一片の雲も一度として通りすぎたことはなかった」。
 ニーチェはワーグナーの裡に「宗教的秘伝のごとくに崇敬できる極めて独自な原経験」があると見たのだった。それはバイロイトにおける『ニーベルングの指環』の構造呈示によって、さらに煌めくものになる。「私は『ニーベルングの指環』において、私の識るかぎりでの最も倫理的な音楽を見いだす」と。
 ワーグナーはワーグナーで、ニーチェの最初の本格的著作となった『悲劇の誕生』(1872)に感心した。ショーペンハウアーが暗示した音楽の可能性をギリシア悲劇に追ったニーチェは、そこに「アポロン的なるもの」(夢=男性性)と「ディオニソス的なるもの」(陶酔=女性性)が高次に交接することで、稀にみる悲劇が誕生し、その悲劇にこそ世界意志の最も純粋なあらわれがもたらされると解析していた。
 そのうえでニーチェはアポロン的なるものに造形的なるものを措き、ディオニソス的なるものを音楽的であるとみなした。「ギリシア的な意志の形而上学的な奇跡の行為によって、二つは相互に配偶され、ついにはアッティカ悲劇というアポロン的で、かつディオニソス的な芸術作品を生むに至った」というふうに。これはワーグナーにとって十二分すぎる規定であった。
 しかしながらすでに書いておいたように、ニーチェは当初はワーグナーを褒めちぎるのだが、バイロイトの開場を境に、後半では批判した。その毀誉褒貶の言い分はさすがニーチェというもので、絶顛から足下までの振れ幅がある。
 

ピアノを弾くニーチェ
ニーチェは音楽を格別視し、自ら作曲、ピアノ演奏もした。作品はワーグナーから酷評された。

【音楽を病気にしたのは誰か】
 ニーチェの『人間的な、あまりに人間的なもの』には、ワーグナーに対する痛烈な批判が述べられている。それは次の一行に露骨であった。「一見、誰よりも勝利の栄光に包まれながら、実のところは腐敗したデカダンであったリヒャルト・ワーグナーは、突然に力なく挫けてキリスト教の十字架の前に伏し倒れた」というものだ。
 もっとひどい悪罵もある。「ワーグナーの芸術がわれわれに提供する第一のものは拡大鏡である。その中を覗きこむが、自分の眼を信頼することはできない。すべてが拡大されているのだ。ワーグナーすら拡大されているのだ。なんというガラガラ蛇であることか。一生涯この蛇は、われわれに献身と忠実と純潔をガラガラ鳴らしてみせ、貞潔を賛美しながら頽廃した世界へ引き込んでいった。われわれはこの蛇の言うことを信じてきた!」。
 ほとんど論証もなくニーチェはワーグナーに「頽廃」というレッテルを貼り、攻撃の刃を向けたのである。その理由は研究者たちによっても明確にはなってはいない。ニーチェが作曲したピアノの小品を聴かされたワーグナーがそれをその場でこきおろしたせいだとも、実はニーチェは『指環』を集中して聴くことができず、さらに『パルジファル』の破綻を他の音楽家たちが口にしていたことをもってワーグナーの馬脚が出たと決めこんだという説もあるが、ぼくはこれはまったくワーグナー論にはなっていないもので、この程度のニーチェの言動には振り回されないほうがいいと思っている。
 ニーチェが言いたかったこと、それを掛け値なしに学ぶとすれば、ワーグナーは「音楽を病気にしたのではないか」ということであろう。それはたしかにブラームスやチャイコフスキーやストラヴィンスキーが『パルジファル』に烙印を捺したときの見方に近い。
 しかし、はたして「音楽を病気にしたのは誰なのか」。ぼくはワーグナーだったとは思わない。それは当たっていないどころか、音楽や音楽史に接する者の判断としてあまりにお粗末だ。ましてワーグナー一人に罪を着せるのは、さらにさらに当たっていない。そもそも音楽であれ文芸であれ(近代以降の映像であれ、ファッションであれ)、頽廃やデカダンをもって退嬰と見るなどという視点が成立することがまったくおかしかったのである。
 われわれはルートヴィヒ2世にやたらの罪を着せようとしないように(その「狂」を断罪できないように)、たとえばマルキ・ド・サド(1136夜)にもヴェリエ・リラダン(953夜)にも、またウィリアム・バロウズ(822夜)や坂口安吾(873夜)にも、罪を着せるわけにはいかないのだ。いや、ニーチェすら断罪するべきではないのである。
 それよりなにより、ここはまずバイロイト祝祭劇場で上演された『ニーベルングの指環』がどういうものであったのか、ニーチェやチャイコフスキーを借りずに概観しておく必要がある。
 

ニーチェの言葉
「音楽なしで生命は誤謬となろう」の有名なニーチェの言葉をあしらったTシャツ

【1876年8月13日】
 近代音楽史にとって、1876年8月13日はさまざまな意味において画期的な一日となった。第1回バイロイト音楽祭で初めて『ニーベルングの指環』全曲が初演されたのである。
 指揮はハンス・リヒター、楽員は115人、オーケストラマスターはアウグスト・ヴィルヘルミー、舞台装置はヨーゼフ・ホフマンが構想してブリュックナー兄弟が制作、総合演出はもちろんワーグナーが君臨した。
 バイエルン国王ルートヴィヒ2世を筆頭に、ドイツ皇帝ウィルヘルム1世、ブラジル皇帝ペドロ2世、作曲家のリスト、ブルックナー、チャイコフスキーらが列席した。若きニーチェも招待されていたが、ゲネプロ(ゲネラル・プローベ=総稽古)を見てあまりの出来に驚きすぎて頭痛がひどくなり、初日の舞台からは退散した。ニーチェはそういう男でもある。
 この5年ほど前、ワーグナーはバイロイトを訪れてその雰囲気がすっかり気にいり、ここに住みこみ、ここに劇場を建設して、祝祭のように大作『ニーベルングの指輪』を上演する計画に着手することを決めた。
 バイロイトは15世紀に辺境伯フリードリヒが選定侯に任じられて、三〇年戦争を挟んで音楽文化が栄えた町である。バイエルン州オーバーフランケン地方にある。人口は1万人を超える程度のまどろむような静かな町で、ジャン・パウルが20年ほど住んでロマン派文学の数々の傑作を書いた。
 ワーグナーはこの町ならば「政治のベルリン」に対する「文化のバイロイト」がつくれると確信し、さっそくあらゆる手を尽くして準備にとりかかった。さいわい市参事会はワーグナーの要請をのんで劇場用の土地を許可し、祝祭組織委員会がつくられ、後援会証券が発行された。それでも足りないところは、すべてルートヴィヒ2世が資金を拠出した。
 劇場の設計にはワーグナーのヴィジョンにもとづいてヴィルヘルム・ノイマンが図面を引き、設計責任をオットー・ブリックヴァルトが担当した。劇場が完成に向かうにつれ、ワーグナーはバイロイト宮廷庭園に接して豪壮な居宅「ヴァーンフリート荘」を建てた。ここは1973年まではワーグナー一族のものだったが、その後はバイロイト祝祭財団に委ねられ、いまはリヒャルト・ワーグナー記念館になっている。
 かくてバイロイト祝祭劇場とバイロイト音楽祭が実現した。かなり手がこんでいる。ジェラール・ド・ネルヴァル(1222夜)は「ドイツからの手紙」に次のように書いた。「ワーグナーは我々が現在もっているような演劇芸術は不完全で、それをより完全な表現へと導くためには、他のすべての芸術がそこへと集中する一種の焦点をつくりだすべきだと確信した。彼は、舞台の役割が芸術の祭壇となり、そのまわりに芸術全分野が集まってくることを構想し、実現してみせたのだ」。 
 

ワーグナー風刺画「ワーグナー、バイロイトで神となる」
ワーグナーがゲルマン神話の主神ヴォータンに擬せられている。

バイロイト祝祭劇場

ワーグナーのヴァーンフリート荘
正面にルートヴィヒの胸像、建物壁面の絵図にはヴォータン。

【『ニーベルングの指環』について】
 さて、これであらかたの準備の話はしてみたので、いよいよ『ニーベルングの指環』の話にしたい。
 これは途方もなく壮大な叙事詩なのである。一言でいって、並外れて恐ろしい。作曲されたものを別としても物語構想そのものがべらぼうに巨きく、またさまざまな矛盾を突出させる問題を孕んでいる。この、問題を孕んでいるところが、いいのだ。
 全世界の支配を可能とする指輪をめぐって、ヴォータン、神々、巨人、英雄、ミューズ、地下部族、幻想的クリーチャーなどが戦いを繰り広げ、そこに神々の零落、天空城ヴァルハラの炎上、ラインの洪水などの劇的な崩壊がおこる。天上・地上・地下の3世界で3代にわたる陰謀と取引と戦闘と殺戮と破壊が続く。最後に神々の灰の世界から真の愛が蘇るのだが、それまでにたいていの観客が打ちのめされる。
 ワーグナーはこれを35歳から61歳までの26年をかけて完成させた。おそらく台本化と作曲化の加筆訂正が何度となく繰り返されたのだろうと思う。完成された全体は序章付きの3部作とも4部作ともなっていて、序夜「ラインの黄金」、第1夜「ワルキューレ」、第2夜「ジークフリート」、第3夜「神々の黄昏」という構成になった。
 総譜で4400ページ。この叙事詩を音楽として演奏するだけで約15時間がかかる。楽器の数も凄まじい。第1・第2バイオリンがそれぞれ16、ヴィオラ・チェロがそれぞれ12、楽団は最低でも108人が要る。だから4日間をかけて順に演奏される習慣だ。日本では これらを別々に上演することが多く、たいてい4年越しになる。
 

『ラインの黄金』初演舞台(1869)
ルードヴィヒとの諍いのため、ワーグナーは初演に立ち会うことができなかった。

バイロイト祝祭劇場

【ヴォータンの君臨と野望】
 『ニーベルングの指環』の全貌を理解するには、理解しようとする者に大きな負担がかかる。しかし、その負担こそはワーグナーがわれわれに突き付け、その後の文明社会に向けて叩きつけるように遺したものだった。なにしろ、これはワーグナーが突き付けた「世界の崩壊」をどう感じるかということを問う音楽舞台なのだ。それが実感できるには、幕が上がる前にすでにして「この世界」がおかしくなりつつあったことを知らなければならない。
 欲望の物語としてはヴォータンは女神フリッカがほしかったのである。しかしそのヴォータンが神々の長であることが、この壮大な叙事詩の世界モデルを異様なものにした。またフリッカの妹のフライアが黄金の林檎を守る女神であったことが、事態を狂わせる。

『ラインの黄金』(1889)
ニューヨーク講演でヴォータンを演じたエミール・フィッシャー。

『ラインの黄金』(2013 シアトル)   
ヴォータンを演じるアメリカ出身のバス・バリトン歌手、グリア・グリムスレイ。

 ヴォータンは欲望を満たすために世界樹トネリコのもとに赴き、権力と愛をものにするため知恵の泉の水を飲もうとするのだが、このとき片目を差し出すということをする。世界神話の多くにのこっている「片目の伝説」だ。
 首尾よく知恵の水を口にしたヴォータンはトネリコの枝を折って一本の槍をつくり、そこにルーン文字で「契約の文字」を切り刻む。この契約によって、以降のヴォータンはそれまで支配者のいなかった「世界」の支配者となった。しかし、この瞬間から「世界」は「無の歴史」に向かって不可避の歩みを始めたのでもある。世界樹は病んで枯れはじめ、叡知の泉も枯渇する。
 ヴォータンはすべてを支配した。天上には神々を、地上には巨人族を、地下には小人族ニーベルングを住まわせた。また「世界」の支配に慄きはじめ彷徨する神々に対しては、巨人族に「ヴァルハラの城」を造らせ、ここに神々を移そうと考えた。神々も難民だったのである。そうすれば神々の彷徨がおわると踏んだのである。ただし巨人族にその報酬として、フライアを「巨人の花嫁」として提供することを約束させた。
 この約束、すなわち契約は「神々がフライアの栽培する不老不死の林檎を食べて永遠の命をもてる」というものだが、しかしヴォータンにこの約束を守るつもりはない。ここに「ニーベルングの指環」をめぐる途方もない没落の物語が発端する。 
 

【ワーグナーの台本と作曲】
◆第1日目・序夜【ラインの黄金】
DAS RHEINGOLD

 コントラバスの変ホの単音が約10秒鳴ったところへ、ファゴットがその5度上の変ロ音を重ねる。この5度がワーグナーの神話開闢のトリガーになる。
 最初の16小節が進行すると第8ホルンが「生成の動機」を呈示して、ここで初めて変ホ長調の主和音が形をなす。続いて「ラインの動機」がファゴットで導き出され、これに和音の構成音を核にした8分音符で下降と上昇をうねるようにくりかえす「波の動機」がチェロによって展かれていく‥‥。

『ラインの黄金』序章の楽譜

 こんなふうに序奏が始まるのだ(変ホ長調・6/8拍子・136小節)。「ラインの動機」と「波の動機」が渾然となって昂揚し、最後の8小節で木管群がクライマックスに向かい、ふうっと厚みが減じていって幕が開くのである。
 第1場が始まると、ライン川の水底で3人の乙女(「ラインの黄金」を守る三姉妹)が歌いながら泳いでいる。初演当時からこの幕開きは工夫されていて、舞台上方で乙女たちの水中遊泳の姿が見えるようになっている。リチャード・バートンがみごとにワーグナーを演じた7時間ドラマ『ワーグナー』でも(全体はワーグナーの人物像に寄りすぎて音楽的なテーマや神話的テーマをほとんど抉っていなかったが)、このシーンはリハーサルシーンを含めてかなり象徴的に描かれていた。

ライプツィヒオペラ『ラインの黄金 第一幕』(2013)
黄金を守る三姉妹

 そこに小人アルベリヒ(ニーベルングの族長)が奈落から現れる。乙女らはアルベリヒの姿があまりに醜いことに驚くが、欲情したアルベリヒがかまわず絡むうち、水中に陽光がさしこんで黄金が輝きだし、乙女たちは黄金賛歌を歌う(ヴァイオリンに包まれたホルンの弱音が「黄金の動機」のファンファーレになる)。
 乙女たちは「黄金で指環をつくった者が世界の制覇を得る」と歌っている。ここは「指環の動機」を木管3度音程の不安定な調性があらわす。

魔力を象徴する「指環の動機」

しかし乙女は「黄金の指環をつくりうるのは愛を断念した者だけがなしうるのだ」と歌い、こうして神々の至高の善とされるはずの「愛」に対して「愛を呪う動機」が奏じられ、アルベリヒが黄金を強奪して逃げ去っていくと、奈落からすさまじい哄笑が響いて、「指環の動機」が次の「ヴァルハラの動機」に移行する。
 第2場は、広々とした山の高みに神々の長ヴォータンと妻のフリッカが眠っている。背景には巨人たちが工事をしたヴァルハラの城が聳え立っている(ハープ・テューバ・トランペット・トロンボーンによる荘重な「ヴァルハラの動機」)。
 目をさましたフリッカは城が完成しているのを見て、愕然とする。契約によって妹のフライアを巨人たちに与えなければならないからだ(暗示的な「契約の動機」に続いてティンパニーの「巨人の動機」が響く)。

重々しい「巨人の動機」

フライアを引き渡すかわりに巨人族にヴァルハラ城を建設させたのは火神ローゲの入れ知恵だった。しかしフライアが巨人族に身を捧げることを拒否したので、ローゲは「ラインの黄金」を代わりに渡すという案を出す。巨人族の兄ファーゾルトはそれで手を打つが、黄金を貰うまではフライアを預かっておくと言い、フライアを連れ去った。ヴォータンとローゲは地下のニーベルング族の国ニーベルハイムに向かっていく。

新国立劇場「ラインの黄金」(2015−16)
フライアを取り返そうとするヴォータンの前に火の神ローゲが現れる。

 第3場。地下ではアルベリヒが弟の鍛冶屋のミーメに「隠れ頭巾」を作らせ、これを奪って姿を見えなくさせている。次の場面で、アルベリヒが黄金の指環の力をもってニーベルング族を支配している光景が繰り広げられる。アルベリヒは力を誇示して大蛇に変身してみせもする。ローゲは策略を練り、口舌巧みに慢心しきっているアルベリヒの隠れ頭巾を剥がさせ、捕縛する。
 これらの進行中、ヴァイオリンとヴィオラによる「ニーベルング族の動機」、ホルンの弱音による「隠れ頭巾の動機」、ミーメの語りをあらわす「思案の動機」、ニーベルハイムの住人たちが労働を強いられている「苦痛の動機」とともに、「指環の動機」がさまざまに変奏される。
 第4場、ヴォータンは地上に引き出されたアルベリヒを自由にしてやるかわりにラインの黄金をせしめるのだが、そのときアルベリヒは指環に死の呪いをかけた。知恵の女神エルダが警告するものの、ヴォータンは聞き入れない。指環を手に入れた巨人族は財宝をめぐって争い、巨人のファフナー(実は龍)が兄のファーゾルトを殺してしまう。
 こうした出来事を見た神々は呪いの力に恐れおののくものの、豊饒神フローが架けた虹の橋をわたって次々にヴァルハラに入場していく。ここに「剣の動機」を暗示するトランペットが高らかに奏でられ、英雄の登場が予告される。その一方で、ラインの水底からは乙女たちの嘆きが聞こえてくる。

ファンファーレのような「剣の動機」

新国立劇場「ラインの黄金」(2015−16)
神々のヴァルハラへの入場。左手に倒れているのがファーゾルト。

◆第2日目【ワルキューレ】
DIE WALKÜRE

 第1幕。舞台中央にトネリコの大樹が立っている。宇宙樹イグドラジルを模したものだ。嵐の夜のなか、フンディングの館にジークムントが現れる。どこか傷つき、どこか追われる身である。ジークムントはヴォータンと人間の女性とのあいだに生まれた子で、ヴェルズング族を象徴する。フンディングはヴェルズング族と対立する一族に所属していた。それなのにジークムントとフンディングの妻ジークリンデは惹かれあう。
 ジークムントは自分は災いをもたらすからと出ていこうとするのだが、ジークリンデはこの家にはすでに災いが宿っているからと引き留める。そこにフンディングが帰宅し、すったもんだのすえ、ジークムントはフンディングが一族の敵であること、ジークリンデが生き別れていた双子の妹であることを知る。
 ややあって、ジークムントはトネリコの幹に刺さっていた大剣(誰も抜ける者がいなかった剣)を抜き取り、「ノートゥング」と名付け、ジークリンデとともに館を脱出していった。
 第1幕のシーンは3場に分かれるが、音楽は「嵐の動機」と追われてきたジークムントの「駆け足」を暗示する序奏から、ジークムントの逡巡と勇気を暗示する動機が組み合わさるなか、一方では「愛と陶酔の動機」が、他方では不吉と不安を予感させる動機が歌われ、奏でられていく。

「愛と陶酔の動機」

 第2幕は5場に分かれ、いよいよジークムントとワルキューレの音楽的テーマがはっきりしてくる。ひとつは「愛の逃亡の動機」、もうひとつは「神々の危機の動機」だ。舞台には、荒涼たる岩山にヴォータンとワルキューレの長姉ブリュンヒルデが登場している。

「神々の危機の動機」

 ワルキューレとはブリュンヒルデの弟妹たちのこと、ヴォータンとエルダの娘たちのことである。そこへヴォータンの正妻フリッカが現れ、「妻を奪われたフンディングの復讐と婚姻の神聖を守るには、ヴォータンはジークムントに死を与えるべきだ」と迫る。ヴォータンはやむなくこれを了承する。

シアトルオペラ「ワルキューレ」(2013)
ジーグムントとジーグリンデの再会。

 長姉ブリュンヒルデはヴォータンから「ジークムントはフンディングによって殺害されるだろう」ことを告げられ、しかしそのことを見殺しにしなければならないと諭される。ブリュンヒルデは弟妹たち(ワルキューレ)を守ろうとするのだが、ジークムントはヴォータンの予告通り、フンディングの槍に貫かれてしまう。事態は急を告げてきた。全オーケストラが鋭い不協和音と「苦痛の動機」を奏でて、ジークムントの死を悼む。

シアトルオペラ「ワルキューレ」(2013)
ジーグムントに死を宣告しに来たブリュンヒルデ。

 第3幕。かの「ワルキューレの騎行」として有名なイディオム連打が耳にのこるところだ。コッポラが『地獄の黙示録』のヘリコプターがベトナムに進軍する場面で使った。
 舞台は岩山の山頂。左手に洞窟の入口が見える。ヴォータンの怒りを逃れたブリュンヒルデは、ヴァルハラに駆け込んでワルキューレたちに助けを求める。ブリュンヒルデは「ジークリンデが身ごもっていて、その子がやがてジークフリートと名のるだろう」と言う。そこへヴォータンが現れ、ブリュンヒルデの神性を奪うと宣告する。ブリュンヒルデは赦しを乞うがヴォータンは許さない。ただし、英雄だけが越えられる炎(ローゲの炎)によってブリュンヒルデの回りを守らせると約束をする。

ヴォータンとブリュンヒルデは親子として抱き合うと、永遠の別れを告げる。ブリュンヒルデは「至上の英雄」の言葉を来たるべき「ジークフリートの動機」にのせて歌い上げると、ヴォータンは娘の目をじっと見ながら、感に堪えるような告別を歌う。こうしてブリュンヒルデは岩山の山頂に眠り、火神ローゲの炎が舞台に燃えさかるのだ。

剣の動機から派生したような「ジークフリートの動機」 

 ワーグナーはこれらのシーンをプロメテウスの神話、北欧神話エッダ、グリム童話などを習合させることでつくりあげたのであったろう。 

ヴァルキューレ初演三幕

フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』「ワルキューレの騎行」を鳴らしながら武装ヘリがベトナムの村を攻撃していくシーンが話題を呼んだ。

◆第3日目【ジークフリート】
SIEGFRIED

 すでに1851年からワーグナーは『ジークフリートの死』の台本を書いていた。しかしその進行はさまざまな事情で紆余曲折し、結局はそのいっさいを大作『ニーベルングの指環』に組み込んだ。装い新たな『ジークフリート』はティンパニーのトレモロに乗ったファゴットが「思惑の動機」を吹き、コントラバス・テューバによる「財宝の動機」が回帰するなか、「ニーベルング族の動機」があらわれて律動しながら序奏を形成する。
 第1幕。ジークフリートを育てたのはアルベリヒの弟のミーメであった。舞台はそのミーメの鍛冶場から始まる。ミーメはジークフリートをつかって指環を手に入れようと企むのだが、なかなかうまくいかない。ジークフリートはそうしたミーメの言動を通して、しだいに自身の出生の秘密を知っていく。そして意を決すると折れた剣「ノートゥング」を鍛えなおし(ホーホーで始まる4行リフレインの「鍛冶の歌」が伴っている)、自身の行く手にいったい何が待ち構えているかを想像する。その姿の背景にハンマー音が響きわたる。

メトロポリタン・オペラ『ジークフリート』(2013)
第一幕、折れた剣「ノートゥング」を直すジークフリート。

 第2幕ではジークフリートは逞しく成長している。恐れを知らぬ若者として龍蛇に変身したファフナーを倒して、その返り血によって不死身になっていく。しかしジークフリートはいまだ見知らぬ父親と母親への思慕を募らせている。そのとき「森のざわめき」が高まり、小鳥の歌に母親の言霊を予感する。
 大蛇を倒した剣を抜いた瞬間、ジークフリートは火のような熱い血を浴び、その血をなめたときに、自分が小鳥の言葉を聞き分ける能力を身につけたことを知る。小鳥たちは「花嫁の眠りをさませば、ブリュンヒルデはジークフリートのもの」と歌っていた。ジークフリートは陰謀をめぐらしていたミーメを倒し、ワルキューレの岩山に向かう。
 この進行で「森のさざめき」は16分音符の細かな楽奏によって、大蛇退治はイングリッシュ・ホルンのけばけばしい音色と不正確な音程によって、「小鳥の言葉」はヴァイオリンによる「愛の灼熱の動機」に続く歓呼のストレッタによって、それぞれ表現されている。

「森のさざめきの動機」

シアトルオペラ『ジークフリート』(2013)
ジークフリートの蛇退治のシーン。

 第3幕も岩山と洞窟である。序奏が象徴的だ。「騎行の動機」を背景にテューバの「生成の動機」があらわれ、その上行音型が「神々の危機の動機」「自己矛盾の動機」に押し上げられて、ついで「黄昏の動機」から下行音型が組み合わさっていくと、そこに「苦痛の動機」が大音響となって、この大作が秘めてきた世界悲劇性の開始が告げられる。

チューバのテヌートによる「生成の動機」

 物語のほうは、ジークフリートは「さすらい人」に身をやつしていたヴォータンに出会う。そしてミーメのこともファフナーのこともすべてヴォータンの仕組んだことであることを知る。ヴォータンは孫のジークフリートに広い知識を与えようとする。もしもその知識とブリュンヒルデが知っていることを付き合わせれば、きっと世界の秘密の多くが見えてくるかもしれなかった。けれどもジークフリートはヴォータンに反発し、その槍を砕いて炎の壁を突き抜ける。
 かくてジークフリートはブリュンヒルデの眠りを目覚めさせたのである。二人は抱き合い、歓喜に溺れて欲望と忘却に堕ちていくも、観衆受けのするオペラにお定まりの「愛の二重唱」のなか、二人は永遠の愛を誓った。とはいえそこには、実は「神々の一族は歓びのうちに滅びるがいい」というメッセージが恐ろしくも響くようになっていた。まさにアンティゴーネの呪いであるかのように。 

『ジークフリート』の場面
1876年第1回バイロイト音楽祭用のスケッチ。

◆第4日目【神々の黄昏】
GÖTTERDÄMMEERUNG

 もともとの原題は『ジークフリートの死』であった。だからここでジークフリートは死ぬ。夫婦になったジークフリートとブリュンヒルデは最初は愛の導きで結ばれるのだが、夫のほうが殺されてしまうのだ。
 当初の英雄が死ぬだけではなく、背後の真実を知ったブリュンヒルデも自ら燃え上がる炎に身を投じてしまう。物語は意外な結末に向かうのである。しかし、その瞬間に呪われた指環はラインの乙女たちの手に戻り、世界は指環の呪いから救われるというふうにもなる。ただそのかわり、天上の神々も滅亡してしまう。
 4日目の「神々の黄昏」の舞台は、以上の結末を暗示するかのような不吉な予兆のままに始まっていく。
 序の幕があくと、舞台には運命の女神ノルンたちが身じろぎもせずに佇んでいる。彼女らはエルダを母とする。長女は過去を、次女は現在を、三女は未来を司っていた。3人は順に運命の綱を投げては、世界の運命を歌っていく。歌は「ヴォータンが世界樹トネリコの大枝を切り取って槍をつくったために枯れ、薪にされたトネリコはヴァルハラ城を焼き尽くすだろう」と予言する。「それは神々の終焉になるだろう」とも予言する。驚くべき序奏だが、これからおこる事態は意外なほどに、たいへん人間的であり、感情的である。しかしそれが神々の終焉につながった。

メトロポリタン・オペラ『神々の黄昏』(2012−13シーズン)
運命の女神ノルンの三姉妹。

 第1幕。ライン川の一帯を支配するギービヒ家の当主グンターには后がなく、妹のグートルーネには夫がいない。グンターの異父弟ハーゲンはアルベリヒの子であり、指環を手にして世界を支配したいという野望に取り憑かれている。
 奸智に長けたハーゲンは、グンターをそそのかしてブリュンヒルデを妻に迎えれば指環が入ると思うのだが、グンターには燃えさかる炎の壁を突破する勇気も力もない。そこでジークフリートにブリュンヒルデをグンターの妻として連れてこさせて、その見返りにグートルーネを花嫁として与えようという狡猾なシナリオを練る。

 力強い4本のホルンによる「ジークフリートの動機」

 こうして舞台はジークフリートがブリュンヒルデに指環を与え、ギービヒ家の館に向かうところから始まる。そこではハーゲンがジークフリートを陥れようと待っていた。案の定、忘却の魔酒を飲まされたジークフリートはハーゲンの奸計にはまる。魔法の隠れ頭巾でグンターに変身させられたジークフリートは炎の壁に向かうのだが、そこへ雷雨に乗ったヴァルトラウテが現れて、父ヴォータンは指環をラインの乙女たちに返して自身も呪いから解かれることを望んでいると訴えるのだが、グンター(ジークフリート)は委細かまわず炎の壁を突破して、ブリュンヒルデの指環を自分の指にはめ、連れ帰ってしまう。
 

ブリュンヒルデを演じるキルステン・フラグスタート(1935・NY)
ノルウェー出身のフラグスタートはワーグナーの楽劇において最高のソプラノの一人と評価され「ワーグナーの女王」とも言われた。

第2幕。ハーゲンは自身の出生を恨み、自分と世界を同時に呪っている。ただハーゲンは指環に対する異常な執着をもっていた。ワーグナーはそういうハーゲンという闇の男を徹底して描きたかったようだ。
 ともかくもハーゲンは何かが危急存亡の時を迎えていることを知っている。家来を集めると、ジークフリート殺害の伏線を練る。ここで家来たちから危急存亡の意味を問う合唱がおこる。『指環』全幕で初めて合唱がおこるのだ。

恭しく整列した家来たちの合唱

 グンター(ジークフリート)とブリュンヒルデは結婚することにした。結婚式のとき、ブリュンヒルデはグートルーネの夫がジークフリートであることに驚き、おまけにその指に指環があることに動揺する。二人は互いに自分が真実を述べていることを言い合うのだが、ついにブリュンヒルデとハーゲンとグンターは「ジークフリートは死んで罪を償うべきだ」と決め込むんでいく。暗殺の役はハーゲンに任された。
 第3幕。眩しい陽光の中、3人のラインの乙女たちが輪になって泳いでいるところへジークフリートが登場する。乙女たちは指環の秘密を説明し、これをもつ者は死に見舞われると歌う。
翌日、ハーゲンはジークフリートに記憶を呼び戻す酒を注いで、これまでの事態の流れを知らせ、ジークフリートの背中に槍を突き立てる。金管、トランペット、木管が低く交差するなか、ジークフリートは死んでいく。館に戻ったハーゲンは指環を要求するが、グンターがこれを拒否したためグンターも殺す。遺体から指環をはずそうとしているとき、ブリュンヒルデが進み出る。いまやブリュンヒルデはすべてが「裏切りの物語」であったこと、ジークフリートが偉大な犠牲となったことの意味を知る。
 ブリュンヒルデはヴォータンを非難し、英雄ジークフリートのために薪を積み上げて火をつけると、自身も燃え上がる炎の中にさあっと飛び込んだ。燃え上がる炎はヴァルハラの城を炎上させ、世界を浄化するようなヴァイオリンが続くなか、その炎は神々の世界を焼き尽くすかのように見えてくる‥‥。

言葉ではなく、音楽によって示される『指環』の結末

メトロポリタン・オペラ『神々の黄昏』(2012−13シーズン)
ライン川が炎上し、天界のヴァルハラも炎に包まれる。

オペラ・ノース『神々の黄昏』(2012)
燃え上がる炎の中を鳥が飛んで行く。

アーサー・ラッカムが描く『神々の黄金』ラストシーン
ブリュンヒルデは愛馬のグラーネを駆って、ジークフリートの遺体が燃えさかる積薪に跳び込んだ。

【さあ、いったい何の物語だったのか】
 恐ろしい結末をもって『ニーベルングの指環』は幕を閉じる。物語がすべてを消滅させたのか、再生を告げたのか、初めてこの祝祭劇に接した者はにわかに決めがたいにちがいない。戦慄すべき神話悲劇であることは明白だ。ならば、なぜこんな悲劇が描かれたのか。この巨塊の叙事詩はいったい何を描いた祝祭劇だったのか。
 ワーグナーは「世界の破局」というヴィジョンを描いたのである。ワーグナーは「世界の破局」を通さないかぎり、人類の文明の再生はないと考えたのだ。神々の退落にかこつけて文明が頽廃しつつあることを「神々の黄昏」を通して描きたかったのである。
 だから当初はジークフリートが新たな夜明けを告げる英雄であるはずだった。しかしながら、ヨーロッパの深部に眠る神々の物語を詳細に調べ上げたワーグナーは、やがて神々の裏切りに満ちた力のメカニズムを描き尽くすことに全力を投じるようになった。そのため、作品はヴォータンを主人公とする物語とジークフリートを主人公とする物語の二重化をおこした。その対比と矛盾と葛藤にれをブリュンヒルデが巻き込まれ、悪辣なハーゲンとともにその一部始終を体験するという筋書きになったのである。
 「呪われた者」によってしか世界は救済できないのだという、この戦慄的なテーマは、必ずしもショーペンハウアーの「ミットライト・ペシミズム」だけから出所したものではない。ワーグナー独自の洞察も十分に感じるし、さらに言うのなら、のちのちレヴィ=ストロース(317夜)が世界中の神話は「ブリコラージュ」(修繕)されていくと言った、その修繕力(つまりは世界編集力)に富んでいるとも感じる。もう少しわかりやすくいえば、ぼくにはワーグナーはアーキタイプ(原型)の捕捉にめっぽう強く、音楽的にはプロトタイプ(類型)を壊すのが好きで、物語作家としてはステレオタイプ(典型)を描くことを自身の範疇から取り除けないと見えるのだ。
 また一説には、ワーグナーのムジーク・ドラマには、これもショーペンハウアーから示唆を受けた仏教の「輪廻」と「業」と「一切皆苦」からのヒントを折り込んでいるとも言われるが、ぼくの見方ではそこまでの徹底は感じない。けれどももしワーグナーが仏教オペラを手掛けていたら、法華経も維摩経もみごとなミットライト・オペラにしただろうと思われる。
 が、このへんのことを本気で議論するには、ワーグナーの最終祝祭劇『パルジファル』をも射程に入れることになって、いささか荷が重い。

【嗚呼パルジファル】
 『パルジファル』(Parsifal)はワーグナーの最終オペラであって、ワーグナーが後世に仕掛け残した祝祭歌劇の龍蛇の尾であった。『指環』にくらべてたいそうピュアなテーマに回帰しているように見えるのだが、これほど音楽界からしっぺ返しを食らった作品はなかった。今日から思うと、ドビュッシーとブーレーズが寄せた評価が慈愛に思えるほどである。
 物語はわかりやすくできている。敬虔な王ティトゥレルは天使の声で、キリスト最後の晩餐のときの聖杯(グラール)と十字架で脇腹を刺した聖槍(ロンギヌスの槍)の守護をせよと言われる。王はモンサルヴァートに拝殿をつくり、童貞たちの騎士団を編成し、定時に聖餐の儀式をおこなって、この役目をまっとうしていた。

リヨン・オペラ『パルジファル』(2012)
キリスト最後の晩餐の聖杯を守る儀式。

 この騎士団に異教徒のクリングゾールが加わりたくて、去勢までしていたのだが、加入を拒否されたため、一転、復讐を決意した。魔法によって荒野に花園をつくり、そこに妖艶な乙女を遊ばせて騎士たちの力を奪おうというのである。父王をついだ新王アムフォルタスはクリングゾールを討つ軍をおこすのだが、美女タンドリーに誘惑されて聖槍を失い、重傷を負う。
 そこへ天からの神託が示された、「共苦により知に至る穢れなき愚者が罪を救うであろう」というものだ。共苦が「ミットライト」にあたっている。

リヨン・オペラ『パルジファル』(2012)
クリングゾールは復讐を決意する。

 そこへ傷ついた白鳥が飛来して落ちてきた。白鳥を弓で射た青年パルジファルが呼び出され、グルネマンに諭されると、パルジファルは弓を折る。グルネマンはこの青年こそは神託の言う愚者だと直観し、聖槍のもとに連れていく。
 ファンファーレが鳴り、新王アムフォルタスが担架で運ばれてくるのだが、新王は苦しみを訴え、そこに父王の声がかぶさってくる。騎士団たちが聖餐の儀式をおこなうと、新王の傷から燃えるような血が流れ出て、最後の晩餐のときのキリストの言葉響いてくる。青年パルジファルは黙って事態を見守っている。

リヨン・オペラ『パルジファル』(2012)
全編を通して「神の愛による贖罪」というテーマが描かれている。

 グルネマンはこの青年パルジファルは本物の愚者かと疑うのだが、そのとき天上界からのあの神託がアルトのア・カペッラの声で響くのである‥‥。
 なかなかよくできた美しい物語なのだが、ワーグナーはこれを説明的に構成してしまった。語りも長すぎた。とくにグルネマンの歌語りが長かった。ひょっとして祝祭と声と音楽を重ねたかったのかもしれないが、『指環』の大胆不敵な絡繰にくらべると、これはいかにも退屈で鈍重だったのである。
 なぜキリスト教のテーマを最後のムジーク・ドラマにもってきたのかについても、さまざまな疑問が投げかけられた。だいたいワーグナーは敬虔なクリスチャンでもなかったではないか。しかし、これらの疑問に答えることなく、ワーグナーは死んでいったのである。

【ワーグナーの本音】
 『パルジファル』のテーマは明確だ。「神の愛による贖罪」だ。もっと短くいえば「神による贖罪」になる。このことはワーグナーがキリスト教をどう考えていたかということを超えている。青年パルジファルはキリストに属する者でなく、天に属する者なのである。
 ポール・クローデルは『パルジファル』は「過去への現在の絶えざる併合」の試みだと見た。テオドール・アドルノ(1257夜)はそこにファンタスマゴリアとしての過剰幻想を見た。いずれも当たっているが、ぼくは『パルジファル』こそワーグナーのワーグナーによる神に向けての贖罪だったと見ている。
 ふりかえって、ワーグナーほどに想像力と創作力を「神々の罪の償い」のために投資した芸術家はいなかった。多くの賢明な芸術家たちは、想像力と創作力を作品ぶんだけ費うのだ。が、ワーグナーは神々の退場のためにこそ浪費した。こんなリスキーなことをする奴は、めったにいない。
 1900年ちょうど、ニーチェが「神は死んだ」と言って発狂して死んだ。なぜ神々は黄昏を迎えざるをえなかったのかということは、ワーグナーが少くとも30年をかけて攻め上げてきた問題だったのである。中身も文脈も違うけれど、この遠大な取り組みは、本居宣長(992夜)の古事記との差し違えに匹敵するものだった。
 ぼくは72歳の1600夜をもって、神々と人間界が交わした「共苦」(ミットライト)の正体を、ひたすら祝祭オペラを通して贅沢に浪費することでしか実現できないプロジェクトを完遂しようとしたリヒャルト・ワーグナーに、ゆっくり、ときに激しく喝采を贈りたいと思ったのである。

⊕ 『ニーベルングの指環』(全4冊) ⊕

 ∈ 著者:リヒャルト・ワーグナー
 ∈ 編訳者:三光長治 高辻知義 三宅幸夫 山崎太郎
 ∈ 編集協力:後藤洋 川端聡子 梅田英喜
 ∈ 発行者:坂倉良一
 ∈ 発行所:白水社
 ∈ 印刷所:凸版印刷株式会社
 ∈ 製本所:松岳社(株)青木製作所
 ⊂ 1992年2月28日発行(第1冊『ラインの黄金』)

⊗ 目次情報 ⊗

 ∈ 『ラインの黄金』
 ∈∈ 序奏
 ∈∈ 第1場
 ∈∈ 第2場
 ∈∈ 第3場
 ∈∈ 第4場
 ∈∈∈∈ 『ラインの黄金』解題
 ∈∈∈∈ 『ニーベルングの指環』テキスト成立過程
 ∈∈∈∈ ニーベルンゲン神話=ドラマの草稿
 ∈∈∈∈ ジークフリートの死

 ∈ 『ヴァルキューレ』
 ∈∈∈ 第1幕
 ∈∈ 第1場
 ∈∈ 第2場
 ∈∈ 第3場
 ∈∈∈ 第2幕
 ∈∈ 第1場
 ∈∈ 第2場
 ∈∈ 第3場
 ∈∈ 第4場
 ∈∈ 第5場
 ∈∈∈ 第3幕
 ∈∈ 第1場
 ∈∈ 第2場
 ∈∈ 第3場
 ∈∈∈∈ 解題
 ∈∈∈∈ あとがき

 ∈ 『ジークフリート』
 ∈∈∈ 第1幕
 ∈∈ 第1場
 ∈∈ 第2場
 ∈∈ 第3場
 ∈∈∈ 第2幕
 ∈∈ 第1場
 ∈∈ 第2場
 ∈∈ 第3場
 ∈∈∈ 第3幕
 ∈∈ 第1場
 ∈∈ 第2場
 ∈∈ 第3場
 ∈∈∈∈ 解題
 ∈∈∈∈ あとがき

 ∈ 『神々の黄昏』
 ∈∈∈ 第1幕
 ∈∈ 第1場
 ∈∈ 第2場
 ∈∈ 第3場
 ∈∈∈ 第2幕
 ∈∈ 第1場
 ∈∈ 第2場
 ∈∈ 第3場
 ∈∈ 第4場
 ∈∈ 第5場
 ∈∈∈ 第3幕
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 ∈∈∈∈ 解題
 ∈∈∈∈ あとがき

⊗ 著者略歴 ⊗

リヒャルト・ワーグナー
19世紀ドイツの作曲家、指揮者。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。