才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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神なるオオカミ

姜戎(ジャン・ロン)

講談社 2007

Hang Rong : 狼圖騰(Wolf Totem ラン・トゥタン) 2004
[訳]唐亜明(タン・ヤミン)・関野喜久子
編集:中田雄一・森和也
装幀:坂川栄治・田中久子

いろいろ紆余曲折があったけれど、
世界も日本もアジアも今年は終わり。
日本は安倍晋三、韓国はパククネ、中国は習近平。
3人のトップが変わった。ついでに北朝鮮も。
しかし、日本・韓国・中国ともに
その本来の民族国家的起爆は伏せられている。
そこで今年ラストの千夜千冊は
21世紀中国最大の問題作を紹介したい。
姜戎の『神なるオオカミ』だ。
内モンゴル草原の遊牧一族を主人公とした
途方もない長編思想小説だが、
ここには強烈な中国批判が躍動している。
それとともにこの本は、われわれ日本人にもにひそむ
遊牧的な革新性や戦闘性を根底で疼かせる。
この一冊を前にして、あれこれを大転換するための
「行く年来る年」を送っていただきたい。
それでは、犬狼に匹敵するような、
格別によいお年を!

 今年の5月26日、ぼくは連塾の最終回を5時間にわたるソロトーク「本の自叙伝」にした。ゲストは誰にも知らせないで安田登(1176夜)・森村泰昌(890夜)・山本耀司を招いた(1469夜参照)。
 それに先立ってチラシとポスターの撮影をしたのだが、カメラの川本聖哉君とデザインの美柑和俊君と連塾仕立て人の和泉佳奈子の求めるポーズに応じて、あえて2冊の本を手にすることにした。姜戎(ジャン・ロン)の問題作『神なるオオカミ』上下巻だ。
 タイトルも赤と白のブックデザインも、ラディカル・ノマドな内容も、ラスト連塾「本の自叙伝」をやりとげようとしていた当時のぼくの気分にぴったりだったからだ。ぼくはこの2冊を持ってしゃがみ、川本君の何度かにわたるシャッター音を聞いた。
 『神なるオオカミ』がどういうものかについては、当日の舞台上でも少しだけ説明したのだが、この異様な思想小説を語るには時間がなかった。それ以来というもの、ずっと千夜千冊する機会を窺って、結局、今年の掉尾を飾ることになった。ぼくとしてはやや遅きに失した感がある。

「連塾 本の自叙伝」ポスター(2012年5月26日:青山スパイラルホール)
本書『神なるオオカミ』を手にする松岡の写真が使用された。
10年間にわたる「連塾」の最終回となった。

「連塾 本の自叙伝」より。
エンディングトークで『神なるオオカミ』を紹介する松岡。

 本書は2004年4月に長江文芸出版社から32元で発売されたとたん、2~3年で300万部に達したばかりでなく、海賊版が1600万部を突破し、のみならずその後は海外翻訳が次々に続いて、中国(中華人民共和国)建国後最大の著作物輸出作となったという、曰くつきの問題作だ。
 原題は『狼図騰』(ラントゥタン)。圖騰(トゥタン)はトーテムのことなので、「狼トーテムとは何か」という本だともいえる。主人公はオオカミとその動向とともに生きる草原の遊牧民たちだ。
 物語は、文化大革命期に内モンゴルに下放(かほう)された著者の分身である陳陣(チェンジェン)と友人たちが、そこでオオカミとともに生きる老人ビリグを頭目とする遊牧民一族の精神と生活に、しだいに感化されていくというもので、話が進むにつれて漢民族の守旧性に凭(もた)れきっている現代中国の社会観や価値観に対する痛烈な批判になっていく。
 アンドレイ・タルコフスキー(527夜)やジル・ドゥルーズ(1082夜)のように「意識の中のノマドロジー」を謳っているわけではない。むしろノマドによって国家を穿ち抜くことを謳っている。つまり本書は一から十までが今日の中国体制批判であり、儒教に象徴される中国的保守思想の歴史的な批判なのである。
 それゆえ時の政権からは発禁まがいの扱いと冷遇を受けた。現在中国ではよくあることだ。にもかかわらず、本書はたちまち中国最大の話題作となり、かつ外貨獲得作品のナンバーワンに躍り出たのだった。

本国版『狼図騰』の表紙デザイン。

英国版『Wolf Totem』の表紙デザイン。

 著者の姜戎(ジャン・ロン)はペンネームだ。文化大革命時には北京の大学生で、1967年にいわゆる「知識青年」として内モンゴルのオロン草原の村落(東ウジュムチン旗)に下放され、そこで11年をおくった。
 11年はかなり長い。しかしこのとき出会った強烈な体験を、それからさらに30年にわたって温めたうえで、そうとうに綿密な構成のもとにドキュメタリーノヴェルにして本書を仕上げた。おそらくはその発表効果を予想しきって練り上げた作品だろう。
 オオカミたちと内モンゴルの遊牧民を主人公にしたこと、遠慮会釈なく痛烈に中国の農耕儒教主義を批判しているため、発表直後から爆発的な話題をふりまいた。けれども姜戎は発売直後から一度もその正体をあらわさなかった。取材は受けない、写真は撮らせない、本の宣伝活動にはいっさい協力しないという方針を貫いた。
 いまでも本名と写真を明かしていない。もっとも最近では、姜戎のプロフィールのあらましは知る人ぞ知るになっている。1979年に中国社会科学院に学び、大学院をへて1982年に法学の修士を取得、そのあとは北京の某大学の教鞭をとっているようだ。
 作家ではない。政治経済学者なのである。よく知られているのは夫人が中国では有名な張抗抗(チャン・カンカン)だということで、本書の訳者の一人である唐亜明(タン・ヤミン)も夫人と知り合いであったことが縁で、その線から著者の姜戎に出会っている。

 ごくかんたんいえば姜戎の主張は、こうである。
 中国には歴史にこびりついた中国病がある。それは儒教と結びついた農耕主義とオオカミの知恵を忘れたことである。われわれ中国民族は歴史をさかのぼって「オオカミの血」を思い出し、新たな「天」の思想と戦闘性をもって時代に対応しなければならない。
 こういうものだ。

 中華民族は長江と黄河の流域で農耕文明をもとに発展していった。この二つの大河の流域はナイルやチグリス・ユーフラテスやインダス・ガンジスなどの流域よりずっと大きい。そのため中国文明は農耕のリズムと農耕の価値観にもとづいて発展していった。
 これに対して西洋古代では人口が少なく、各中心部が海に近く、牧草地も多かったので、必ずしも農耕に依存することなく発展してきた。
 ひるがえってみれば、世界文明はこれまで「狩猟・牧畜・農耕・商業・貿易・航海・工業」という7つの業態活動をエンジンにしてきた。なかで農耕のみがきわめて自給自足型で、たとえ閉鎖的になろうと退化がおころうとも、競争・交換・交雑の必要がなく育まれてきた。
 これに対して他の6つの「狩猟・牧畜・商業・貿易・航海・工業」は、おおむね競争が激しく、環境も多様で陰険で、食うか食われるかという闘争心を孕んできた。資本主義も市場原理もこのような体質から生まれた。これが西洋をダイナミックに発展させ、「オオカミの西洋」を築くことができた理由である。
 他方、中国文明は農耕と儒教を大義としたため、大国ではあるものの半分眠ったような「ヒツジの中国」になっていったのだ。農耕主義と儒教主義のせいだった。しかし、そもそもの中華民族には本来は「オオカミの血」が流れていたはずなのである。それを取り戻すべきだ‥‥。

 これでごくおおざっぱな見当がついただろうように、本書は本来の中国に流れているはずの「オオカミの血」を解き明かすために書かれたものなのだ。まさに「オオカミの血」の再来と起爆をナショナル・チャイナに願う大著なのである。
 むろん、これだけならかなり挑発的な思想の表明だともいえる。危険思想でもあろう。それゆえ表面的にうけとると、グローバル資本主義の渦中の競争社会に飛び込んで、かつ中国民族のラディカル・ノマドを滾らせよと宣言しているように見える。そんなふうに獰猛な競争心を発揮してアングロサクソンやWASPのような狡猾を獲得しようだなんて、いったいどういうつもりなのかと思う向きも少なくないだろう。イスラムやオイルマネーとも闘いたいのかとも言いたくなる。
 姜戎(ジャン・ロン)は妙なことも書く。日本も農耕社会で中国型の儒教を千年もかけて学んだのに、近代になるとさっさと脱亜入欧をして豹変し、みごとに脱羊入狼をはたしたと、手放しで賛美するのだ。
 近代日本が中国の儒家を蹴って西洋の文明と技術に傾いたのは、もともと日本が農耕民族になる以前はれっきとした海洋民族で、そういう原日本人は“海狼”としてのオオカミ性をもっていたからだというのである。その“海狼”が明治維新に向かってめざめたというのだ。まさに勝海舟、坂本龍馬、伊藤博文バンザイだ。これは日本人からするといささか面映ゆい。
 姜戎は、日本は中国に学んだ儒教をたった30年そこらで放棄して、その後の30年で本来のオオカミ性を蘇らせると、たちまち天馬の如く飛翔して中国とロシアとの戦争に凱歌をあげたことを評価するわけである。しかし、仮に日本にそのような犬狼の血が流れていたとしても、その後に剥き出しにした日本的狼性が挑んだ日中戦争や太平洋戦争では壊滅的な打撃を受けてしまったことについては、姜戎はまったく言及していない。

 こういう度過ぎた見方が本書の随所に姿をあらわすのだが、それはそれ、ここまで「草原の遊牧力」とオオカミと共生する「部族の生活力」とを生々しくも詳細に描いたものはなかった。これには驚いた。
 ぼくはもっぱら杉浦康平(981夜)とヨーゼフ・ボイスの影響のせいで、若い頃からのちょっとした狼フリークだった。杉浦さんは狼の吠え声のレコードやテープをもっていて、しばしば聞かせてくれた。そして、こう言ったものだ、「松岡さん、こんな凄い音楽はないよ。あとはクジラの音楽だけだね」。ボイスは御存知の通りの、その存在そのものがオオカミ・トーテムのようなアーティストだ。コヨーテ・アートの化身であった。
 そのほか澁澤龍彦(968夜)の『犬狼都市』に惹かれて、東西のシリウス伝説や天狗伝説なども早くに読んで、けっこうルナティックな気分に浸っていた。オオカミの生態や絶滅に瀕しているニホンオオカミの実態についての本もしばしば読みこんでいたし、オオカミに関するドキュメンタリーがあれば食い入るように見ていた。ムツゴロウこと畑正憲が野生オオカミの中に入っていく番組には、まっとうに尊敬を払ったものだ。
 それでも上下巻1000ページに及ぶ『神なるオオカミ』が、主人公と友人とオオカミの群とオオカミ一族の交流だけを書いていたのには、やっぱり度胆を抜かれた。大著の8割がオオカミ・トーテムにまつわる日々の出来事で埋まっているのだ。これはたんなる狼フリークなんかではない。まさにオオカミを神あるいは天と見立てる“神なるオオカミ”の物語なのである。

ヨーゼフ・ボイスのパフォーマンス作品
「コヨーテ:私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」(1974)
原始アメリカを象徴する動物であるコヨーテと3日間画廊の中で過ごし、
無言で身振りのみでの対話を行った。
空港到着直後フェルトに包まれたままでニューヨークの画廊に入り、
3日の交流の後、コヨーテと抱き合い、他の風景を見ないまま帰国。

 話は次のように始まる。
 著者の分身である主人公の陳陣(チェンジェン)と友人の楊克(ヤンカー)たちが内モンゴル自治区に下放される。名目は内モンゴル生産建設兵団に所属する。しかし、行ってみて愕然とした。何もない。草原とそこに暮らす遊牧民がいるばかりなのだ。
 そのうち、信じがたい野蛮と無法がここでは当たり前のように進行していることを知る。陳陣が最初に度肝を抜かれたのは、オオカミが野生の黄羊を大量に食い殺している光景だった。柔順なヒツジを殺戮しまくるオオカミたちを許しておくなんて、いったいこの部族はどういうつもりなのか。そういうショックだ。
 ショックから立ち直れない陣陣に、ビリグじいさんは「では、草はかわいそうではないのか」と反撃をする。「モンゴルの遊牧民にとっては草と草原が生命の根源なのだ、人間もオオカミもそれにくらべれば同じように小さい命なのだ」と説明をする。
 ビリグじいさんは、ヒツジが草を食べ尽くすこともオオカミが殖えすぎることも、どちらも草原部族にとっては“化け物”のように危険なことであって、どちらも放ってはおけない。だからそのことをちゃんと「天」(タンゴル=テングル)が見て、ときにオオカミたちにヒツジを食わせ、ときにオオカミたちに過剰な競争を強いているのだ、と断言するのだ。
 北京の優等知識人の若者にすぎない陳陣や楊克は、この老人の“生き抜く思想”に当初は戸惑いを感じるものの、だんだんその深さに共感する。ビリグの息子バト、その妻のガスマ、バトとガスマの息子バヤルとも心が通いあう。こうして、ここから陳陣の10年をこえるオロン高原でのオオカミ・トーテムとの共生が始まるのである。

 後半、陳陣は子オオカミを育てようと決心して、その世話を懸命にみるという流れになっていく。「小狼」(シャオラン)と名付けられた子オオカミは、しかしながらなかなかうまく育ってはくれない。
 冬の寒い夜、小狼は自身の病害を観念したかのように堅くなっている。動かない。ビリグじいさんは、「動かないオオカミは野生のごとく死なせてやらなければいけない」と言う。病気に罹ったオオカミは天の宿命を受けて殺されるべきだというのだ。
 それから数日後、迷いに迷った陳陣はパオの外で苦しみもがいている小狼に必死の思いで近づくと、隠し持ったタガネを天高く持ち上げ、渾身の力をこめて後頭部に打ち下ろした。その瞬間から、陳陣は失った小狼の宿命とともに生きていく決意をしたようだ。このあたりの書きっぷり、本書の白眉になっている。

「井寸房」入り口右手の棚。

「井寸房」階段左手の棚。

 『神なるオオカミ』は全35章とエピローグで構成されているのだが、そのあとに「知的探索――オオカミ・トーテムについての口座と対話」と題されたアペンディックスが5篇くっついている。
 すでに北京に戻っていた陳陣と親友の楊克が、久々に(下放されてから約30年後に)チェロキーを駆ってオロン高原に再来したという設定で、楊克の質問に陳陣がいろいろ答えるという展開になっている。場所は小狼の記憶が懐かしい黒石頭山である。
 この5篇に著者の独特な中国歴史観が密度濃く語られる。なかなか遊動的だ。「黒石頭山の対話」というふうに言っておこう。正直、かなりムリな論法もまじっているし、雑な歴史記述も目立つのだが、幾つかは、納得させられた。以下、その対話概要の一端を示しておく。

 中華民族の始祖説話は炎帝と黄帝の物語で始まっている。
炎帝は中原で九藜(きゅうれい)族の蚩尤(しゆう)と対決したが、劣勢のため黄帝の一族の武力を借りて琢鹿(たくろく・琢はサンズイ)に蚩尤を破った。
 姜戎(ジャン・ロン)は、この物語こそ中華民族のルーツに「遊牧民族力」がかかわっていたことを示していると見る。実際にも、炎帝も黄帝も西北中国の少典部族をルーツとした遊牧民の出身であった(1424夜1435夜1450夜参照)。これを「炎黄先民」という。両者はその後、琢鹿から数十キロ離れた阪泉で3度にわたって戦いあうのだが、この阪泉が内モンゴル草原の東橋にあたる。
 炎帝の姓が遊牧一族の羌(きょう)であることは、初期羌族が西戎として犬戎・白狗・白狼などとよばれた部族を派生的に生み出しただけでなく、その後の漢民族・党項・吐蕃・チベット族などの父祖に当たっていたことを示している。なかでも古羌族はモンゴル草原の一派の部族に入りこみ、モンゴル帝国の勢力拡大の歯車のひとつとなった。
 こうした事象を組み合わせているうちに、姜戎は黄帝および炎帝に始まる中国民族は西北遊牧民族をルーツにしていると確信するようになった。西北民族は匈奴とも突厥ともつながっている。

 西北民族は「天」(タンゴル)を信奉していた。「天」には天理があり、その足下には草原がある。草原にはオオカミとヒツジがいた。のちにモンゴル部族たちはこの「オオカミとヒツジ」の葛藤をラディカル・ダイナミックな民族戦闘思想に盛り上げて、チンギスハーン以下の「草原の帝国」を築いた。
 一方、農耕社会を選択した中国はこの「天」を皇帝に準(なぞら)えているうちに、真の「天」なる思想を歪曲していった。統治のための社会制度にしていった。それをやったのが儒教であり、のちの朱子学だった。今日なら、グローバル・スタンタードに準じたガバナンスのしくみを、中国史のばあいは長らく儒教が用意したわけだ。
 しかしそれでも中国民族には、随所に「天」と「オオカミ」が関与していたはずだというのが、姜戎(ジャン・ロン)の結論なのだ。
 たとえば紀元前11世紀、周の武王は西方の8つの戎狄を包摂連合して、車をもって70万人の紂の軍勢を討った。このとき天に誓いをたてて「虎の如く熊の如く、勇猛果敢に敵を討て」と全軍に告げた。姜戎は周の時代は半羊半狼ではあったが、それでも西周にはオオカミの血が入っていたと言いたいのだ。なるほど、『漢書』匈奴伝には、周の穆王が犬戎を征伐し、4匹の白いオオカミと4頭の白いシカを得て凱旋したという話ものっている。

 楊克が陳陣に訊く。「獰猛なオオカミの精神が、なぜ民族や国家の繁栄に必要なのか。そんなことばかりしていれば弱肉強食だけが金科玉条になってしまうのではないか」。
 陳陣が答える。人類の文明は人類にひそむ獣性と狼性をたえず抑制し、制御しながら発展してきた。どのように抑制し、制御するかということが、ブッダやソクラテスや孔子の課題だった。これは重要な発見だったろう。しかし、ここが大事なことだが、それによって人類の獣性や狼性がなくなったわけではない。そういう「負」があるからこそ、ユダヤ教も仏教もキリスト教もイスラムも機能してきた。とくに西洋は「人類が野蛮であること」を前提にして、これを規制するルール社会を構築するとともに、そこに巧みに市場的な競争原理を浮上させていった。そう見るべきではないか。
 ところが農耕社会と儒教思想は、この葛藤をエンジンにしないまま成熟させようとした。問題はここにあるのだ、と。
 また楊克が陳陣に訊く。当初の中国民族に「オオカミの血」があるんだとすれば、その後の中国はどうして袋小路に入ってしまったのか。迷走してきたのか。たしかに楊克にも周、秦、漢、唐までの中国には、それなりの戦闘的競争力を感じられるんだけれど、その後はそういうものがなくなっている。どうしてなのか。そういう疑問だ。
 陳陣は次のように説明してみせた。やっぱり農耕が特別だったんだろうね。農耕って競争も占有も解放もないからね。だから農耕維持社会には必ず巨大なリスクが伴う。すでに漢の武帝はそのことに気がついていた。司馬光が『資治通鑑』に書いていることなんだが、武帝はつねづねこう洩していたようだね。「漢は強大だが飢渇に耐えられず、一匹のオオカミを失えば千頭のヒツジが逃げる」というふうに。

 ここまでの説明では、わかりにくいことがまだいろいろある。農耕的儒教社会が「ヒツジの中国」をつくりあげてしまったとしても、それなら陳陣こと姜戎は、どこに今後の遊牧的狼性の復活のルーツを見いだすのか。炎帝や黄帝の始祖伝説だけでは、はなはだ心もとないはずである。
 が、この点についても、陳陣こと姜戎はそれなりに明確な歴史観を示した。次のような動向には中国的であって、かつ遊牧的な獣感覚が横溢していたというのだ。
 たとえば、春秋戦国時代なら白狄匈奴が興した中山(ちゅうざん)王国だ。河北の奥地、定県平山一帯に築かれた。周囲からは“中山狼”と恐れられた。燕(えん)の土地を奪ったこともあった。ぼくはかつて東博で「中山王国展」を見て、そこに“金色の獣”たちがぎらぎらと躍動しているのを知って、これはスキタイ(1424夜)の名残りかと思ったものだった。
 このように中山王国のような“突起”があらわれたということは、春秋戦国期にはいまだ「オオカミの血」に飢えた部族が跋扈していたというエビデンスのひとつなのである。それゆえ春秋戦国とは一言でいえば、周辺各地の“狼”の群が中原に“鹿”を追った時代で、その激震から儒家・墨家・兵家・法家などの諸子百家が乱立したわけだった。
 けれども戦国六国はしだいに農耕を広めて競争力を弱めていった。そこに登場したのが秦の商鞅変法で、これが始皇帝による統合力のエンジンになった。もっとも、そうやって確立された秦帝国は農業的な中央集権的な封建国家である。遊牧国家ではない。けれども、その立国の拠点が戎狄の遊牧地で、穆公(ぼくこう)の時期に12の戎国を収奪して千人の土地を手に入れた西戎の覇者になったことなどには、かなりの狼性が躍如した。

 陳陣の説明が続く。
 次の漢帝国は、陳陣には中国史におけるひとつの理想に見えるらしい。とくに漢の武帝が李広・衛青・霍去病(かっきょへい)らの将軍を西域に送りこんだことを高く評価する。武帝は始皇帝の“野生の狼”を“文明の狼”に育て直したのだ。
 が、楊克がこうした独裁的皇帝にしか“狼の文明”がつくれないんだねという感想をもちそうなのを感じると、陳陣は次のようにも言う。たった一人の暴君を生むのではなく、指導力や牽引力をオオカミの群にすることが重要なんだろうね、と。
 しかし漢代以降、中国は迷走した。晋は残酷な徒戎政策をとり、武力をもって移民族を国外に追い出した。これは周辺の遊牧民族の報復力を蓄えさせた。あげくに、匈奴・羯(けつ)・低(てい・ニンベンなし)・羌(きょう)・鮮卑たちが相次いで中原に突入して、次々に16もの国を建国していった。それがなんと120年も続いたのである。五胡十六国だ。日本のような島国型の海洋国家では考えられないことだ。
 これをどう説明するか。陳陣は平然と次のように言う。このような「オオカミの血」の“逆流”がおこったこと自体、中国民族の歴史に狼性が絶えなかったことを意味するのではないか、と。その証拠に、386年に建国がなった鮮卑の拓跋族による北魏は、まさにオオカミとヒツジの両性を巧みに組み入れた恰好の例ではないか、と。

 姜戎は北魏に強い関心を示している。ぼくも、そうである。約140年ほど続いた北魏には、その後の中国では薄まってしまった原液がかなり波打っていた。雲崗や竜門の巨大石仏にはシルクロードやステップロードを疾駆してきた西方のダイナミックな仏教が結像されているし、太武帝が道教を重んじたことは、「天」と「道」とのマッチングを志向するものだった。
 こうして歴史は南北朝をへて楊堅による隋の統一になる。隋は北周を奪って建国しているのだから、鮮卑拓跋のOSのままに漢民族の伝統を混ぜていった帝国だ。隋は突厥を窮して全土を統一したのだが、その突厥には次のような伝承が生きていた。
 突厥は匈奴の一種族で、あるとき全滅に近い侵略をうけた。生き残った一人の少年を育てたのはオオカミだった。やがてこの一族に阿史那があらわれて突厥を強大にした。『周書』突厥伝にのっている。
 陳陣はこうした話を楊克にしながら、隋はやはり“オオカミの乳”を吸ってつくられたんだと言う。

 こうして陳陣は中国史をかなり乱暴だが、遊動的に組み立てていく。話し方もだんだんはやくなる。
 隋を継いだ唐も、鮮卑族と漢民族が混合してつくりあげた大帝国である。おかげて李氏の血統の中の漢民族の血は4分の1になった。しかしそれが李世民に始まる勇猛果敢な国家づくりを推進したのだ。
 唐も突厥を服従させる戦闘をした国だが、それを指導したのは草原民族の出身者たちだった。とくに長孫無忌(ちょうそんむき)は玄武門の変を画策した鮮卑人で、どんなときも李世民の凱旋を演出できた。
 則天武后にも遊牧性が響いている。鮮卑族の根拠地のひとつである山西の出身である。そのため、意外な人物を抜擢することが得意で、太宗の貞観の治の反映を半世紀以上も継続させた。その残酷なほどの勇猛政治に、著者は「中国史最大のオオカミの血をもった女傑」という称号を与えている。
 それでもさしもの大唐帝国もしだいに衰弱し、黄巣の乱とともに解体し、ふたたび五代十国という移民族の乱入不穏を介して狼性をばらまくと、それをまとわらせつつ北宋が力をもっていくのである。唐の衰弱は黄巣の乱に象徴されるように、農業的生活力の亀裂によるものだった。

 このあと陳陣はさらに、中国民族の変移を次々に暴いていく。まるで怒りに満ちた口吻になる箇所もある。
 まずは、宋が北の契丹(遼)、西の西夏と吐蕃、西南の大理などに囲まれたまま、これらの力を活用できなかったこと、国内では朱子らによる理学が三綱五常の倫理をふりまいたこと、その他のあれこれの理由によって、金の太宗によって侵食されていった経緯を述べ、とくに北宋がたった2年で壊滅した「靖康の恥」は中華民族の最悪の屈辱となったことを酷印する。
 ついで、ついにモンゴル高原を背景に「天」を背負ったモンゴル族のオオカミ・トーテムが、いよいよチンギスハーンからクビライに継承されて中国史のど真ん中にもたらされたことを強調する。モンゴル族はオオカミを祖とも神とも誉れともする民族で、オオカミによって自身を譬え、自身をオオカミの餌とすることをためらわず、さらにオオカミによって昇天することを辞さない民族なのである。
 いずれ「連環篇」でモンゴル帝国の攻防とそのネットワークについて千夜千冊したい。

関係地図(本書より)

 陳陣は明の朱元璋と朱棣(しゅてい)を、悪徳官僚をいささかの手加減もなく残忍に殺戮したオオカミ王だとキャラクタイズする。モンゴルの狼兵との光線がそのような狼格を鍛えたのだろうと言っている。
 それでも明は土木堡の戦いで、わずか2万人のモンゴル・オイラートの騎兵によって50万人全軍を壊滅させたという軟弱な推移を孕んでしまったのである。そこには李自成の農民蜂起に代表されるような、やはりのこと、農業政策の失敗が響いていた。
 次の清は、女真の満州族が建てた国である。数十万人に満たない満州族が何億人もの漢民族を支配した。しかし中国史では、このことを肯定していない。そういうところが今日の現代中国人に本気の歴史観が欠落しているところなんだと、著者は言いたいのだ。
 なぜ満州族のような小さな部族が、巨大な清帝国をマネージできたのか。注目すべきは、次の指摘だ。「すでに中国古代において、満州族の上層部だけが、中国の盛衰強弱の法則を見抜き、農耕文明の長所と短所を深く認識していたのである。満州族だけが中華文明の本質がどうなっていくべきかを見通していたのである」。
 この指摘には唸らされた。それなら、日本民族が理想を掲げた「満州国」とは何だったのか、ぼくはここを読んで擬似国家・満州のことをあらためて考えたいと思った。

 アペンディックス「知的探求」は、最後の最後になってオオカミ・トーテムの意味を探る。いろいろ書いてはいるが、瞠目すべきは、著者がオオカミ・トーテムと龍トーテムを重ねて観察していることだ。
 そもそも中国最古の龍は、1971年に内モンゴルの三星他拉村で発掘された玉龍である。ここは新石器時代の紅山文化にあたるところで、そうだとすると、ここから半農半牧の中国各地に龍トーテムが広がったと見られる。しかし大事なのはそのことではなく、三星他拉村の玉龍はオオカミの顔をした龍だということなのだ。つまり玉龍は玉狼なのである。
 それでは、鱗と鋭い爪をもったあの龍の形はどこから生まれたのか。著者の姜戎(ジャン・ロン)は、なんと饕餮(とうてつ)こそがその源流ではないかと言う。しかも姜戎は、その饕餮こそオオカミ・トーテムを内包していたのではないかと推理するのだ。
 まことに痛快な仮説だ。うっかり頷きたくもなる。ただ、このことについては姜戎の推理をそのまま鵜呑みにはできない。オオカミ・トーテムとの関連があるというのは示唆に富むものの、その説明だけでは饕餮の謎は解けまい。いまだ誰も饕餮の正体を指摘できていないのだが(白川静さえも)、ぼくはぼくでいずれ千夜千冊したいと思っている。
 そのほか多角的なオオカミ・トーテム仮説が紹介されているのだが、それで本書は何を結論にしたかったかといえば、結局は、オオカミ・トーテムが羌族、犬戎族、古匈奴に始まり、白狼、匈奴、高車、鮮卑、突厥、契丹をへてモンゴル民族に流れていったのだが、その一部はしばしば中華民族にも流れ込んでいたはずだということなのである。

 以上、おおざっぱに『神なるオオカミ』が仮説したことを案内してみた。きわめて意欲的、きわめて危険、きわめて愛国的、きわめて大胆、きわめて多くの問題を孕んだ大著であること、これで伝わったと思う。
 ぼくはこれを読了したとき、かなり痺れた。いまひとつ方向が見えなかったことも少なくなかった。その最大の問題は、今日の中国が共産党の独裁と高度資本主義を折衷していることはジョーシキだが、いったい姜戎はこの現状をどの程度のオオカミ性が充血していると見ているのかということだ。見方によっては、今日の中国はどんどんオオカミ化しているとも言えるのだ。
 もうひとつは、本書の思想はオオカミに育てられた兄弟によって建国された古代ローマ帝国をはじめ、世界各地のオオカミ伝説とどんな関連度を発揮できるのかということだ。
 日本の近代の転向を褒めちぎっていることも、気になる。まるで「富国強兵・殖産興業」バンザイなのだ。日清・日露に勝利したとはいえ、多くの矛盾をかかえこんでいたこと、満州進出にもそうとうの限界があったことなど、まったく触れられていない。
 まあ、いまはそれらのことを問わないでおくことにするが、そうした課題を突き付けた大著だともいえるわけだった。
 いずれにしても、本書を2012年の大晦日に案内できたこと、ぼくとしては何か宿年の宿題を果たした気分でもある。これで、なんとか新年を迎えられそうだ。

 さて、先日の12月27日、編集工学研究所と松岡正剛事務所は今年の仕事収めのための納会をもった。
 この数週間にわたってゴートクジISISへの緊急苛烈な引っ越しに積極的に力を貸してくれた人々と、日ごろお世話になっている人々とを絞って招いた納会で、ゴートクジISISの1階入口の「井寸房」(せいすんぼう)とその奥の「本楼」(ほんろう)の最初のお披露目を兼ねた。
 「井寸房」と「本楼」を作ってくれた三浦史朗・東亨・林尚美・藤本晴美さんらも駆けつけて、メッセージを語ってくれた。宮本亜門ちゃんや大澤真幸君(1084夜)は本棚だけで仕上がったゴートクジの“作り”を手放しで絶賛してくれた。
 実は「本楼」には上段と本段の二段構えの小さな本棚舞台が設えられている。納会ではここに本條秀太郎、西松布咏、小林史佳という、三人三様の三味線の名人・師匠・気鋭を招いた。「本楼」はみごとに歌と三味線とパフォーマンスを包んでくれた。音の響きもすばらしかった。本條さんはゴートクジから車で10分の桜上水におられることもあって、夜半2時近くまで残ったメンバーに奥深い三味線談義をしてくれた。
 この納会の一部始終を、ぼくはしばしば舞台に立ったりみんなと話を交わしつつも、今年最後の仕事としてずっと味わっていたのである。
 オオカミになったわけでもない。ヒツジでいたわけでもない。この力強くも不可思議な「場」を背負っていくには、ぼくも心と体の背骨(はいこつ)を、あと数年酷使しても大丈夫なようにしなければならないな、そう、思っていたのだ。
 振り返ってみると、今年は「連塾」を仕舞い、「松丸本舗」を仕舞い、トップに野村育弘を迎え、イシス編集学校を全面展開するための準備期にあたっていた。一部からは「いったい松岡正剛はこのあとどうするのか」と思われてもいたようだ。こういうときにかぎって勝手なことをする連中がいることも、力をたくみに抜いて後ずさりをする連中がいることも、よくよく見えた。
 しかし、ぼくもスタッフも、ここからが本場であり、リベンジであり、闘いであり、包摂なのである。これから何をお見せするか、ぜひとも固唾をのんで見守っていただきたい。ということは、これはやっぱりオオカミの群ともヒツジの群とも交感していくための新たな門出なのである。
 というわけで、それでは諸姉諸兄のみなさん、いろいろありがとうございした。巳年ながらもむしろ犬狼に匹敵するような、格別によいお年をお迎えください。1500夜まではあと6夜です。

「本楼」“一味”木札の注連飾り。

「本楼」年始の準備も万端。

ゴートクジISISの3階「セイゴオ部屋」の年末風景。

三浦史朗さんによる「井寸房」の図面の上で眠るコヨーテ。
(掲載写真:2012年12月30日撮影)

 

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