才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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東アジアの世界帝国

ビジュアル版「世界の歴史」8

尾形勇

講談社 1985

編集:講談社出版研究所
装幀:蟹江征二

7世紀から9世紀の東アジアには、
隋唐帝国という独特の中華世界が君臨した。
ここに突厥・イスラーム・ソグドから
高句麗・新羅・渤海・日本までが接地した。
すべての外交と経済と価値観が、
中国的なるものによって包括されたのである。
いま、TPPやEPAをかかえて呻吟する日本は、
この時代の価値観や歴史観のことなど、いまさらまったく関係ないと言い切れるだろうか。
ぼくは決してそうは思わない。

 二〇一一年が晩秋に向かっている。日本は日米同盟のもと、TPPやEPAやFTAの問題をかかえながら、韓国とも中国ともなんとか戦略的互恵関係を進捗させようとしているのだが、傍目ながらもとうていうまくいかないように見える。
 野田首相や民主党の大臣たちがオバマやイ・ミョンバクとどんな会話をしているのか見当もつかないが、おそらくは日本のことを話すときも相手国のことを話すときも、愉快でも痛快でもなく、滋味溢れることでも歴史的現在に立つようなことでもないような会話をかわしているのではないかと、心配する。ちょっと不憫にも感じる。
 しかし仮に中国がお相手なら、そもそも中国の歴史社会や現実社会を見るにあたっての、いくつもの対比に耐えられる歴史眼をもっている必要がある。鳩山由紀夫は東アジア共同体のような構想を掲げたそうであるが、どこまで準備ができているのだろうか。

 中国は、理念においても現世的で、論理においても徳治的なのである。このへんのことは、大丈夫なのか。また、儒教が中国の底辺にあることは日本人なら誰でも知ってはいようけれど、その内実は「儒教的合理主義」というもので、日本人が好きな建前と本音の例でいえば、中国では「建前も本音も両方とも立てる」のだが、そこはどうか心配である。
 日本では建前を立てて本音を別のところで洩らすようだけれど、そんなことは儒教社会では通らない。日本では「両天秤」といえば汚い手か、日和見主義と受け取られるけれど、中国では両天秤こそ社会哲学なのである。中国はまたずっと世界帝国であったことを心の底から誇ってきた国だった。チャイニーズ・エンパイアの歴史こそ、中国なのである。その矜持の背景はアプリシエートできているのか。そんなことは北京オリンピックの開会式でも如実であったはずなのだ。
 もっとも実際には、すでに千夜千冊してきたように、中国は匈奴や鮮卑や突厥をはじめ、何度も何度も遊牧的異民族に悩まされ、それにほとほと閉口していたのだが、だからといってそれでへこたれてはいなかった。それらの動向や人材をいつしか平気で採り入れて、そのうえで何度かの強大なチャイニーズ・エンパイアを版図を変容させながら演じてきたわけである。そういうことをあれこれ考慮して、日中関係にとりくんでいるのか、やっぱりかなり心配だ。

 中国では興亡は世の常、王朝交替も世の常である。本書にも後漢の滅亡、三国の交代、西晋の南遷、五胡十六国の上げ潮引き潮、魏晋南北朝と鮮卑拓跋の綱引きをへて、やっと隋唐の世界帝国時代がやってくるところまでが叙景されている。そんなことはしょっちゅうなのだ。
 中国は、南北では気候も言葉も気質もちがうほどの巨大な大陸に、信じがたいほどの膨大な人民を擁していることもあって、いちいちの成功や心配に一喜一憂をしていられない。そのかわりそうとう強靭な「上からの管理力」を網打っていないかぎり、個々のガバナンスも狂ってくる。そういう中国にいれば、楽観と悲観を一緒に処理できる能力が、すぐさま問われてしまうのだ。
 わかりやすい例を出す。「人間万事、塞翁が馬」という諺がある。『淮南子』に出てくる話で、逃げた馬が名馬を連れて戻ってきたり、息子の脚を折ったりする教訓を述べているのだが、これを日本では「人生の幸福や不幸なんて予測がつかないものだ、まあ、人生いろいろ」というふうに解釈する。青島幸男や小泉純一郎はそう言って当選し、都政や国政の上にアグラをかいた。
 ところが中国の辞書では「塞翁失馬」となっていて、塞翁が馬を失ったと出ている。「しばらく損害を受けても、またそれでいいことがあるという譬え」と説明されるのだ。日本では「世の中アテにならないことが多い。人の努力には限界がある。だから気にするな」となるのだが、中国では「失敗したって挫けるな」となるわけなのだ。ちなみに「人間万事」はニンゲン万事ではなく、ジンカン万事と読む。ジンカンとは社会のことである。
 中国とは、こういう思いがけない並列多様な合理主義をバックに、事態がどんなに矛盾をかかえていようとも、それで平然と大アジアとしての世界帝国を維持しているグレート・システムなのである。以下ではそういう巨きな中国的対比軸の見方だけを、少々ながらお目にかけておきたいと思う。

 第一に、中国では北と南がまったくちがう。西域と海岸部、東と西もまったくちがうが、まずは南北である。これは前提にしておきたい。
 南北を分ける大きなラインは、淮河から秦嶺山脈にかけてのベルト地帯にある。その北には五四〇〇キロの黄河が、南には六三〇〇キロの長江(揚子江)が流れて、南北の特色を「南稲北麦」「南粒北粉」「南船北馬」というふうに分ける。
 北側の大黄土地帯は昔から雨量が少なく、春風には黄塵・黄砂が舞って目も口も鼻も容易にはあけられない。そういう風土だから、ムギ・アワ・キビの雑穀が強い。そのため雑穀をいかした「粉食」が中心になってきた。これは、北の中国には堅い殻を取り去ってそれを粉にして加工する巧みな技術と、そういう生活の知恵がいろいろあったということでもあって、それゆえ饅頭、包子、餃子、油条、麺類が発達した。いずれも日本の庶民がはまった中華料理だ。
 日本人が華北を旅して最初に感じるのが強烈な喉の渇きと真冬の寒さであるように、その強烈な風土が北の歴史と文化をつくってきたわけである。これに対して南の江南は、高温多雨でコメの水稲や野菜が唸っている。南は水と水運に恵まれ、茶やハーブが発達して漢方薬の宝庫になる。

中国南北の気温差

 しかし第二に、中国の歴史は、全体としては「北の文明力が南の文化に及んでいく」というふうに推移した。北から南へ、であって、南が北を制したことはない。これが中国的アジア史というものだ。
 その北の文明力がもともとどのようにできあがったかといえば、黄河流域の関中・中原・関東の洪水や旱魃を克服するための、治水と灌漑の能力に長けた者がつくりあげた。禹や舜はそれをなしとげた伝説的な王だった。その伝説的な王を現実の巨大な中国社会において実現させようというのが、中国的なリアル・ポリティクスなのである。中国的合理なのだ。
 それには、まさに巨大な大地を組織統率できる者が伝説を超えてみせなければならない。そして、その確立をなしとげた者がいた。それが秦の始皇帝であり、漢の武帝だった。秦漢帝国とよばれてきた最初のチャイニーズ・エンパイアとしての中華帝国である。もっとも後漢の解体ののちは、三国時代、五胡十六国、魏晋南北朝というふうに遊牧的異民族の交代が続いたので、次に中華帝国が確立するのは隋唐帝国まで待つことになる。が、それはそれで平気の平左だったのである。

 第三に、中華帝国は天子(王)のもとに、周囲を圧する強力な華夷秩序を発動する。この華夷秩序のオーダーがものすごい。有無を言わせない。中華帝国はそのような強力なアーキタイプをつねに「周」に求めてきた。
 周の天子は周王だった。文王→武王→周公旦と続いて、ここで周王は中国最高の宗家として諸侯とのあいだに宗法(大家族原理)を結んで、諸侯を各地に派遣する作邑(封建制)をつくりあげた。このとき諸侯・卿・大夫・士・庶人という階層ができた。
 それとともにチャイニーズ・エンパイアを俯瞰すべき世界観もできた。これがその後の一貫した中国的世界模型のモデルになる。『周礼』には、世界を天円地方とみなし、中央に王城(首都)を築いてその中心に王宮を構えると、前後に朝堂と市場を、左右に宗廟と社禝を設けることが謳われている。また、王城の周辺一〇〇〇里四方は「王畿」となり、その周辺の五〇〇里ごとに「侯服」から「藩服」にいたる九つの地域社会(九服)が分割された。九州ともいう。
 この九服・九州までが「中華の地」で、その外側は困った「夷狄の地」なのである。夷狄の地は北狄・南蛮・東夷・西戎に分けられ、いずれも蛮族として蔑視された。こういうインサイドとアウトサイドを截然と分けるレギュレーションが、すでに紀元前十世紀以前の周王朝期にできあがっていたわけである。
 その後、中国史は東周から春秋戦国時代に入るのだが、これは周王と諸侯の紐帯がゆるんだせいで、そのため各地の諸侯は地域的な同盟を結んで勢力を競いあった。この同盟を結成する儀式がいわゆる「会盟」で、その主宰者が「覇者」である。会盟も覇者も、中国人は大好きだ。というよりも、混乱期には混乱期なりの英雄をつくれるのが、中国各時代の特色である。
 その戦国時代の諸侯や覇者のあいだで合従や連衡が進むと、秦の始皇帝が登場して初めて中国に「皇帝」の称号をもちこみ、徹底した郡県制による中央集権国家を築きあげた。もっとも秦の絶頂はたった十五年とまことに短く、まもなく項羽を倒した劉邦(高祖)によって漢が建国され、ここに秦漢帝国が連続することになったのだが、とはいえ十五年で世界帝国がつくれることを始皇帝は示したのである。このこと、毛沢東も江沢民も存分に知っていた。

 第四に、中国の異民族に対しての外交政策は、基本が「郡県」方式と「冊封」方式だった。郡県方式は諸民族の勢力を武力で制して、そこに国内同様の郡県をおくことをいう。漢の武帝が南越を制して九つの郡をおき、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡や帯方郡をおいたのが先例である。
 冊封は、周辺民族の首長を国内の序列に準じた王侯に任命(冊封)して、その勢力圏の統治をまかせるというもので、冊封された首長は中国の天子の「臣」となり、その国は中国の外藩(いわば衛星国)になるように仕向ける。
 古代日本も最初は好んで冊封関係を求めた。二三九年、倭の女王の卑弥呼が魏に入貢して「親魏倭王」の称号をもらったことや、倭の五王の一人として知られる珍が魏晋南北朝の宋から「安東将軍、倭国王」の称号をもらったことが、中国からの冊封にあたる。その後、日本は冊封関係に入らないようにしていった。中国のガバナンスは周囲との関係をいつも郡県的にか冊封的に見る。気をつけなければいけない。
 第五に、中国には「易姓革命論」というものが底辺で流れているため、このロジックによる王朝交替がつねに正当化されてきた。
 この思想を提供したのは孟子である。孟子は、天命を失った天子は新たな天命を受けた天子に交替しなければならず、それには平和的な「禅譲」と武力による「放伐」とがあるとした。湯王が桀を追放し、武王が紂を討伐したのが放伐の先例で、孟子はこれを正当な革命とみなし、革命があれば易姓が変わるとした。いわゆる湯武放伐論として名高い。
 日本ではこの湯武放伐論が日本的に絞られて、吉田松陰のラディカルきわまりない『講孟余話』がそういうふうになっているのだが、君子を諫めて三度受けいれられないようなら、あえて放伐を辞さないというふうになった。しかし中国ではそこまでクリティカルには解釈しない。孟子は君主と臣下の関係を双務的なものだと見抜いたのだと解釈する。つまり「禅譲」も「放伐」も、実は中国的な“契約”なのである。しかもその契約は双務的なのだ。
 この双務的契約観念は、中国史の多くの場面にあらわれる。以上のことは、中国人が超越的な世界や抽象的な価値をあまり認めてこなかったことと深い関係がある。

 第六に、中華帝国は儒教を重んじた。そんなことは誰もが知っているだろうけれど、ところが日本人には儒教と国家の関係がなかなか見えにくい。これは端的には、(a)儒学が儒教になった、(b)儒教を国教にする戦略をとった、(c)儒教を修めた者が官吏になった、ということを意味する。
 (a)儒学が儒教になったのは漢代である。漢の武帝に仕えた董仲舒の進言が大きかった。武帝は諸子百家の一つの法家をとくに好んだので、董仲舒は「天人相関説」を構想して、天と天子と皇帝の関係を明確にした。それまでの皇帝の称号は異民族の王たちとのあいだに軋轢を生じていた。たとえば匈奴の冒頓単于の単于は「天に支配を認められた君主」という意味なので、中国皇帝とはバッティングする。
 そこで董仲舒は、祖先を祭祀するときは皇帝であってよく、天地を祀るときは天子であってよいとして、皇帝と天子を併用させた。異民族を含むすべての君臣関係は天によるレジティマシー(正統性)にもとづくことになったのである。ただしこの天子の理念は、そこに天命が関与するかぎりのものであって、天命が尽きれば王朝が断絶することをも意味していたので、中国はこのあと“天子≒皇帝の二重性”の発動とともに「革命」を内包することになる。
 (b)儒学は春秋戦国時代の経書にもとづいて発生した。董仲舒は経書のなかでは孔子の『春秋』、とりわけ公羊学を重んじた。しかし天人相関説は天子と皇帝のレジティマシーを保証したわけで、特定の王朝のレジティマシーを説明するものではなかった。これでは漢王朝は万全ではない。そこで経書に対して緯書というものが著されるようになった。「孔子は漢の成立をよろこんでいる」といった予言的な内容だ。この予言的な内容のことを「讖」というので、公羊学派の思想を讖緯思想ともいう。孔子は未来をも見通す神と位置づけられて、こうして儒学は儒教に変容した。
 讖緯思想を発展させたのは、前漢のあとに新を建国した王である。太学を拡張して儒教を振興し、儒教国家的な天地祭祀のレギュレーションを定めた。天は首都の南の郊外で、地は北の郊外で祀り(二つまとめて郊祀という)、そこに役人たちが有司摂事としてかかわるというもので、この祭祀法は二十世紀末の清朝末期までつづいた。現在の北京の天壇・地壇はその跡地になる。

「祈年殿」(無梁殿)
天壇の中心に位置するランドマーク
明代(永楽年間)に建立され、毎年正月に五穀豊穣の式典が行われた

 (c)新が倒れて光武帝の後漢ができると、緯書が天下に公然と示されて、ますます儒教が国教化していった。ここでは鄭玄による提言が大きい。国教としての儒教には明確なコンセプトがあった。「寛治」である。儒教の徳目の「仁・清・廉」などを官僚登用の郷挙里選の評価基準に積極的に使った。
 しかし当然のことだけれど、儒教的選抜方法に反発する者もいた。これが外戚や宦官(後宮に仕える去勢者)たちで、とくに宦官は儒教的官僚の追い出しにかかる。この追い出し作戦を後漢の「党錮の禁」というのだが、こんなふうに排斥された地方の実力者たちは、そのまま引き下がったわけではない。やがて「名士」とよばれる豪族となって郷里社会で実力をつけていく。後漢のあとの三国時代とは、このような名士としての豪族グループの競争だったのである。
 とはいえ儒教と官僚の結び付きはその後もずっと続き、結局は魏の九品中正制度をへて隋の「貢挙」や唐の「科挙」になって、儒教的官僚の力は全土に及んでいった。以降、“儒教=官僚”が中国社会を牛耳る特色になる。

 第七に、これはいうまでもないだろうが、中国では儒教とともに、つねに仏教と道教が拮抗し、ときに排斥され、ときに重用されてきた。この三教の関係を知ることがアジア的中国理解のカギになる。儒学・玄学・史学・文学の四学とあわせて、しばしば「四学三教」という。
 「党錮の禁」で官僚を追い出した宦官に掌握された後漢は、農民の税負担の過剰が原因で社会不安をもたらした。ここに登場してきたのが張角による「太平道」や張陵・張魯による「五斗米道」だった。いずれもその後の道教教団のハシリ(原始道教)となって、一部は黄色い頭巾をつけて挙兵した。黄巾の乱である。
 時代が三国時代から五胡十六国をへて魏晋南北朝になっていくと、シルクロードからどっと仏典が入ってきて「格義仏教」がさかんになり、いったんは王法と仏法が大いに近づいた。それで、北魏の道武帝(太祖)の時代社会のような仏教興隆となるのだが、同時に道教も力をもつようになっていった。
 たとえば、道武帝・明元帝を継いだ北魏の太武帝は、寇謙之が唱えた「新天師道」にはまって道教を国教と認めたし、北周の武帝は仏教を排して儒教的な色彩の強い道教を国家宗教化しようとした。一方、梁の武帝のように自身で「三宝の奴」を称して全面的に仏教を重視した皇帝もいた。こうしたジグザグな変遷のあと、儒・仏・道の三教をバランスよくコントロールして、全体を仏教理念でくるんでいったのが隋の文帝であり、それを儒教で大きくくるんでいったのが唐の太宗(李世民)だった。
 隋唐帝国はこうした三教のいずれにも花を咲かせたのである。いいかえれば隋唐帝国はジグザグを内包したまま世界帝国になりえたわけである。

 こんなところが本書が示した中国理解のための、とりあえずの大々前提である。著者の尾形勇は古代中国がどのようにアジア的秩序をつくりあげたかを研究してきた中国史学者である。『中国歴史紀行』(角川選書)など懐しい。それでは、こうしてできあがった隋唐帝国は、アジアなかんずく東アジアの中をどう変貌させてきたのかということだ。
 楊堅(文帝)が隋を建国したのが五八一年で、李淵(高祖)が唐を建国したのが六一八年、唐の滅亡が九〇七年だから、この世界帝国は七世紀から九世紀までの東ユーラシアの動向と重なることになる。
 日本の話からしたほうがわかりやすいだろうから、そこからスケッチするが、七世紀の日本というのは六〇一年に聖徳太子が斑鳩に拠点を移したときから始まっている。
 これは隋が建国されて二十年後のことで、中国は文帝から煬帝の時代に入っていく。煬帝は中国懸案の南北の落差を大運河でつないだ。この大工事の敢行は『斉民要術』に象徴される東アジア独自の農法(作物交代による輪栽農法)が中国の南北に広まって、これを水路でつなげる必要があったからでもあった。小野妹子が隋に入って裴世清とともに帰ってきた時代は、その煬帝の代だった。
 久々に中国に登場した世界帝国の威力は、周辺を圧するものがあったとともに、周辺諸国を警戒させた。とくに隋と突厥、隋と高句麗とのあいだが緊張した。突厥のほうは東西に分裂したので勢力が落ちてきたが、高句麗は文帝時代に朝貢をして冊封関係に入っていたのに、それ以上には近づいてこない。そのため文帝はちょっかいを出すのだが、びくともしない。続く煬帝は、高句麗に攻めたてられた百済から援護を頼まれたのをきっかけに高句麗を潰すことを決断したけれど、この遠征は三度にわたって失敗した。この失敗が響いて隋は潰えた。
 こうして唐がこの世界帝国を継承した。李世民(太宗)が高祖を引退させて帝位についたのは六二六年である。「貞観の治」が始まった。数年後、日本からは第一次遣唐使の犬上君御田鋤が中国に向かい、玄奘がインドに向かって出発した。
 そのインドでは七世紀のハルシャ・ヴァルダナ王が建てたヴァルダナ朝が一代限りで瓦解して、分立時代に入っていた。なかでベンガルのパーラ朝が八世紀の半ばから勢力が広がってパータリプトラに独特の仏教美術文化をのこしている。

7世紀の世界
「日本と世界の歴史―4」(学研 1970)より

 目を転じると、西南アジアの七世紀はまさにイスラーム勃興期になっていた。ウマイヤ朝が領土を広げて唐の領土と接触するまでに至り、西はアフリカ北岸がマグリブ化(イスラム化・アラブ化)していった。六七三年からはイスラーム軍は東ローマ帝国のコンスタンティノープルをさえ完全包囲した。この年は新羅の英雄の金信が死んだ年でもあったが、唐の高宗は新羅に半島の領有を認めた。
 それ以前、唐・新羅の連合軍は白村江で斉明・天智の日本を討った。日本の敗北はこういうチャイニーズ・グローバリズムの裾を踏んだためだったのだ。一方、朝鮮半島から手を引いた唐朝は、今度は西に向かっていく。高昌、トルファン、クチャがたちまち支配領域に入っていく。それとともにソグド人が運んできた胡風の文化が長安に入ってきた。
 ところがここで、中国史上稀にみることがおこった。武則夫(則天武后)が女帝として立って、国名を「武周」としてしまったのだ。これで、それまでの「道先仏後」(道教優先)の方針が転じて「仏先道後」(仏教優先)になった。武則夫は、天下諸州に命じて大雲寺を建ててマジカルな妖僧たちを抱きこみ、弥勒下生のイデオロギーを採り入れて“世界帝国内帝国”とでもいうべきシステムに熱中してしまったのである。
 この中国七世紀の異様は武則夫の病没まで続く。ようやく中宗が復位して唐朝が再興されると、七一二年からは玄宗皇帝による実に四五年におよぶ「開元・天宝の治」が開花した。玄宗は楊貴妃の傾国の美貌にのめりこんでいく。白楽天は長恨歌をつくって、「漢皇、色を重んじて傾国を思う」と歌った。玄宗五六歳、楊貴妃二一歳のときである。色気が国を亡ぼした。
 イスラーム圏では八世紀半ばでアッバース朝が主役をとって新都バグダードが大いに栄え、ハルン・アル・ラシードのアラビアン・ナイト文化が絶好調である。その七五一年のこと、中央アジアのタラス河畔では、唐の安西節度使の高仙芝の軍とアッバース朝ホラサーンの武将ズィヤード・ビン・サーリフの軍がぶつかって、唐が敗北した。唐軍の捕虜に製紙工がいたため、このとき中国の製紙法が西に伝わったという世界技術文化史上の見逃せない出来事がおこる。
 このように隋唐帝国を見ていくことは、そのままユーラシアから東アジアに及ぶ「鍵と鍵穴」を連続的に発見していくことになる。

8世紀の世界
「日本と世界の歴史―5」(学研 1970)より

 ところで、このようなアジア=ユーラシアの流れのなかで、ぼくが日本との関係で最近気になっているのが渤海である。七一三年に大祚栄が玄宗から渤海郡王に封ぜられたときから、その歴史が始まる。
 渤海が国の様相を呈したのは、高句麗が滅んだからだった。唐が大軍を高句麗に送りこんできたとき、この国の前身は中国東北地方から朝鮮半島北部にまたがっていた。ここを唐の遠征軍が高句麗を討っているあいだ、大祚栄が必死に守っていた。牡丹江上流の間島を拠点に、高句麗人や靺鞨人といったツングース系を統合していたのである。そのときこの国は「震」とか「大震」といっていた。“東方の国”という意味だ。
 唐はこの国までは打倒できないと見て、冊封方式による政策管理にすると決め、大祚栄を渤海郡王とした。これで国名が渤海になる。
 その渤海が聖武天皇の七二七年に、突如として日本に使節を送ってきた。高斉徳らの八人だった。「われわれは高句麗の旧居を復し、扶余・百済の遺俗を大事にしている」と自己紹介し、意外なことに自主的に交流を求めてきたのである。その後、渤海は醍醐天皇の時代までなんと三四回にわたって使者を送り、日本は一三回の使者を送っている。
 なぜこんなふうな自主ルートが渤海と日本のあいだに開かれたのか。いろいろ推理できるのだが、ひとつには日本と手を結んで新羅を牽制しようとしたのであろうし、ひとつには満州特産の貂の毛皮、蜂蜜、人参を、日本の絹・麻布・漆器などと交換して交易上の利益を求めたのでもあったろう。実際にも渤海五京の一つ上京龍泉府の遺跡からは和同開珎が出土した。上京龍泉府は東京城ともいわれて、条坊制のととのったミニ長安城のような趣があったところだと言われる。
 興味深いのは、日本はこのような渤海に対してなんらの政治的な工作もしていないし、また特別の援助もしなかったということだ。渤海に手を出して唐の関心をひきおこすことを避けたかったからだとも考えられるが、ぼくは日本海を挟んだ独自の交流が、この時期の「東アジアのひとときの安寧」に大きく寄与していたとも感じている。
 そこで、今夜の一言。東アジアの新たな展望は、いまなお日本海をまたぐ両側の“伏線”にこそ眠っているのではあるまいか。

8世紀の東アジア
「日本と世界の歴史―5」(学研 1970)より