父の先見
開高健 青春の闇
文芸春秋 1992・1999
向井敏は書評の鬼である。名人といってもよい。捌きが名人で、目が鬼になる。
その向井が大阪高校で出会ったのが、目の前で鉄棒の大車輪してみせ、そのくせ、はにかんで立ち去った開高健だった。ナイフで削いだように頬がこけた、痩せぎすの背の高い無口な少年だったらしい。それが昭和23年の夏のことである。本書はそこから開高健を書きおこし、『裸の王様』で芥川賞をとり、青春の闇をどこかに置いて去っていくまでのことを書く。
淡々としているが、酔い心地がいい本だった。その理由は、向井自身も登場人物なのに、それを感じさせないところにあるような気がする。そのように書くのは、そんなにかんたんではなかったはずである。向井は履歴を知るかぎりは、濃い人だ。大阪大学で共産党に入党し、府学連の書記長になっている。その向井が開高との関係では空気を演じる。そのように書けた。
そのころ開高は大阪市大に入り、すぐ文芸部に所属している。二人はその後、開高が死ぬまでつきあっている。
もう二人、近しい登場人物が登場する。
一人は谷沢永一だ。この人も『定本・紙つぶて』などで巷間を怖がらせた書評名人である。大阪天王寺中学で開高の1年上だった。その谷沢が開高に惜しげなく書斎と蔵書を開放した。谷沢の書物量は知る人ぞ知る若いころから大量のものだったが、谷沢は開高のためにも本を入手していた。開高はその誘惑にたまらず兜を脱いだ。風呂敷で30冊、50冊、多いときは70冊を包んで持ち帰り、当時すでに伝説的になっていた異常な耽読癖を発揮したらしい。開高も本の虫なのだ。
その後、谷沢は同人誌「えんぴつ」に開高を引きずりこんだ(そのころ新制高校生だった藤本義一も「えんぴつ」に加わろうとしたことがあるらしい)。開高の傑作『太った』は、そんな谷沢を語り手の「私」にして、開高自身をその「私」に観察される「彼」として、二人の怪しい関係を逆倒して描いたものだった。
もう一人はかれらより10歳ほど年上の須藤和光である。須藤はプロレタリア文学の流れをくむ同人誌『大阪派』を主宰し、そのころの大阪の作家たちを仕切っていた。開高も向井もこの須藤に翻弄された。しかし、向井ははっきりとは書いていないが、開高の才能はこの須藤によって“発見”された。
青春というものは暗い。三人はやがてめいめいの洞穴を掘っていく。開高は牧羊子とつきあって21歳で赤ん坊の父親となり、谷沢は開高に絶交を宣言し、向井は飛田歓楽街の麻雀屋に入りびたる。もっとも、三人はすぐにまた縒りを戻しもした。
このあと開高は毎日新聞大阪本社の調査部にいた富士正晴と昵懇となるのだが、一方、あっけなく解散してしまった「えんぴつ」の残党は、西成の印刷所を母体としていた「文学室」という同人誌に屯した。そして、西尾忠久を中心に、岡部伊都子・坂本賢三・飯干晃一らとともに文芸活動を始めていた。かれらはみんながみんな筆まめになっていた。開高・谷沢・向井も同断である。
ついで開高はサントリーの前身にあたる「寿屋」の宣伝部に入社する。牧羊子がいた会社であった。ここで開高は坂根進とコンビをくんで「洋酒天国」を舞台に水を得たような才能を発揮する。次に、トリス・ウヰスキーのコピーに手腕を見せた。開高は日本のコピーライターの革命児にもなった。こんなコピーが新聞や雑誌を賑わせたことを、ぼくもよくおぼえている。
磁石も
地図も いらないが もみじの 知らせが 嬉しい頃は ただ 胸張って トリス持ち 一日、二日 でかけてみたい |
いやいや、開高健のことをここで書くつもりはなかった。向井敏が友人たちとの時代を描くペンの巧妙を紹介したかったのだ。
が、それをくだくだ書くのも気がひける。なんだか他人の思い出に招かれてもいないのに、その思い出し方に闖入するような気分になるからだ。
ただ、本書が開高が死んで呆然となった向井敏の鎮魂歌であること、その鎮魂歌をこのように書けるのはやはり向井の独自の語り口であること、作家というものがどのように発生分化するのかということをこれほど適確に書けることはそうそう多くはあるまいとおもえること、そんなことをちょっとだけ付言しておきたい。
なお、本書の文庫版には大岡玲の「岸壁の友」という絶妙な解説が載っている。大岡は開高健に溺れて作家になった人である。いつか向井敏に匹敵する読書案内を、おそらくは人物中心に(大岡玲は人物を描くのがうまいのだ)、書いてくれることだろう。