才事記

回想録

テネシー・ウィリアムズ

白水社 1979

Tennessee Williams
Memoirs 1975
[訳]鳴海四郎

 日本の新劇はテネシー・ウィリアムズにぞっこんだった。とくに『ガラスの動物園』『欲望という名の電車』『焼けたトタン屋根の猫』の3作は、数多くの劇団で100回どころか1000回は上演されてきたことだろう。
 ぼくは早稲田に入ってアジア学会、早稲田大学新聞会とともに、素描座という劇団に入った。照明技術をマスターしようとしたのだが(ゼラチン番号をすべておぼえるところまではやったものだ)、一応は役者も経験させられた。のちにフジテレビの名ディレクターになり、その後は鍼灸医を選んで、いまは医療ものの翻訳をしている上野圭一が演出をしていた。
 その素描座は「われわれはテネシー・ウィリアムズなどはやらない」という方針をたてることが信条だった。ぼくもなんとなくそんな勘をもって素描座に入った。当時のわれわれの気分では、赤毛の杉村春子が走りまわる芝居は御免蒙りたかったのだ。逆にいえば、日本の演劇界においても、それだけテネシー・ウィリアムズが新劇の王者だったということだ。

 本書はそうした新劇王テネシー・ウィリアムズの偶像性を、本人自身が真っ正面からというか、ど真ん中の内部からダイナマイトでぶっこわすような1冊である。これを書店でなんとなく選んで読んだのは80年代の後半だったとおもうが、読みはじめてどうしようかとおもったほどだった。
 正直に告白する。ぼくは本書を読むまではテネシー・ウィリアムズがホモセクシャルな男であることを知らなかった。いまではカミング・アウトが一種の流行のようになっているが、いかに“本場”のアメリカとはいえども、1970年代のゲイの告白にはそうとうの意外性がある。のみならず、そのことを知らない読者が書物のなかでその告白を突然に聞かされるというのは、読書体験としてもそうとうに異様なものになる。
 もちろんそれは、たとえば“近代経済学の父”であるジョン・メイナード・ケインズが“本物のゲイ”であることを知らなかったとしても、それがケインズの経済学の主張をなんら変更させるに足りないことが断言できることに似て、テネシー・ウィリアムズがゲイであったからといって、その演劇作品にいっさいの遜色をあたえるものでもないのだが、そうは思っても、本書を読みすすむということはかなりのショックだったのである。
 ぼくはウィリアムズがバイセクシャルなゲイであることも知らなかったが、精神病院に入っていたことも、またその病棟が狂暴性患者のものであることも、知らなかった。
 日本にはアル中だという程度のことしか知られていなかったからである。だいたいスタニスラフスキー・システムにどっぷり溺れていた日本の新劇界は海外の劇作家の精神などというものに、たいして関心を寄せなかった。三島由紀夫の自害についてさえ、新劇界はろくな反応を示さなかったのだ。

 あらかじめ言っておくと、本書はいろいろな意味で刺激に富んでいる。いたるところでウィリアムズの才能を感じさせる。エリア・カザンからフィデル・カストロまで、グレタ・ガルボからルキノ・ヴィスコンティまで、いろいろ興味深い時代を飾った人物たちのエピソードも溢れている。
 文章はまるで体の一部か手の中の煙草から出る煙のように自在というか、勝手というか、さすがに読者をふりまわしながら、読ませる。劇作家というものがどのように芝居を構想し、それをセリフにおきなおし、興行につきあっていくのか、そういう裏舞台もふんだんに、しかもぶっきらぼうに挿入されている。本書自体がまったく飽きさせない舞台のようなのだ。
 それが巧まざるものであることは、読めばすぐわかる。実際にも本書は、ウィリアムズが1972年にオフ・ブロードウェイで自作の『小舟注意報』に出演していたとき、ペンにまかせてあっというまに書きなぐったような1冊だった。
 しかし、本書は男から男に移っていく一人の劇作家の異常なウィタ・セクスアリスであって、訳者の鳴海四郎が書いていたように、浮気と乱行、耽溺と嫉妬、狂態と奇行を次々に重ねた驚くべき痴態記であって、傷ついた男の魂の放浪記なのである。

 本書のスタイルは標題のごとく自伝ふうになっている。父母のことから始まり、赤面症であったこと、物腰すら女っぽくなかったものの、あきらかに神経のどこかに一少女が住んでいたこと、そういうことが順々に書き出される。
 だから自伝ふうなのだが、ウィリアムズはどういうわけか時間の順番に自分を追えない。突然に、時間をスキップして別の事件や別の場面に話が飛んでいく。あるいは前後する。どうも計画的にそう書いているわけではないのだ。
 その原因がどこにあるかはわからないが、おそらくはウィリアムズがしばしば陥る精神の異常性と深い関係があるにちがいない「思考作用恐怖症」とでもいうべきものにどこかでつながっているようである。
 この「思考作用恐怖症」というのは、ウィリアムズ自身によれば最初のヨーロッパ旅行でパリにいたときに気がついたものらしく、人間の思考作用の神秘的な構造にパッと入りこんでしまう恐怖というものだという。あまりにも説明がないのでわかりにくいのだが、その“症状”になると汗がびっしょり出てきて、がたがた体に震えがきて、呼吸すら困難になるものらしい。
 それゆえ、ウィリアムズはそこに入りこまないように、その気分にさしかかることをつねに避け、それがかえって酒や男や女に耽る原因になってきたようなのだ。「最も恐ろしく、最も精神異常に近づいた危機的事件」というふうに、ウィリアムズは書いている。

 ウィリアムズが青春のゲイ体験をしたのは、大学時代の下宿施設にアルファ・タウ・オメガ・フラタニティから好感のもてる3人の男子学生がやってきたときからだった。
 フラタニティに関心をもったウィリアムズは入会をする。入会をしてみると週に1度のカンガルー・コートが待っていた。私刑法廷である。一種のイニシエーションで、新会員の罪状が読みあげられて、その処罰に棒たたきがある。“兄弟”たちが裸で睾丸をおさえるウィリアムズの尻をいやというほどひっぱたく。 しかし、この激痛は別の夜には別の愛情深い激痛となり、別の快楽へのソドミックな入口となっていく。
 こうしてウィリアムズは30歳の1940年、自分から淫行を辞さないほどに一人の金髪青年にのめりこむ。相手はキップという慈愛溢れる美青年だった。ウィリアムズはここで自分の一切のコンプレックスから解放される。ウィリアムズは自分が167センチしかないことをはじめ、ありとあらゆるコンプレックスの持ち主だったのである。

 テネシー・ウィリアムズの作品は、彼自身にとってはたったひとつの目標しかもっていなかった。
 その目標というのは、「たえずはかなく消えかかる存在をなんとかしてとらえようとすることである」。ウィリアムズはこのことを『ガラスの動物園』の大成功のあとに確信したようだ。彼は成功のあとに必ず気がめいる。しかし、そのようなウィリアムズは饒舌で理屈っぽい哲学者より、ずっと哲学的である。
 本書は後半になるにしたがって、崩れていく。その崩落感覚は意図して書いたものではないだろうが、『イグアナの夜』や『去年の夏、突然に』のごとくに、不条理の襞に咲く花のような独特の哀歓がある。
 ぼくは本書を今後も2度と読むことはないだろうとおもうが(この「千夜千冊」を書くときもまったく読まなかった)、それはテネシー・ウィリアムズのやることなすことが、実はとてもよくわかるからである。