才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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原発・正力・CIA

有馬哲夫

新潮新書 2008

編集:後藤裕二
装幀:新潮社装幀室

イミシンなタイトルである。
日本の原子力利用と原発導入にあたって、
正力松太郎とCIAが
利害を一致させて動いたというのだ。
いや、それだけではなかった。
そこにはもっと複雑な戦後が政官財絡ませながら、
60年安保に向かって蠢いていた。
それにしても正力は、
なぜ初代原子力委員長になれたのか。
そしてなぜ科学技術庁長官と
国家公安委員長を兼任できたのか。

 いま、日本政府はTPP(環太平洋経済連携協定)に参画するかどうか、土壇場の選択を迫られている。農産破壊や医療破壊がおこると反対する向きも多い。民主党の中も半数近い議員が反対署名をしたらしい。
 とりあえずはEPA(経済連携協定)にどう対処するかを議論してから決めようというのだが、選択を迫られているといってもAPEC(アジア太平洋経済協力会議)で意志表明をするのかどうか、そのリミットをオバマに区切られただけで、こんな時期に準備なく拙速に走ることはないのだが(もっと早くから組み立てておけばよかったが)、どうもそういう雰囲気にない。
 似たようなことはしばしばおこっている。沖縄普天間基地の辺野古移転でもミスジャッジしてしまったし、ごく最近の暴力団排除条例もアメリカの意向やオバマの発言が反映していた。
 しかし国が何をどのように決定するかという問題は、なかなか一筋縄では組み上がらない。一気呵成に進めるべきこともあれば、慎重に組み立てていく必要もある。歴史を見ればたちまちわかることであるが、意外なキーパーソンや協力者の登場によって決まることもある。
 戦後社会では、とくにアメリカとの駆け引きでどんなカードを用意しているかによって、事態が二転三転していった。日本が原発開発を決定していった経緯にも、このことが如実だった。
 本書に書いてあることがすべて事実であるかどうか、ぼくにはわからない。この手の多くはしばしば“陰謀史観”と言われてしまいかねないのだが、著者のこれまでの研究実績や、ここで述べられている事実追跡の細部性からみて、ほぼこのようなことがあったのだろうと思えた。著者は早稲田大学社会科学部のメディア論の教授で、ぼくより8年ほど若い同窓生にあたる。
 本書が暴いたのは、日本が原子力発電所の開発に向かったについては、そこに正力松太郎の野望とアメリカ、とりわけCIAの要求と仕掛けとの少なからぬ合致があったということである。これらのことを有馬はアメリカ国立第二公文書館などの「CIA文書」を首っ引きで読み解くことで“実証”した。

 念のために先に言っておくが、正力松太郎の野望は最初は原発にあったのではなかった。「マイクロ波通信網の建設」と「太平洋ネットワークの確立」にあり、そのために政治権力のトップの座にのぼりつめる必要があっただけだった。ところが理由はあとで説明するが、事情がいろいろ捩れて、これが原発開発プロジェクトの旗振り役に一転していった。
 一方、アメリカの要求と仕掛けは、日本に親米政権をつくること、反共産主義の基盤を盤石にさせること、そのために正力を利用することだった。アメリカは日本に原子力エネルギーの研究や開発を用意させる気はなかった。そんなことを促進させれば、日本は被爆国でありつつ原爆を保有する国になり、たちまち一流国になる。それはアメリカのすぐ選ぶところではない。けれども、ここにまた別の幾つかの捩れが生じて、これが正力の原子力活用シナリオの導入につながっていった。
 そういうふうになっていったのには、これらがおこった時期が重要になる。以上の一連の出来事は、日本が1955年の保守合同に向かっていこうとしていた時期であり、続いては1960年の新安保条約が締結されていく時期での出来事なのである。
 以下、事態進行の概略を一応の順を追って書いておくが、正力松太郎がどんな前半生を歩んだかということについては、佐野眞一『巨怪伝』(769夜)のときにあらかた紹介しておいたので、ここでは省く。

正力松太郎

 1945年8月、広島と長崎にアメリカが開発した原爆が投下された。アメリカは自粛するどころか、この技術を独占するため、1946年8月、原子力法(マクマオン原子力法)を制定した。これは原子力に関する知識や技術の国外流出を防ぐ立法だった。
 ところが1949年8月、ソ連が原爆実験に成功した。このためトルーマン大統領は原子力法派の反対を押し切って、翌年1月に水爆開発を指令してソ連に対する軍事的優位をゼッタイ獲得することをめざし、1952年11月エニウェトク環礁で水爆実験に成功した。けれどもソ連はまたまたその水爆の実験にも成功した。原爆開発のときは4年がかかったのに、水爆では9カ月でソ連が追いついてきた。
 驚いたアメリカは(かなり驚いた)、やむなくむマクマオンの原子力法の方針を転換した。きっと機密漏洩がおこっているか、共産圏のスパイが活動しているにちがいないと見たジョゼフ・マッカーシー上院議員は“レッドパージ”(赤狩り)の強硬をまくしたてた。
 他方、まるでこれに呼応するかのように、アイゼンハワー大統領は1953年12月の国連総会で有名な「アトムズ・フォー・ピース」(原子力の平和利用)の演説をおこなった。核兵器の開発競争が世界平和の脅威になっているため、アメリカは原子力の平和利用を各国に呼びかけ、そのための共同開発を援助する用意があるというものだ。この提案を実現するための国際原子力機関を設置することも提案された(これがのちのIAEA)。
 アメリカの意図はあきからだ。もはやソ連に先んじて原子力の軍事利用のカードを独占することは不可能だろうし、これ以上原爆・水爆の開発ばかりを進めると、アメリカは平和破壊のシンボルにされかねない。方針転換しつつ、そのかわりソ連圏の封じ込めを狙ったのだ。当然、このアメリカのシナリオでは日本にも一翼担わせたい。

 敗戦後の日本は連合軍にすっかり占領されていた。SCAP(連合国軍最高司令官体制)のもと、マッカーサーGHQが“民主化”を徹底させていた。その渦中、国内では戦後復興をめざして、ありとあらゆる計画と再編と駆け引きと競争がおこっていた。
 占領下の日本にとって、1949年10月に中華人民共和国が成立したことと、1950年6月に朝鮮戦争が勃発したこと、同7月に日本でも“赤狩り”が始まったことが大きかった。2・1ゼネストは中止され、下山事件・三鷹事件・松川事件などが仕組まれた。松本清張(289夜)がことごとく暴いたことである。
 そうしたなか、マッカーサーは国家警察予備隊の創設と海上保安庁の拡充を指令した。51年9月にはサンフランシスコ条約と日米安全保障条約が調印締結された。全面講和ではなく、単独講和だった。単独講和にすぎなかったことが大問題で、このことがその後の日本の行方を決定づけたのだが、GHQのほうはこれで日本の兵器製造を緩和し、そのまま52年の保安隊の発足へ、54年の自衛隊の発足へと押し切っていった。

 当時、日本の政権は吉田茂の日本自由党が握っていた。自由党はもともとは鳩山一郎が辻嘉六や児玉誉士夫の資金を得て敗戦直後に立ち上げたものだったのだが、鳩山は組閣直前に公職追放で表舞台から去った。鳩山の番頭格の三木武吉、河野一郎、石橋湛山も公職追放を受けた。
 鳩山がもたついているあいだに、吉田は地歩を築いた。アメリカの評判も悪くない。戦争末期に吉田が近衛文麿・牧野伸顕らと組織した「ヨハンセン・グループ」の連絡役を務めていたことは、GHQやアメリカにも都合がよかったのだ。
 51年に公職追放は解除されたが、吉田は鳩山に政権を渡そうとはしなかった。鳩山は離党と復党をくりかえしつつ、日本民主党の結成に向かった。この吉田と鳩山のシーソーゲームを睨んでいたのが読売新聞グループの総帥・正力松太郎だった。
 正力は「マイクロ波通信網」を構想していた。マイクロ波は第二次世界大戦中にレーダー開発によって注目され、その後は音声・映像・文字・静止画像などの大量情報を高品質で伝送できるため、放送と通信の両方に用いることが可能そうだった。正力はこの通信網を全国に張って、ラジオ・テレビ・ファクシミリ・データ放送・警察無線・列車通信・自動車通信・長距離電話などの多重サービスを一手に握ろうと考えていた。1953年8月、正力は日本テレビを開局するが、その名称が「日本テレビ放送網株式会社」であったのは、この通信網構想を反映していた。

 アメリカは正力のマイクロ波構想に賛成した。正力は折り紙付きの反共主義者だったし(もともと警視庁のボスだった→769夜参照)、正力の放送通信網ができれば、これを利用して日本に対する情報作戦や心理作戦がやりやすくなる。アメリカは正力の構想に100万ドルの借款を与える約束をした。
 正力は心情的には鳩山に加担していたが、吉田にはマイクロ波構想を実現させたいと考えていた。しかし吉田はこの構想に反対する。のみならず、アメリカの100万ドル借款を崩すため、当時の電電公社総裁の梶井剛のほうに4年間100億円の借款を外国銀行に申し込むように指示した。公衆電気通信法によって電気通信事業は電電公社の独占になっていたから、公社が借款を獲得すれば、正力の借款に政府承認を与える理由がなくなるからだ。
 吉田はアメリカの都合ばかりで日本が再軍備をすることには反対で、それなりの抵抗をしていたのである。そこからすると、正力の構想はアメリカが日本に要求する再軍備、とくに航空兵力の拡充と密接に結びつきすぎる。なんとか正力の野望を阻止しておかなければならない。
 そんな折りの1953年9月、怪文書がばらまかれた。「正力は100万ドルの借款を売るためにアメリカ国防総省と密約を結んだ、これは国民のための通信インフラを外国に売り渡すことになる」というものだ。
 怪文書は衆議院の委員会でもとりあげられ、正力はこれ以上の無理押しができなくなった。著者はこの怪文書は吉田が流したものだと見ている。アメリカも正力だけに頼ることに限界を感じて、駐留軍用のマイクロ波通信回線の建設と保守を電電公社に委託することにした(日本の電電体制もアメリカの意向を反映したわけなのである)。
 ここで鳩山が動いた。正力を自陣営にとりこみ、読売新聞を使って打倒吉田キャンペーンを張ろうというものだ。鳩山は正力がこのことに協力してくれれば、鳩山が内閣をつくることになったときに“大臣の椅子”を用意すると言ったにちがいない。

 発行部数は群を抜いていたが、正力の読売にとって永遠のライバルは朝日新聞である。しかも朝日には主筆に緒方竹虎(575夜)がいた。
 緒方はやがて副社長で退社すると、東久邇宮内閣の書記官長をへて、吉田内閣では官房長官になっていた。このままでは自由党総裁にのぼりつめそうだった。ここはなんとしても鳩山と組んで吉田と緒方を打倒し、そのうえでアメリカとの連携をひそかに強め、ひいては朝日を睥睨したい。
 新たなカードは53年12月のアイゼンハウアーの「アトムズ・フォー・ピース」に隠されたシナリオあった。マイクロ波構想を挫折させられたのなら、この新たな原子力シナリオの力を借り、勢いをつけたい。
 すでにアメリカは年末ぎりぎりになってオネストジョンを沖縄に配置していた。地対地の核ミサイルである。さらに明けて54年1月、国務省が「原子力発電の経済性」という秘密文書を送り付けてきた。ジェネラル・ダイナミックス社が建造した原子力潜水艦ノーチラス号がコネティカット州グロートンで、2万人が見守る派手な式典のもとで進水したのはその直後のことだった(搭載原子炉はウェスティングハウス社製)。社長のジョン・ホプキンスはその後も日米の原子力折衝の黒幕になっていく。
 正力は54年正月から読売新聞で大キャンペーン「ついに太陽をとらえた」を連載させると、3月の「原子力予算案」の可決に向けた準備に目を輝かせていた。日本の電源不足を補うために、吉田が7年越しの交渉のうえ、やっとアメリカの輸出入銀行から総額4200万ドルの借款を得たのだが(GEとウェスティングハウスが保証した)、これではとうていまにあいそうもなかったからだ。水力発電、火力発電に次ぐ“第三の火”としての原子力発電が必要なのである。

ノーチラス号の進水式

 3つのグループが原子力発電に向かって作動していた。学者グループ、産業グループ、政界グループだ。
 学者グループの中心は仁科芳雄である。本書にはあまりふれられていないけれど、仁科は理化学研究所(理研)に所属していて、戦時中に当時の大河内正敏所長から原爆の実現可能性についての研究を指令され(その指令の大元は陸軍航空技術研究所の安田武雄所長)、いわゆる「ニ号研究」に携わっていた。原爆製造としてはまことにお粗末な研究だった。ちなみに海軍にも「F研究」という原爆研究があって、これは京都帝国大学の荒勝文策の原子核実験が中心になっていたが、研究途上で敗戦によって潰えた。
 戦後の仁科に研究の再開を促したのはGHQのハリー・ケリーだった(ケリーは「戦後日本の科学復興の恩人とみなされることがある)。そこへマンハンタッン計画の首脳の一人だったアーネスト・ローレンスが来日して実験核物理研究の背中を押した。ローレンス放射線研究所にいた東大の嵯峨根遼吉があいだをつないだ(日本の核物理学研究の発展にはアメリカのカードが次々に提示されていたのだ)。
 産業グループの中心は電力事業業界である。のちの電力9社がこの主役を担ったのだが、それら電力事業各社が原子力発電にとりくむことになったのは、もともとは1939年に国策会社として発足した日本発送電株式会社(日発)が、戦後に設置した電力技術研究所を改編して、51年11月に電力中央研究所が誕生したことが大きかった。その傘下の電力経済研究所は、さっそく52年に新エネルギー委員会をつくって、ここで最初の本格的な原子力研究開発の下地ができた。

 3つ目の政治家グループの中心は中曽根康弘(当時は改進党)と稲葉修(のちに法相となる)・斎藤憲三(のちにTDKを創業する)・川崎秀二・松前重義たちだった。
 とくに中曽根は53年7月から11月までハーバード大学の国際問題研究会に出席するためアメリカ滞在をして、すっかり原子力のとりこになっていた。このとき中曽根の世話をしたのはハーバード助教授だったヘンリー・キッシンジャーである。日本の再軍備と原子力が中曽根のアタマの中ではっきり結び付いた瞬間だったろう。大井篤(元海軍大佐)をアメリカに呼んだ中曽根は、しきりに軍事施設の説明案内をさせた。大井はGHQ参謀第二部(通称G2)のウィロビーと昵懇だった。
 54年3月1日、アメリカのビキニ環礁での水爆実験によって近くでマグロ漁業をしていた第五福竜丸が「死の灰」で被災した(まもなく乗組員二人が亡くなった)。杉並区の住民が立ち上がると、ここに全国的な原水爆反対運動が盛り上がっていった。日本の原発議論に、4つ目のグループ、原水禁グループが加わったのである。
 第五福竜丸事件と原水禁運動の高揚はアメリカを苦らせた。国会でも「核の持ち込み」をめぐる議論が沸騰し、穂積七郎や中田吉雄が事前協議の必要性をアメリカに談判するべきだと問うた。
 伏見康治をリーダーとする日本学術会議も検討に乗り出し、「核兵器研究の拒否と原子力研究の三原則」を策定した。このままでは反米運動がおこりかねない。ホプキンスはさっそく「原子力のマーシャル・プラン」を提唱して、アメリカが開発途上国に対して原子炉を与える用意があることを示した。
 稲葉・中曽根らの政治家グループはここで攻勢に出る。54年5月に原子力利用準備調査会を立ち上げると(副総理が会長、経済企画庁が事務局)、一挙に原子力予算をとる段取りを練った。

 かくてようやく、このあたりから日米の原子炉推進派の利害が一致するようになっていく。正力は54年8月に新宿伊勢丹ですばやく「だれにでもわかる原子力」展を催させ、会場に被爆した第五福竜丸を展示するという離れ業をやってのけた。
 正力の腹心である柴田秀利(のちの日本テレビ専務)は、東京某所(寿司屋「源」らしい)でCIA局員と何度か会って、正力の原子力作戦に協力してほしい旨を頼みこんでいた。このCIA局員はダニエル・スタンレー・ワトスンという人物で、佐野眞一の『巨怪伝』にも柴田とともに出てくる。
 二人のあいだには、①現在の政権政党が混乱と分裂を続けているのは、親米保守を日本が続けていくうえで危険であること、②このままでは共産主義者が反原子力を反米プロパガンダにしていくだろうこと、③その隙にソ連が台頭してくるだろうこと、④これらを防ぐには早々にホプキンスなどの原子力専門家が来日すべきであること、⑤読売グループこれらの来日を大きく喧伝できるだろうことなどが交わされた。
 だいたいこんなふうな駆け引きのなか、アメリカでは「D-27計画」という対日心理作戦のあらかたが出来上がり、正力は日本の原子力平和利用の盟主として確固たる地位を獲得したのである。どうやらアメリカの日本洗脳と正力の野望が重なっていったのだ。
 政界の表舞台に出る準備も整ってきた。こうして54年3月に衆議院本会議を通過した原子力予算案にもとづき(原子炉築造予算2億3500万円)、“堂々たる原子力計画”が船出をした。折よく12月には鳩山念願の民主党政権が誕生していた。

 1955年に入ると、事態は次々に「原発日本」に向かって進み始めた。アメリカは井口駐米大使に原子力要員の訓練と濃縮ウランの提供をちらつかせ、日本テレビは「原子力の平和利用」や映画『原子未来戦』を放映し、正力は衆議院議員に打って出て初当選をはたした。
 そこへアメリカの原子力平和利用使節団(ホプキンス・ミッション)がやってきて、各地で原子力賛歌の講演会やイベントなどが打ち続くと、もう事態はとまらない。日米原子力協定が仮調印され、アメリカからの濃縮ウラン受け入れも決定された。
 しかし政権が不安定すぎた。55年2月の総選挙では鳩山の民主党は第一党になったものの、過半数には達しない。自由党の総議席数ともそれほどの差がつかない。社会党も右派と左派に分かれていたが、両派がまとまってこれに共産党が加われば民主党の議席を上回る。民主党・自由党・革新野党が三すくみなのだ。これでは政権は安定しない。日本の発展もない。こうしたなか自由党と民主党を合体させて、巨大な保守政党をつくろうとする動きが水面下で活発になってきた。
 正力はただちに動いた。5月17日、高輪の料亭「志保原」で自由党総務会長の大野伴睦と民主党総務会長の三木武吉を会談させ、保守大合同の第一歩を踏み出せたのだ。正力は大野と三木に2000万円の軍資金を渡した(実際にはそれ以前にアラビア石油の山下太郎が二人を密会させていたという説もあるし、そこに藤山愛一郎が加わっていたという説もある)。
 こうなると正力に擦りよる者も出る。揉み手をする者もアトをたたない。その一人、民主党の大麻唯男が正力に近づいて、保守大合同が成就した暁には、正力を総理にすることを約束した。この“密約”のことはCIA文書の中であきらかにされている。
 11月15日、民主党と自由党は解党し、自由民主党という巨大保守党が誕生した。しかし、正力は総理にはなれなかった。いや、誰もこの日には総裁になってはいない。幹事長の岸信介と総務会長の石井光次郎は総選挙をしたのちの総裁選びに転じたからだ。
 とはいえ正力に総理の椅子に座るチャンスがなくなったわけではなかった。先送りされただけだ。そう見た正力は引き続いて原子力カードを総裁レースの切り札にしようと、アメリカ相手に工作を重ねていった。CIAはこうした正力を「ポダム」の暗号で、当時の正力の“おねだり”の大半を文書に残していた。それによると、アメリカは正力の“死に物狂い”に呆れ始めたのだ。「正力は利にさとく、食えない奴だ」ということになっていったのである。

来日した原子力平和利用使節団
(右端がウェルシュ、その左がホプキンス)を出迎える正力(左端)

 正力は総理大臣にはなれなかったものの、55年年末に原子力三法(原子力基本法・原子力委員会設置法・総理府設置法)が可決されると、明けた56年1月1日に総理府に原子力委員会が発足し、そこで初代の原子力委員長に就任した。1月5日に第1回の原子力委員会で、正力は「5年以内に採算のとれる原子力発電所を建設したい」とぶち上げた。
 産業界にも拍車がかかった。最初に走り出したのは三菱原子動力委員会で、旧三菱財閥系23社がずらりと顔を揃えた。ついで日立と昭和電工による16社の東京原子力産業懇談会が発足し、住友系14社の住友原子力委員会が、56年6月には東芝など三井系37社の日本原子力事業会がつくられた。
 原発はまさに挙国一致体制によって発進することになったのである。その頂点に正力松太郎がいた。日本原子力研究所の敷地として東海村が決定すると、その鍬入れをしたのは正力だった。かくて1960年1月16日、東海村の原子炉建設が着工した。その3日後、新日米安全保障条約(60年安保)がアメリカで調印された。
 本書はこのあとの正力の変転をさらに描き出しているのだが(たとえば原子炉開発のパートナーをアメリカからイギリスに乗り換えしようとしたことなど)、またアメリカとの複雑怪奇な駆け引きの裏面史を浮き彫りにしているのだが、実際には正力は“原子力の父”の誉れを得たのちは、しだいに“メディア王”のほうに戻っていくことになる。
 では、その後の原発開発はどうなっていったのかということは、本書よりも、吉岡斉の『原子力の社会史』(朝日選書)や武田徹の『私たちはこうして原発大国を選んだ』(中公新書ラクレ)のほうが詳しい。いずれも3・11以降に新版が出ている。

東海村で鍬入れをする正力(1956年8日)
 

新潮新書249
『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史』
著者:有馬哲夫
2008年2月20日 発行
発行者:佐藤隆信
発行所:株式会社新潮社

【目次情報】
プロローグ 連鎖反応
第一章 なぜ正力が原子力だったのか
    メディア王と原子力発電/正力マイクロ構想/政界進出を決心させたもの/
    テレビ人脈と原子力
第二章 政治カードとしての原子力
    アトムズ・フォー・ピース/アメリカの狙い、日本の思惑/軍産複合体/
    流れを変えた第五福竜丸事件/正力は原子力カードを握った
第三章 正力とCIAの同床異夢
    寿司屋での会談/親米世論の形成/却下された正力の計画/
    讀賣の大キャンペーン柴田の狙いは/保守大合同工作
第四章 博覧会で世論を変えよ
    再び正力マイクロ構想/幻に終った訪米/CIAの協力体制/
    博覧会で世論を転換
第五章 動力炉で総理の椅子を引き寄せろ
    アメリカから見た保守合同/死に物狂いの正力、突き放すCIA/
    科学プロパガンダ映画『わが友原子力』
第六章 ついに対決した正力とCIA
    総理の椅子に肉薄/東海村の選定/原子力朝貢外交/ついにCIAと決別/
    訪英視察団で衝動買いを止めろ/ソ連から動力炉を入手していいのか/
    大野派買収計画/閣外に去る
第七章 政界の孤児、テレビに帰る
    石橋政権は短命に/政界の孤児となる/ジェット戦闘機とディズニー/
    とどめを刺したイギリスの免責条項/東京ディズニーランドへの道
第八章 ニュー・メディアとCIA
    足長おじさんを誰にするのか/衛星放送の父になり損なう
エピローグ 連鎖の果てに
あとがき 
本書のソース
年表 

【著者情報】
有馬哲夫[ありま てつお]
1953年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。93年ミズーリ大学客員教授。現在、早稲田大学社会学部・大学院社会科学研究科教授(メディア論)。著書に『中傷と陰謀』『日本テレビとCIA』など。