父の先見
負ける建築
岩波書店 2004
コロンビア大学の客員研究員をしながらニューヨークにいた隈研吾が、日本に帰って最初に出した本に『10宅論』(1986)があった。都会にいる日本人の住宅嗜好を10のタイプに分類して、すっからかんに笑いとばしたものだ。
10宅はワンルームマンション派、清里ペンション派、カフェバー派、ハビタ派、アーキテクト派、住宅展示場派、建売住宅派、クラブ派、料亭派、歴史的家屋派の10宅に分かれる。
還暦をこえていまだに家を建てたことも、買ったこともないぼくには、この分類が日本人の嗜好の対象に見えるかどうかというと心もとないのだけれど、この10宅にこっそりアーキテクト派をまぜておいたというのが隈の企みで、いっぱしの建築家たちが住宅設計を前にすると、手もなく他の9宅と同様の「建築的欲望」の要求を満たすほうに堕してしまうのはなぜなのかというのが、この本の狙いだった。
隈に言わせると、日本の建築家は住宅が異常に好きなのである。その証拠に住宅専門の建築雑誌がいくつもある。家を建てたい人のためのものではなくて、建築家のための住宅雑誌だ。こういう国はめずらしいらしい。
日本の建築家が住宅が好きなのには、3つの理由があるという。①住宅が箱庭の役割をはたしている。だからおもしろみに凝れる。②箱庭はコストもかからないから駆け出しの建築家でも注文を受けられる。③住宅は人間生活の基本だという崇高な思想が守れる。この3つだ。
しかし、この3つにしがみついているために、日本の住宅嗜好も建築家の住宅志向も根本的な病気から脱出できなくなっていた。そう、隈は判定した。
日本には資本主義とともに人本主義ならぬ住本主義とでもいうものがある。住友ではなくて、住本。住宅資本主義、隈研吾の言葉では住宅私有本位制だ。
20世紀資本主義の基底には住宅を私有するという欲望があった。すでにエンゲルスは『住宅問題』で、住宅の私有が資本主義のエンジンになるだろうことを見抜いていた。実際にも19世紀は富裕な市民は商品を収集することで室内を世界に変えようとした。その観察をあとからなしとげたのはベンヤミンであるが、ベンヤミンはそのように収集された商品をすかさず「挫折した物質」だとみなした。
収集された商品が「挫折した物質」になっていけば、空間はゴミの捨て場になるだけである。そこで20世紀の建築はこの危機から室内の欲望を解放しようとした。ごてごてにならないようにした。装飾を排除した。これがモダニズムというものだ。モダニズムの建築とは、一言でいえば、建築と商品を分断することだったのである。
そもそも20世紀の建築は二つのデザインを仕訳して生きのびてきた。テクノロジーのデザインとヒューマニズムのデザインだ。
テクノロジーのデザインは、ミース・ファン・デル・ローエが提案した「ユニバーサル・スペース」と「ゾーニング」を基本にしている。「ユニバーサル・スペース」はどのようにでもなりうる自由なスペースの単位のことで、このすーすーするほどフラットな単位がいくらでも機能の組み合わせを自在にした。「ゾーニング」は容積率によって床面積が決まってくるという算段を確立し、この算段ができたから20世紀は土地の価格を割り出せた。第1101夜にも書いておいたことだ。しかしそのときは書かなかったが、これらはケインズの資本主義経済の発展のモデルにぴったりはまったということが重大なのである。隈はそこを逃さない。
一方のヒューマニズムのデザインは、住宅やホテルや商業空間で発揮された。そこでは木や布や紙や煉瓦などが、人間の体温を感じさせるものとしてあれこれ使えた。
この二つのデザインを20世紀建築は巧妙に仕訳し、使い分けてきた。機能で建てるにはテクロジーを使い、体温で建てるにはヒューマニズムでいく。しかしこれはどうみても二項対立である。資本主義が変質すれば変更をうけざるをえない。ケインズ経済がおかしくなれば、デザインだって変わるはずだった。
実際にも資本主義はしだいに情報資本主義に変質していった。コンピュータ・ネットワークがつながってみると、案の定、資本と商品の区別が曖昧になってきた。それなら当然、建築と商品の関係もおかしくなるはずだった。それなら住宅建築も変化するはずだった。ところが、日本ではそうならなかったのだ。
1980年代というのは世界的な建築的欲望にうなされたディケードである。けれども80年代が終わってみると、いくつかの資本主義国ではバブルがはじけて吹きとんだ。情報資本主義ははやくも矛盾を露呈しはじめたのだ。
だったら80年代に膨らんだ建築的欲望も変質するはずだった。いや、吹きとぶはずだったのである。ところが日本は大衆市場の欲情の矛先を変えただけで、何も変わろうとしていなかった。
ニューヨークから戻った隈は、それを感じて新たな問題にとりくまなければならなくなってきた。そのころの問題意識は『建築的欲望の終焉』(1994)としてまとまっている。
住宅は住むための機械であると言ったのはル・コルビジェである。この定義が現代住宅の出発点になった。けれども日本ではそうなってはいない。隈は「住宅は女性による家庭支配のための機械である」と言いなおすことにした。これは住宅のマーケットを女性たちが掌握しているということである。
マーケットに敏感な女性たちは、当然、資本主義の変質にも敏感である。かつてのバブリーな時代には10宅を選んでいたのを、さっそく変更しはじめた。隈によると、これは独身女性の話にしぼられるのだが、女性たちは、①社宅派(バブル社宅が安くなっている)、②出戻り派(実家に戻る)、③カタミ派(カッシーナをやめて形見の箪笥や火鉢でインテリアを変える)、④バリ派(メルヘンを追わずにバリの木彫りのネームプレートにする)という4方向に転向していったらしい。
では、かつてのアーキテクト派の羨望の的だった建築家はどうしていたかというと、あいかわらず建築家の個性を住宅に投影することをめざし、町の工務店や大工はプレハブ住宅が開発するデザイン・タイプを稚拙に模倣するばかりなのである。
これが隈には耐えられない。住宅ではないところで自分の方法を試し、実験を重ねていくことにする。
隈研吾はそうとうに明晰である。かなりきわどい設計や発言をしていてもバランスが崩れない。
芯が強いからかと思っていたが、そうでなくて、芯が何本もある。いくつもの歴史の芯や他の建築家の軸が隈の意識のなかに複数で組み合わさっている。内側にそういう組み合わせが発動しているだけではなく、外側の芯や軸との対応もある。社会システムや建造物に突き出た芯や軸の尖端をちゃんと観測して、そのどの一つの尖端からも複雑な組み合わせの意味を解読できる能力をもっている。そのくせ、設計するときはこれらの解釈が建物を破ってこないようにする。鈴木明はそのような隈のやりかたを「策略家」だと言った。
ぼくはめったに"建築作品"をそれを見るためだけに走っていくということをしないのだが、『M2』(1991)は見に行った。見に行って腰を抜かした。さすがに聞きしに勝るものだった。なんとも説明のしようがない。ポストモダンともポストモダン批判とも、つまりはMとも非Mとも見える。必ずしも策略家だとはおもわなかったのは、そのうち妙に落ち着いた気分になってきたからだ。破綻もないし、おかしなところがない。いくつもの派手なアイテムが組み合わさって表象されているのに(そのへんが策略家なのか)、それを収めている。どうも境界についての敏感で慎重なとりくみをしているらしい。そのように見えた。
モダニズムとポストモダニズムがつくりあげてきた境界というものにこだわっていないのだ。これは隈にのみ特徴していることなのかどうかは、わからない。ひょっとすると隈の育った時代の産物かもしれないが(そうかもしれないと感じられることが1995年の『建築の危機を超えて』を読むと見えてくる)、あとで一言加えるように、やはり隈には境界に対する独特の見方があるようなのだ。連接と切断の方法そのものを境界で相対化してしまいたいようなのだ。
いま、隈研吾の世代は戦後日本建築界で第4世代とよばれている。おおざっぱにいえば、第1世代は前川国男や坂倉準三につづく丹下健三や白井晟一や大江宏が代表していて、隈によると「精神性」と「政治性」の世代である。
第2世代は槇文彦・磯崎新・黒川紀章・菊竹清訓の世代で、政治性と精神性を否定して前世代との対決の姿勢をあえて剥き出しにする。この世代では黒川がもっぱら嫉妬の対象になることが多いのは、黒川が突出して政治的であるかららしい。第3世代は伊藤豊雄・安藤忠雄・毛綱毅曠・長谷川逸子・石井和紘・石山修武・山本理顕たちで、「西欧との交信」を拒否して、そのかわりに「民族性」を立脚点にしている。建築史家で路上観察派の藤森照信などもここに入る。
で、第4世代が隈研吾・竹山聖・大江匡・團紀彦・坂茂などになる。この世代に属する隈自身の実感では、ツッパリがなく「なんでもあり」で、非政治的でお人好しらしい。これではわざと特色を消しているか、攻撃されるのを避けているようで説明にはなっていないが、おそらくはそれぞれが方法的多様性のなかにいるということだろう。
しかしこの世代もこのままでは目印がない。ここにおいて隈もさすがに脚下照顧をしてでも、この現状に向き合ってみなければならなくなってきた。けれども目印を強調することはしたくない。むしろマイナスの目印にしたい。境界があるのか境界がないのか、あえていうのなら、そのこと自体を目印にしたい。
そこで隈は『反オブジェクト』(2000)という本を書いた。これには「建築を溶かし、砕く」というサブタイトルが、帯には勇ましくも「反建築への思考と実践」というキャッフレーズが付いている。反建築も反オブジェクトもあまりにアンチテーゼめいているけれど、隈にはこのような左翼的な発言でしばしばダッシュをかけるところがある。内容はあいかわらずバランスがとれていて、自分が建てた建築によって自分の方法を検証したり批評しようというものだ。
ここでオブジェクトと言っているのは、建築が発揮している存在感のようなもののことである。建築物が周囲の環境から切断されて物体としての主張をしてしまっていること、それが建築のオブジェクト性だ。グラウンド(地)に対するにフィギュア(図)の屹立だ。いわば、威張っている建築がオブジェクト主張型というものらしい。隈は建築がグラウンドから離れてオブジェクトになってしまう原因を、自作を素材に検討した。
この試みがうまくいったのかどうか、ぼくにはわからない。熱海の『水/ガラス』というゲストハウスでは、ここにはぼくも招かれて一夜泊まってみたのだが、反オブジェクトというより境界そのものをオブジェクトにしないように上手に仕組んでいるようにおもわれた。
が、ここまでの作業では、まだまだ満足できなかったのである。隈は次の本でついに『負ける建築』(2004)というタイトルをもってきた。本書のことだ。
いったい「負ける」とか「負ける建築」とは何なのか。こういうことらしい。
かつて米ソ対立が鮮明に世界を二分していたときは、勝つためのレトリックが支配していた。けれども勝ち組をアメリカが独占したかに見えるようになってくると、巨悪に立ち向かえるのは自爆テロだけ、巨善に立ち向かえるのはマイクロソフトだけで、軍事力でも経済力でも主張力でも、ほかはみんな「負け」になった。そうなると、負け派も負けをレトリックにして語るような知恵がついてきた。能動性(勝つ)よりも受動性(負け)なのだ。科学においてもたとえば、受動性の探求であるアフォーダンスが脚光をあびるようになった(第1079夜参照)。
隈によれば、負けのレトリックが尊ばれるというのは共同体が閉じたということになる。共同体が開き、外部と直面するときは「勝つ」ためのレトリックを競いあう。外部に敵わないとみて共同体が閉じれば、内輪の関係を重視してそちらのほうを保てばいいのだから、そこに集中できる。負けのレトリックとは、この由緒正しい村落共同体的なマナーにのっとった「負けるが勝ち」の作戦なのだ。
このムードが建築においても流行しているのだという。わがままな施主に負けた、奇妙な形の敷地に負けた、予算の少なさに負けた、理不尽な建築法規に負けた‥‥。建築家もこのレトリックをおぼえたのだ。しかし隈は、このような負けのレトリックの裏側で、またしても建築という結果の強さがのうのうとしはじめたのではないか、そう言うのだ。
建築は負けたなどと言うべきではない。どうしようもなく強いものだと自覚するべきなのだ。建築はやはり勝つ宿命から逃れられはしないのだ。遁走はできないはずなのである。そのような宿命を自覚するこのほうが重要ではないか。隈はそう言いたかった。
本書が「負け」に関して言及している理屈は、だいたいは以上のようなことである。けれどもこれだけでは何を提案しているのか、批判しているのかが、よく見えない。
ぼくは建築の勝ち負けというものがどういうものかはまだピンときていないけれど、むしろ隈研吾の言いたいことは、グラウンド(地=分母)を問わないでフィギュア(図=分子)にかまけるなということだろう。ぼくもかつて「デノミネーターの消息」という連載を雑誌にしていたことがあるのだが、問題は何を分母において分子を語るかということなのである。たとえば「テロ」は、分母に「ナショナリズム」をもってくるか「民主主義」をもってくるかで、その分子の意味が変わっていく。だったら第4世代は、かつての「精神性」や「民族性」に代わる分母を持ち出すべきなのである。
もし、分母はとっくの昔に「自然」とか「生活」に決まっているのだというのなら、その分母に、どのような分子の多様性を掲げるかを提示したほうがいい。
このいずれのやりかたも気にいらないというなら、ひょっとするとこれこそが隈研吾のとりたい方法なのかもしれないのだが、分母(地)と分子(図)の関係を分数のかたちに戻して、その一本の線(バー)に建築のすべてをこめるのだ。これはやはり、境界をどうにかしたいという隈研吾のもともとの解読法に近いかもしれない。
それにしても、建築は勝ち負けではあるまい。本来の「負」とは水を感じるために水を抜いた枯山水のような“方法”にあるはずなのである。
ところで、『負ける建築』に書いてほしかったことがある。「負」とは何かということだ。「正・負」の「負」だ。「負」は勝ち負けとは関係がない。池大雅や岡倉天心やポール・ディラックやジャコメッティやイサム・ノグチと関係がある。和紙や虚数や時空連続体やカオスと関係がある。しかし、建築と関係があるかどうか、そこを書いてほしかった。