父の先見
九州水軍国家の興亡
学習研究社 1990
そこに何もかもがあった。
ぼくは白秋の柳川の水から、
そのことを思い馳せた。
秋の彼岸を挟んで、ISIS編集学校九州支所《九天玄氣組》の発足に立ち会ってきた。福岡天神の青山ブックセンターで「松岡正剛千夜千冊・九州展」がオープンした日にもあたっていた。
この支所の立ち上げを半年かけて牽引しつづけたのは、福岡の中野由紀昌(ゆきよ)というとびきり男前なレディである。したがって彼女が《九天玄氣組》の初代の“組長”になったのは当然だった。組長を中心に25名をこえる九州在住者と出身者が顔を揃えている。まことに多士済々。中野さんも、この済々を取り仕切る組長にふさわしい健気と勇気と覇気をもっている。編集学校の有名な“お母さん師範”でもある。ちなみに9月22日が35歳の誕生日でもあった。みんなで祝った。そんなこと、当日まで“組員”にも黙っていたようだ。
二泊三日のあいだ、《九天玄氣組》に因むさまざまな催しが準備されていて、ぼくはニコニコしながらそのすべてに乗った。組長と組員によるほどよいホスピタリティに包まれたからだ。警固(けご)の逞案寮で広く旧交を温め、天神の青山ブックセンターで千夜千冊の棚組みを覗き、黒田藩の屋敷跡の友泉亭で九州各地の煎茶を味わって「本の茶会」を遊び、中洲のダイニングバーで彼岸花をめぐって歌い、さらに組員の山本啓湖さんが経営する「ケルツ」ではアイリッシュなパンを食べた(組員たちは黒ビールを呑んだ)。これらのすべてに西日本新聞の韋駄天・宇田記者と未詳倶楽部会員の建築家の中村享一さんがずっと同行した。
こうして最後は二槽の舟に分かれて船頭の唄を聞きながら、柳川の川下りをして北原白秋を偲んだのである。
柳河は城を三めぐり七めぐり水めぐらしぬ咲く花はちす
柳川(白秋は柳河と記している)は40年ぶりに訪れた。ヒッチハイクをしていた学生時代でのことだ。懐かしかった。40年ぶりだったから懐かしかったのか、白秋の幼少年期を感じて懐かしかったのか、きっといろいろのものが交じってやたらに感傷に耽ることができたのだろうと思う。
白秋も「水郷柳河こそは、わが生まれの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である」「さうして静かな廃市のひとつである」と綴った。
いま、柳川の中心は廃市ではなく、蒸しせいろの鰻飯屋がおいしい匂いとともに立ち並んでいて、それなりに賑わっている。われわれ組員もそのひとつの広い座敷で舌鼓を打った。けれどもぼくを心地よい感傷に耽らせたのは、鰻飯のせいではない。淀んだ水の流れの色合い、川辺に点々と咲く彼岸花(曼珠沙華)や芙蓉の人を欺く鮮やかさ、沖端(おきのはた)の水天宮の眠り、小さなからたちの垣根、おじいさんの傍らで少年と少女がザリガニをとっている姿のほうであった。
柳川にいて、もうひとつ、ふたつ、思い出したことがある。柳川は徳川期には立花藩12万石の城下町であって、そこは朱舜水(460夜・第5巻所収)とめっぽう縁が深かった。
朱舜水に日本投化を勧め、その日本滞在の一から十までを奔走したのは、立花藩の安東守約(号は省菴)だったのだ。守約は立花藩きっての儒者であり、朱子学や陽明学にあかるかった。当時の北九州随一の知識人だったろう。それに加えて、筑後にいて日中交流に身を投じようとした先駆的な気概の持ち主だった。仁義にも篤い。守約は長崎奉行に帰化手続きをし、自分の俸禄の半分をさいて舜水の滞在費にあてた。
その守約が舜水に贈った詩に、次のものがあり、そこに「九天」が出てくる。
遠く胡塵を避けて海東に来たり
凛然 節出す 魯連の雄
忠を励まし義に仗(よ)るは 仁人の事
利に就き安きを求むるは 衆俗同じ
昔日名題す 九天の上
多年身は落つ 四辺の中
鵬程(ほうてい)好去し 恢復を図る
舟楫(しゅうしゅう)今乗ず 万里の風
《九天玄氣組》の面々と立花藩の遺品を収めた資料館を学芸員に案内されながら、ぼくは遥かに朱舜水を想って、筑後に舜水を招こうとした安東守約のことを思い出していた。
守約は舜水を筑後に永住させるつもりだったのである。が、ここに登場してきたのが水戸光圀だった。光圀は守約から舜水の裂帛の気とその深甚な教養を聞いて、この人をこそ水戸に招くべきだと決意する。舜水もついに光圀の熱意にほだされて水戸に赴くことになる。
かくて、徳川三百年において水戸の地に水戸イデオロギーが胚胎することになり、筑後の地には長らく舜水への思いが残響することになったのである。その水戸イデオロギーと幕末の佐賀藩が結びついたこと、そろそろもっと注目されてよい。
もうひとつ思い出していたのは、そういう白秋や守約がいた柳川は中国の蘇州に似ていると述べた研究者がいたことだった。武光誠である。武光は今夜とりあげる本書の著者で、このところ、この人の書くものがおもしろいので、いろいろ読んでいる。
柳川が蘇州と似ているのは水郷水路の町であるからだが(鰻が名物であるのも蘇州と柳川に共通する)、むろん規模は蘇州のほうがはるかに大きい。けれども、そこには北九州の底辺の謎を解く意味もひそんでいた。武光は、蘇州に代表される中国江南の民こそが、北九州古代社会の最初の担い手だったのではないかと推理しているのである。江南の民とは呉や越の民のことをいう。
わかりやすくいうのなら、日本に稲作や青銅器が海洋技術が定着するのは北九州からであるが、その北九州の新たな動向を担ったのは江南からやってきた「海の民」であったろうということだ。のみならず、その北九州に生まれた小国家から倭国の原型ができあがっていったとするなら、アマテラスの道も大和朝廷の道も「江南≒北九州」ルートの解明によってしかその本来を解けないのではないかというのだ。
いや、これではあまりにはしょりすぎた説明になったけれど、大筋はそういうことになる。とくに本書は、そこに「早良国」(さわらのくに)という小国家があっただろうことを重視して、これまでもやもやしつづけていた北九州古代国家像の謎に強烈な光を照射した。
福岡県には多くの古代遺跡がある。小学生にも知られているのは水田耕作の跡を伝えた板付遺跡や最近のブームの主役になった吉野ケ里遺跡であるが、そのほかにもいっぱいある。
なかでも吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡が注目される。ここは「早良国」ともいうべき日本最古の小国家ができたところで、室見川水系にあたる。早良国は紀元前1世紀以前に出現した。
そのあとに筑前から肥前北部にかけて、青銅器をもった部族が群雄割拠しはじめた。唐津の宇木汲田遺跡、春日の板付田端遺跡や須玖岡本遺跡、そして吉野ケ里遺跡などがそれらにあたる。いずれも中国の江南地域からわたってきた部族たちの集落だった。やがて朝鮮半島からの渡来部族たちがふえてきて、『漢書』地理志にいう「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国をなす」の百余国が北九州に乱立した。
それが紀元前後のことだとすると、やがて1世紀すぎになってそのなかの「奴国」が支配力をもってきた。奴国の領土には、「漢委奴国王」の金印で有名な志賀島や宗像三神で有名な宗像の地域が入る。あのあたりは朝鮮半島との交通の要衝だったと見てよい。祖先を阿曇磯良(あずみのいそら)とするアズミ一族の拠点、つまりは海の民の北九州側の拠点だった。
奴国の成長は早良国をのみこんだ。いまの福岡市内もだいたいは奴国の支配下に入った。1世紀中葉のことである。ついで糸島平野の「伊都国」が発展した。いまの福岡県前原(まえばる)が中心になる。ドルメン信仰をもっていた。
このあと、福岡平野を領土にしていた奴国の時代から、筑紫平野を拠点にした吉野ケ里遺跡に象徴される「弥奴(みな)国」や「邪馬台国」の時代がやってくる(本書の武光誠は邪馬台国を筑後川流域に設定している)。この、奴国から邪馬台国への移行は、福岡平野から筑紫平野へという陸路の移行ではなかった。有明海を介在させての構造流動だったのである。
ぼくはこのことが長らく頭に入れにくかったのだが、最近ではよく了解できる。弥生時代の開始とともに玄界灘の海辺地域に水田耕作が伝えられ、それが数十年をかけて海路で有明海沿岸に伝わったのだ。それほど九天九州は隣どうしの土地でさえ、海によって結ばれていた。
そもそも呉越の江南の民とは「海の民」である。ということは航海技術をもった水軍一族たちの集団ということになる。この連中がどのように日本にやってきたかということを遠望してみると、武光誠によると大きく4つの定住と移動のルートが想定できるという。
第1には、江南から対馬海流にのって着く五島列島である。このルートが最も漂着しやすい。五島列島は古代では「値嘉郷」(ちかのさと)とよばれた。そこから肥前南部から北九州への移動がさかんにおこなわれた。さらにそこから肥後に赴いた連中は菊地の国(菊地彦が首長)に辿り着いた。
第2に江南から東に航行して東シナ海を横切り、奄美大島から南九州に着くルートがあった。日向・薩摩・大隅が定住先になる。これについては第834夜の『鬼の日本史』に詳しいことを書いておいた。ここにはニニギノミコトの天孫降臨伝承もあるし、オオヤマツミやコノハナサクヤヒメの意外な伝承もある。いずれも海の神話伝承である。
第3には肥前南部に着くルートで、ここに来た連中はその後の朝鮮との交易に便利な肥前北部や筑前や筑後に移動した。このルートでは、本書にはふれられていないが、中国沿岸部の蜑民(たんみん)の渡来や媽祖(まそ)の伝承が見逃せない。海の女神の伝承である。
第4には、この肥前北部・筑前・筑後の集団のなかからさらに東進をした一団と、南九州から北進した一団とが合流して、豊前・豊後の集団ができたというルートと、肥前南部から有明海をわたって肥後に定住を求めたルートとが派生した。最後に九州を形成していったのが、この部族たちである。
このうち、肥前北部・筑前・筑後の集団は朝鮮半島との交易で拡張していった。また豊前・豊後の集団は瀬戸内海航路を活用して西日本各地との交易に向かっていった。これらはすべて弥生時代の開始とともに水田耕作にもとりくんでいる。
それに対して、肥前南部・肥後・日向・薩摩・大隅の地域には縄文社会の伝統を引く狩猟民が残存した。稲作も遅れ、3世紀になって菊地彦の領土を中心に「狗奴国」となり、また西都原(さいとばる)遺跡に代表される小国家群となっていった。
これで九州の九天すべてが定着したわけではないが、おおむねこのように弥生後期の九州が「海の民」の渡来と定住と移動によってしだいに割り振りされていったことになる。
本書は『九州水軍国家の興亡』という、一見するとたいそうな表題になっているが、その推理と叙述はまことに興味深く、ぜひとも熟読を薦めたい。文庫にもなったので読みやすい。ただし多少文脈が前後しているので、しっかり読むほうがいい。
しっかり読めば、上に紹介したことは著者の推理のほんの一部であって、古代史や九州に関心のある者ならもっと深々と堪能できることがわかるだろう。
今夜のぼくは、たまたま柳川の水郷から古代九州水軍国家の夢の跡をふと思いめぐらしたのだけれど、あえて勇猛果敢にその足跡を追っていきたいという気分の者も少なくないはずだ。そこは本書ほか、古代九州ものをあれこれ渉猟されたい。かつて一世を風靡した古田武彦のもの、水野祐のもの、さかのぼっては鳥居龍蔵のものや内藤湖南のものなど、猛者の推理が手ぐすねひいて待っている。なにしろ北九州は古代日本のすべての原点なのである。
ただし、そういうものを渉猟する前に、一言。本書のなかの一枚の分布マップを頭に入れておかれるといいだろう。245ページの「伊都国連合から邪馬台国連合へ」という図だ(図版参照)。
これでわかるように、玄界灘を懐に抱いた伊都国連合と邪馬台国連合と、ここではふれなかった宇佐国連合や狗奴国連合が、一挙に九天の九州に散っていったのである。この一枚のマップを見ていれば、そのような九天の構図が一目で瞭然になる。
というところで、彼岸を挟んだ北九州の日々から零れた追想をおえることにする。中野由紀昌組長、丸山シズ枝代紋、その他多くの組員舎弟のみなさん、どうもありがとう。
田中弘若頭の名ナビゲーション、中村正敏若衆のドライビング・ドキュメント、上原美奈子茶頭のティーリテラシーも、おみごとでした。校長はまた九州へ行きたい! りべらる九州、あんぐる編集!