イスラム過激派の全米テロがおこり、その後もパレスチナにも自爆テロが連打されていったとき、何度かぼくの耳にルネ・ジラールの言葉が聞こえていた。
「殺さないために命を投げ出すこと、そうすることによって殺しと死との悪循環から抜け出すために、自分の命を投げ出すことをためらってはいけません」。
むろん自爆テロを勧めているのではない。ジラールは「世の初めから隠されていること」は本質的な暴力というものだということを言いたくて、こんなことを言っていた。
すでにジラールは1972年に記念碑的な『暴力と聖なるもの』を書いて、暴力が民族学あるいは民族心理学の課題に所属すべき問題であること、共同体の維持と成長に不可避なものであること、暴力は暴力を防止するために発生しつづけるものであることなどをつきとめていた。
そこでジラールが考察したことは、結論的にいえば、「供犠」と「復讐」の必然的な関係というものだった。
まず、その共同体(社会)がなんらかの意味での供犠をどのようにはたしているかが前提になる。古代社会や古い伝統をもつ共同体ならば、このことはごく当然の慣習であるが、ジラールは、供犠というものはどんな社会にもなんらかの恰好でおこなわれていると見た。すなわち、現代のアメリカにも日本にも供犠はある。この見方にぼくは全面的に賛成である(いまは具体例をあげるのは伏せておくが)。
次に、供犠には必ず犠牲がともなっているのだから、その社会にはなんらかのかたちで殺害や殺害に匹敵する行為(放逐・左遷・弾劾など)が正当化されているということになる。
ここに、きっかけや理由はなんであれ、敵対者からなんらかの暴力が執行されるということがおこったとする。その暴力は大は国家や民族による戦争から、小は仲間うちのリンチまで、多種さまざまである。
このとき、さてどうなるか、だ。
攻撃された側が供犠のルールにもとづいた復讐や制裁をおもいつくというのは、きわめて当然な報復になる。当然に暴力を伴うことにもなる。仮にアメリカが好きな経済制裁などのような手段が最初に行使されようと、相手にいささかの恭順の意志が見えないとみなされれば、いずれは必ず暴力の行使にむかう。湾岸戦争やアフガニスタン空爆は、そのようにしておこった。
こうして、暴力は暴力を生み、暴力の連鎖はとまらない。そしてそのたびに「供犠」と「復讐」の道徳と意思が、つまりは正義と善意が、その社会や共同体のなかで強化されていく。
ルネ・ジラールはこのように『暴力と聖なるもの』の半分で説いた。しかし、もう半分の考察は、このような暴力を必然化する起源がそもそもは「神との関係」から生じていたのではないかという議論に費やした。
本書『世の初めから隠されていること』は、この、もう半分の議論を徹底してみようという企画である。
この、もう半分の議論を進めるには、いくつものハードルをこえていかなければならない。ここではそのうちの三つだけを紹介しておくが、最初に「迫害」とは何かということがある。
迫害とは何かということを正確に説明するのは難しいけれど、ぼくが本書から読みとったことは、迫害とは「横取り」(アプロプリアション)のではないかということだ。では、その「横取り」はどのように結果するかといえば、「模倣の禁止」になっていく。
これはぼくのように、どんどん模倣を奨励するミメシスをこそ創造性の契機と考える編集的世界観の持ち主には信じがたいことなのだが、実は多くの社会で「模倣の禁止」は正当なことだとおもわれている。すなわち、「模倣は禁止、しかし自由な競争を、それが権利というものだ」というまことに変なロジックだ。
次のハードルは、ごくごく初期の暴力が兄弟や仲間のあいだで生ずるのはなぜかという問題である。すなわち分身と暴力はどこで結びついているかという謎だ。
この問題を端的にあらわしているのはカインとアベルの物語であろう。そこでジラールは、ここでは詳細を略するが、なぜ兄のカインが弟のアベルを殺し、神はそんなことをしでかしたカインが他の者に殺されないための印をつけたのか、そのくせ神はそのような神自身の行為を恥じなかったのか、という問題を議論する。
これはつきつめれば、神が暴力を肯定したにちがいないという議論に迷いこむほどの、「世の始めから隠されていること」になりかねない。
3つ目のハードルはさらに難解なもので、近現代人がこのような古代から継承されている「模倣の禁止」や「分身の排除」をどのように近代的なロジックに置き換えて、済まし顔になっているかという問題だ。これは、いいかえれば近現代人がこれらの問題をいかに「欲望」の問題にすりかえたかということになる。
このことについては、実はジラールは1961年の『欲望の現象学』でちょっとだけ問題にしていたので、ジラールにとっては出発点に帰るような問題にあたるのだが、『欲望の現象学』でも本書でも、あまりうまくは説明しきれていない。
ともかくもざっとこんなふうに、本書は半分を供犠と暴力の関係をめぐる議論に、もう半分を神との関係で人間が結んだ関係には暴力も欲望もふくまれていたという議論に導きつつ、途方もない難問をのこしたままおわる。
いやいや、そのような本だったかどうか、読み返していないのでほんとうのところはわからないのだが、ぼくはそのように読んだつもりになっていた。
そして、冒頭に書いたように、「殺さないために命を投げ出すことは、殺しと死との悪循環から抜け出すためなのだ」というルネ・ジラールの言葉を、あの全米テロの余波のなかで思い出していたのである。