才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

> アーカイブ

閉じる

四川と長江文明

古賀登

東方書店 2003

編集:朝浩之・阿部哲
装幀:戸田ツトム

長江上流の四川に古代巴蜀文化があった。
戈族(かぞく)や羌族(きょうぞく)がいた。
建木神話、養蚕技能、鵜飼文化に富んでいた。
その昔は有尾人や緑目人の伝説もあった。
この四川巴蜀のさまざまな地に、
夏王朝にまつわる鯀や禹の事跡が
いきいきと伝承されていた。
いったいそこから、どんな原中国が見えてくるのか。
古賀センセイの面目躍如である。

◎・・この本で調査され推理されていることを、著者の奔放なイマジネーションの翼に合わせて短くまとめるのはできそうにもないが、過日の一夜、このやや分厚い一冊を読みながらマーキングなどしていたらさまざまな連想と思案が去来して、ぼくにも鮮明な長江文明像が浮かび続けていたこと、いまでもありありと思い出せる。
 扱われているのは、長江上流域に広がっていた古代巴蜀文化である。長江は下流の揚子江を含めた大河で、北の黄河と並ぶ。その長江のそのまた上流域の現在の四川省あたりに蜀と巴の古代文化が栄えたのである。その担い手たちや風土をまとめて巴蜀という。四川にはいまでも2つの中心都市として、成都と重慶があるのだが、そのうちの蜀が成都を中心に広がり、巴が重慶を中心にして勢力をもっていた。重慶地域を含まない四川地域だけで、いま人口が1億人を突破しつつある。

◎・・蜀は、いうまでもないだろうが、三国時代の劉備が諸葛孔明の「天下三分の計」にもとづいて入蜀した、あの蜀だ。そうではあるが、それ以前にすでにマジカルな地として『淮南子』や『山海経』に登場していた。
 一方の巴は、その『山海経』海内経に「西南、巴国あり」と記された国で、巴人たちが古来このかた建木を崇めたと伝えられてきた。建木は神樹のこと、日神の木といわれてきた扶桑のことをいう。扶桑は東海の島にあったとされたため、中国から見た日本のことを「扶桑国」と言うようにもなった。11世紀に『扶桑略記』があり、芭蕉も『奥の細道』に「松島は扶桑第一の好風にして」などと綴った。

◎・・本書はその長江上流の巴蜀の国々を、古代に立ち戻ってさまざまに踏破しつつ、禹の足跡の背後にひそむものを蘇らせたスリリングな本だった。夏王朝の創設王であり、各地に禹歩伝説をのこした禹について、夏王朝のほうからではなく、意外な視点から新たな仮説を提出してみせた。
 意外とはいえ、そもそも皇甫謐や孟子が「禹は石紐に生まれる、西夷の人なり」と紹介していたわけでもあって、石紐は汶山郡広柔県、あるいは北川県の岷山付近のこと、いずれも四川なのである。本書はそうした禹跡の地域をただならない想像力をもって渉猟してみせた。

◎・・著者は早稲田大学で中国古代歴史を教えていたセンセイである。本書を刊行したときが77歳だった。その旺盛な調査研究熱は円熟して凄まじく、早稲田大学長江流域文化調査隊として初めて四川の天回山に立って、成都の平原をはるばる望んだのが67歳だった。ぼくはこのセンセイが『神話と古代文化』(雄山閣)というスサノオ伝説を中国的に解きまくった大冊にも、けっこう酔った。
 ただしこのセンセイ、文脈が次々にとぶ。それもすこぶる奔放で、細部が超部分になって別の細部にとんでいく。だから、アウトラインを紹介するというのは、いささか難しい。以下の啄みにおいても、古代中国を低空飛翔する香りと速度のようなものを感じるにとどめてほしい。

◎・・蜀について。許慎の『説文解字』は、「蜀」という文字は「葵中の蚕なり。虫に従い、上の目は蜀の頭形を象り、中はその身の蜎々(うごめく)たるを象る」と説明して蚕の象形を暗示した。白川静は「牡の獣の形。虫の形は獣の牡器で、その獣を獨という」と説明している。はたして四川の地の牡器が何にあたるか興味深いところだが、古賀センセイはあれこれの推理を総合して、ここに養蚕が独自に始まったと見た。
 中国の養蚕伝説には、いくつかのヴァージョンがある。主なものは①嫘祖伝説、②蚕叢伝説、③馬頭娘伝説だ。
 ①の嫘祖は黄帝の夫人で初めて養蚕をしたという伝説になっている。その故郷は塩亭県で80以上の嫘祖の故事を伝える旧跡がある。②の蚕叢伝説というのは、揚雄の『蜀王本紀』が蜀王の先祖の名は蚕叢だったと伝えることにもとづいている。蜀王は「蚕がむらがる」という名だったわけだ。李白も「蚕叢より魚鳧に及び、開国なんぞ芒然、爾来四万八千歳」と詠んだ。魚鳧は何代目かの蜀王のことをいう。③の馬頭娘伝説は忘れがたい話だ。東晋の干宝『捜神記』(この本は汲めども尽きない話がいっぱいつまっている)にプロットが載っている。

◎・・馬頭娘伝説について。ある大官が遠方に出征して、家には娘一人と馬一頭だけが残っていた。寂しくなった娘が馬に向かってちょっと冗談を言った。「おまえがお父様を連れ帰ったら、お嫁さんになってやるよ」。
 この言葉を聞くなり馬は手綱を引きちぎって走り去り、大官のもとに達した。父親は驚いたり喜んだりしたが、馬がしきりに悲鳴をあげるので何か家に異変がおこったのかと大急ぎで帰った。娘がわけを話した。父親は驚いて「誰にも言うな。家門の恥だ。おまえは外に出るな」と言い、石弓で馬を殺し皮を剝いで庭に干した。ある日、父親が外出したあと、娘が庭の馬の皮を踏むと、馬の皮が突如として立ち上がり、娘を包みこんで飛び去った。それから数日後、庭の大木で蚕と化した娘が糸を吐いていた。その繭はふつうの繭よりずっと大きくて、数倍の生糸がとれた。それでその木を「桑」と名付けた。

◎・・馬頭娘の話は、『山海経』の「西南黒水の間、都広の野あり。后稷ここに葬られる」とか「その城方三百里、天地の中、素女出づる所なり」などの記述にも通じる。后稷は周王朝の始祖神である稷棄のこと、素女は「しろぎぬのをんな」、すなわち蚕のこと、都広の野は岷江流域のこと、黒水は四川の羌族の住む地域を流れる河のことをいう。
 これらを比較検討して、センセイは中国の養蚕伝説が羌族の伝承とともに、北緯31度~32度、東経104度~105度の四川あたりに起源したと推理した。そこには「蚕陵」というシンボルもあった。吉武成美の家蚕起源の研究でも、四川や北インドに野蚕が棲息していて、その馴化はその地の独自の方法で試みられたことが示される。

◎・・以上、四川―羌族―養蚕―馬頭娘という関係線はいろいろなことを連想させる。なんといっても四川には有名な建木神話がある。ここからは桑伝説のおおもとになっている扶桑神話が飛び立ってくる。
 四川にはまた三星堆遺跡に出土したマスクをつけたような凸目の青銅像がある。一度見たら忘れられない。センセイはここから蚕叢伝説の青銅化の流れを引き出し、この青銅像の主が太陽神であって、きっと鍛冶神であろうと仮説した。おそらく蜀で最初に王を称したのが蚕叢王だったのである。もっとも、その王は縦目だったとも言われている。縦目とは何か。柳田國男の一つ目小僧がどこかを走る。

seigow – marking[145202]

◎・・四川の羌族は戦国時代に岷江流域に入ったとみられている。ただそれについては、いくつの奇妙な先行伝承がくっつきまわっていた。
 羌族が移住してくる前にすでに「戈」とよばれる部族が住んでいて、理県のほうではこの部族たちを「葛」と呼び、また別の地域からは「戈邁」とか「阿戈」と称されていた。戈人は体が大きく全身に毛がはえていて、大きな目からは緑色の光を発し、腕と足が湾曲して尻尾をもっていた。つまり有尾人なのである。『山海経』におなじみの怪物たちに似ている。
 そういう感じの連中がいたらしいということは、羌族がこの地に入ったときには闘争か共存かがおこったということだろうけれど、いくつかの伝承から両者は争ったことがわかる。羌族のシャーマンが「羌戈大戦」という英雄史詩にのこしている。羌は戈に勝ったらしい。戈や葛という文字はもともと富裕や財産が多いという意味をもっているので、羌はその富を保有したのであろうと想像される。その富を養蚕がもたらしたにちがいない。

◎・・羌族の一部族である彝族には、東アジアの人類の祖先がそもそも縦目人だったという異様な伝承がある。その縦目人は神意にそぐわず絶滅したという。
 もう少し詳しくいうと、彝族の創世史詩「先基」では、この世にはアリのような盲目人がいた。アリの盲目人は七つの太陽の出現によって絶滅し、そのあとにバッタの縦目人があらわれた。けれども水牛族と山羊族が争い、そのせいで生じた火が燃え広がって焼け死んだ。次にあらわれたのがコオロギの横目人だったが、こちらも大洪水で流されて死滅した。こうして横に2つの目が並んだ横二目人が登場し、そこから彝族、哈尼族・漢族など36の民族が分かれていった。横二目人というのは、われわれ人類のことである。
 なんだか奇妙な生物進化史みたいだが、このような伝承はほかにもある。『漢書』天文志に、哀帝の四年に「縦目人が来る」と騒がれたことがあったと記されている。哀帝のときの縦目人はどうやら他界からやってくる恐ろしいものたちのことだったようだ。
 そういう記述をあれこれ総合すると、蜀王が縦目であると伝えたのは戈人のほうで、羌や蜀が戈を追いやったことが逆に征服者の惧れになるように付着されていったのではないかと考えたくなる。

◎・・羌族たちが「戈人は尻尾をもった有尾人である」と言ったという伝承は、縦目伝説の逆の仕方で伝承化されたものだ。羌族や蜀人が先行する部族たちの技能を盗んだか、もしくは継承したことを、巧みに形容した話だったのだろう。
 古賀センセイはこういう例もあげている。湖南省の武陵山にいた槃瓠の蛮族たちが有尾人と言われてきたのは、その部族に「犬祖伝説」があって、しかも木皮による染めの技能をもっていたのだが、その技能をその後に強者に奪われたからであった、と。蜀巴の地にはそうしたオリジナルとヴァリアントの複雑な関係が時代をかけて同時に物語られてきたことが多かったのだろう、と。

◎・・有尾人について。巴蜀の有尾人伝説は養蚕だけから発したのではない。石削技術や青銅・鉄の精錬技能なども関連していた。四川はもともと鉱物資源に恵まれていた。とくに鉄分を含む緑色岩が豊富に採れた。そうだとすると、戈人に毛がはえていて目からは緑色の光を発しているというのも、鉱山関係者のメタファーだったのである。
 日本にも似た話があった。『古事記』の神武東征で神武が吉野に入ったとき、井戸が光って見えたので尋ねると、「私は国つ神で、名を井氷鹿と言う」と答えた。そこでその山に入ると尾のある連中がいて、自分たちは「石押分」の末裔だと言った。この話を『古代の朱』(学生社→ちくま学芸文庫)の松田寿男さんが水銀の縦坑のことをあらわしていると推断したのはよく知られている(松田さんはぼくの早稲田時代のアジア学会の顧問のセンセイだった)。土にかかわり、「岩に入るものたち」(たとえば土蜘蛛)が古代の者にとってははなはだ有尾的に見えたということなのである。

seigow – marking[145203]

◎・・蜀王には名前がついている。初代が蚕叢で、次は柏灌、その次は魚鳧だ。三代で約1500年ほどがたつ。このうち柏灌の名は、この風土に扶桑信仰に続いて柏樹信仰があったこと、それらが「建木神話」を担っていたことを物語る。
 魚鳧という名は、この時代になって蜀や巴で鵜飼がさかんになっていただろうことを想定させる。だいたい中国で鵜飼が有名なのが四川なのである。宋の沈括の『夢渓筆談』にも、四川の水辺にいる者たちの多くが鵜飼をしていた、鵜は川辺の樹上に群棲するのでその糞尿で樹木が霜雪のように枯れる、それを蜀水華と言うのだと書いてある。
 三星堆からも鵜を象った青銅製の鳥がかなり多く出土した。この金属技能はもともと巴人がもっていたもので、それを甘粛の斉家文化→寺窪文化というプロセスをへて戈人の漁労集団が獲得したものだったろう。

◎・・『山海経』大荒西経に、このようにある。「魚あり、偏枯、名を魚婦という。顓頊死して即ち蘇える。風、北より来れば、天すなわち大水溢れだす。蛇すなわち化して魚となる。これ魚婦たり」。とても有名な一節だ。顓頊は北方の王であって、季節は冬に、五行は水に配当されてきた。嬴姓をもっていた。顓頊は冬を統括して万物を春に蘇らせる水神なのである。
 四川ではしばしば大洪水がおこった。洪水を生んだのは鯀である。だから堯は祝融をして鯀を羽山に押し込まさせた。けれども洪水はとまらない。その鯀から生まれたのが禹であった。禹は洪水を治めて、堯に称えられた。
 この話は連環している。古賀センセイは禹が洪水を治めたという洪水神話について次のように仮説できるのだと言う。「鯀の洪水神話は霊亀信仰をもつ種族がつくったものであり、禹の治水神話は蛇神信仰をもつ種族がつくったものである。両種族とも姒姓なので、鯀と禹は親子だとみなされた」。
 四川では禹が治水でめざましい活躍をした話はあまりのこっていない。代わって、鯀はのちのちまで治水にかかわったと伝えられてきた。四川では鯀の悪口を言わないのだ。そこには四川の「霊亀信仰」があずかっていた。

◎・・禹は後継者に皋陶を選んだが、早く死んだので益に任せた。益は顓頊の孫娘の女脩が燕の卵を吞んで生まれた。益は伯益または伯翳・柏翳とも呼ばれた。ついで啓が位につくのだが、その啓は母なる石から生まれた。啓母石は嵩山中岳の南麓にある。
 啓の着位については有扈氏が逆らって反乱をおこしたので、啓が有扈氏を甘の郊で戦って制したという話がのこっている。この話は、益から啓への禅譲もしくは放伐に有扈氏がからんでいたのではなく、啓が益を襲ったことに有扈氏が抗議して、かえって啓に撃たれたことを裏で説明している。反乱には鯀も加わったふしがあるからだ。鯀はこのような親族の争いに割り込んだため、夏王朝での評判を落としたのだ。

『大載礼記』帝繁の系譜

◎・・宮崎市定は、早くから中国最古の文明の発祥地は山西省南西部の安邑で、その安邑がのちの夏王朝の最初の都だろうと唱えていた。最近ではチベット学者の佐藤長がこれを支持し、二里頭文化のもとに発した夏后氏(夏の一族)は塩池経営によって勢力をえて河南に進出したと、宮崎説を発展させた。
 古賀センセイはこれをさらに発展させて、啓が安邑から南進して益の陽城を襲ったのではないかと仮説した。加えて、禹の洪水伝説をめぐってさまざまな物語が生まれたのは紀元前2000年前後のことで、この時期、中国大陸がヒプシサーマル期(温暖上昇期)に当たっていただろうこと、そのため各地で水にまつわる異常な物語が発生したのであろうと大胆に推理した。ぼくが学生時代に影響をうけた鈴木秀夫説の援用である。

◎・・巴人について。巴河はまんまんたる水を湛え、往時は水が澄んで「巴」という小魚が無数に泳いでいた。その流域に巴人がいた。
 巴人による巴国の建国については、古くからこういう話がある。武落(湖北省長陽県)の鐘離山の赤穴から巴氏の子が出現し、黒穴から出てきた連中と神通力を争って勝ったので、廩君となった。その後、泥舟に乗って夷水をさかのぼり、塩水の北岸で塩神を射殺して、いまの恩施市の夷城で巴国を開いた。「廩君伝説」である。この話、どこか夏后氏の塩池経営との関連を思わせて興味深い。

◎・・養蚕をおこした嫘祖の出所は塩亭県である。その系譜は『大戴礼』では、黄帝の妃の西陵氏の子が嫘祖で、その嫘祖が昌意を生み、その昌意が若水に天下りして蜀山氏の娘を娶り、顓頊を生んだというふうになっている。
 巴人と蜀人、そして華人はどこかで捩れて重なっているのだ。いや、そもそもセンセイは廩君その一族そのものが太昊伏羲の子孫だとおっしゃっているのである。これは考えさせられる。

◎・・つまりは、こういうことらしい。古代巴蜀の建国伝説は太古においてすでに養蚕・柏樹信仰・鵜飼・太陽伝説・霊亀観念・聖石崇拝をもっていて、そこに稲作が入ってきた。これが黄河文明には見られない独特の長江文明の母型をつくりあげた。こういうことだが、そうだとすると、四川の長江はナイル・インダス以上の古代文明の母型だったということだ。
 これらをさらに特色づけたのは三国時代以降の五斗米道が四川に流入したことだ。そこにはおそらく濃密なタオイズムが脈動した。初期道教だ。そもそも諸葛孔明が天下三分の計をなす前に四川の蜀に目をつけたのは劉焉だった。そこに張陵や張魯の五斗米道が広がりつつあった。曹操が漢中を破ったので、張魯は巴中に逃れていたのだ。
 この初期道教を伴う思潮と習慣が長江を下って、呉巫や越巫のほうへ降りていったのだろう。蜀から来た李寛は呉に来ても蜀人の方言を使い、水に呪いをかけて病気を治した。古代巴蜀文化はこうして長江を下っていったのである。センセイ曰く、「蓋し巴蜀は百川を入れる大湖にして、百川を出だす大湖である」。

◎・・なお本書には第10章「巴蜀と日本」があって、日本にひそむ長江文明の曳航が小論文になっている。ただこの課題については、なんといっても大著『神話と古代文化』(雄山閣)が控えているので、ここでは安直な紹介ができない。
 スサノオの領域、ヤマタノオロチ伝説、牛頭天王・蘇民将来論、オオナムチ(大国主命)論考、スクナヒコナと后稷の関係、ホオリノミコト考、カグツチ殺害論、諏訪大社の背景などは、こちらを読まれたい。とんでもない仮説に満ちている。古賀センセイの面目躍如だ。古代中国を見なかった柳田や折口の民俗学ではこんな仮説にまで届かない。


seigow – marking[145204]本書の目次ページのマーキング

『四川と長江文明』
著者:古賀登
2003年6月20日 初版第1刷発行
発行所:株式会社東方書店
編集:朝浩之・阿部哲
装幀:戸田ツトム

まえがき
関連地図
都広の野 ―四川と長江文明
一 巴蜀行
二 石紐探訪
三 蚕陵行
四 謎の戈基人
五 宝墩遺跡発掘
六 魚鳧考
七 杜宇考
八 鯀・禹・鼈霊
九 巴人と蜀人
十 巴蜀と日本

補論一 杜伯国考
はじめに
一 杜伯国の成立をめぐって
二 杜伯死後の杜氏の行方
三 杜伯国は蜀の杜国が移ったもの

補論二 巴人と賨人
はじめに
一 巴人と廩君蛮
二 賨銭四十と板楯蛮
三 賨人と巴氐
四 華人・巴人・廩君・槃瓠
まとめ

古代巴蜀略年表
あとがき

古賀登(こが・のぼる)
1926年神奈川県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。早稲田大学文学部助手、助教授、教授を経て、現在早稲田大学名誉教授。文学博士。四川大学文学院歴史系文化芸術史研究センター顧問。