父の先見
世の初めから隠されていること
法政大学出版局 1984
Rene Girard
DES CHOSES CACHEES DEPUIS LA FONDATION DU MONDE 1978
[訳]小池健男
文明は歴史の函数である。その歴史は「くりかえす」という。何がくりかえすというのだろうか。ヒストリーはもともとストーリーを抱えもっているから、物語の骨組みがくりかえされるのか。それなら因果関係らしきものが反復しているのである。そうだとすると、文明は循環しているか、あるいは悪循環のままにある。
半年前、イスラム過激派による9・11同時多発テロがおこり、その後もパレスチナで自爆テロが連打されていった。世間は騒然としたし、溜飲を下げた輩も少なくなかったが、論壇は静まりかえっていた。知識人たちはアメリカ叩きが用意周到な大規模テロに依っていたことに啞然とし、過激なムスリムが引っきりなしの自爆テロに徹していることに、何の解釈もできなくなってしまったようなのだ。そんなとき、何度かルネ・ジラールの言葉が耳もとで囁いていた。「殺さないために命を投げ出すこと、そうすることによって殺しと死との悪循環から抜け出すために、自分の命を投げ出すことをためらってはいけない」。
半ばは自爆テロを勧めているのかと感じられるような言葉づかいだが、そうではない。「世の初めから隠されていること」は暴力の正体だということを言いたくて、こんなふうに書いていた。論壇の体たらくをよそに、ぼくはあらためてジラールを読んでみる気になっていた。
ジラールは1972年に記念碑的な『暴力と聖なるもの』(法政大学出版局)を発表して、暴力が民族学あるいは民族心理学の課題に所属すべき問題であること、共同体の維持と成長に不可避なものであること、暴力は暴力を防止するために対向的に発生しつづけるものであることなどをつきとめていた。
その奥でジラールが考察したことは、「供犠」と「復讐」には必然的な、もっとはっきりいえばどうしようもないような相互関係があるというものだった。
文明と社会をつくってきたのは共同体である。共同体は、なんらかの意味での供犠をどこかでとりいれて、犠牲をつくってきた。神々に捧げる人身御供も「みせしめ」もあった。古代社会や古い伝統をもつ共同体では、このことはごく当然の慣習だ。
ということは、供犠には必ず犠牲者がともなっているのだから、その社会ではなんらかのかたちで殺害や殺害に匹敵する行為が正当化されているということになる。殺害に匹敵する行為には、たとえば排除・放逐・左遷・弾劾・捕縛・禁錮・拷問などがある。いずれもパワーハラスメントという意味で「暴力」である。きっかけや理由はなんであれ、その暴力は大は国家や民族による戦争から、小は仲間うちの「いじめ」やリンチまで、多種さまざまだ。
制裁する側はパワハラによって相手を排除したことを、その社会や仲間のために必要な供儀であったと正当化する。ジラールは、共同体がそういうことをするのは「危機を解消し、共同体を自己破壊から救う手段」だとみなすからだと説明した。湾岸戦争やアフガニスタン空爆は、そのようにしておこった。
それなら、やられたほうはどうなるか。攻撃された側も同様のルールにもとづいた復讐や反撃をおもいつく。当然の報復だ。自分たちの仲間が殺されて、相手方がそれを供儀の正当性だと強弁するなら、本当の供儀のルールを教えてみせてやるという反撃だ。これまた暴力を伴うことになる。
攻撃した側もパワハラの理屈をふやす。たとえば、相手にはちゃんと事前に警告や経済制裁などをしたではないか、その警告を聞かなかったからあなたがたに犠牲が出たなどという理屈を持ち出すのだが、問題は理屈などではなく、どんな犠牲が出たかなのである。だから必ず互いが互いを制裁するための暴力の行使に向かう。こうして、暴力は暴力を生み、暴力の連鎖はとまらない。ときに暴力の手段も選ばれなくなっていく。テロもそのひとつである。
そしてそのたびに「犠牲」と「復讐」の道徳と意思が、つまりは正義と憎悪が、その社会や共同体のなかで強化されていく。暴力がなければ正義もつくれなくなっていく。
ルネ・ジラールはこのようなことを『暴力と聖なるもの』で説いた。しかし、それはまだ半分の主張だった。もう半分の考察のほうが大事だ。このような暴力を必然化する起源がそもそもは「文明の初動」や「神との関係」から生じていたのではないかという議論だ。本書『世の初めから隠されていること』は、この、もう半分の議論を徹底してみようという企図だった。
もう半分の議論を進めるには、われわれもいくつかの思索のハードルを越えていかなければならない。ハードルは少なくとも3つ、ある。
1つ目のハードルは、歴史の当初におこったこと(おこしたこと)の何を隠さなければならなかったのかという謎を解くことにある。強大な権力者が出現したり、特定の民族が支配力をもったりした、その当初のことである。おそらく当初にこそ重大な迫害と犠牲と、その隠蔽があったはずだ。
2つ目のハードルは、そのことが歴史展開のどんな役得や権利になったのかということだ。莫大な利益を得たはずだし、金庫には金銀財宝を隠しただろうし、なによりも敵対者を殺したり封印したりしたはずだ。それによって手に入れた権利は何だったのか。そこを解かなければならない。
3つ目のハードルは、そうした隠蔽や権利がどのように正当化されたのか、その正当化の手段として戦争やテロなどの暴力が公認されていったことを、どう説明するかということだ。そのくせ小さな暴力をパワハラとみなし、その犠牲になった者に対する「憐み」にしたはずだが、その救済の感覚や制度を、一方では暴力装置の拡充をはかりつづける当事者は、どう帳尻をとっているのか、そこに言及してみることだ。
いずれも難題のハードルだが、本書を読むということは、このハードルを行ったり来たりすることなのだ。ポイントだけを順に説明しておく。
最初に「迫害」についてだが、迫害はどういうものかということを正確に説明するのは容易ではない。たんに相手に傷害をもたらしたとか、追放したとか、排除したというだけではないことが、そこにおこったはずなのだ。それは何か。ぼくが本書から読みとったのは、迫害とは実は「横取り」なのではないかということだ。
何を横取りしたのかというと、横取りしなければ得られないものを迫害によって手に入れたのである。ただ、その手法はバレてはいけない。別の力の持ち主が同じようなことをしてもまずい。そこで「横取り」はどのようにごまかされるかといえば、「模倣の禁止」になっていく。ぼくのようにどんどん模倣を奨励し、ミメーシスをこそ創造性の契機と考える編集的世界観の持ち主には信じがたいことなのだが、実は多くの社会で「模倣の禁止」は正当なことだとおもわれている。すなわち、「模倣はいけません。でもみなさんは自由な競争をしていいのです。それが権利というものです」というロジックで押し通すのである。資本主義の自由市場はこれでできている。しかし、これは資本主義ができるずっと前の、権力や権益が生じた当初から行われていたことだった。文明はその初めから横取りという迫害をおこなってきたのだ。
次のハードルは、どんな社会においても内々の暴力が兄弟や仲間のあいだで生ずるのはなぜかという問題である。日本でも織田信長の一族から西武グループの堤兄弟まで、内々こそが最初に割れてきた。これはおそらく「分身」と「暴力」がどこで結びついているかという謎を解くハードルになる。
この問題の西洋的ルーツを端的にあらわしているのは、おそらくカインとアベルの物語であろう。なぜ兄のカインが弟のアベルを殺し、神はそんなことをしでかしたカインが他の者に殺されないための印をつけたのか。そのくせ神はそのようなレッテル分けをした神自身の行為をなぜ恥としなかったのか。そういう問題だ。これはつきつめれば、神こそがどこかで分身と引きかえに暴力を肯定したにちがいないという議論に迷いこむほどの、「世の初めから隠されていること」になる。
3つ目の問題はさらに難解なもので、近現代人がこのような歴史の当初から継承されている「模倣の禁止」や「分身と暴力のトレードオフ」を、いったいどのように近代的なロジックにおきかえて、すまし顔になっているかという事情を解くことになっていく。近現代人はこの辻褄のあわない事情を「欲望の自由」や「市場の競争」の問題にすりかえてきた。このことについては、ジラールは1961年の『欲望の現象学』(法政大学出版局)でちょっとだけ話題にしていたので、ジラールにとっては出発点に帰るような問題にあたるのだが、『欲望の現象学』でも本書でも、あまりうまくは説明しきれていない。
世の初めから隠されたこと、それは暴力の正体と欲望の本質だったわけである。暴力と欲望そのものを隠したのではない。その疾しい野性を隠して新たな正当性をかぶせ、そこに市場と国家を、制覇と戦争を組みあげた。こうして歴史が始まったのだった。歴史とはそういうものだったのだ。
けれどもこの「隠されたこと」は隠されてはいなかったのだ。まるみえだった。のみならず、正当性はいくつもに分化して、市場にはたとえば文芸が、制覇にはたとえば学校が、戦争にはたとえば一揆が対抗していった。これらのことは、その後も何度もくりかえされてきた。それなのに文明は性懲りもなく辻褄あわせを反復しながら当初の犯行を隠してきたつもりだったのである。
ダフネ・デュ・モーリアに『レベッカ』(新潮文庫)がある。奇妙な小説だ。
レベッカは富豪の夫人の名なのだが、この主人公は小説が始まるときにはすでに死んでいる。埋葬もすんでいるから死体もない。そこで物語の展開は後妻としてこの屋敷にやってきた「わたし」によって語られる。ところが話は背筋がぞくぞくするほど、すでに死んでいるはずのレベッカの“関与”によって怖くなっていく。そういう小説だ。
いわば「世の初めから隠されていること」が暗に物語を支配しているという仕立てなのである。ヒッチコックがみごとなサスペンス映画に仕上げたので、観た者ならそのぞくぞく感がわかるだろうが、しかし、ほんとうに怖いのはレベッカの文明史的正体なのである。
旧約聖書「創世記」では、レベッカはアブラハムの子のイサクの妻のことをいう。ユダヤの父祖はアブラハムが第1代の族長で、第2代がイサクである。イサクとレベッカは長らく子に恵まれなかったが、イサクが主に祈るうちに双子を授かった。兄のエサウは全身が赤い毛でおおわれていて、長じて狩りの名人になった。弟のヤコブは弱い子だったけれど、知恵があった。レベッカはヤコブをかわいがった。
老いて目も見えなくなったイサクが第三代の族長を選ぶ時がきた。兄のエサウに継がせる気になっていたのだが、それを知ったレベッカは一計を案じて、父が子に祝福を与えるその場に、エサウの代わりにヤコブを変装させて送りこむことにした。声を真似させ、服装もそっくりにし、体中に赤毛に似た子ヤギの毛を巻き付けた。目が見えない父はエサウだと思って、いっさいの権限をヤコブに譲る決心をした。
ユダヤ社会は長子相続である。最初に生まれた子(長子)が家産を相続する。ヤコブはニセの長子として財産と家督を継承した。すべてはレベッカの奸計だったのである。レベッカはユダヤの当初の「始原の資産」を「横取り」したのだ。
この話には、ルネ・ジラールのいう世界は当初の「犠牲」と「横取り」を隠しているという話が暗示されている。ぼくはいつしか、これを「レベッカの資本主義」と名付けたものだ。
後続する文明の覇者が先行した文明の原初の犯行を隠してきた(つもりになる)という事情を、今日の言葉で説明するのはたいへん難しい。なぜ難しいかというと、説明のために使う概念がそもそもの歴史的背景をもって成立してしまっているからで、厳密な説明をしようとすればするほど、説明概念のルーツによる巻き返しがおこる。
たとえば「神」(God)に大文字が付いていることや、主君に対する「しもべ」を「僕」とあらわすということを、われわれは歴史的には訂正できない。historyにstoryが入っていること、「ものがたり」に「もの」が入っていることも拒否できない。まして歴史の覇者が先行文明のすべてを破棄することは不可能だ。せいぜい服装を変えること、宮都を変じること、焚書をすること、法を改訂することくらいである。それよりも先行文明の最も狡猾で利得に富んでいただろうことを継承者が横取りし、隠蔽して、それを新時代では正当化するほうがいい。
かくて、文明の奥底でおこなわれてきたことは、この「くりかえし」だった。何かが借りられ、何かが盗まれ、何かが模倣されたのだ。そうだとすれば歴史観とは、この借りものや盗んだものや模倣されたものに目を凝らし、そこから再構成され再編集されるべきなのである。ジラールは、そう言いたかったのだ。