父の先見
昭和という時代
中公文庫 1997
鈴木治雄さんは企業家では屈指の読書家だといわれてきた。乱読ではなく40年にわたってプランをたてて読んだ。『古典の読み方』『古典と仕事』『企業人の読書日記』などの著書も多い。味の素の創業者一族の鈴木忠治の五男で、野村證券(野村合名)をへて昭和電工に入り、社長と会長を歴任した。
書画骨董や美術音楽の造詣も深く、60歳をすぎてからは油絵も嗜んでいた。去年(2005)、91歳で亡くなった。
順風満帆の人生ではない。16歳のころに結核性の網膜炎になり、出血が何度も重なって学校を1年半くらい休んだ。そのときに音楽や哲学や聖書に入っていった。とくに正岡子規と石川啄木に傾倒したようだ。昭和電工時代には敗戦の年の5月に常務に就任していたため、軍需産業を推進した理由で"追放"を強いられ、給与もなく財産税による没収もあり、4年後に追放解除で復職したときは会社に着ていく背広もなかったほどだった。
昭和28年に発生した熊本の水俣病に続いて、昭和39年ごろには、新潟県の阿賀野川でも有機水銀中毒が見られるようになって、上流の昭和電工の工場排水が原因とされて非難を一身に受けた。それでも鈴木さんはその後の企業活動にも交流活動にも教養と柔軟と洞察を欠かさなかった。まあ、どれほどの読書家で、どんなふうな造詣の持ち主かは、以下の案内で察してもらえばよろしい。
本書は鈴木さんが80歳をこえてから「味の手帖」で連載対談したもの、「兆」や「浜作」や「菊亭」で酒と肴をたのしみながら各界の名士とごくゆるゆると語りあった記録集である。『昭和という時代』という表題がいい。
とうてい全部の対話者は案内できないが、ざっと以下のような座談感覚だ。こういう企業家がとんといなくなった。継ぐのは福原義春さんくらいだろうか。
こんな感じなのである。順不同・敬称略でいくが、聖路加病院の日野原重明とは鴎外や杢太郎や茂吉が医者でありながら文化に関心をもったことをめぐりつつ、「老いに成長する」という話をしているうち、鈴木大拙が「90にならなければわからないことがある」と言ったことで結ぶ。
阿川弘之のときは、ぼくも麻雀を年に2、3回はやるときがあるけれど、あれは水が流れるようじゃないとつまらない。考えるのはつまらないと言う。それで囲碁の呉清源の話になって、あの人は目の前に10人ほどがいて、対局しなくてもそのなかで一番の奴をあてますね。天才ですね。
3つ年上になる白洲正子にはしきりに鶴川の家に行ってみたいとねだりながら、白洲が書いた『自伝』と『世阿弥』を褒める。また『戦艦大和ノ最期』を書いた吉田満が高校の後輩なのだが、あの本の出版を推したのは小林秀雄だったという話から、青山二郎のこと、魯山人の書はいい、熊谷守一は絵もいいけれど書はもっといいというふうにつながっていく。
幸田露伴の孫にあたる青木玉と「臈たける」の感覚をかわしているののも好もしい。鈴木さんは露伴の骨董話の『幻談』が好きなようだが、この趣味はそうとうなものである。それが陶芸家の辻清明には李朝の陶磁や魯山人の話を持ち出すのだが、とんと敵わない。それでも悠然と井上靖が河井寛次郎の壷をどのようにせしめたかという秘話を紹介して、焼きもの談義をたのしんでいる。ご立派だ。
原子物理学者で東大総長だった有馬朗人が相手では、有馬が俳句の賞をとったとき、記者が「有馬先生、余技もたいしたもんですね」と言ったのに対して、有馬が「物理学も余技ですよ」と答えたのに感心したという話から、寺田寅彦が松根東洋城と3、4カ月かけて銀座のカフェや新宿の「中村屋」で連句を巻いていたエピソードになって(連句は36句をせいぜい数時間で巻き終わるもの)、科学と文化をまたいだ職人感覚が蘇らないかぎり、日本はダメになるだろうと落ち着く。
日本はダメになる話は宮沢喜一とも続行していて、はてさて政治家は大衆を指導すべきかどうか、マスメディアはエリートを育むべきかどうかをちょっと議論する。鈴木さんは日本はセンセーショナリズムと大衆享楽主義の国だから、少しはエリートづくりに本腰を入れなきゃダメだろうに、それにしては大蔵省の官僚にも新聞にも本当のエリートがいないと嘆く。宮沢は、新聞にエリートが出てくるには部数を落とさなきゃなりませんなと笑う。
堤清二とも日本のダメなところの話になった。鈴木さんは結局、芭蕉の「不易流行」の本当の意味がわからなくなったんでしょうと言う。「流行」よりもよっぽど「不易」が大事だというのだ。
それで思い出したんだが、ぼくはいままで聞いた音楽で最高だったものはバッハの『マタイ受難曲』だとおもうんですが、それを武満徹さんに言ったら、いやぼくもそう思いますと言われてホッとして、また「不易流行」を確信できたと言いもする。
とくに深い話をしようとしているわけではない。たとえば一転、福田赳夫とはトクヴィルの民主主義論を引いて、民主主義はそれぞれの国民の意識によるもので、いちがいに民主主義がいいわけではありませんねでチョン。このあたりのことは『普遍的価値の絆を求めて』にも書いていたことだった。ついでに、吉永小百合には、「大江健三郎さんは落語家みたいですね」。細川内閣のときの法務大臣だった三ケ月章には、「私は陪審員制度は反対ですし、死刑廃止論も軽々しく言うものじゃないと思っているんです」。
このころの鈴木さんは、毎月、歌舞伎を観ていたようである。また東郷神社の近所の日本陶芸倶楽部には4、5年前から通っていろいろ弄(いじ)っていた。
だから中村雀右衛門を招いたときはたいそう嬉しそうである。そのとき雀右衛門が76歳、鈴木さんは82歳。正月3日に『時雨炬燵』を拝見しまして、とてもよかったですという出だしで、近松半二が江戸にない軽みを『時雨炬燵』に書いたのを、これを演じるには江戸情緒ではないようにしなければならない。あんまり切れをつけられないといった芸談を促し、耳を傾けている。
ときに、そういえば小松茂美さんが刊行している「水茎」という書道の研究誌に(これを読んでいるとは驚くが)、歌舞伎における書の話を綴っておられましたが、舞台で書くというのは大変でしょうねと水を向け、やはり歌舞伎は手の表情ですね、『藤娘』だって藤の枝をもつ手がちがいますものねというふうに佳境に入る。それで、芸というものはやっぱり「纏頭」(はな)があるかどうかでございましょうというふうになっていく。この「纏頭」は雀右衛門にこそぴったりなのだ。玉三郎では「纏頭」ではなく「花」なのである。
そのほか、加藤シヅエ、古橋廣之進、中央公論社の嶋中鵬二、斎藤茂太、戯曲家の田中澄江、アサヒビールの樋口廣太郎、住友銀行頭取の伊部恭之助というふうに、百戦錬磨の人士たちが顔を出す。誰が相手でも鈴木さんは構えずに、喋りだす。それが気持ちよく、なるほど昭和という時代を感じさせる。
確かめる機会があったわけではないので当てずっぽうだが、おそらく鈴木さんのコンセプトは「絆」というものだったろうとおもう。また、そこに聖俗や雅俗を読んできたのだろうとおもう。だから座談は徳川夢声の談論風発というわけではない。けれども「慈しみ」と「あわい」と「ひらめき」があって、倦きさせない。
なかで最も鈴木さんらしい発言は、ひとつは「日本人が日本人のなかの本当にいいものを認識する力がないんですね」というもの、もうひとつは、これこそぼくが感服したのだが、「私の理想は、まだあの人、生きてたのかしらと言われるくらい世間から忘れられて、隠遁とか隠棲とか、つまりは社会的にはそういうような存在になっていきたかったということですね」というものだろうか。
それについては樋口廣太郎さんがイエズス会の宣教師の例を出して、次のような話になっていることでも頷ける(樋口さんはぼくと同じ京都生まれで、同じ誕生日)。宣教師たちは、自分たちは日本という無宗教の国に来て4つの教会をつくるのだが、それができればすみやかに日本人司祭にこれを譲る。ついては「いささかの痕跡も残さないことをもってこのミッションを終える」と書いているという話だ。樋口さんがこれは凄いのではないかと言い、二人で「われわれ実業界の人間というものも、いささかの痕跡も事業のうえに残さないのが理想でしょう」というのだ。
そういう鈴木さんに、そのころ90歳をこえていた大ボス中山素平はこう言ったらしい。「鈴木君、君にはまだ幼児性があるようだ」。