才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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アーリア神話

ヨーロッパにおける人種主義と民族主義の源泉

レオン・ポリアコフ

法政大学出版局 1985

Léon Poliakov
The Aryan Myth 1971
[訳]アーリア主義研究会
編集:石堂清倫・平川俊彦

この一冊は、ぼくの世界読書に
少なからぬ影響を与えた。
話題はアーリア神話の捏造に関するものだけれど、
実はセカイの作られ方の秘密が出入りしていた。
それとともに、ヨーロッパ中心史観なるものが、
民族や歴史や風土や言語の解釈によって
どのように歪曲していったのか、
また各国の中でまことしやかで身勝手な
正統化がもたらされていったのか、
その二重性をスリリングに証してくれた。
ヒトラー以前、セカイはとっくの昔から
とうてい尋常ではなかったのである。

 戦前までのヨーロッパでは、大陸の人種はもっぱらアーリア人かセム人かというふうに区分されていた。ヒトラー・ナチスはこのセム人に属するユダヤ人の撲滅を謳い、アーリア主義すなわちゲルマン主義を喧伝した。『わが闘争』には「アーリア人は人類のプロメテウスである」と書いた。しかし、ヒトラー・ナチスがこのように断言できたのは長い偏見の前史があったからだった。
 キリスト教は長きにわたって、人間がアダムという共通の父から生まれ、族長ノアとその息子たち、セム、ハム、ヤペテによって大きく三流に分岐したと説明してきた。ところがここにいつのまにかヤペテの子孫がヨーロッパ人になり、セムの子孫がアジア人となり、ハムの子孫がアフリカ人になっていったという俗説、あるいはまたハムは農奴の祖先で、セムは聖職者の祖先、ヤペテは貴族の祖先だという鼻持ちならない俗説が、次から次へと加わっていった。
 これがアーリア神話だ。あるいはアーリア主義だ。その後この文明的俗説がどのように変遷していったかはこのあと少々案内するけれど、結論を先にいうとヒトラー以前に、アーリア神話はとっくに、しかも多様に確立していたのだった。

 本書は、ぼくがこれを読んだ時点ではこの手の議論に分け入った唯一の成果だった。著者のレオン・ポリアコフは1966年にサセックス大学のコロンバスセンターで、かのノーマン・コーンの主導による「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究に参加した。
 コーンが提示した研究対象は、魔女裁判から人種差別まで、スペインにおける白人と黒人の分離からナチスによるユダヤ人虐殺にまでおよぶもので、人種が犠牲の対象になった背景にどんな言説が交わされてきたのかを浮き彫りにするものだった。本書はその討議と研究の説得力のある結実になっている。
 それまでの歴史学では、どのようにアーリア主義が謳歌され、いつどこでアーリア神話がでっちあげられ、それがヒトラーのアーリア・ゲルマン賛歌になったのか。そこにどれほど多様な前史があったのか、ほとんど全容を摑めないでいた。そこに本書が登場した。ポリアコフの記述と解説はかなりまわりくどく、けっこう文脈がとりにくいのだが、そのぶん驚くほどのエビデンス(証拠)をちりばめていて、この難題に大きな方向性を与えた。
 ぼくはこの多国籍にまたがる文脈をあらかた理解するのに、ざっと10年を要した。ヨーロッパにおける民族主義と人種主義がネステッド(入れ子)になりすぎていて、なかなかその核心が見えなかったからだ。だからうまく案内できるかどうかはわからないが、今夜は本書の記述にあらかたしたがってその前史をかいつまみ、そのうえでアーリア神話がどのように異様な超シナリオになり、それがどうしてヒトラーの言説にまでなっていったのか、あらあらの概略をマッピングしてみたい。

 まず、スペインから始めるのがよさそうなのでそうするが、スペインの歴史は711年のイスラム侵入とその後のレコンキスタによってその前の歴史が忘れられがちである。もともとはローマ帝国が土着文化を消し去ろうとし、そこへ西ゴート族とヴァンダル族が侵入したことによって変質していた。スペインは早くに“ゲルマン化”していった国土だったのだ。
 カロリング朝以前のヨーロッパで最も学殖があったとされるセビリアのイシドルス大司教は、西ゴート王朝のすぐれて奉仕的な理論家でもあったから、スペインを「ゲルマン的歴史の人種文化」として正当化した。すると、ここからゴート人をどのようにみなすかという歴史が躍如した。スペインのアカデミーでは、いまでも「ゴド」(Godo)といえば「古くからの貴族」のことだとみなしている。
 ルネサンスではゴート的なることは(すなわちゴシックっぽいとは)、自由であって、かつ野蛮でもありうる両義性をもっていた。それゆえセルバンテスは『ドン・キホーテ』の冒頭に「高名で光輝あるゴート人ドン・キホーテ」と示したものだった。こうしたゴート認識を媒介にして、18世紀には古代スペイン人をゲルマン人あるいはドイツ人と呼ぶという見方が広がった。そこにはイスラムの席巻を撃退しなければならなかったイベリア半島独特の「レコンキスタ的なイデオロギー」も関与した。

 次にフランスが、けっこうあやしい歴史をつくってきた。フランスにとって「ゴート」に匹敵するのは「フランク」である。十字軍は「フランク人の手になる神の行為」であり、解放された奴隷は「アフランシ」で、自由にされた者の意味をもった。
 フランスからすれば、フランスの地に侵入したゲルマン人とガロ・ロマン人が混交してフランク人になったのである。それがカロリング朝以降はフランク人の王が大陸の主人公となり、それにつれてオットー・フォン・フライジングの有名な『年代記』のなかで、ドイツ人はフランク人の分枝とみなされた。なんともフランスらしい矜持だ。これでシャルルマーニュ(カール大帝)は「フランク人およびチュートン人の皇帝」たることを自信をもって公称できた。吹聴できた。シャルルマーニュは親しい近臣には自分のことをダビデと称ばせていた。
 しかしドイツ人からすれば、ゲルマンの魂、すなわちアーリアの血をみんなフランク人がもっていくのは許せない。ドイツ人はタキトゥスの『ゲルマニア』を論拠に、シャルルマーニュをフランス化したことを詰り、ライン河のこちらにこそアーリアの起源があることを主張した。
 かくしてルネサンス期にはフランスとドイツ両者の言い分が早くも大いに食い違ってくるのだが、ここにフランソワ・ド・ベルフォレの『わが祖先ガリア人』が刊行されて、ガリア人こそがフレンチ・アーリアの起源であるとの評判がたった。ギョーム・ポステルなどもゲルマン人に対するガリア人の優越を強調した。
 が、そうした論争を尻目に太陽王ルイ14世が登場すると、フランスは強引にもゲルマンの系統樹もフランクの系統樹もおしなべて配下にしてしまったのである。17世紀のジャン・ラブルール神父以降は、「元来、フランス人は完全に自由で、完全に平等なのである」というふうになり、この見方がサン・シモンにもモンテスキューにも伝染していった。モンテスキューは古代ゲルマン人を「われわれの父」とさえ呼んでいる。
 こういう手放しのガリア主義・ゲルマン主義をこっぴどくやっつけたのは、皮肉な歴史家ヴォルテールだった。ヴォルテールはフランスにはフランクの家系を引くものなどひとつもないと言ってのけた。一方、同じ啓蒙派でもディドロのほうはこれを緩め、あえて語源を持ち出して「フランク、フラン(自由)、リーブル(自由な)、ノーブル(貴族)」などが同じ語源であることを仄めかした。
 しかしフランス革命は、これらの議論をいったんご破算にした。フランス革命は「抑圧者ローマ人、被抑圧者ガリア人、解放者ゲルマン人」という三つ巴の構図を現出させ、これをさかんにふりまいたのである。ギゾーは集約して、「フランス革命は結局はフランク人とガリア人の対立だった。それが領主と農民の、貴族と平民の対立で、そこに勝利と敗北があらわれたのだ」と述べた。
 フランスのアーリア神話はかなり混乱していたわけだ。フランス革命とフランスの歴史を最も公平に記述したジュール・ミシュレさえ(ぼくが好きなあのミシュレさえ)、「人種は重なり合っていく。ガリア人、ウェールズ人、ボルグ人(古代ベルギー人)、イベリア人というふうに。そのたびにガリアの地が肥沃になっていって、ケルト人の上にローマ人が重なり、ゲルマン人がそこへ最後にやってきたのだ」と書いた。

 イギリスとは何か。
 11世紀以前のイギリスは多数の民族の到来によって錯綜していた。ブリトン人、アングル人、サクソン人が先住していたうえに、そこへケルト人、ローマ人、ゲルマン人、スカンディナヴィア人、イベリア人などがやってきて、最後にノルマン人が加わった。大陸の主要な民族や部族は、みんなイギリス島に来ていたのだ。
 この混交が進むにつれて、本来は区別されるべきだったろう「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」の境い目が曖昧になっていった。今日、キラー言語として世界を侵蝕している「英語」とは、こうした混成交差する民族たちの曖昧な言語混合が生み出した人為言語なのである。それゆえOED(オックスフォード英語辞典)後の英語は、これらの混合がめちゃくちゃにならないようにその用法と語彙を慎重に発達させて、「公正」や「組織的な妥協力」や「失敗しても逃げられるユーモア」を巧みにあらわす必要があったわけである。
 こうした調整をするにあたってイギリス人は、自分たちの起源神話をギリシア・ローマ神話にもケルト神話にも、ゲルマン神話にも聖書にも求めることにした。こんなちゃっかりした民族はない。もっとちゃっかりしているのは、このイギリスから派生したアメリカ人だったろう。そのことはトマス・ジェファーソンらがアメリカ合衆国の起源神話として、ひとつにはサクソン人の首領ヘンギストとホルサによる海洋横断をあげ、もうひとつにメイフラワー号の渡航をもってユダヤ人による砂漠横断につなげたことにあらわれている。
 ブリトン人は自分たちの「最初の横断」のことなどすっかり忘れていた連中だった。そこでやむなく、セビリアのイシドルスの記述に従って、自分たちの名の由来になる祖先として「ブリットないしはブルタス」という名を選び出し、これをせっせとヤペテの系譜につなげた。イギリス史学の父と呼ばれたベーダは「ジュート、アングル、サクソンがゲルマニアの地からやってきた」と書いた。
 この系譜はのちに書き換えられた。アルフレッド征服王の史実を正統化するための変更だ。そのうちゲルマン部族のなかで、アングル族とサクソン族のみが(つまりはアングロ・サクソンのみが)、最高神オーディンにまでさかのぼりうる系譜をもっているとともに、セムの系譜に直結しているというふうになったのである。
 イギリス人はヤペテの系譜ではなく、ノアの長子のセムの系譜のほうに位置づけられたのだ。これでうまくいった。アーサー王伝説や獅子王リチャードの伝説がその線でかたまり、その後のイングランド王たちは自分たちがセムの末裔であって、「モーセの民」であることを誇るようになったのだ。ヘンリー8世も、クロムウェルやジョン・ミルトンのようなピューリタン派も、さらにはウィリアム・ブレイクでさえ、イギリス人をモーセの民に帰属させることに賛意を抱いたことには、驚かざるをえない。
 さっそくイギリス人とユダヤ人を積極的に結びつける理屈がいろいろ試みられた。ジョン・トーランドの『大ブリテン島およびアイルランドにユダヤ人を帰化させる理由』は、そういう1冊だ。逆に、そんな安易な選択に反対するウィリアム・プリンの『イングランドへのユダヤ人の召還に反対する小論』なども出回った。
 しかし近代に向かってイギリス人の血を沸き立たせたのは、ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』(岩波文庫)と『ウェイヴァリー』(万葉舎)のほうだ。『アイヴァンホー』は12世紀のイングランドを舞台にした熱血小説で、『ウェイヴァリー』は1745年のジャコバイトの反乱を素材に若い草莾の血を描いたもので、それぞれ英国浪漫を滾らせた。イングランドの血統はスコットランドの血統に対峙し、イギリスの血潮はフランスの血潮を凌駕してしまったのである。

 話をイタリアに進めるが イタリアをフランスやイギリスやスペインと同断の視点でみるのはやめたほうがいい。むろんイタリアの地でも多くの部族や民族が通過していった。ギリシア人、ガリア人、ゴート人、ロンバルディア人、ビザンチン人、ノルマン人、フランス人、ドイツ人、スペイン人などだ。
 さまざまな民族が通過したが、イタリアはフランスやイギリスとちがって、これらの民を決して自分たちの歴史の中心に組みこんではこなかった。イタリアはつねにウェルギリウスが描いた「アエネーイスの物語伝統」と、そこから国が築かれた「古代ローマの遺産」と、そして「歴代のローマ教皇」の上に成立し、いかなるイタリア性も別の国々から援用してはこなかった。
 強調しておいていいだろうが、イタリアにはフランク神話やゴート神話に類したもの、たとえばロンバルディア神話といったものは一度も現出しなかったのだ。ロンバルディアは「ロング・バルブ」(長い髭)という以上の意味をもってはいなかった。中世都市国家群すら、イタリアの民族主義に何の装飾も加えなかった。
 こうした純血イタリア主義ともいうべきを、ルネサンスに向かって派手に確立させたのは、やはりのことイタリア起源神話の流れに最も貢献したダンテである。そのことは『神曲』(岩波文庫ほか)がウェルギリウスの案内による世界めぐりになっているということでも、シーザー(カエサル)を殺したブルータスとカッシウスが地獄の第九獄に配下されていることでも、よくわかる。いいかえれば、ダンテはイタリアを通過した数々の族長には決して関心を示さなかったということだ。ダンテだけではない。ルネサンスのユマニスムを謳歌したペトラルカやボッカチオだって、その代表作『著名男子列伝』や『異教神系譜』に1人の古代ギリシア人すらとりあげなかったのだ。
 以来、イタリアはマッツィーニが「第三のローマ」を謳い、ガリバルディが「ローマか死か」と訴えたように、みんなが“ロムルスの子孫”というアーリア人になりたがったのである。

 では、いよいよドイツである。
 ふつう、イタリアが「個人主義と懐疑主義」に片寄るのなら、ドイツは「群衆心理と熱狂」に加担してきたと言われてきたはずだ。しかしニーチェが言ってのけたように「ドイツ人を定義することなど不可能なのである」。
 ドイツ人には「ゲルマンの初期」と「大ドイツの初期」とのあいだに断絶を見る傾向がある。初期ドイツ人がゲルマン系の言葉を喋っていたというなら、すでにクローヴィスとシルペリクの時代がゲルマン的であったのだし、新たにドイツ的なるものがどこから芽生えたのかというのなら、ドイツ(Deutsche)という語そのものの語源が示しているように、多様な部族間の言語的共同体のあいだから生まれてきたものだった。
 この部族間の言語的共同体のあいだこそが、ドイツ・ナショナリズムの原郷である。このことを真っ先に称揚したのは、誰あろうマルティン・ルターだった。ルターの『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』に明白だ。
 1780年、プロシアの政治家フリードリッヒ・フォン・ヘルツベルクは、ゲルマン民族(アーリア民族)の発祥地はブランデンブルクであって、そここそが「新しいマケドニア」であると言ってみせた。これが何を意味するかといえば、ロマン派の巨人ジャン・パウルがそれをドラスティックに示唆したのだが、「ヨーロッパにおけるどんな戦争も、つまりはドイツ人のあいだの市民戦争にすぎない」ということなのである。
 もうひとつドイツを象徴していることは、あらゆるローマ的なるものを軽蔑してきたということだ。オットー大帝が即位した962年にすでに、大帝の信頼を一身に浴びたクレモナのリウトプランド神父が次のように断言したことにあらわれていた。「われわれ、ロンバルディア人、サクソン人、フランク人、ロートリンゲン人、バヴァリア人、ズェーヴェン人、ブルクントセ人は、ローマ人に対してきわめて大きな軽蔑の念を抱いているので、われわれが怒りを表現しようとするとき、敵を罵るときに、ローマ人という言葉を使うのである」。
 ドイツはその歴史の当初から、民族の秩序としての「ドイツ的な魂の共同的原理」をかこってきた。そう、言える。しかしながら、こんな「ドイツ的な魂の共同的原理」などというものがそうそう現実にあるわけがない。それは“理想のドイツ”という共同幻想の上に咲かざるをえないものだった。しかしその程度の共同幻想では、日本の「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」がそうであったように、ふつうならどこかで歪む。
 ところがドイツにあっては、宿敵フランスとの対立対比が歴史上たくみに作動して(三十年戦争など)、たえず崩れることが避けられてきた。その最も顕著な例が、ナポレオン戦争によってクラウゼヴィッツのドイツ・ストラテジー(戦争論)が確立し、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』(岩波文庫・玉川大学出版部)が熱狂的に受け入れられていったことなどにあらわれた。
 もうひとつ、ある。「ドイツ語がヘブライ語に先んじていた」という勝手な共同幻想が、大ドイツ主義の形成にあずかった。このことは「ドイツ人の世界精神」という観念をいつのまにか肥大させ、疾風怒濤時代のシラーがまさにそうであったけれど、「ドイツの世界精神が人間の教育を永遠におこなうための資源である」という妄想にまでふくらませていったのである。これらがやがてワーグナーやヒトラーのアーリア神話に行き届いていったのだ。

 ロシアはどうか。ロシアには長らく五つの伝承が組み合わさってきた。ロシアという名称の起源となった「ルーシ」の伝承、スラブ族としての伝承、キエフの年代記がもたらすネストルの伝承、各種の民俗習慣やロシア正教の伝承、そしてビザンチウムやロマノフ王朝の伝承である。
 これらの伝承はしばしば「ウラジミール公たちの伝説」というふうに束ねられていたけれど、実際にいくつもの伝承が1つに向かっていく結節点となったのは、1472年にイヴァン三世がギリシアの王女ソフィア・パレオログと結婚したことだった。こうして国民的紋章がビザンチンの双頭の鷲になり、それにふさわしいモノマクの王冠や白い三重宝冠が用意され、モスクワが“第三のローマ”とみなされた。
 そこに加わったのが、ロマノフ家のアナスターシャと結婚したイヴァン4世(雷帝)による「私はロシア人ではない。私の祖先はドイツ人だった」という宣言だ。雷帝はロマノフの王家がアーリア化し、ゲルマンの矜持をもてることを示したのだ。
 この路線を拡大したのはピョートル大帝である。大帝は1700年前後の北方戦争で領土を著しく広域化すると西欧主義を積極的にとりいれ、ロシア官僚主義とロシア絶対主義を築いた。しかしいくらピョートル大帝が夜郎自大なことをヨーロッパに向けて喧伝しても、ドイツ人からすると、ロシア人とはアジア起原の民族か、もしくはアッティラに率いられてヨーロッパに侵入したフン一族の末裔にしか見えなかったのである。
 こんなひどい侮辱は吹き飛ばさなければならない。それに着手したのはピョートル3世に嫁いでこの愚鈍な夫を放逐したうえ殺害し、ロシア全土に農奴制を強化していったエカテリーナ女帝だった。3度のポーランド分割、再度の露土戦争を押し切り、フランス革命を憎んだ稀代の女帝は、スラブ人の人種的優越を鼓吹し、晩年にはスラヴォニア語が人類最初の言語だと自分で執筆するほどになっていた。
 こうして、さしもの不毛の地を多くかかえるロシアにも、カラムジンの『ロシア国家の歴史』や国民詩人プーシキンの歴史観などが出回るようになっていく。実際には、プーシキンの友人だったチャーダーエフが『哲学書簡』に述べたように、ロシアの唯一の特異性は「無」の中にひそんでいたのかもしれない。ロシア革命前のナロードニキの運動、ロシア革命のボルシェヴィズムの運動、ロシア革命後のユーラシア運動などを見ると、チャーダーエフの暗示は当たっていたようにもおもわれる。

 以上が、各国に用意されていたアーリア神話の、それぞれの“正当化”のためのプレ言説である。各国でてんでんばらばらに出入りしてきた言説ではあるが、それが奇っ怪にもしだいに「一つのアーリア神話」に向かって超シナリオ化されていったのだ。
 なぜそんな驚くべき超シナリオがつくられることになったかといえば、冒頭にも書いたように、ヨーロッパ各国に“人類の単一性”についての「聖書に代わる新たな神話」が必要になっていったからだった。
 人類をアダムの末裔として提示したはずの聖書については、早くから疑義がもたらされていた。10世紀のアル・マスウーディーは「すべての人間が一人の父のもとから派生した」という考えのおかしさを指摘して、アダムの前にざっと28種ほどの民族が先行していたことを主張した。以来、このような勝手な仮説はさまざまなヴァージョンとなって歴史思想をかいくぐってきた。とくにこの手の仮説がまことしやかに立案されていったのは、なんと“人間復興”に耽ったはずのルネサンスに入ってからのことである。それも世界思想の駆動エンジンに大きな寄与をもたらしてきた人物たちの手で立案された。
 たとえばパラケルススはアメリカの土着民は“別のアダム”の系譜に属するだろうと問い、ジョルダーノ・ブルーノは「人類はエノク、レビヤタン(リヴァイアサン)、アダムという3つの祖先をもっていた」と説いた。イギリスでは詩人のクリストファー・マーローや数学者のトマス・ハリオットが「ヨーロッパのどんな外国でもアダム以前の人間たちの末裔がひしめいているはずだ」と述べている。
 こうした言説がアーリーモダンおいて最初の異様なセンセーションに達したのは、ボルドー地方のマラーノだったイザク・ド・ラ・ペレールが『ユダヤ人の召還』(1643)や『前アダム仮説に関する神学体系』(1655)を発表したときである。ラ・ペレールは聖書の年代記をいったんご破算にして、フランス王たちは「かつての選ばれた民」を国内に召還したほうがいい、そうすればユダヤ人以外の祖先によるダビデの王国を復活することも可能になると強調した。
 これは、アダムがユダヤ人のみの生みの親であって、それ以外の選民がもっといるはずで、そこには「われわれのルーツ」もあるはずだという主張でもあった。いささかおっちょこちょいだったデカルトやメルセンヌはこの主張にけっこう心を動かした。さすがにパスカルは一笑に付している。

 このような新しい人類起源論の流行を、いまではまとめて「複数創世説」ということができる。人類複数起原説だ。思想家のお歴々たちに人気があった。
 異説が好きなホッブズやスピノザ、後期ヴォルテールや後期ゲーテも加担した。しかし、いざこの仮説を現実社会にあてはめようとすると、けっこうな難題が待ちかまえていた。その難題に最初に出会ったのがスペイン人だった。南米を侵略したスペインが原住民に布教することになったとき、インディオをアダムの末裔と見るか、それとも異民族と見るかで布教方法が論争になったからだ。
 ドミニコ会の修道士バルトロメ・ラス・カサスはインディオをアダムの末裔とみなした。その解釈にローマ教皇庁もフェリペ2世も同意した。ここでは「複数創生説」は破れたのだ。他方、スペインから奴隷労働力として南米に連れていくことになったアフリカの黒人たちについては複数説をとり、「白いインディオ」と「黒いエチオピア人」(黒いアビシニア)を区別した。むろんインディオをアダムの民と見ることと、黒いエチオピア人を白いインディオと対比させることには、あきらかに矛盾があった。
 そこで何らかの工夫が必要になった。その工夫に貢献したのが『ノアの方舟あるいは諸王国の歴史』(1666)を書いたドイツ人のゲオルギウス・ホルニウスである。ホルニウスはノアの末裔に分岐をもうけ、ヤペテ系が白人になり、セム系が黄色人種になり、ハム系が黒人になったとしたのだ。
 やがてスペインの時代がオランダに移り、それがイギリスに移っていくと、こうした人種論に“科学の目”をからめることが流行した。ラ・フォンテーヌはそうしたイギリス人の趣味を、「いたるところで科学の王国を広げているイギリスのキツネたち」と呼んだ。アーリア人種は「科学の王国の住民」にもなったのだ。
 近代科学のプロトタイプとなった数々の科学論や哲学論が、人種についてそうとうにめちゃくちゃな議論を正当化しようとしていたことについては、もっと知っておいたほうがいい。
 ジョン・ロックは「猫とネズミをかけあわせた動物」がいるだろうように世界の人種を見ていたし、レオミュールは「ニワトリとウサギのかけあわせに類する実験」のあれこれに成功したとフランスでは信じられていた。「最小作用の原理」を確立した数学者で、ベルリン科学アカデミーの会長だったモーペルテュイでさえ、皮膚の白さと黒さを比較することがきっと人種の優劣を決める科学になりうると考えていた。
 なかで最も有名な過誤を犯したのは、かの分類学の泰斗のカール・リンネだ。その『自然の体系』にこっそり“人間”の項目を入れたリンネは、大胆にも次のように人種分類をしてみせたのだ。
◎エウロパエウス・アルブス(白いヨーロッパ人)=白くて多血質。創意性に富み、発明力をもつ。法律にもとづいて統治される。
◎アフリカヌス・ルベスケウス(赤いアメリカ人)=赤銅色、短気。自己の運命に満足し、自由を愛する。習慣に従って自身を統治する。
◎アジアティクス・ルリドゥス(蒼いアジア人)=黄色っぽい、憂鬱質。高慢、貪欲。世論によって統治されている。
◎アフェル・ニゲル(黒いアフリカ人)=黒くて、無気力質。狡猾、なまけもの、ぞんざい。主人の恣意にもとづいて統治されている。
 リンネの“理論”はビュフォンの「退化の理論」に受け継がれ、やがてはルソーの『人間不平等起原論』の中で想定された“自然人”のカテゴリーにまで突っ込んでいく。こうして事態は18世紀末のクリストフ・マイナースの「人種理論」の創成に向かっていったのだ。マイナースはのちにナチスが評価した“早すぎた人類学の父”となった過誤の先駆者だった。

 近代思想の流れのなかで、ダーウィンの進化論ほど誕生したその日から勝手に歪曲されていったものはなかった。なかにはスペンサーのように、まっとうに社会進化論に適用されたものもあったけれど、おおかたは度しがたい進歩思想と優生思想がさまざまに組み立てられ、捏造され、流布していった。
 その頂点にいたのがフランスの外交官で歴史家で、また東洋史の研究者であって、かつ人種的社会学の創始者ともなったジョセフ・ゴビノーだ。悪名高い『人種不平等論』を書いた。
 ゴビノーは聖書の読み直しから出発し、「創世記」が「美と知と力をひとりじめ」にしている白い人類を強調していることに着目すると、その白い人類は北方アジアから出てきたと推理した。ウクライナ平原を遊牧していたキンメリア人やスキタイ人を含む「アーリア人」に、白い人類の源流を見いだしたのだ。このアーリア人はそれまでの聖書学の慣習に従って「ヤペテの民」と呼ばれた。ゴビノーは、ヤペテとハムとセムが最初の白人となりながらも、それが分岐していったとみなしたのだ。
 ゴビノーは人種には「人種の本能」というものがあり、そこに吸引の法則と反発の法則がはたらくと考えて、これこそが宿命的な歴史科学なんだと思いこんでいた歴史家だった。吸引の法則というのは人種の混交を受容していく傾向のことを、反発の法則は混交を避ける傾向をいう。2つの法則がはたらいて、ハム人は黒い血との混交を吸引しすぎて飽和と劣化をくりかえし、セム人はそれよりもゆっくりした程度ではあるが劣化した。それに対してヤペテの子孫であるアーリア人は、キリスト教の初期時代あたりまで純粋を保ってきた。ゴビノーは、そう、あてはめたのだ。ちなみにユダヤ人はセムの初期の血をやや純度をもってきた者とみなされた。
 ゴビノーは、どうにも理屈の整合性がない構図を自信をもって提示したのである。もっとも、アーリア人もキリスト紀元以降はフィン人をはじめとする各種の民族と混交したためしだいに堕落していったと見て、決してドイツ人ばかりに好意の例外性を与えはしなかった。

 ゴビノーのトンデモ仮説は、当初はまったく評価を受けなかった。ゴビノーはがっかりしていた。そのためオーギュスト・コント、エルネスト・ルナンらはゴビノーを慰め、君の主張はきっとゲルマン諸国で受け入れられていくだろうと激励したほどだった。実際にはゴビノーとはべつに次のような思想家たちが似たような言説を強調したため、このトンデモ仮説はまことしやかな恰好で広まった。
 たとえば、“自然哲学の父”と称ばれたシェリングは白人には最も重要な高貴があると考えて、『神話の哲学』では人類を「人間的な人種」(ヨーロッパ)、「動物的な人種」(アフリカ・アメリカ)、「中間的な人種」(アジア)に分けた。そのうえで「コーカサスの人種の祖先のみがイデーの世界に入りこむことができる唯一の人間だった」と、暗にアーリア人を称揚した。ドイツの自然主義哲学のパイオニアになったローレンツ・オーケンも、モンゴル人、アメリカ・インディアン、アフリカ黒人に言及し、結果的にゴビノーの歴史科学に似た言説を披露した。「黒人が赤面できないのは、内面的な生活がないからである」などという噴飯ものの強烈な差別発言もまじっていた。
 ヘーゲルだって、同じような人種論を展開した。有色人種や黒人に対して劣等性を与えただけでなく、アフリカのような地域の全体を世界史の枠組みから外してしまった。それどころかヘーゲルの世界史は、①ゲルマン民族の発端からシャルルマーニュまで、②シャルルマーニュから宗教改革まで、③宗教改革からヘーゲル自身の思索の成就まで、というような鼻持ちならない3段階でフレーミングされていた。
 無神論者のフォイエルバッハはちょっと捻りを加えた。たいしたアイディアではないが、ゲルマン的本質に男性的な哲学原理を、フランス的なるものに女性的な思索原理を対比させたのだ。そのほか、昭和初期の日本で大流行した『唯一者とその所有』のマックス・シュティルナーはやや積極的に「人類の歴史は、コーカサスの人種の天を征服していくことになるだろう」と予想した。もしそれがナチスの先取りだったとしたら、シュティルナーがヒトラーの先駆者だったということになる。 
 マルクスやエンゲルスはどうだったかといえば、残念ながらこの件についての例外になりえていない。エンゲルスの『自然弁証法』は人種の下等性を動物に譬え、黒人には数学能力がないだろうと書いた。ただ、セム人とアーリア人については同一のホリゾントに並べた。
 ショーペンハウアーはどうか。さすがに人種主義には陥ってはいなかったろうとぼくはおもっていたが、本書の著者はショーペンハウアーが「アーリア主義」と「セム主義」を対比させるという方法をドイツ国民に普及させるにあたって、最も影響力と洗脳力を発揮した最初の人物だったと見ている。そうだとするのなら、この「意志と表象の哲人」はユダヤによって窒息された西欧思想をユダヤ思想から解き放つのに、はからずも貢献してしまっていたのだということになる。それならビスマルクも同じ役割をはたしただろう。この鉄血宰相はゲルマン人を奮い立たせるのに、たいていスラブ人とケルト人を引き合いに出したのだ。
 歌と社会の革命詩人ハイネとなると、もう遠慮もしていない。「われわれドイツ人は最も強く最も知的な民族である」と歌って次のように高揚させた。「われわれの王朝はヨーロッパすべての王位を占めており、わがロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配しており、わが学者たちはすべての科学を支配しており、われわれは火薬と印刷術を発明したのである!」。ずいぶんの誇張だが、こうなるともはや誰だって“早すぎるヒトラー”だったのである。

 通俗科学者たちもドイツ・アーリア主義の普及に寄与した。カール・カールスはジネコロジー(婦人科学)を標榜して無意識にひそむゲルマン魂を説明して、ドイツ人のプシュケーを見えるように仕立ててユングの先駆者の役割をはたしたし、ヴォルフガング・メンツェルは「ゲルマン狂い」(ゲルマン・マニー)になることこそ、普遍的な人間の魂や悲劇に触れうることだと訴えた。
 もはやニーチェは間近かなのである。ニーチェはプロメテウスの神話とアダム堕落の神話をアーリア的本質とセム的本質に結びつけた。決してアーリアン・スピリットばかりを強調したわけではなかったけれど、それはニーチェ自身の思想においてはそうであっただけで、これを読んだ者たちには「超人」こそアーリアン・スピリットの体現者と映っていったはずだった。
 こうして世紀末に向かって、ゴビノーのアーリア主義は数々の思想の意匠と尾鰭を身につけ、数々のえり抜いた言葉に飾られ、ついに1人の音楽家によって絶頂にまで高められたのだ。それがリヒャルト・ワグナーのオペラ・ファンファーレというものだ。もう、どうにもとまらない。
 ダーウィンがうっかり『人間の由来』を書いたのはよけいなことだったかもしれない。すでにパリに発足していた人類学会にとって、ダーウィンが人種にも進化生物学が適用できるというお墨付きをもたらすかたちになっていったからだ。
 フランスの形質人類学のリーダーとなったポール・ブロカは「アーリア人種という用語は完全に科学的である」と確信し、ヘブライ人の原型である“ヘブロイド”などという人種を提唱したほどだった。堰は切って落とされたのだ。こうなっては誰もが黙っていない。マルスラン・ベルトゥロは「アーリア人とギリシア人が比喩の多い言葉を使う理由」を語り、イッポリト・テーヌは「言語と宗教と文学と哲学とが血と精神の共同体となりうる理由」をとくとくと解説し、言語と文化と人種をごちゃまぜにすることにあれほど警戒をしていた文化人類学の創始者であるエドワード・タイラーでさえ、ついついアーリアン・ヒストリーについては寛大な姿勢を見せ、原始アーリア人はウラル・アルタイ系の短頭人だったのではないかといった勇み足もしてしまっていた。これでは長頭のフランク人がアーリアの源泉からずれることになる。

 新たな問題も浮上していた。それは言語と人種についての関連が濃くなってきたぶん、大英帝国の植民地となったインドについての調査と研究も深まってサンスクリット語の研究が進み、ヨーロッパ・アーリアとインド・アーリアの区別がつきにくくなっていったということだ。そのため、ここに「インド・ヨーロッパ語族=アーリア語族」という等式がいったん浮上したのだが、ヨーロッパ人たちにとってはこれでは困る。ヨーロッパ人とインド人が一緒くたでは困るのだ。なんとかしてヨーロッパ・アーリアの優秀を強調しなければいけない。
 かくて20世紀はいっそうに、アーリアのための人類学、アーリアのための言語学、アーリアのための神話学、アーリアのための歴史学が過剰に演出されることになった。それとともに、それを言い募るには近隣の人種をもっと激しく睥睨するか、もっとありていにいえば糾弾する必要に迫られたのである。いよいよフランスを筆頭に「反ユダヤ主義」の旗が大きく振られていくことになる。
 アーリア主義と反ユダヤ主義の結びつきを確固たるものとしたのは、エラズマズ・ダーウィンの孫で、チャールズ・ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンである。この男がここまでの気運に後戻りがきかないような決定的な方向を与えた。
 ゴルトンはケンブリッジ大学を出るとスーダンの首都ハルツームでダーウィン家独自の調査研究に携わり、『熱帯のアフリカ』や『旅行学』といった著書を執筆するような青年研究家だった。これで気象学に関心をもったゴルトンは各地の文化地理というものの特質がどのように生まれてきたかという研究に転じて、そこからひそかに人類の遺伝形質の分類をするようになった。
 やがて家系や血統によって才能が不平等に分布していることに気が付くと、『遺伝的天才』を発表して「人間性の堕落」の要因がどこかにあるだろうと究み始め、しだいに人類の今後の歴史において人種が無差別に堕落していくことを警戒するべきだと考えた。
 こうして1905年前後、「最も優秀な民族や人種こそが未来の人類文明を築くために断乎として残る」ということの重要性を訴えるべきだと確信すると、ついにゴルトンはそこから「優生学」(eugenics)という忌まわしい擬似科学をつくりだしたのである。優生学の目的は「不適応者が生まれるのを許さず、その出生率を抑制する」というものだった。どうすればいいか。「断種」を実施するべきだというふうになった。
 ゴルトンの優生学はイギリスからアメリカに飛び火し燎原に広がった。インディアナ州とカリフォルニア州を皮切りに、アメリカ各州で断種法が次々に可決成立し、チャールズ・ダヴェンポートらによって優生記録局が設立されると、アメリカ中で断種が奨励されて、各州で数千人ずつがその対象になった。かくてアメリカでは1925年までに約30州で優生学と断種が奨励されるにいたっていた。
 この優生学的断種運動がふたたびイギリスに逆流し、それがドイツに転化して、1933年に総統ヒトラーによる「ドイツ断種法」の成立になっていったのだ。
 これでわかるように、先進列強のなかでヒトラー・ドイツはこの運動の後発部隊だったのである。多くはイギリスとアメリカが用意していたものだった。ただしドイツはその二年後に「ドイツ民族の血統と名誉を保護する法」というとんでもない法を付け加え、以降、アーリア・ドイツ民族とユダヤ人の結婚と性的関係を禁止した。
 優生学が最後にドイツで開花してしまったことが、アーリア神話をユダヤ人虐殺に結びつけた。ヒトラーが1935年に大学教授に任命したアルフレート・プレーツは、優生学を「人種衛生学」に改変し、ドイツ最大の産業家のクルップがその研究に資金を拠出した。
 アーリア神話はドイツ民族神話としての忌まわしい輝きさえ放った。パウル・ド・ラガルドがこれらを丹念に「ドイツ教」に組み替えて、ドイツ教すなわちアーリア主義をユダヤ教に対比させることに成功したのである。ラガルドは「ユダヤ人がユダヤ人をやめるのは、われわれがドイツ人になるにつれてのことだ」と言って、ユダヤ人虐殺の先鋒を切った。
 問題は、そうしたラガルドの言説を初期のカーライルもトーマス・マンもバーナード・ショーも許容してしまっていたこと、そのラガルドの言説がヒーストン・スチュワート・チェンバレンによって『十九世紀の基礎』『西欧の歴史におけるユダヤ人』といった啓蒙書として普及し、それがついにアルフレット・ローゼンベルクの手による『二十世紀の神話』(中央公論社 1938)として、ヒトラーに献上されてしまったこと、それが『わが闘争』(角川文庫)の一部を飾ってしまったことである。
 ポリアコフは次のように書いている。ヒトラーやムッソリーニは新たな神話を捏造したのではない。1500年にわたってヨーロッパを動いてきたアーリア・ゲルマン神話を『サリカ法典』や『神曲』やルターの聖書注釈のようにまっとうに援用したのである。むしろルネサンスの人文主義者や啓蒙時代の思想家たちが、この流れを一度も食い止めることができなかったことが、アーリア神話をヒトラーの手に委ねさせることになったのだ、と。