才事記

七つの資本主義

ハムデンターナー&トロンペナールス

日本経済新聞社 1997

Charles Hampden-Turner & Alfons Trompenaars
The Seven Cultures of Capitalism 1993
[訳]上原一男・若田部昌澄

 こういう本をどう読むかというのは、どの国の経済のシステムにたって何をしたいのかによって、大きく異なってくる。
 この本が書かれたのは1993年だが、このころアメリカは日本に腹をたてていたか、恨んでいた。ところがこのあと、アメリカは低迷を脱出し、逆に日本がひどい低迷を続ける。この本はそういう転換点で書かれたものなので、おそらくはいま読むと、当時のアメリカが何をもって“敵”の成功を見破り、何をもって自身の停滞を読み替え、どのように危機を脱出したのか、きっとそういうことも読めてくる。
 ちなみにぼくはどう読んだかということは、いまとなっては参考にならない。このころ、ぼくはウォーラーステインの「世界経済システム論」に飽きて、もっとダイナミックな世界経済の変容を見たくて、本書をはじめとする“なまもの”を片っ端から読んで(レスター・サローの『資本主義の未来』とかミシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』とか、ロバート・ハイルブローナーの『二十一世紀の資本主義』とか)、多様な資本主義というものをただ観察していたからだ。“なまもの”だから、その場で食べたら、それでおわりなのだった。

 さて、七つの資本主義とはアメリカ、イギリス、スウェーデン、フランス、日本、オランダ、ドイツのことをいう。
 いろいろ言いたいことはあるが、その判断は保留して、おもしろいから、著者たちがこれらの資本主義にくだした特徴づけを紹介しておこう。

【アメリカの資本主義】この国の資本主義は「勝利に酔うための神話的な資本主義」である。しかし、すべての基準は自己基準的であり、「他人本位」であることを絶対に嫌う。とくに勝利を握る者よりもヒーローをとりまく不運な群が数多くなければならないことに特徴がある。そのためというか、そのかわりというか、「公正な競技場」というものを必ず用意する。経済活動はおおむね逐次的で、生得地位が獲得地位によってどのように変わっていくかということのみが、経済活動の評価の指針になる。
【イギリスの資本主義】剥き出しの自然科学や社会科学の合理性を押し付ける資本主義と、紳士淑女のための分析満足を与えるための資本主義と、そして優越心のためのボランティア資本主義が、分かちがたく混在している。意外に知られていないのは、イギリスでは製品よりも文化よりも、貨幣(ポンド神話)が一番価値が高いということである。
【スウェーデンの資本主義】かつては社会主義と資本主義の間にいたと思われていたスウェーデンだが、実際には「社会品質に関心がある資本主義をつくりたがっている国」だった。「社会が市場をつくるもので、市場が社会をつくるものではない」というこの国の経営者たちの哲学は、アメリカや日本に聞かせたい。
【フランスの資本主義】本書でフランスは例外扱いされている。その理由はフランスは外からフランスが理解されることを拒否しているからである。しかし、その内実を見ると、ここには中央集権的な権威によって守られている「心の状態によってどうにでもなる資本主義」がある。つまり、ここにはヨーロッパ最大のタテ社会があるとともに、すべての経済活動を属人化してしまう資本主義があるということだ。

【日本の資本主義】「状況倫理をうかがいながら発展する反知性的な同質資本主義」。これが本書が与えた日本の資本主義に対するあけすけなニックネームである。
 よくいえば「複眼的資本主義」、ふつうにいえば「つねに代替をもとめている資本主義」、ぶっちゃけていえば「協力しながら競争するという世界中が理解できないシステム原理で進んでいる資本主義」ということになる。
 この「協力しながら競争する」という方針がなぜ理解しにくいかというと、欧米人にとっては「協調するということはときに背信にあたる」からである。もうひとつ欧米にはなかなかわかりにくいことがある。それは日本には共同体の時間が流れていて、そこには個人の時間がないように見えることだ。欧米にとって共同時間が共有されていることは、そこに共謀があるということなのである。ところが日本にはあまり共謀がない(談合はあるが)。本書はその理由を仏教の影響と見ているが、これがあたっていないことは日本人は知っている。しかし、日本人もなぜ「共同時間の資本主義」を選択しているのかは、何も知ってはいない。
 ひとつだけ本書が言いあてている特徴がある。それは日本の資本主義は「知識集約型」であろうということだ。どうも本書の著者たちが野中郁次郎を読みすぎたせいのような気もするが、これは当たらずとも遠くない。ただし、実際の日本人は自分たちがどのように知識集約的であるのか、その方法を取り出せないでいる。そのためかつての松下・ソニー・トヨタ・ホンダの成功を日本経済のモデルにしなかった。これも欧米から見るとわからないことらしい。

【オランダの資本主義】オランダでは、高度に組織化された行動を自分がとれるということが自由なのである。ようするにこの国の資本主義は「個人と社会という相対立する立場を調整するための資本主義」であり、ビジネスマンの行動原理でいえば「中立にいて感情を動かす資本主義」なのである。
【ドイツの資本主義】以上の諸国にくらべて(とりわけアメリカ人にとって)、最もわかりにくいのがドイツの資本主義である。アメリカやイギリスは分析的だが、ドイツは総合的であり、アメリカやフランスは個人主義的だが、ドイツは共同社会的である。
 ドイツは「普遍」に囲まれていて平気な国なのだ。こんな窮屈がどうして選択できるのか、アメリカ人にはわからない。けれどもドイツではそこに美学すら見出している。そのため、英語経済圏や日本では公的部門と私的部門を分けるのがふつうなのに、ドイツでは公益と私益の両方にまたがったり、両方を調停する中間組織が数多く出てくることになる。雇用者団体がたくさんあるのもそのせいである。しかも、これらはそれぞれ自分たちが「普遍」を守っているとおもいこんでいる。
 一言でいえばドイツには「差異を普遍で越える資本主義」があるということになる。いいかえれば「理想ではなく理想主義を忘れない資本主義」なのだ。

参考¶レスター・サロー『資本主義の未来』はTBSブリタニカ、ミシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』とロバート・ハイルブローナーの『二十一世紀の資本主義』はダイヤモンド社。