才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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シルクロードと唐帝国

興亡の世界史 05

森安孝夫

講談社 2007

編集:青柳正規・陣内秀信・杉山正明・福井憲彦
装幀:山口至剛

いま、世界は政治的にも経済的にも、
不安定きわまりない。
しかし隋唐帝国が確立したときは、
ユーラシア全域はもっと揺動に満ちていた。
それは歴史の主人公たちの軸足が大国の中になく、
「動く民」たちにあったからである。
今日の中国だって、この歴史を振り返ったほうがいい。
鮮卑、突厥、ソグド、ウイグル人たちが
かの大唐帝国を支えたのである。

 読みごたえがあった。アジア=ユーラシアについての視野が大きく、諸民族に関する視点の多くに焦点力がある。とくに隋唐王朝を建国した中核集団が漢民族中心のものではなく、突厥やソグドやウイグルとの“協業”によっていたということをダイナミックに案内した。
 本書は一四二四夜に紹介した『スキタイと匈奴』と同じ「興亡の世界史」シリーズの第五巻にあたる。前にも書いたように、このシリーズそのものが斬新な組み立てで執筆者も気鋭が揃っているのだが、なかでも本書を担当した森安孝夫はおもしろい。専門は仏教とアジア史の交差するところならすべてといってよく、とくにウイグル、ソグド、マニ教にめっぽう強い。いまは大阪大学の文学研究科教授で、「内陸アジア言語の研究」という学術誌の編集長も引き受けている。
 本書は、たんにシルクロードと大唐帝国の関係を記述したものではない。これまでの世界史教科書、とくに全アジア史への挑戦であり、西欧中心史観に対する憤懣やるかたない思いの吐露にもなっている。歴史シリーズにそういう憤懣を書きこむことはややめずらしいけれど、それほど従来のアジア史がめちゃくちゃだったということだろう。それに著者のそういう憤懣が本書をいきいきさせたともいえた。
 こんなふうにアジアを躍如させる歴史教科書を若いうちに読んでいたら、誰だって勇気凜々のアジア的世界観がもてたのではないかと思う。

 かつて日本にとっての中国は現在のアメリカ以上に圧倒的存在だった。地域も広大だが、文物のパワーが尋常ではなかった。とくに飛鳥・奈良・平安時代の日本にとって、大唐帝国の存在は唯一無二の絶対的グローバリズムの淵源で、近隣には百済・新羅・高句麗・渤海があったといっても、それらは漢字と律令制と仏教文化を中国から受け継いだ東アジア文明圏のミニ兄弟のようなものだった。
 そのミニ兄弟のひとつに日本もあった。そういう日本からユーラシアを前後左右に匍匐運動するごとくに動いてきた仏教を見ると、また東アジア世界を塗り替えた世界帝国としての隋や唐を見ると、どうなるか。どんな事象についても、これまでの西洋史観で見てはいけない。

 ユーラシアの地図を見ると、近代以降の世界の価値観をリードしたアルプス以北の西欧諸国は、ユーラシアの西北端に位置している。小麦・大麦・粟などに依拠したエジプト・メソポタミア・インダス・黄河の四大農耕文明圏をつなぐラインより、かなり北側になる。
 一方、農耕文化と穀物文化がつくったユーラシアを背景とするアジア文明は、その生産力と食糧需給力によって大きく人口を伸ばしてきた。農業技術も断然に先頭を走りつづけていた。
 それに比較すると、西欧世界が北魏時代の六世紀に成立していた『斉民要術』に匹敵できる農業技術に達したのは、やっと十八世紀のことだった。そのように貧しかった西欧が隋唐時代の世界の中心だったなどということはありえない。
 そもそも紙・羅針盤・印刷術・火薬・銃火器のどれひとつとっても、ヨーロッパで発明されたものではなかったのだし、キリスト教は中東や西アジアから伝播し、ゲルマン民族の大移動は中央アジアのフン族から始まったのである。カール大帝のフランク王国ですらイスラームの勃興がトリガーを引いたことで成立したようなものだった。仮にその後の「ヨーロッパの誕生」が世界主人公としてのアイデンティカルな自意識を早くつくりえたのだとしても、それもまたイスラームの勢いが十字軍運動をよびさましたからだった。
 だからヨーロッパで大航海パワーが拡大して、十五世紀半ばにウォーラーステインのいう「世界システム」がヨーロッパに成立したなどというのは、かなりおかしな説なのだ。それを言うならモンゴル帝国の勃興と拡大が始まった十三世紀のアジアにこそ、もっと早期の「世界システム」の大胆な開闢があったというべきなのである。
 それだけではない。そのモンゴル帝国のずっと前に、東アジアから中央ユーラシアにかけて四世紀から五世紀半ばの北魏まで五胡十六国が動きまわり(五胡は匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)、そのうえで魏晋南北朝(華北の北魏、江南の宋・斉・梁・陳)につづく隋唐帝国が成立して、陸のシルクロードとも海のシルクロードともつながって、世界最大の交易圏を形成していたのだった。さらには仏教圏がキリスト教の版図以上の領域をもってユーラシアを覆っていた。
 まさに隋唐がつくった大アジアは世界帝国にふさわしい。唐は儒教・仏教・道教だけでなく、回教(イスラーム)も景教(キリスト教ネストリウス派)さえもその懐にかかえていたけれど、ローマ帝国は異教の受容はせいぜいがミトラ教やマニ教までで、それもたちまち異端扱いをしてしまったのである。おまけにローマやラテン社会は当時のユーラシア最大の宗教である仏教のことなどとんと知らなかったのである。
 この時期、仏教を知らないヨーロッパがどうして「世界システム」の牙城たりえようか、というのが著者が言いたかったことだった。

中央ユーラシアと四大文明圏の位置関係

 インドからシルクロードをこえて漢代の中国に伝来した仏教は、南北朝時代に格義仏教(中国的解釈の試み)から教相判釈(教義比較の試み)を整えてようやく根付き、隋唐時代においてはついに北朝仏教と南朝仏教が融合していった。
 これは本格的な中国仏教の確立だった。そこでは太宗の「貞観の治」や玄宗の「開元の治」のもと、多彩な仏教文化が花開いた。玄奘や義浄に代表される教学仏教や、曇鸞に始まって善導によって大成された浄土教が隆盛するとともに、そこにさらに不空や一行に躍如した密教なども加わって、まさに中国仏教黄金時代が出現した。唐はたちまち古代インドに代わる仏教王国になり、長安はバグダードの国際イスラーム都市に比肩する国際仏教都市になった。
 しかしそうした大唐帝国といえども、国内のインサイドパワーや皇帝による上からの指導力による充実だけで繁栄したわけでもなく、そこに矛盾がなかったわけでもない。仏教がオールマイティであったこともない。

 そもそも中国はヨーロッパにほぼ一〇〇〇年ほど先駆けて官吏登用制度を採用していたのだけれど、その登用試験の「科挙」で求められたのはもっぱら儒学であった。儒学こそが“実学”で、仏教や道教は“虚学”とみなされた。それゆえ仏僧や道士をのぞく多くの者が儒学の学習を余儀なくされていた。初唐の張説・陳子昂、盛唐の杜甫・王維・孟浩然、中唐の白楽天・韓愈・柳宗元、晩唐の杜牧・李商隠などの名だたる詩人・文人たちも、こぞって科挙を通過した。李白でさえ一再ならず官吏に就こうとして任官活動をした。
 それほどに儒学に国教性があったにもかかわらず、唐の仏教は充実したわけである。なぜなのか。その理由を解くにはたんなる仏教イデオロギーの分析だけでは足りない。当時の中国というステートがアジア=ユーラシアのダイナミックな動向を活用していたことに目を致す必要がある。それには、従来のユーロ・セントリズム(西洋中心主義)や、その逆のシノ・セントリズム(中華中心主義)に片寄った史観をぶっとばす必要がある。そうすれば、中国仏教にはすでにシルクロードをへたユーラシアのさまざまな特色がまじっていたことが見えてくる。

 本書が注目したのは、大唐帝国の充実と変容をつねに刺激しつづけたアジア=ユーラシアを動く三つの動向だった。箇条書きにしておくと、①シルクロード史と表裏一体のソグド人による東方世界に対する影響を重視する、②唐の建国にかかわった突厥の動向の意味に注目する、③安史の乱前後の唐の変容をもたらしたウイグルの活動の意義を忘れない。こういうふうになる。
 ソグド人や突厥やウイグル人という日本人にはややなじみの薄いノマド(遊牧民)が主人公になっているところが、本書の真骨頂だ。世界史の視座をアジアから積極的に書き換えようという野望に満ちた著者は、この三つの動向を文字通り縦横に駆使して、六世紀から九世紀までのアジア=ユーラシアの様相を実に痛快に浮き出していく。これまで、ここまで全アジア的ノマドをダイナミックに描いたものは少なかった。
 ちなみに突厥もウイグルもモンゴリア平原に生まれて、中央ユーラシア東部に広がっていくトルコ(=チュルク)系の遊牧民集団であるが、これまでわれわれが学校で「人類はコーカソイド(白色人種=ユーロペオイド)、モンゴロイド(黄色人種)、ニグロイド(黒色人種)に大別される」などと習ってきたことを、こうしたチュルク系の歴史を追うことで変更せざるをえなくなっているのだということも、知っておく必要がある。かれらはペルシア語でいうなら、まさに「トルキスタン族」ともいうべき人々で、それをむりやりモンゴロイドやコーカソイドに入れることはなかったのである。
 もうひとつ、本書を読むうえであらかじめ知っておいたほうがいいことがある。おおかたの歴史ファンは中国を形成しているのは「チャイニーズ」という中国民であると思っているかもしれないが、またその中心は多数派の漢民族が担っていると思っているかもしれないが、その認識も訂正しておいたほうがいい。
 中国がチャイニーズであるのは、中国統一のしくみが口語ではなく文語(書き言葉)によって徹底的に管轄されてきたからなのだ。そのことを外して見れば、実のところ中国はいまのいままでずっと変容の激しい多民族国家だったのだ。チャイナはチャイニーズによる国家ではなかったのだ。
 このことは、現在の世界の中でいまだに「アメリカ民族」というものがいないのだということを考えてみれば、およそのことはきっと想像がつく。中国民族だって似たようなものなのだ。しかし、そのような「チャイニーズではない中国」と「アメリカンではないアメリカ」とが、これからの二一世紀世界をリードしていくとなると(そうなりそうだけれど)、これはなかなか厄介なことである。

 ソグド人について書いておく。
 ソグド人はソグディアナを原郷とする。ソグディアナはユーラシア大陸のほぼ真ん中にあって、パミール高原から西北に流れてアラル海に注ぐアム河(オクソス)とシル河(ヤクサルテスまたはサイフーン)にかこまれている。この地域の中間地帯がトランスオクシアナ、つまりは西トルキスタンで、つまりは中国から見た「西域」だった。
 ソグディアナの最大の首邑はサマルカンドで、アケメネス朝ペルシアの時代からマラカンダの名で歴史に登場していた。サマルカンド(康国)の南にはキッシュ(史国)が、西にはクシャーニャ(何国)があって、そのもっと西にソグディアナの西の要衝にあたるブハラ(安国)があった。
 これらの都市国家の経済は当初は農業で成り立っていた。紀元前六世紀あたりから農耕が営まれていたことが考古学的にわかっている。けれどもこうしたオアシス農業には、必ずや田畑の限界がつきまとう。それゆえ人口がふえてくると、他の地域との交易に活路を見いだす者が続出した。これが有名なソグド商人たちで、シルクロードはこのソグド商人たちの「絹の道」だったのである。
 ソグド人は人種的にはコーカソイドに属するとされているが、むしろソグド語を喋るすべての民族がソグド人だった。文字もあった。最初からあったのではなく、日本人が漢字から仮名をつくったように、ソグド語をアラム文字で綴るうちにそれが草書化してソグド文字が生まれていった。ついでに言っておけば、このソグド文字が突厥やウイグルに伝播してウイグル文字となり、そのウイグル文字が十三世紀ころにモンゴル文字に転化して、さらには十七世紀にそこから満州文字が派生していった。
 それはともかく、ソグド人のソグド語こそはシルクロードの国際共通語だった。つまりはソグドが動くところがシルクロード型グローバル・スタンダードだったのだ。ちなみに地域としてのソグディアナは、いまではその大半がウズベキスタン共和国の国域に属する。

ソグド=ネットワーク
東西に広がるネットワークは、ゴビを越え北方のモンゴリアまで延びている

 中国側ではソグド人のことをいろいろな呼称であらわした。「胡」があやしい。商胡、賈胡、客胡、興生胡、興胡……。いずれもがソグドだし、胡商とか胡客といえばたいていソグド商人かもしくはイラン商人のことをさしていた。
 胡座、胡床(腰掛け)、胡瓶(水差し)、胡粉(おしろい)、胡椒、胡服(衣裳)なども、これらに準ずる。とくに中国の連中を狂喜させたのは胡姫によるたいそう官能的なダンスであった。胡旋舞・胡騰舞などと呼ばれた。白楽天の『新楽府』には有名な「胡旋女」という詩が入っている。しかしソグド人はいつまでも商人に甘んじてはいなかったようだ。本書は、李淵による唐の建国には、安興貴・安修仁という兄弟をはじめとする多くのソグド人がめざましいはたらきを見せたことを強調する。このことは、隋唐王朝の本質をどう見るかということにかかわってくる。
 これまでは漢人王朝とみなされてきたのだが、このようにソグド人やのちに見るような突厥のかかわりが中国王朝の確立に濃かったとすると、隋唐王朝はむしろ「胡漢融合王朝」というべきものであるかもしれず、その背景には「鮮卑拓跋王朝」の展開があったとみなせるのである。

 現代の中国では、漢民族のほかに五〇あまりの少数民族が公式に認められている。ところがそこには、かつて唐代まで活躍していた匈奴、鮮卑、氐、羌、羯、柔然、高車、突厥、鉄勒、契丹などのノマド(遊牧民)は一つも入っていない。
 なぜそうなるかというと、秦漢時代までに形成された狭義の漢民族(チャイニーズ)の中に、これらが魏晋南北朝を通してしだいに“同化”させられていったからである。かれらはその後はチャイニーズとして扱われた。それゆえ厳密にいうと、秦漢時代のチャイニーズや漢文化と、隋唐以降のチャイニーズや漢文化とは別物なのである。
 唐には、東魏と西魏の分立時代から中国に巨大な経済負担をかけた突厥人もいれば、商人として縦横に活躍したソグド人やペルシア人もいたのだし(これらが胡人)、また高仙芝や慧超のような朝鮮人も阿倍仲麻呂・藤原清河・井真成のように日本人もいた。かれらは漢語を自由にこなし、ときには第三言語も操っていただろうが、だからといって、そのすべてが漢語が喋れたというだけで、その大半が「漢化」したとか、唐がそういう異民族を受容したのは度量が大きかったからだとか言うことはできない。もしそういうふうにしたとすれば、それはなんらかの政治的判断によるものか、ないしはたんなる後知恵なのだ。
 このことは、アメリカ語が喋れるのはアメリカ国民であっても、その民族的な正体がヒスパニックやイタリアンや日本人であるということにも通じることで、よくよく考えればすぐにわかることなのだが、ところが中国における中華思想というのはそこが恐ろしくも強大で、ついつい周辺国(いまでは世界中)が納得させられてきたわけだった。
 しかし、あらためて東アジアやユーラシアの実相に分け入ってみると、その中華思想による国家確立のシナリオのいくつもの場面に多くの異民族がかかわっていたことがあきらかになる。とりわけ隋唐王朝は秦漢的な意味でのチャイニーズによって用意されたというより、別の集団によって準備されていたというべきなのだ。
 いや、隋唐だけではなく、西魏・北周・隋・唐が一連の集団によって用意されてきたというべきなのだ。この一連の集団とは、北魏の武川鎮に由来する「鮮卑拓跋系の集団」のことである。

 大興安嶺あたりに鮮卑族がいた。中国本土に入って北魏を建てた。北魏は新たに北方に台頭した柔然や高車の力を警戒して、辺境を守るための「六鎮」をおいた。そのリーダーには国防エリートが抜擢された。
 北魏の孝文帝が中原の洛陽に遷都して「漢化政策」をとるようになり、国家力学の中心が南に移るようになると、六鎮は軽視されるようになった。五二三年に「六鎮の乱」がおこった。この反乱は北魏を東魏と西魏に分裂させた。東魏は山東の貴族と手を結び、西魏のほうは武川鎮の連中が関中盆地で郷兵集団を統率していた在地豪族と手を組んだ。力は西魏のほうが勝った。やがて東魏は北斉、西魏は北周と名前を変える。
 こうして宇文泰をリーダーとする武川鎮の集団が、西魏の中で勢力をもっていった。これを最近では「関隴集団」という。まさに鮮卑系の胡漢融合集団だった。胡漢融合集団の「関隴集団」が何をしたかははっきりしている。北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏を次々に政権につけていったのだ。唐を建国した李淵は関隴集団の出身なのだ。ただし、事はそうかんたんには進まない。ここには当面最大のライバルがいた。突厥(突厥第一帝国)である。隋唐はライバルの突厥を叩く必要があった。

突厥第一帝国の最大領域
中華側で政権が分立する中、突厥は広範な領域を支配した

 突厥は六世紀の半ばに勃興した。ちょうど東魏と西魏が北斉と北周に名前を変えるころのことで、かつての匈奴・柔然などのあとを承けた中央ユーラシアを舞台に勢力を伸ばしていった。
 隋の楊堅(文帝)はまず突厥を分断させる政策をとった。次の煬帝も突厥分断策を推進した。突厥は東突厥と西突厥に分かれ、東突厥は山西北部からオルドスのほうへ転々とせざるをえなかったものの、それでも勢力を整えると中国侵略の機を窺っていた。そこへ煬帝の度重なる高句麗遠征が始まった。高句麗遠征は失敗だった。突厥が息を吹き返すチャンスがやってきた。
 ここで登場するのが関隴集団出身の李淵と李世民の親子だったのである。李淵(高祖)はかつての武川鎮の結束力をいかして隋を滅ぼすと、代わって長安に入城して東突厥を懐柔することで、新たな政権の座についた。次男の李世民(太宗)はこれをうけて関中十二軍を要して突厥対策にあてた。
 が、唐と突厥の関係は一進一退で、それどころか、それを続けるうちに両者が交じっていったとおぼしい。結果的には唐が突厥を内属させるのだが、それはわれわれが教科書で学んだ“立派な唐建国の成就”のようなものではなく、複雑な突厥遺民(降戸)懐柔政策によるものだったのである。
 その後、突厥は新たな編成をへて突厥第二帝国をつくっていくのだが、それについては今夜は省くことにする。いつか別の千夜千冊で補うかもしれないが、いまは約束できないということにしておこう。

 ともかくも本書には、ぼくがいまでこぼこにスキップしながらスケッチしたことの一〇〇倍以上の詳細なアジア的な歴史文脈が描かれている。ぜひとも読まれるといいが、少なくとも今夜の肝に銘じておいてほしいのは、第一には世界のシステムは全アジア的な遊牧民によって実験されてきたということ、第二に隋唐帝国といえどもその中核部隊は鮮卑や拓跋の系譜につながる武装集団であったこと、そして第三に、それらの経済力を内外に支えていたのがソグド・ネットワークだったということである。
 なお、著者の森安孝夫は歴史のエンジンを動かしているのは、軍事力と経済力とともに「情報収集伝達能力」であるという卓見を、本書の随所に披露している。そこも見落とさないほうがいい。情報収集伝達能力とは、いいかえれば歴史的編集力ということである。ただ、われわれはその編集力が全アジア史的にどう発揮されたのか、まだわかっていない。

唐の最大勢力圏とシルクロード