才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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神話から歴史へ

「中国の歴史」第1巻

宮本一夫

講談社 2005

編集:礪波護・尾形勇・鶴間和幸・上田信
装幀:鈴木成一

中国文明史のルーツは
いったいどこにあるのだろうか。
仙界?  黄河?  長江?  海辺?
そこに中国的な「母国」を求めるとすると、
どんな伝承と事実とを組み合わせればいいのだろうか。
前夜の顔行健のチャイニーズ・オデュッセイをうけて、
ここにごくごく初歩的な
中国文明の神話と歴史の接点を
いくつかお目にかけておくことにする。

 中国とは何か。国名ではない。国家でもない。文明である。そのルーツは「天下としての中国」もしくは「京師としての中国」に始まっていた。
 古代の中国という名称は、『詩経』大雅の「生民之什」に「この中国を恵み、もって四方を綵んず」とあって、その注に「これは京師のことである」とあるように、狭くは都のこと、すなわち首都のことを意味していた。さもなくば司馬遷が『史記』孝武本紀や封禅書に、「天下の名山は8つあって、その3つは蛮夷にあるが、5つは中国にある。中国は華山・首山・太室・泰山・東莱で、この五山に黄帝がつねに神と遊んでいた」と書いたように、全域を「天下」とよび、そのうちの特定地域を日本の“葦原中ツ国”と同様の呼び方で「中国」とみなしていた。
 この特定地域の「中国」は、現在の陝西省を流れる渭河の流域から始まって河南省の黄河の中流をへて山東省におよぶ細長い地域をさしていた。いわゆる「中原」だ。五山もここにあった。
 これが黄河の古代都市文明のトポスであり、「中国」だったのである。なぜこんなところに文明文化が発祥したかといえば、かつて鋭眼の岡田英弘が『中国文明の歴史』(講談社現代新書)に意を尽くしたことを書いていた。すなわち「この地の生産力が高かったからではなく、むしろ黄河が交通の障碍だったからである」。なるほど、そうだった。文明としてはいまや長江文明のほうが古くて広いだろうということになったが、都市文明としては黄河流域の「中国」が中国だったのである。

 黄河は青海省の高原に源を発して東方に流れ、積石山を大きく迂回して東北に方向を転じ、甘粛省の南部を横断すると、寧夏回族自治区でモンゴル高原に出てから陰山山脈の南麓を東方に流れる。
 古くはこのまま内モンゴルを東へ流れて桑乾河水系となって今日の北京市から渤海湾にゆったりと落ちていたのだが、ここで地殻変動がおこって方向を変じ、急流となって南下すると山西省と陝西省の高原を分かって秦嶺山脈の北麓に衝突し、そこで渭河を巻きこんで東方に向かった。
 ここまでの黄河は両岸が黄土の断崖で、かつ急流である。だから渡河はなかなか難しい。それが洛陽盆地の北にさしかかるあたりから両岸がずっと低くなり、さらに開封を過ぎると東北に向かって大平原に出て、どこでも渡河ができるようになる。ただしここからは大量の土砂が河底に年々沈殿していくから、氾濫や洪水がおこりやすくなった。過去3000年のあいだ、黄河は2年に一回の割合で洪水をもたらし、多くの災害をもたらした。
 だからこそ黄河の氾濫や洪水をとめるための努力が、この流域に古代都市文明「中国」を萌芽させることになったのである。秦の始皇帝がその執行者であり、隋の煬帝がその大成者だった。かれらは黄河下流の網の目に広がるデルタ地帯を掘削し(デルタ地帯は「九州」とも名付けられた)、運河をはりめぐらし、北京から洛陽を人工的につないだ。いいかえれば、その大成をもたらす手前の天下こそが「中国」だったわけである。

中国の地形

 もうひとつ、重要なことがある。この文明では秦の大統一に達する以前は「夏・殷・周」という過去の先行する「中国」(中原)を“想う”ことだけが歴史であって、哲学だったという際立つ特徴をもっていたということだ。
 ということはこの文明は古代においては、“現実”としての国家ではなく、“理想”としての国家を「中国」とみなしたのである。それが春秋戦国期の孔子・老子・孟子・荘子・墨子らの諸子百家たちが考え続けたことなのだ。かれらは、いまはなき「遠い夏・殷・周」を母国とみなして、そこからいっさいの思索と行政と機構のプランを編み出したのだ。
 けれども、原始古代中国の全土からみると、いまのべた黄河流域は「中国」ではあっても、当然ながら歴史地理的な母国の全体ではありえない。「北の中国」「黄河の中国」にすぎない。それ以外にも多くの母国はありえたはずだった。
 夏・殷・周の時代、春秋戦国時代、秦漢帝国の時代、こうした「非中国」の地域は長らく「北狄・南蛮・西戎・東夷」の地とみなされた。まとめて「夷狄」である。長江上流域や四川や、さらに南方の雲南・昆明・桂林・福建などは“鬼神の棲む国”として蔑視されてきた。これら「南の中国」や「長江の中国」だって母国であるはずだし、そうした「夷狄」の地にこそ失われた祭祀や習俗や風景が残っているかもしれないのだが、かつてはそうみなされなかったのだ。

中華と四夷

 というわけで、伝承されてきた「中国」と実際の中国文明のルーツとではさまざまな食い違いを見せてきたわけである。
 実際にはどうなっているかといえば、歴史学上の中国文明の開始は、ぼくが高校時代に習ったこととはすっかり変わっている。いまではアジア人類のルーツは北京原人からではなく、元謀人や藍田原人などの錯綜とともに始まっているし、黄河文明だけではなく、長江文明のほうが脚光を浴びるようになっている。
 また、これまでは殷周帝国こそが中国文明のルーツで、夏・殷・周のトップを飾る「夏」は幻の王朝にすぎなかったのだが、夏王朝の実在を疑う者はいなくなってきた。そのことについてはすでに徐朝龍の『長江文明の発見』(角川ソフィア文庫)でもその一端を紹介しておいたから、ある程度の見当はつくのではないかとおもうのだが、しかし中国文明の母国的なゼネラルルーツというなら、「北」の黄河文明と「南」の長江文明とその「あいだ」の諸文化とを、それぞれほぼ同時に見ておかないと全貌はわからないとも言うべきなのである。

 そこで今夜は、日本読者向けの最新の中国ルーツ史だろうとぼくが太鼓判を捺している一冊を、ベーシックなキーブックとして薦めることにした。講談社が100周年記念に刊行した「中国の歴史」全12巻の第一巻だ。できれば第二巻の平勢隆郎『都市国家から中華ヘ』を同時に案内したいのだが、二冊同時とはいかないので、平勢の独特の見方はいずれ別の本で紹介したい。
 最新の研究成果による中国全史を知りたいのなら、このシリーズを座右に揃えておくといい。各巻とも最新の史料にもとづいていて、よく書けている。むろん補いたくなるところはいろいろある。今夜は中国側の記述や図を参考にした。創元社の「中国文明史」シリーズの『文明への胎動』(趙春青・泰文生)、『文明の原点』(尹盛平)などだ。

 東アジア史は、アフリカの原人が150万年前にユーラシアからアジアに拡散していった時期のどこかから始まっていた。最近の考古学的な成果では、雲南地方を中心に元謀人・開遠人・禄豊人などの100万年ほど前の化石が次々に出土したことから、ホモ・エレクトスの直系がそのころからユーラシア東部に棲息していただろうと考えられ、そのあと藍田原人、50万年前の北京原人、和県人、湯山人らの旧石器人が東アジアに広く分布していったと想定されている。
 これらの広がりは緩やかなものだった。石器の技術変化もゆっくりしている。ヨーロッパでは、アフリカに発したオルドワン文化期の礫石器の影響を受けて、礫石器に特徴があるアシュール文化、剝片尖頭器で構成される中期旧石器のムスティエ文化、ナイフ型石器が目立つ後期旧石器のオーリニャック文化、骨角器に特徴があるマドレーヌ文化など、かなり変化が激しい旧石器文化が交代しながら発達した。
 それに対して、東アジアでの旧石器文化はずっと緩やかだ。そうなったのは、ヒマラヤ造山運動が第4紀更新世になって大きく隆起して、ここでユーラシアがヨーロッパ部と東アジア部に分かたれたからだった。どでかい「風水」の変動だ。ヒマラヤ・チベット高原は太平洋から流れてくる湿った空気を遮断し、東アジア一帯に夏の湿潤と冬の冷涼乾燥を含むモンスーン気候をもたらした。中国南部の旧石器文化は、比較的安定した亜熱帯の環境を更新世のあいだ長く保つことができたので、石器技術の大きな変化を必要としなかったのである。
 こうして更新世半ばまで、中国南部の亜熱帯が黄河の中・下流域までのびていって「中原」を形成し、礫石器文化は華北南部まで広まった。しかしその後、ロシアやモンゴル北部と接する華北北部には礫石器とは異なる小型剝片石器や細石刃石器を中心とする集落文化が発達していたことがわかってきて、華北は北と南の旧石器文化の合流地帯になっていたことがあきらかになってきた。

 東アジアの古代を決定的に特色づけたのは、いうまでもないことだろうけれど、新石器時代における土器と農耕の発達だった。これは地質年代では更新世から完新世にあたり、グローバルには磨製石器の登場期にあたる。
 土器と農耕の発達は、この時代に東アジア的なスタイルの定住生活が広まったことをあらわしている。農耕は華北ではアワ・キビの、華中ではコメの食料の安定的供給をもたらした(南稲北麦・南稲北粟)。それによって可能となった集住性は女性の育児を保証し、
かつての移動社会よりも妊娠期間を短くした。これがやがて女性一人あたりの出産率を高め、人口増加をもたらした。約1万3000年前あたりのことだ。
 とはいえ初期農耕社会が東アジアにまんべんなく広がったわけはなく、依然として狩猟採集社会が濃厚なところもあった。それが極東(中国東北・アムール川・沿海州)とわが日本列島と華南なのである。
 甘粛省以西地域・四川省・雲南省西南などの華南に狩猟採集社会が温存されていたことは、このあとの中国神話時代に北方の物語と南方の物語との相違をもたらした。中国文明の母型イメージはここに「北の黄河文明・南の長江文明」という、あるいは「北の農耕・南の採集」という、2つのアーキタイプをもつことになったのだ。土器の特色も北方が平底深鉢形で、南方が丸底深鉢形というふうに分かれていった。このことは、日本の縄文土器文化の長期にわたる定着にあたっても少なからぬ影響をもった。

新石器時代の土器の器形。
1〜4と13は仰韶(丸底深鉢形)。5〜12は竜山(平底深鉢形)。

 初期農耕社会と非農業地帯とが、どんな古代文化様式をもっていったのか、様式用語ばかり並べるだけになるけれど、ざっと列挙しておくことにする。新石器段階の農耕定住社会は、次のような諸地域文化の発祥と変遷で織り成されていった。
 黄河の中上流域系では、A「仰韶文化」、黄河下流山東系のB「大汶口文化・山東龍山文化」、長江下流域のC「馬家浜文化・良渚文化」、長江中流域のD「彭頭山文化・大渓文化・屈家嶺文化・石家河文化」などが変遷していった。
 A仰韶文化は、1920年代にスウェーデンのアンダーソンが河南省の仰韶 村で遺跡を発見して一躍話題になったもので、アワ・キビの栽培と彩陶土器・紅陶土器という特色をもつ。A1渭河流域とA2黄河中流域に分かれて発達した。A1渭河流域では「老官台文化―仰韶文化―客省荘二期文化」の変遷があり、A2黄河中流域では「裴李崗・磁山文化―後岡文化―大河村文化―廟底溝二期文化―王湾三期文化」という交代が進んだ。 
 B山東半島が脚光を浴びることになったのは、1930年代に歴史語言研究所の李済・梁思永らが山東省章丘の龍山鎮で黒陶を発掘してからで、この龍山文化が仰韶文化と並ぶ黄河文明の両極を代表した。こちらはAの彩陶に対して黒陶が目立つ。
 いまではB系は「後李文化―北辛文化―大汶口文化―龍山文化―岳石文化」というジグザグな流れがあったと考えられている。とくに龍山文化は黄河中流域に属するB1系にも流れていて、のちの夏王朝につながっている。
 仰韶と龍山が並び称されたのは、歴史語言研究所が発掘した河南省安陽の後岡遺跡に三つの文化層が重なって出土したからである。上層は灰陶を主とする殷墟文化、中層は黒陶を主とする龍山文化、下層は彩陶・紅陶を主とする仰韶文化が見られ、これによって「仰韶→龍山→殷墟」という編年性が組み立てられる可能性が浮上したとともに、そうだとすれば、このあたりにこそ殷に先立つ「夏」王朝があったのではないかとも騒がれた。
 この仰韶・龍山文化でもうひとつ特筆されるのは、この地域に日々を営んだ集団の多くが母系制を重視した社会であったということである。マトリズムが強かった。ところが、このあと有名な「二里頭文化」が急速に濃密な社会転換をはたし、中原は一挙に父系社会に突入していった。パトリズムに変わったのである。それが龍をトーテムとした「夏」王朝なのである。

 C長江下流域では、「河姆渡文化―馬家浜文化―菘沢文化―良渚文化―馬橋文化」がそれぞれ折り重なるように展開し、野生イネや栽培イネの収穫が早々に試みられた。
 農耕文化の初期はモンスーンを利用した天水農法だったろうが、最古の水田跡が発掘された江蘇省の草鞋山の時期以降はかなりの地域で水田農法が広がるとともに、石犂が使われ、犂耕作による田おこしが始まった。太湖付近の良渚文化期では破土器・耘田器などのかなり技能的な石器も使われている。
 そのほか副葬品の詳細な研究によって、抜歯の風習、男性用具と女性用具の平行、血縁集団の登場、玉器の工夫、階層上位者の出現なども、この長江下流域の特徴になっている。総じてプリミティブな首長制が生まれていたと推測される。もっともそうした首長制を育んだ良渚文化は短期でおわり、のちの馬橋文化などの洗練度の低い社会になっていく。
 D長江中流域は、おそらく稲作農耕をスタートさせた地域だったろう。「彭頭山文化―大渓文化―屈家嶺文化」といった順で地域文化が積み重ねられて、環濠や洪水対策用の城壁が発達し、大規模な治水土木が進んだ。こうした長江の下流域や中流域が「水」を重視した農耕社会であったことは、この地域がその後も長らく母系性を維持していただろうことを推測させる。黄河的「中国」にくらべて、父系性は大きくは確立しなかったのだ。おそらく多くの水にまつわる初期祭祀文化があったにちがいない。

新石器時代の集落(半坡の集落復元図)
方形や円形の半地下式住居址や、中央の大きな建物のまわりに
掘られた貯蔵穴などが発掘された。村人は漁業や粟作をいとなみ、
犬や豚をかっていた。

 非農耕地帯やイネ栽培が発達しなかった地域はどうなっていたか。むろんそこにも文明的残響の歴史はあって、その残響が最北と最南とその「あいだ」に分散して育っていた。
 一番の北は松花江・アムール川(黒龍江)・遼河の流域である。ここは遼西と遼東にまたがる「興隆窪文化―趙宝溝文化―紅山文化―富河文化―上宅文化―新楽文化」などが、最初は採集社会からしだいにアワ・キビ農耕社会へ移っていくプロセスを反映した。なかで内モンゴルの興隆窪文化には他を抜きん出る龍や女神のトーテムが見られる。これらの地域でもうひとつ顕著なのは牧畜だった。ブタ・ウシ・ヒツジなどの家畜が飼われていたことで、しばしば“北の牧場”といわれた。
 一番の南は長江上流や四川盆地の地域社会である。この地域では「宝燉文化―三星堆文化―西樵山文化―石峡文化」が相次いで生まれていったのだが、すぐには南嶺山脈を越えて稲作農耕が伝播することがなく、むしろ新石器の次の青銅器が発達し、独特の祭祀社会を形成していった。
 他方、海の文化圏にも“母国”はあった。当然、漁猟が中心になった社会であるが、そこには遠い南海からもたらされる外来財も出入りした。海上に蓬莱の国などを仙界として見立てる傾向はかなり昔からのことだったのである。とくにタカラガイはそうした「遠くからとどく声」を新石器人に感じさせたらしく、かなりの貴重品として各地域に流通した。ここからは柳田國男の『海上の道』が想われよう。あまりふれなかったけれど、こうした貴重品はタカラガイだけではなく、良渚文化や紅山文化の首長が愛した玉器などにも認められ、これらが重要な交易品になったことがわかっている。

新石器時代遺跡分布図
seigow – marking
[145001]

 こうして稲作地帯であるとないとにかかわらず、中国全土に“母国”の遺跡や文物がまきちらされていたわけである。そして、そうした諸地域が平行して多様な文化を誇りあっていたなか、結局は中国文明最初の王朝が登場してくることになっていく。それが中原を支配した「夏」王朝で、そこに「二里頭文化―二里岡文化―殷墟文化」の流れが変化して出現していったのだった。

 夏王朝については別の本で詳しくふれようとおもっているのだが、今夜は以上の流れを継いでというか、以上の流れの多くへのちに幾多の粉飾を与えたというか、中国文明史上最初の王朝としての夏王朝がもたらした劇的な影響について、ごく暗示的なことだけを書いておきたい。
 夏王朝のことを最初に記述したのは司馬遷の『史記』である。「夏本紀」としてまとめられた。司馬遷がさまざまな伝承を束ねて浮き上がらせた夏王朝は、春秋戦国期以降の中国人にとって長いあいだにわたっての幻の王朝で、伝説の遥か彼方にあるものとしか思われていなかった。漢代の司馬遷以降もそうであったし、のみならず20世紀になって殷墟が発見されたのちも、夏はその実在さえ疑われていた。
 ところが河南省の偃師付近の二里頭遺跡の発掘が国家プロジェクトとして大がかりにすすんだことによって、夏の実在がかなり濃厚になってきた。「二里頭文化」が夏そのものか、ないしはその先行形態だったことがあきらかになってきただけでなく、それが黄河中流域のB1龍山文化の「王湾三期文化」の系譜を引くものであることもあきらかになってきた。
 話題になったのは、夏王朝を開いたのは禹であったろうということ、その実像はどういうものだったのかということだ。これはそうとうに劇的な歴史的推論になる。もし禹が夏王朝を開いたのだとすると、禹においてこそ初めて神話時代と歴史時代とがはっきりつながってくる。

 司馬遷は『史記』五帝本紀に夏王朝に先立って「五人の帝王がいた」と書いていた。また、その五帝の前には神農氏などの三皇がいたと書いた。三皇五帝説という。
 三皇は伏羲と女媧と神農である。五帝は、黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜をいう。三皇はいかにも神話伝説上のカリスマリーダーっぽいが、神農の子孫が黄帝だったということで、三皇と五帝はつながっている。ついでに五帝はいずれも同系で、いずれも姫姓を名のる同じ氏族だったということらしい。
 黄帝は、自分の集団と対立する蚩尤を涿鹿で戦って征伐した戦果によって、諸侯から天子に推挙されたと『史記』に記されている。黄帝の妻は縲祖といった。このことから次のことが予想できる。黄帝とは別に蚩尤と呼ばれる一族がいただろうこと、涿鹿で戦いあったことから推して、黄帝も蚩尤もおおざっぱには黄河中流域(中原)から渭河流域に勢力をもっていただろうということだ。そしてその蚩尤が蹴散らされたのだ。
 ついで「五帝本紀」には、堯と舜の時代に「三苗、江・淮・荆州にありて、しばしば乱をなす」と書いてある。三苗という氏族勢力が漢水の下流域から淮河や長江の中流域にかけて力をもっていたのである。蚩尤や三苗といった地域集団が夏王朝ができる以前に勢力をもっていて、それらが黄帝や堯や舜の時代に各地に散っていったのだろう。

五帝の想像図(漢代)
右から、黄帝、顓頊、帝嚳、舜。

 堯と舜の時代は次の記述がつづく。「共工を北方の辺境の幽陵に流して北狄の風俗に同化させた」「驩兜を南蛮の地の崇山に放逐した」「三苗を西方の三危に移して西戎とした」「鯀を東夷の辺境、羽山に押し込めた」。
 堯と舜の時代に「北狄・南蛮・西戎・東夷」といった地域集団を辺境に放逐したか、あるいは辺境の異族集団と戦って退けたかの出来事が続いて、それらの戦線によって「中華」の確立があっただろうというのである。また、「舜は初めて天下を十二州に分かって、河川の流れを治めて水害を防いだ」とも書いてある。これは堯の時代に、四嶽という側近が鯀を推挙して当時の洪水を治めさせようとしたとき、堯はこいつには無理だと思ったのだが、あまりに四嶽がどうしてもやらせてやってほしいというので、やむなく鯀に治水にあたらせたのだが、9年たってもなんらの効果がない。そこで新たに舜が登用されて鯀を誅罰したのち、自分の息子の禹にいっさいを任せたところ、みごとに洪水を防ぎ、治水を達成したという出来事である。
 ここまでくると、話はずいぶん歴史の事歴とつながってくる。現在の考古学や歴史学では、夏王朝を二里岡あたりに確立したのは舜のあとの禹の時代なのだろうと推理しているのだが、そのこととも合致してくる。それなら二里頭遺跡イコール夏王朝で、夏王朝は禹によって確立されたのだろうか。その禹の洪水伝説は実際におこっていたことなのだろうか。
 中国文明では、神話と歴史はまだまだつながりきってはいない。いやいや、中国文明だけではない。ナイル文明もユダヤ文明も、ヴェーダ文明もスラブ文明も、神話と歴史はつながってはいない。日本文明だって、そうなのである。

 

『神話から歴史へ—「中国の歴史」第1巻』
著者:宮本一夫
2005年3月15日 第1刷発行
発行所:株式会社講談社
編集:礪波護・尾形勇・鶴間和幸・上田信
装幀:鈴木成一
 
 

【目次情報】

はじめに
第一章 神話と考古学
    五帝神話と地域性
    三皇神話と盤古伝説
    『山海経』と地域の神々
    神話と考古学
第二章 中国発掘物語
    中国考古学の歴史
    現代中国と発掘
    戦後の日本と中国考古学界
    国際共同調査と共同発掘
第三章 農耕の出現
    人類の誕生と中国の旧石器時代
    旧石器時代から新石器時代へ
    アワ・キビ農耕の始まり
    稲作農耕の起源
    東アジア定住社会の三形態
第四章 地域文化の展開
    地誌から見た地域
    土器文化から見た地域
    新石器時代の時期区分
    古環境の変動
    地域の文化系統
第五章 社会の組織化と階層化
    仰韶・龍山文化
    大汶口・山東龍山文化
    馬家浜・崧沢・良渚文化
    彭頭山・大渓・屈家嶺・石家河文化
    社会進化の相違と相似
第六章 非農耕地帯と農耕の拡散
    北の非農耕地帯
    遼西地域
    遼東地域
    華北型農耕の拡散
    稲作農耕文化の拡散
    南の非農耕地域
    農耕地帯と非農耕地帯
第七章 牧畜型農耕社会の出現
    農耕社会と牧畜型農耕社会
    長城地帯文化帯の形成と青銅器
    鬲社会と非鬲社会
第八章 地域間交流と社会の統合
    社会的威信と交流
    玉器の交流
    住居構造の変遷
    城址の出現と戦い
第九章 犠牲と宗教祭祀
    人物像と動物像
    階層化と儀礼の出現
    玉器と祭祀
    犠牲と楽器
    卜骨と祭祀
    祭儀・儀礼から夏・殷文化へ
第十章 初期国家への曙光
    二里頭時代の始まり
    二里頭文化と二里岡文化
    夏王朝・殷王朝の暦年代
    夏王朝の発展
    青銅器の出現
    殷王朝の出現
    夏王朝・殷王朝の広がり
おわりに
歴史キーワード解説
参考文献
年表
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【著者情報】

宮本一夫(みやもと・かずお)
1958年松江市生まれ。京都大学文学部卒業。京都大学大学院文学研究科修士課程修了。博士(文学)。京都大学文学部助手、愛媛大学法文学部助教授を経て、現在、九州大学大学院人文科学研究院教授。専攻は東アジア考古学。東アジアの新石器時代から初期鉄器時代の比較考古学ならびに比較文明論を研究する。現在、水田農耕の起源地や初期青銅器を明らかにするための共同研究を中国において進めている。2003年、第16回濱田青陵賞受賞。主な著書に、『中国古代北疆史の考古学的研究』(中国出版)、『東北アジアの考古学研究』(共著、同朋舎出版)『岱海考古(二)—中日岱海地区考察研究報告集』(共著、科学出版)などがある。