才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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隋唐の仏教と国家

礪波護

中央公論社 1999

編集:小林久子
装幀:未詳

中国仏教の精華は隋唐に起爆した。
けれども、そうなった経緯については
安易に見ないほうがいい。
儒教と道教が最前線を出入りした。
隋末唐初には、法琳と傅奕という
二人の熾烈なイデオロギー合戦があった。
われわれは宗教が国家でもあることを
いまやすっかり忘れているが、
そんなことは歴史でも世界でも、通用しないのだ。
エジプト、リビア、チュニジア、シリアのことを、
ときに隋唐に戻って考えてみるのがいい。

 本書は隋唐社会のなかに仏教が定着するにあたって、どんな障害や敵対物が待ち構えていたか、賛成派と反対派はどんなふうに相手のカテゴリーを攻めたのか、そこにどんな権威者や協賛者たちのお迎えがあったかを、ちょっとユニークな視点から綴ったものである。
 宗教におけるマネジメントと国家におけるマネジメントは、この時代にあってはまったくの同義語だったのである。

 著者の礪波護(となみ・まもる)のことは、中公「世界の歴史」シリーズの『隋唐帝国と古代朝鮮』で知ったあと、気になって読んだ『馮道―乱世の宰相』(中公文庫)が味よく印象深かった。長らく京大の人文研にかかわっていた中国史家である。
 礪波がどうして唐代の政治社会を研究することになったかということについては、若い頃に、宮崎市定の『東洋的近世』(教育タイムス社・中公文庫)と蝋山政道の『比較政治機構論』(岩波全書)をほぼ同時に読んだのが刺激になって、しだいに隋唐社会の解明にのめりこんでいったと自身でふりかえっている。
 もうひとつ、礪波にはずっと切れなかった関心事があった。それは、日本に仏教が本格的に入ったのにくらべて、なぜ道教が入ってこなかったのかということだった。そのことが気になったのは、井上靖の『天平の甍』に、「日本の遣唐使節が、玄宗に鑑真および五人の僧の招聘を上奏したのは、一行が長安の都を発つ日取りが決まつてからであつた。玄宗は鑑真の渡日には反対しなかつたが、鑑真らと共に道士も一緒に連れて行くやうにと言つた」とあったからだったらしい。
 ぼくは『天平の甍』にそんな箇所があったことなどまったく気づいていなかったけれど、なるほどあらためてページを繰ってみると、遣唐使節たちは玄宗から日本に道士を連れていけと言われて困ったうえ、道士を連れていくかわりに、自分たち一行の中から春逃源ら4人を選んで唐土に留め、道士の法を学ばせることにしたとあった。
 礪波はその後、古代日本には「道教が伝来しないようにしたい」というなんらかの宗教政策があったからだったのだろうと結論づけた。そのうえで、実は隋唐においても仏教と道教をどのように案分するかということが、そうとうに政治社会政策を左右したのだと考えるようになった。
 このあたりのこと、本書の第2章を読むと、その問題意識が奈辺にあったかが見えてくる。かんたんに紹介しておく。礪波が訝った日本と道教の関係については、その後、いくつもの新たな研究成果が出ているので、そのうち千夜千冊する。

 隋の文帝の時代に、法琳(ほうりん 572~640)という僧侶がいた。幼少期に出家したが、23歳で都市型の仏道修行に疑問をもって、青渓山の鬼谷洞に隠棲した。
 法琳は昼は仏典を読み、夜は俗典を覧読するという日々をおくった。仏教にも儒教にも道教にも親しんだのである。7年がたった仁寿1年(601)に長安に出て、関中各地を遍歴しながら奇妙なことを始めた。
 老子のタオイズムを教理として自分なりに体現したいと思って、方便として僧服を脱ぎ、髪を伸ばして俗人の姿をするようになったのである。つづいて隋末の義寧1年(617)には道士の黄衣を着て道観に出入りした。さらに道教の秘籍を縦覧して、ついに道教が虚妄の巣窟であることを見抜いたので、ふたたび仏僧に戻って仏典のすばらしさの探求に入った。青渓山に入ってから24年間もそういうことをしていたのである。

 傅奕(ふえき 554~639)という男がいた。法琳より20歳ほど年上である。北斉が北周に併呑されるころ、長安の通道観にいた。
 隋の文帝は国家鎮護のための仏教を興そうとして大興城を造営し、その東に大興善寺という仏教センターを構えたのだが、同時にその西に通道観を対称的に構えた。通道観はその後、玄都観として道教センターの様相を呈した。傅奕はその玄都観に入った。
 そのうちそこを出ると、ひそかに道士の修行をするようになった。やがて開皇17年(597)に儀曹という役職をえて漢王の諒に仕えた。諒は文帝の末子で、河北一帯52州を管轄していた。7年後の仁寿4年(604)、文帝が崩御する直前に妖星が出現した。諒は天文星暦にあかるい傅奕にその解義を求めたところ、傅奕は答えをはぐらかして、王を不快にさせた。
 文帝崩御のあと、煬帝が即位すると、諒は兵を挙げた。たちまち鎮圧されてしまい、諒は幽死。部下20余万も連座させられたり、殺されたりした。傅奕も当然詰問されるはずだったのだが、諒の意図に迎合しなかったということで情状酌量され、扶風に配された。
 その扶風に太守として赴任してきたのが李淵だった。のちの唐の高祖である。傅奕は高祖にとりいることにした。

大興善寺(陝西省西安市)
西晋の武帝の時代に創建。隋の文帝の時代に拡張工事が行われ、
大興善寺と名付けられた。

 これで、ちょっとあやしげな二人の人物、法琳と傅奕が登場したことになる。では、いったい二人にどんな関係が生じるのかというと、話はこの二人が仏教と道教をめぐって熾烈な論戦をすることになり、二人とも抑圧を受けてしまうのだが、そのことが隋唐の仏教国家形成の双発のエンジンになっていったのだ。
 が、その話に入る前に、ここでごくごくおおざっぱに、そもそも隋末からどうして唐が誕生したかということと、隋唐の宗教的な事情と動向のことを説明をしておきたい。

 隋の文帝(楊堅)が「開皇の治」で築いた中央集権力と国富力は、2代目の煬帝(楊広)が対外膨張政策と桁外れの土木事業と豪奢な宮廷生活でたちまち崩れていった。
 とくに612年から始まった高句麗遠征は最初から100万人の大軍の敗退となり、ロジスティックスを担当監督していた楊玄感の反乱を招いた。
 これが従来から反抗気味だった河北・山東の動きと結びつき、かなりの農民暴動に波及した。「遼東に行って犬死にするな」と歌って山東の長白山に籠もった民衆を指導した王薄は、いまなおこの地方の英雄譚になっている。ぼくは30年ほど前にその詩をめぐって、いまは亡き草森紳一と愉快な話を交わしたことがあった。
 それでも煬帝は第3次高句麗遠征を断行するのだが、すぐに雁門で突厥に包囲され、とりあえずなんとか脱出するものの、結局、不満兵士を率いた宇文化及(うぶんかきゅう)によって殺されてしまった。隋朝はここであっけなく滅ぶ。
 この煬帝の失態が続いていたあいだ、地方の反乱から何人もの群雄があらわれた。貴族出身の関中の李淵や中原の李密、中央アジアの商人だった王世充、河北の竇建徳(とうけんとく)、無頼上がりの杜伏威(とふくい)などだ。これらの群雄が農民集団や流民集団を吸収し、かれらの食いぶちを保証しつつ、互いに覇権をめぐって競いあっていった。
 このなかから最後にトーナメントに勝ち残ったのが、李淵、李建成・李世民の父子だった。戦略的に有利な太原(たいげん)に挙兵したこと、首都長安を早期に押さえたこと、突厥と結んで兵馬の精鋭を掌握できたこと、外部の攻撃を受けにくい関中を拠点にしたことなどが、勝利の要因だった。
 李淵は殺された煬帝の孫の幼帝から禅譲を受け、唐王朝を開いて高祖となり、年号を武徳と改めた。ここに李政権による唐室が生まれた。

 李淵は高祖となった。このとき傅奕が太史丞に任ぜられ、「漏刻新法」などの天文に関する奏上などをするようになった。たいへんな出世だ。
 しかし傅奕が奏上したのは天文の件だけではない。武徳4年(621)には「廃仏法事十有一条」といった廃仏論を提言していたのである。唐朝が仏教をとりいれるとどれだけ危険かを述べた。沙門を禿丁、ブッダを胡鬼呼ばわりもしていた。
 これに対して仏教護法の論陣をはったのが法琳だった。法琳は『破邪論』を書いて、傅奕の論拠が道教にもとづいていることをすぐに見破り、持ち前の道教文献を逆用して徹底反駁した。高祖は困った。新たな国家を護持できるのは仏教か、道教か、それとも儒教なのか。
 いったい隋唐にいたる以前、儒仏道の三教がどのような議論にさらされてきたかというに、仏教が中国に入ってきた後漢時代からずっとくりかえされてきた議論だった。傅奕と法琳はその積年の議論を初唐にもちこんだものだった。高祖は迷う。

 中国に最初に仏教が入ってきたことについては、長らく偽説がとびかってきた。まとめて仏教初伝説話という。
 なかで最も有名なのは1430夜でも紹介した「明帝感夢求法」というものである。後漢の明帝が夢のなかで金人に出会い、西方に神がいてその名を仏といってすばらしい功徳をもっている。そこで、夢からさめた明帝はさっそく西域に求法の使節を出したところ、仏典がもたらされたという話だ。『後漢紀』孝明皇帝紀や『後漢書』西域伝に出ている。
 これを受けて、儒教側は孔子がすでに「西方に聖者あり」と言っていたという論拠を持ち出したりした。実際には、仏教東漸の最初の記述は『三国志』魏書の裴松之(はいしょうし)の注に、哀帝の時代に景盧という者が大月氏(クシャーン朝)の使いから浮屠経(ふときょう)のことを聞いたという『魏略』西戎伝の一節が引用されているのが、いまのところ確認できることである。浮屠は浮図とも書かれた。浮屠も浮図もフットのこと、すなわち「ブッダ」の音写だった。
 ところが、このあと桓帝が皇帝として初めて仏教を信仰したとき、そのフットの仏陀(浮屠)を祀るにあたって、黄帝や老子を同時に祀ったため、話がややこしくなっていった。1430夜でも案内したが、王浮によって『老子化胡経』という偽経が書かれ、老子が流砂をわたってインドで浮屠あるいは浮図と呼ばれ、そこで仏法がおこったという説がまことしやかに流布されたのだ。
 むろん、こんなことはありえない。はっきりしていることは、後漢の桓帝・霊帝の時代に安息の安世高や大月氏の支ル迦讖(しるかせん)が初めて経典を漢訳したのであって(1429夜)、それ以前にはどんな仏教経典もその関連書などなかったのである。
 が、これで魏晋南北朝の360余年のあいだ、さまざまな儒教・道教・仏教の先陣争いと正統論議が続くことになる。とくに後漢末に太平道や五斗米道といった民間道教の運動がさかんになったことは、この先陣争いに老荘思想とそのヴァージョンの議論を介入させた。
 とくに魏の王弼(おうひつ 226~249)や何晏(かあん 190~249)が老子・荘子の「無」を仏教的な「空」に重ねたため、この見方がずっと三教議論を出入りした。

青牛に乗った老子像(中国河南省:函谷関)
『老子西昇経』では、老子が西方に渡り、仏になって民を教化したとされる。

 西晋の王浮が著した『老子化胡経』に対して、仏教側が偽作したのは東晋時代の『清浄法行経』である。老子・孔子・顔回はそれぞれ菩薩の権現だったとするもので、これまたとんでもなくあやしい。
 こういうふうにあやしいものがいくつも出回ったのは、むろん中国の宗教事情が国家経営にかかわっていたからにほかならない。
 漢の武帝が儒教を国教化したときは、まだ仏教は入っていなかった。次の後漢の時代は仏典が入ってきたばかりでなんらの仏教活動も確定できてはいない。ましてトップダウンの価値判断はなかった。仏の教えはさまざまな中国思想と交っていくだけだった。いわゆる格義仏教である。次の三国時代は老荘思想が復活した。
 こうして、五胡十六国時代でやっと道安(1428夜)や鳩摩羅什(1429夜)や慧遠の教相判釈によって格義仏教からの脱出が始まったのだけれど、それでもまだ一部のグループ仏教のようなものだった。
 それが南北朝でしだいに国の宗教問題になっていく。なぜ、そうなったのか。それは南朝(宋・斉・梁・陳)においても、北朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)においても、それぞれの国のサイズが小さかったからだった。仮に仏教を国教化しようとも、北魏や北周のように排仏政策を断行しようとも、致命的な問題にはいたらなかったのである。
 しかし、隋のように世界帝国レベルの統一をなした国家では、どのような宗教政策をとるかということは、そのまま国家経営の根幹にかかわってくる。TPPを導入するのか、しないのか、日本全体の1億人の問題にかかわるとなると、確定に怯むのだ。

 というわけで、隋の文帝は出家仏教を重視して五岳に仏寺をおくと、北周の廃仏政策を180度転換して大々的な仏教振興策をとった。601年からの数年間で、僧尼23万人、諸寺3792寺、写経46蔵13万巻、石像造営10万6000体に及んだという。
 このときセンターとなったのが、さきほどの大興城に設けられた大興善寺と通道観(玄都観)だったわけである。
 これでわかるように、文帝はまだ仏教と道教を両天秤にかけていた。この両天秤は煬帝の代にも続き、さらに唐の高祖や太宗にまで及んだ。傅奕と法琳が秘術を尽くして仏道二論の優劣を論じ合ったのには、こうした事情があったのだ。

 法琳の仏教擁護は『破邪論』にまとまって、そのまま道教批判になっている。しかし高祖には判定力がない。やむなく武徳7年(624)に道士と沙門の両代表を招いて、そこに儒教代表の博士を加えて三教ディベートをさせた。信長の安土の宗論をおもわせる。
 このディベートに結論は出ていない。しかしのちの記録を見ると、これによって高祖は仏教の行き過ぎにも道教の過剰にも沙汰をつけて、三教のバランスをとったようだ
 これをひっくりかえしたのが太宗の「玄武門の変」だった。李世民は兄の李建成を殺害してクーデターをおこすと、太宗として唐室の中心に立った。それだけではなく、宗教のイメージが国家のマネージにかかわり、国家のマネージメントはそのまま宗教のイメージメントであるという立場を貫いた。ここに、傅奕と法琳の努力は空しくなっていく。傅奕は死に、法琳はいわれのない弾圧を受けた。
 しかし礪波護は、二人の論争にこそ仏教と国家をめぐるその後のイデオロギーの歴史の本質がひそんでいたと見た。その通りだったろう。本書には井波律子の短いけれども要訣をえた解説が付されているのだが、井波は、中国史にひそむ宗教と国家のせめぎあい、すなわち王法と仏法の相克と癒着と激しい攻防は、本書によってみごとに浮き彫りにされたと指摘した。

 

中公文庫
『隋唐の仏教と国家』

著者:礪波護
1999年1月18日 発行
発行者:笠松巌
発行所:中央公論社

【目次情報】

隋唐時代の中国と日本の文化
 日出づる国からの使節
 隋の文帝、仏教を復興
 遣隋使・遣唐使が将来した文化

唐初の仏教・道教と国家 ―法琳の事跡にみる―
 一 傅奕の排仏論の背景
 ニ 法琳の護法活動
 三 遺教経施行勅の発布
 四 禁書とされた『法琳別伝』 
唐中期の仏教と国家
 一 写経跋にみえる浄土信仰と国家
  1 敦煌本『観無量寿経』
  2 敦煌本『観音経』とその偈頌
  3 天皇・皇后の尊号
  4 天授の邪三宝 
 ニ 造像銘に現れた唐仏教
  1 造像紀年銘
  2 西方浄土信仰と観音像
  3 天皇・天后
 三 玄宗朝の仏教政策
  1 造寺造仏への批判
  2 無尽蔵院の閉鎖
  3 僧尼拝君親の断行
 四 寒食展墓の開始 

唐代における僧尼拝君親の断行と撤回
 一 礼敬問題の研究小史
 ニ 隋唐初における不拝君親運動
 三 玄宗による僧尼拝君親の断行
 四 僧尼拝君の撤回
 五 「王法」と「仏法」を並列視する日本の中世
初出一覧
あとがき
人名索引
事項索引
解説 井波律子

【著者情報】
礪波護[となみ まもる]
1937年、東大阪市に生まれる。60年、京都大学文学部史学科卒業。大学院博士課程を了え、京都大学人文科学研究所助手、神戸大学文学部助教授、京都大学人文科学研究所助教授、教授を経て、現在は京都大学大学院文学研究科教授。文学博士。中国の政治・社会・宗教史を研究。著書に『馮道─乱世の宰相』『唐代政治社会史研究』『嵩山少林寺碑考(英文)』『地域からの世界史② 中国(上)』『世界の歴史⑥ 隋唐帝国と古代朝鮮(共著)』『ニーダム、中国の科学と文明・序篇(共訳)』、編著に『中国貴族制社会の研究』『中国中世の文物』。ほかに共著・論文多数。