才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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フェティシズム論の系譜と展望
越境するモノ/侵犯する身体

田中雅一編

京都大学学術出版会 2009・2014・2017

編集:佐伯かおる・鈴木哲也・渕上晧一郎・高垣重和 執筆:田中雅一・村上辰雄・佐藤啓介・新宮一成・斎藤光・大西秀之
足立明・森田敦郎・伊藤遊・松田素二・春日直樹・箭内匡・青木恵理子・桑原牧子
岡田浩樹・岡田温司・佐藤知久・西村大志・妙木忍・松村薫子・フィロメナ=キート
藤原久仁子・成実弘至・小野原教子・大浦康介・佐伯順子・森村麻紀
藤本純子・花房観音・田村公江・菊地暁・立木康介・石井美保・田辺明生
金谷美和・細谷広美・田中正隆・鈴木正崇・小牧幸代・木下彰子・上杉和央
岩谷彩子・田川泉・福西加代子・窪田幸子・高木博志・長尾晃宏・川村清志
装幀:鷲草デザイン事務所

フェティシュというよりフェチ。そう言うとなんだか「きわもの」(際物)を取り出されたように感じるだろうが、人の心身を奪ってやまないのはフェティシュもフェチも同じこと、あえて多少自嘲気味に「フェチ」と発音したり綴ったりするほうが、きわどいものが本来の消息をこっそり告げているようで、その「後ろめたさ」がおもしろい。

 イギー・ポップのパンクステージ、横尾忠則のポスター、エットレ・ソットサス(1014夜)のメンフィス・デザイン、ジャン・ジュネ全集(346夜)、四谷シモンの人形、ヴィダル・サスーンの鋏と指、忌野清志郎の「シングルマン」、ボードリヤールのシミュラークル議論、ヴィヴィアン・ウェストウッドの無政府コスチューム、荒木経惟(1105夜)が撮った部屋の中の女たち、いずれにもフェチが躍っていた。ぼくはこれらを遠近(おちこち)の浪枕に「遊」を編集していた。
 フェティシュというよりフェチ。そう言うとなんだか「きわもの」(際物)を取り出されたように感じるだろうが、人の心身を奪ってやまないのはフェティシュもフェチも同じこと、あえて多少自嘲気味に「フェチ」と発音したり綴ったりするほうが、きわどいものが本来の消息をこっそり告げているようで、その「後ろめたさ」がおもしろい。
 仏教者の数珠からキリスト者のロザリオまで、ライナスの毛布から木枯紋次郎の爪楊枝(つまようじ)まで、シンデレラの靴からヘビーメタルのじゃらじゃら鎖まで、いずれもフェチであり、フェティシュなのである。

 フェチには高邁なフェチも俗なるフェチも、思想のフェチも不正のフェチも、アートなフェチも危ないフェチもある。そこが際物たるゆえんで、ときに禍々(まがまが)しい。
 ミラン・クンデラ(360夜)は『別れのワルツ』で男のズボンの中のフェチを描いていたけれど、マヤコフスキーは雲にズボンをはかせ、アンリ・ボスコは『ズボンをはいたロバ』をもって、かえって子供たちにさえ異物がどのようにも出現することを教えた。
 際物ではあるけれど、実はフェチとの邂逅は気分がとても安心する。ポール・ゴーギャンはシーツ、毛布、枕カバーをいつも夫人に送るように手紙を書いていた。好きな寝具が身近にないと安心できなかったのだろう。誰にだって手放せないライナスの毛布があるわけなのだ。
 人それぞれ、いろいろのフェチ。寺山修司(1197夜)は「ぼくは日本語フェチなんだよ」と言っていたし、数年前のことだが、杉本博司(1704夜)は「60歳をすぎてからラブドール・フェチになったんだよ」と笑っていた。ラブドールとはよくできたダッチワイフのことだ。

セイゴオのフェチの数々
左上から、イギー・ポップ、横尾忠則のポスター、メンフィス・デザイン、四谷シモンの人形、忌野清志郎の「シングルマン」、ヴィヴィアン・ウェストウッド、「マドンナとロザリオ」、ライナスの毛布、木枯紋次郎、杉本博司が撮影したラブドール。

 フェチをめぐる思想研究は、ヨーロッパにおいてはいまさらながらの話だが、西アフリカの呪物を調査したド・ブロス(1765夜)を嚆矢に、マルクス(789夜)とフロイト(895夜)をへて、文化人類学や記号論や芸術論において縦横に語られ、ときに思想史を抉るような角度から何度も議論されてきた。われわれもその恩恵に浴してきたところだがどういうわけか日本のフェティシズム研究はかなり遅れたのである。
 やっと先端を開いたのは栗本慎一郎(843夜)、丸山圭三郎、今村仁司(1370夜)あたりだったろうか。ぼくが知るかぎり、栗本が「現代思想」1978年7月の「フェティシズム」特集号に「貨幣のエロスとフェティシズム」を書いたのが最早期のフェティシュ論のハシリだったように憶う。同じ号で今村はモーリス・ゴドリエの「商品経済、フェティシズム、魔術、科学」を訳出していた。
 それでもこれらはようやくフェチを正面切って話そうよという破れ目ができたという程度のことで、1984年、ソシュールの研究者であった丸山が『文化のフェティシズム』(勁草書房)や2年後の『フェティシズムと快楽』(紀伊国屋書店)を刊行するまでは、あいかわらずおっかなびっくりしている思想情況だったとおぼしい。丸山のものはやや粗雑な議論ではあったが、文化の本質やコミュニケーションの本質がフェティシズムにあることだけは、はっきり告げていた。
 90年代になって、石塚正英が『フェティシズムの思想圏』『フェティシズムの信仰圏』(世界書院)、および『「白雪姫」とフェティシュ信仰』(理想社)を連打して、社会思想というものはたいていフェティシュにつくられてきたという見方をぶちまいた。立正大学出身で、東京電機大学の理工学部で教えていた文化史学者で、変わり者だなと思っていたが、フェティシズム研究で文学博士号をとったと聞いたときはちょっと嬉しくなった。
 その後、石塚は『歴史知とフェティシズム』(理想社)を書いて、歴史が知になるのは歴史事実にひそむフェティシュが作動したからだと説いた。ただし石塚も切歯扼腕しただろうけれど、ほとんど読まれていないのではないかと思う。評価する者もいない。しかし「白雪姫」にひそむフェティシュの社会思想史を掘り出したのは、石塚なのである。
 まあ、日本思想状況というもの、少数者におっかなびっくりの傾向があるのだが、仕方ない。とくに原典の翻訳が遅れていると、火が点かない。なにしろド・ブロスの『フェティシュ諸神の崇拝』(法政大学出版局)やポール=ロラン・アスンの『フェティシズム』(文庫クセジュ)が日本語になったのが、なんと2008年なのである。85年に執筆されていたウィリアム・ピーツの『フェティッシュとは何か』(以文社)は2018年だ。
 これでは気合が入らないだろう。わずかに気概をもってとりくんだ堀江宏樹の『フェティシズムの世界史』(竹書房)など、めずらしい刊行物だった。

丸山圭三郎 (1933-1993)
フランス語教師で、数多くのフランス語教科書を刊行していたが、そのうちソシュールの言語学に関心を抱き、研究を始めた。 日本におけるソシュール言語学研究の第一人者として、丸山言語哲学とも呼ばれる独自の思想を打ち出した。

石塚正英(1949-)
フェティシズム研究で博士号(立正大学大学院)を取得。「フェティシズム」を武器に現代思想を読み解く著作を次々とだす。立正大学、関東学院大学、専修大学、明治大学、中央大学などで社会思想史、西洋思想史ほかを講義してきた。 現職は東京電機大学理工学部教授。

ポール・ロラン・アスン(1948-)
パリ第七大学精神分析学部の教授。もともと哲学畑の研究者だったが、のちに精神分析家となり、フランスの精神学界で絶大な影響力をもつようになる。『フェティシズム』(文庫クセジュ)では精神分析がどのように「フェティシズム」を位置づけていくことになった経緯を追っている。

ウィリアム・ピーツ(1951-)
フェティシュの概念史研究で世界的に知られる研究者。ピーツの著作はフェティシュ研究をすると必ず参照・言及される基本文献になっている。アメリカ各地の大学で教便をとるかわたら。ロサンゼルスの緑の党の結成にも加わった左派系の社会運動家としての顔も持つ。

 日本でフェティシュやフェティシズムが無視されていたのかというと、むろんそうではない。江戸川乱歩(599夜)や谷崎潤一郎(60夜)を嚆矢に名だたるフェティシストがいくらでも巷間にいた。
 だいたい俳諧や浮世絵や茶の湯はフェチがなければ成り立たない。永井荷風(450夜)などは預金通帳フェチでもあった。ただこういうことが思想されてこなかったというだけだ。
 フェチの心理研究はずっと続いていた。とくにクラフト=エビングやフロイト(895夜)のフェティシズム分析をどのように日本人に移籍させるかということについては、多くの先駆的精神医学者が苦労した。
 歪んで伝わってもいった。クラフト=エビングの名著『性的精神病質』が呉秀三の弟子の黒澤良臣によって『変態性慾心理』と訳されて紹介されたことは、その後の日本のフェティシュ現象の多くを「ヘンタイ」にさせていったことなど、その典型だ。
 そうかと思えば、夢野久作(400夜)の『ドグラ・マグラ』や埴谷雄高(932夜)の『死霊』のように、脳の本来の活動にフェティシュの動向を嗅ぎとる作家がいたことも特筆される。『あるす・あまとりあ』(あまとりあ社→河出文庫)で生活を性活にしてみせ、古事記をセクソロジーで解読してみせた高橋鐡という稀代の性学者もいた。

リヒャルト・フォン・クラフト=エビング(1840-1902)
普仏戦争には医師として従軍、1872年、精神医学の教授としてストラスブールに招聘される。1902年に亡くなる直前まで、ウィーン大学の精神医学科の主任教授を務めた。梅毒、催眠、癲癇研究や犯罪精神病理学の先駆者。「サディズム」「マゾヒズム」の用語を創案した。

クラフト=エビングの代表作『性の精神病理』(Psychopathia Sexualis)
1913年に『変態性慾心理』の名で紹介され、大正時代の変態性欲ブームに火をつけた。

高橋鐵(1907-1971)
戦後、性科学の研究を始め、1950年に日本生活心理学会を設立。『あるす・あまとりあ』がベストセラーとなり戦後最大のセクソロジストと呼ばれる。セックスを精神的・心理的な面から捉えながらも、同時に肉体的・技術的・具体的に解明・分析し、戦前からのタブーを破った。

 ぼくが最初に思想としてのフェティシズムを感じたのは油彩画家の中村宏による。中村は稲垣足穂(879夜)のAO機械学を「口のマルクスを肛門のフロイトにつなげた画期的な思想」と捉えて、自身『呪物記』(1973 大和書房)を著した。これはかなり早いフェチ宣言だった。
 中村は一つ目女学生のセーラー服を好んで描く特異な画家としても知られているが、いま、ブルセラ・フェチを擁護する思想に中村宏ほどの呪物論が込められているものは、ほとんどない。
 そのほか澁澤龍彦(968夜)や種村季弘がもたらしたヨーロッパのフェティシュ紹介や希覯本案内、荒俣宏(982夜)や浜松の鴨江ヴンダーカンマ―館などが告知しつづけた珍奇骨董趣味の数々、三崎書房の「えろちか」からペヨトル工房の「夜想」に及ぶ耽美探究誌の編集力などが、日本のフェチの細部を支えていたのも忘れがたい。
 ヘンタイの流行についてはいちいちふれないが、あえてヘンタイ収集を続行しつづけた潜行者もいた。なかでノイズ・ミュージシャン(メルツバウの主宰者)で菜食主義者でもある秋田昌美のエロティック・コレクションと、デザイナーであって淡々たる陶芸作家でもある大類信のビザール・コレクションが、群を抜いて異彩を放っていた。大類の初期の仕事には赤坂真理がかかわっていた。ただし、これらもまた異常性欲を喧伝していると誤解され、ヘンタイ扱いされていた。残念至極なことである。

中村宏(1932-)
日大芸術学部美術学科で牛原虚彦に師事し、セルゲイ・エイゼンシュテインのモンタージュ論を学ぶ。「絵画者」と名乗り、空に浮かぶ蒸気機関車、セーラー服姿の一つ目少女、高速で流れる車窓の風景など、独自の世界観を絵画で表現してきた。稲垣足穂との共著『機械学宣言』(仮面社)は26歳だった松岡が編集、表紙を銅板にした。

中村宏「文明失墜の図」
セーラー服というフェティシュなものをモチーフにした、風刺的なシュルレアリスム絵画。著者の田中氏は20歳のころに中村の作品出会えたことが、モノ、身体、フェティシズムへの関心を高めるにきっかけになったと、本書あとがき書いている。
『日本読書新聞』1970年3月30日号掲載。『フェティシズム論の系譜と展望』(京都大学学術出版会)p360より。 

《円環列車・A-望遠鏡列車》1968年 東京都現代美術館蔵

「COM」に掲載された《日本漫画風景》(1971年4月号掲載)と「現代詩手帖」1969年12月ポスター

秋田昌美の著書
左から『スカム・カルチャー』(水声社)、『アナル・バロック』(青弓社)、『女陰考―性学古典より』(桜桃書房)。

大類信・赤坂真理『ボンデージ・ファッション』(二見文庫)

 こんなふうに日本ではフェティシズム研究の偏向と体たらくとフロイト一辺倒が長らく続いていたのだが、最近になってついにこの貧しさをアカデミックに突破する試みが出てきた。今夜はそこを紹介する。
 京大で南アジア人類学とジェンダー学を教えている田中雅一(まさかず)が、2009年から十年近くにわたって準備執筆編集した「フェティシズム研究」というシリーズがある。多くの研究者や執筆者が参加して、『フェティシズム論の系譜と展望』『越境するモノ』『侵犯する身体』という3冊シリーズになった。京大人文研での64回の研究会、68人の報告にもとづいているらしい。
 全部が全部おもしろいというわけでないし、ぜひとも紹介したいというものばかりでもなく、また学術のロジックに捕らわれているものも少なくないのだが、いまのところフェティシズムの検討では最も広く展望しているシリーズなので、関心がある者にとっては必見の3冊だろうと思う。今夜はそのごくごく一部の興味がおもむいたところをかいつまむ。

田中雅一(1955-)
京都大学人文科学研究所教授。専門は文化人類学、ジェンダー・セクシュアリティ研究。誘惑、主体、身体、暴力、フェティシズム、トラウマなどの概念を文化人類学に導入することで、その境界の撹乱と拡大を目指す。

左から『越境するモノ』『フェティシズム論の系譜と展望』『侵犯する身体』

 1冊目の『フェティシズム論の系譜と展望』は、系譜・展望・総論というわりには網羅的ではない。深くもない。それでも宗教の中のフェティシュ、精神分析学が見たフェティシズム、「もの」とフェティシズム、幻想化するフェティシュ、マジカルリアリズムとしてのフェチ、フェティシュの存在学の可能性などという窓が設けられていて、フェチの思想の傘が大きく開いていることを見せる。
 目にとまった指摘や言及としては、カルヴァン神学の偶像崇拝論に神が人間に「宗教の種」を植え付けたという見方があったこと(村上辰雄)、「偶像」とその「抹消」の関係にはひょっとしたら否定神学が響いているかもしれないという指摘(佐藤啓介)、クラフト=エビングの日本化のプロセスこそが日本的フェティシズムの文化圏の土壌をつくっただろうという分析(斎藤光)、キッチュ(=まがいもの・いかもの)を考現学することが日本的フェティシュの特色を拾い上げるだろうというアプローチ(伊藤遊)、ビネの精神医学と中米先住民マプーチェの民族誌とマゾッホとブニュエルの映像哲学を結び付けたユニークな論考(箭内匡)、マイケル・タウシッグの人類学にポランニー(1042夜)、フレデリック・ジェイムソン、ホミ・バーバ、ジジェク(654夜)の議論を絡めてマジックリアリズムとしてのフェティシュを説いたもの(春日直樹)、親密性(intimacy)からフェティシズムとジェンダーの共在性を重ねてフェティシュの現象学や存在学の可能性をさぐった試み(青木恵理子)などが印象にのこった。
 なかでも中谷礼仁の「セヴェラルネス」(=いろいろ性・たくさん性)を媒介にして、ラトゥール(1766夜)の「ファクティシュ」とアフォーダンス理論とチクセントミハイのフロー体験仮説をつなげようとした論考(足立明)は、ファクティシュとしての仏教とエイジェンシーとしての仏教徒の議論にまで及んで興味深かった。

錬金術関連の書物『哲学者のバラ園』の挿絵
墓から復活するキリストが描かれ、その上から3回も抹消が施されている。否定神学的論理によって「反形象化」が企てられたと考えられる。『フェティシズム論の系譜と展望』(京都大学学術出版会)p75より。

切り取られた女性の髪の毛と洋バサミ(1973)
色情倒錯患者によって「髪切り」犯罪が行われた証拠写真。『フェティシズム論の系譜と展望』(京都大学学術出版会)p133より。<

岩手県遠野のカッパ交番
遠野民話のカッパ伝説をモチーフにしている。町のいたるところにキッチュなカッパオブジェが置かれている。

情婦ファニー・ピストールにひざまずくマゾッホ(1870年前後にマゾッホ本人が撮らせたもの)
互いの関係を準えて、マゾッホは『毛皮を着たヴィーナス』を執筆。女主人の過酷な仕打ちを受けるうちに、強烈な苦痛とともに快楽を味わう男を描いた。『フェティシズム論の系譜と展望』(京都大学学術出版会)p300より。

 2冊目の『越境するモノ』は、マテリアルな聖なる遺物や象徴が「もの」(モノ)としてスピリチュアルに見つめなおされる理由の探索から始まって、歴史的な作品や個人の表現行為物が博物館に展示されると見え方が変わる意味、アーティストとフェティシズムの関係、ガンプラ(ガンダム・プラモデル)が発揮するフェティシュまでが、あれこれ語られる。
 多くの事物はその発生事情の個々のアリバイを離れて越境すると、しばしば強力なフェティシュを発揮する。そこで田中は本書を『越境するモノ』とするにあたっては、①モノは空間と時間を移動して動静を変える、②フェティシュは特有のエイジェンシーを発揮するので、モノとヒトの領分を侵犯して新たな社会関係を創出している、③フェティシュ研究は物質文化研究を越境するだろう、という3つの意味をこめたと書いている。
 田中はまた序章で、アルフレッド・ジェネの『アートとエイジェンシー』(未訳 1998)を紹介して、アートがもたらす文化人類学が「フェティシュの出現」を説明しうることを、たいへんうまく解説した。ジェネはアート行為にまつわるアーティスト、プロトタイプ、インデックス、レシピエントの4つの作用に注目して、一個のハイヒールが革から靴へ、足から靴へ、靴からハイヒールへ、事物から商品へ、商品から持ち物へ、持ち物からアートへ、アートからアート商品へと変節していくプロセスに光をあてたのだが、田中はそこにエイジェント(なんらかの結果を引きおこすモノとヒト=行為主体)とペイシェンス(なんらかの作用を受けるモノとヒト=鑑賞者)が、事物にくっついていたインデックス(指標=消費やアート作品)をフェティシュに審級させる作用がありうることを強調したのだ。

 ハイヒールがアート・フェティシュになることについては、ぼくにもまざまざとした体験がある。東京でのギイ・ブルダンによるコマーシャル撮影の相談にのったときのことだ。
 写真の魔術師といわれ、シャルル・ジョルダンの靴のフェティシュな広告写真で一世を風靡したギイ・ブルダンが、ハイヒールの撮影を東京のホテルの大広間ですることになり、ぼくは彼がほしがった六曲一双の山水屏風を用意する役だったのである。
 ところが赤いハイヒールを山水屏風の右端のほうに置き、少し暗めのアカリを決めたところまではよかったのだが、そこでギイが「何かが足りないなあ」と言い出した。いろいろ話してみると、大きな犬がほしいらしい。それもボルゾイがいいと言う。八方に手を尽くして脚の長い大きなボルゾイがスタジオにやってきた。アカリが増強され、ボルゾイがわっせわっせと歩きだし、赤いハイヒールに向かっていって、そこでスローシャッター気味の大型カメラがバシャッ。すばらしい靴フェチ写真が誕生した瞬間だった。
 ベンヤミン(908夜)は「写真などの複製物には本物がもつアウラがなくなる」と言ったけれど、これはまちがいだった。ヘルムート・ニュートンやギイ・ブルダンは写真にこそフェティシュのアウラをみごとに出現させるのである。

ギイ・ブルダンを有名にした〈シャルル・ジョルダン〉の一連の広告写真
1970年代、インパクトがある奇妙な写真が話題になり、シューズブランド〈シャルル・ジョルダン〉の名を世界に知らしめた。

フェティッシュなヒール
左がギイ・ブルダン、右がヘルムート・ニュートンの写真。70年代ファッション写真に決定的な影響を遺した2人の奇才。

 では、2冊目を少々かいつまんでおく。第1章ではド・ブロスが注目した西アフリカのフェティシュについて、主にウィリアム・ピーツとデヴィッド・グレイバーの議論が紹介されるのだが(石井美保)、ぼくはピーツの『フェティッシュとは何か』(以文社)程度の分析はありきたりでおもしろくないと思ってきたので、グレイバーにもっと焦点をあててほしかった。グレイバーは「フェティッシュとは構築中の神である」と喝破した人類学者だが、アナーキーが何たるかもわかっていた。フェティシュ論にはアナキズムも必要なのである。
 第2章のスワミー・ヴィヴェーカーナンダの議論を中心においた「リンガとファルス」は、読んだほうがいい(田辺明生)。これまでリンガ・ヨーニ(男根と女陰の接合オブジェ)はファリック・シンボルとしてシヴァ神と女神パールヴァティに肖(あやか)った男女合体の賛美装置とみなされてきたのだが、実は「女陰に生えた男根」のイコン的表象だったというのだ。きっとこのほうが当たっているように思う。
 第4章はキューバのアーティストの活動を通してアートがコモディティ化するプロセスを浮き彫りにし(細谷広美)、第10章から13章まではコレクションされ、さまざまな博物館やギャラリーに展示された「もの」たちがフェティシュとしてどのように変貌するかを扱った。
 事物がミュージアムに並んだり、ジオラマ化されたり模型化されたりすることや、商品として売り場に並んだりするという出来事には、興味深い問題がいくつも詰まっている。11章「博物館とフェティシズム」(窪田幸子)では、精神医学者の中井久夫(1546夜)のヒントにもとづいて、カナダやオーストラリアの博物館が原住民の日用品などを展示したとき、独特のフィロバティズムやオクノフィリアがおこることを追跡し、12章「性を蒐集・展示する」(田中雅一)では、それが秘宝館の性的表示になると「好奇」や「好事」や「珍品」というフェチに生まれ変わっていく経緯を、9章「本物をのっとる贋物」(岩谷彩子)ではフェイク(贋物)による展示やチート(偽計行為)による販売がもつ「大衆化されるフェチ」についてインドでの業者の実例を通してあきらかにした。

リンガ・ヨーニ
左:モヘンジョダロから発掘されたリンガ。『越境するモノ』(京都大学学術出版会)p75より。右:インド世界にみられる宗教的オブジェ。男根と女陰が合わさっているかたちだが、性的結合をあらわすとは言い切れない。

大理石でできたノートパソコン
キューバのアーティスト、アベル・バロソの作品。コンピュータの商標は「アップル」ではなくトロピカルなマンゴー印になっている。技術の進展や高度情報化社会を独特のユーモアでクリティカルにみつめる。『越境するモノ』(京都大学学術出版会)p140より。

伊勢の国際秘宝館
地元の観光会社の社長と京都科学標本が協力してつくった日本初のレジャー系秘宝館。性的なオブジェや蝋人形が展示されている。目玉として馬の交尾ショーがおこなわれていた。時代が下るにつれ性的表現への規制が厳しくなり、各地の秘宝館は次々と閉鎖。国際秘宝館も2006年に廃館し、現在は熱海秘宝館だけが残っている。

 デイヴィッド・リンチの映画『エレファント・マン』が描いたように、珍しさや稀少性の提示や展示はときにして社会性をゆるがすことになる。
 第10章「歴史の翻案」(田川泉)はスミソニアン博物館でのエノラ・ゲイの展示、ホーチミンのベトナム戦争証跡博物館の展示、ハノイのホアロー収容所の博物館化、シカゴのベトナム退役兵ミュージアムの事績展示などをめぐる物議をとりあげ、なにもかもがフェティシズムの標榜になるとはかぎらないという問題を抉っている。
 「フェティシズムは秘密を暴くもの」とは一概に言えないのだが、隠された覆いが剥がされることも少なくない。またフェイクやチートが混ざらないと確固とした保証をすることもできない。そこには荻野昌弘が「零度の社会性」と名付けたものが走ることもある。すでにサラ・マッカートニーが『偽ブランド狂騒曲』(ダイヤモンド社)で「なぜ消費者は嘘を買うのか」と問うた問題が、フェティシズムには必ずつきまとうのである。
 これらについては本書の論考のほかに、ゲオルク・ジンメル『秘密の社会学』(世界思想社)、青山吉信『聖遺物の世界』(山川出版社)、秋山聡『聖遺物崇敬の心性史』(講談社選書メチエ)、クシシトフ・ポミアン『コレクション:趣味と好奇心の歴史人類学』(平凡社)、マリタ・スターケン『アメリカという記憶』(未来社)、荻野昌弘『零度の社会』(世界思想社)、マーティン・ハーウィット『拒絶された原爆展』(みすず書房)、田川泉『公的記憶をめぐる博物館の政治性』(明石書店)、米川リサ『暴力・戦争・リドレス:多文化主義のポリティクス』(岩波書店)などが参照できる。

聖遺物
左:キリストの鞭打ちの際に用いられた円柱(ローマ、サンタ・プラッセーデ教会)、右:聖ペテロの鎖(ローマ、ヴィンコリ・サンピエトロ)。

 3冊目の『侵犯する身体』は、3冊のなかではフェチ感が一番伝わりやすい内容になっている。顔・美容・皮膚・手足・洋服・下着などの身体が積極的にかかわっているからだ。
 かつて上野千鶴子の『セクシィ・ギャルの大研究』(カッパブックス)や『スカートの下の劇場』(河出書房新社)が上梓されたとき、ぼくはこれでやって従来の社会学のタガを外せる社会学者があらわれたと快哉を送ったものだが、それはいいかえればフェチも社会学になる権利を主張するようになったということでもあった。
 実際、従来のデュルケムやウェーバーの社会学では身体はひどく周辺扱いされてきた。フッサール(1712夜)の現象学やベルクソンの記憶哲学でもそうだった。それが「間身体性」を重視したメルロ=ポンティ(123夜)の出現あたりから変わってきた。またメアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』(思潮社)あたりから変わってきた。
 たんに身体が重要だというだけなのではない。それなら健康思想の隆盛となんら変わらないし、バランスのとれたエコロジカル・ボディが称揚されるだけになる。そうではなくて、身体的なるものに禁止や抑圧や歪曲がかかることを積極的に含めた身体哲学が浮上してきたのだ。
 これをフェティシズムの視点から捉えなおすと、なんらかの「侵犯」(transgression)がおこっている身体がフェティシュな身体として、すなわち「侵犯する身体」として捉え返されてくる。田中は序章で、その侵犯には次の3つの視点が導入されるべきだろうと説いている。
 ①心身の非対称的な関係を批判的に捉えるため、理性中心の視点から離れて欲望を核とする見方をする。
 ②心身のまとまりを批判的に捉えるため、身体の切断あるいは断片化という視点を積極的に受け入れる。
 ③主体と客体の一方的な寛刑を批判的に捉えるため、誘惑という概念を導入する。
 これは何が要求されている視点なのかというと、「二重の否認」によって身体とフェティシュの寛刑を捉えるということだ。フェティシズム思想の3大ルーツともいうべきド・ブロスによる宗教フェティシズム、マルクスによる商品フェティシズム、フロイトによる性的フェティシズムにあっては、正常な人間活動(キリスト教、労働、生殖と性行為)に生じた偏向や異常や偏重が誤認されて重視されていたことを、もう一度否認していくことで培われた見方が登場したのだった。
 しかし、その「誤認の否認」は身体にまでは届いていなかった。本書はそこを「欲望」「切断」「誘惑」をもって、侵犯される身体を「侵犯する身体」に転じていくために分け入っていく。

上野千鶴子の著書
左:『セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方』(岩波現代文庫)、右:『スカートの下の劇場』(河出文庫)。

 体のフェチにまつわるだけあって、取り扱われた話題や素材は多様だ。皮膚に刺すタトゥー・刺青・タヒチのタイオなどのフェティシュ(桑原牧子)、韓国の美容整形の実情にひそむ文化拘束とフェティシュの関係(岡田浩樹)、ダムタイプの古橋悌二とブブ・ド・ラ・マドレーヌに焦点をあてたドラァグ・クイーンに見る触発フェチの開花(佐藤知久)、ラブドールやスーパードルフィーなどのダッチワイフがもつフェティシュ(西村大志)などが紹介される。
 そのほか、マダム・タッソー蝋人形館の人気の秘密(妙木忍)、下着やランジェリーのフェチ(田中雅一)、ゴスロリのフェチ(小野原教子)、谷崎文学のフェチとマゾヒズムの関係(佐伯順子)、ボーイズラブとやおいのフェチ(藤本純子)なども逃さない。
 これらで容易に見当がつくように、身体とはいってもナマばかりが強調されたり侵犯されるのではない。人形も衣服も、むろん髪形もボタンも靴もヘアピンも、れっきとした身体としてのフェチの領域なのである。それだけではない。このことはたちどころにフェチがサイボーグやロポットに、さらには電子画像や電子掲示板でのやりとりにも及ぶ。
 第14章で押井守(1759夜)の『攻殻機動隊』や『イノセンス』のゴーストをめぐった「サイボーグに性別はあるか」(田村公江)、15章でSNSでのレスポンスにあらわれたフェチにこだわった「BBSの片隅で」(菊地暁)が、そのへんを話題にしておもしろい。
 押井守にとってゴーストは生物でも非生物でもない。機械でも人間でもない。傷つきやすい存在者の個性に付加できるフラジャイルな装填概念として想定されたのがゴーストなのである。これはフェティシュの抽象化としては最も純度が高いものかもしれない。ところが『イノセンス』には、そのゴーストをコピーする「ゴーストダビング」という技術が登場したのである。ゴーストの複製量産だ。おそらく草薙素子はこれを「二重の否認」にもちこむにはどうするかと悩んだのだろう。
 といったことを考えてみると、フェティシュの極みにはいったい何があるのかというほうに向かってみたくなる。

フェイクのアクセサリーを売るヴァギリ
ヴァギリは、インドにおいて狩猟採集と行商に従事しながら移動生活を送ってきたジプシー的な存在。お守りや動物の剥製をたずさえながら商売することで、商品をフェティシュ化させている。『越境するモノ』(京都大学学術出版会)p294、300より。

2013年度ミスコリア候補者
最終候補者がみな似通った顔であったことから「整形疑惑」として話題になった。整形は、身体の一部をフェティシズムの対象としているとも見なせる。

古橋悌二(1960-1995)
京都を基盤に活躍したアーティスト集団ダムタイプのリーダー。パフォーマンス,インスタレーションなどさまざまな表現活動を行なう。ドラァグクィーンを日本に初めて導入した。エイズに罹患し、35歳で敗血症で死去。死の直前までエイズ会議にも積極的に関わり、その活動はアートの領域だけに留まらない社会性,政治性を帯びるようになっていた。

古橋悌二の生誕記念日を祝う「”LOVERS 59″ Teiji Lovers Birthday Bash」のポスター
2019年7月13日(土)、京都METROで開催された。

舞台『S/N』(1995)の古橋俤二とブブ・ド・ラ・マドレーヌ
遺作となった舞台『S/N』で実際に自分が罹っているエイズをテーマに、ドラァグクィーンの葛藤と美意識をパフォーマンスした。ブブ・ド・ラ・マドレーヌは京都市立芸術大学の同級生であり、女性初のドラァグクィーン。

造形に定評のあるオリエント工業のラブドール
1977年に創業した老舗のダッチワイフまたはラブドール製造会社。新モデル発表のたびに新技術が投入され、人間と遜色ない表情や肌感を実現している。エロスを超えたアート作品としても評価されている。

田辺 遥一『LOVER’S DNA―キャンディーガール1st.写真集』(2002)
生産と同時に申し込みが殺到し、品切れを繰り返す『オリエント工業』の最上級ラブドールを撮影し話題になった。

マダム・タッソー蝋人形館
ロンドンにある蝋人形館。1835年、蝋人形彫刻家マリー・タッソーが創立。有名人のモドキや残虐シーンの再現など、アウラを纏った蝋人形が展示されている。世界各地に分館が存在する。

マダム・タッソー館の人形スターたち
左上からキーラ・ナイトレイ、レディー・ガガ、マリリン・モンロー、アドルフ・ヒトラー、チャールズ・チャップリン、ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)。
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古着を山のように重ねたインスタレーション作品(2010)
フランスのアーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーがグラン・パレ(1900年パリ万博の会場)で展示したもの。匂いや汚れがついた古着(遺物)を展示することで、過去の人々の存在を鑑賞者に想起させる。展示テーマであるPersonnes(ペルソナ)は、「人々=people」と「不在=nobody」という相反する二重の意味をもつ。

ゴスロリ
「少女的なロリータファッション」と、暗黒・神秘主義・死への憧れといった「ゴシック精神」が結びついてうまれた、日本独自のストリートファッション。

映画《痴人の愛》(1960)
監督・脚本木村恵吾。谷崎潤一郎の小説が原作。性の倫理も恥じらいもない大胆な小悪魔ナオミが、主人公を愛欲地獄に突き落とす。

 京大の菊地は巨乳画像掲示板サイト(BBS)を追跡して、そこに印刷媒体から画像を取り込むスキャニストたちがいることに驚き、かれらのコミュニケーションがどのようなものになっているかを追跡したようだ。これが読めば読むほど、まことに変なのだ。
 スキャニストが字消し(GKC)や本物志向をもつレタ職人化していることはともかく、そうして加工修正された巨乳アイドルや水着アイドルがネット上で高速に交わされると、そこにさまざまなレスが付いて、たちまち独自のフェチ交換コミュニティを形成していくのが驚きなのだ。菊地はそこに異様な「つなぎ意識」を認め、この勝手なフェティシズムの独壇場に呆れるのである。
 いや呆れるのはぼくのほうであって、菊地は呆れていないのかもしれないが、この話題、とても微妙なニュアンスで進行するので、要約がしにくい。詳しいことは本書を読んでもらうのがいいだろう。ぼくとしては「侵犯する身体」が「電子画像萌え」で結ばれているところが、大いに気にいったのだった。

 以上、いささか懐旧や注文を交えての大急ぎの案内になってしまったが、本書3冊が今日の日本のフェティシズム研究の現状を知るにはもってこいのものだったことには変わりがない。全般としては編者の田中が狙ったレベルに達しているとは思えなかったけれど、ここからは一気に新たなフェティシュ論の数々がインタースコアしていくだろう。
 ぜひともウィリアム・ピーツ程度でとどまっていてほしくないし、できれば人類学の目盛りを意識しすぎているのもやや億劫である。カルスタ(カルチャースタディーズ)が先行するのでいいけれど、着地するのはもっと新たな存在学やオブジェクト論の地平であっていいのではないかと思う。
 VRやARやALがつくるフェティシュや、脳科学や心身問題にかかわるフェティシュについても、そろそろ切り込んだほうがいいだろう。いまのところ脳科学はフェチにはお手上げだがクオリアにもフェチがあるはずだから、そのうちフェチの分子言語も想定されるようになるにちがいない。
 しかし最も大事なフェチ論は「フェティシュを思想するフェチ」とは何かということなのである。この見方には、ヴィトゲンシュタインが気にしたトートロジーを超えていく可能性があるように思われる。

映画《イノセンス》ワンシーンのラフ絵
草薙素子のゴーストが抜けた人形。焦点の合わない目とありえない方向への首の向きが、抜け殻であることを表現している。素子は脱出するバトーに「あなたがネットにアクセスするとき、私は必ずあなたのそばにいる」と言い残し、また電脳空間に消えていった。『「イノセンス」METHODS押井守演出ノート』(角川書店)p75より。
(図版構成:寺平賢司・西村俊克)


⊕『フェティシズム論の系譜と展望』『越境するモノ』『侵犯する身体』⊕

∈ 著者:田中雅一
∈ 訳者:荒金直人
∈ 装丁:近藤みどり
∈ 発行所:京都大学学術出版会
∈ 発行者:勝又光政
∈ 印刷・製本:中央製版印刷
∈ 発行:2009年3月6日

⊕ 目次情報 ⊕
『フェティシズム論の系譜と展望』
∈∈ はじめに(田中雅一)
∈∈ 序章 フェティシズム研究の課題と展望(田中雅一)
∈∈ 第Ⅰ部 フェティシズム研究の系譜
∈ 第1章 宗教としてのフェティシズム
  近代「宗教」概念理解への一つのアプローチ(村上辰雄)
∈ 第2章 モノを否定する、モノが否定する
  現代キリスト教形象論からみた「否定的」フェティシズムの可能性(佐藤啓介)
∈ 第3章 精神分析学からみたフェティシズム
  フロイトは何を発見したか(新宮一成)
∈ 第4章 「性的フェティシズム」概念と日本語文化圏
  呉秀三・谷崎潤一郎による「性的フェティシズム」の具現化まで(斎藤光)
∈∈ 第Ⅱ部 フェティシズムとモノ研究
∈ 第5章 モノ愛でるコトバを超えて
  語りえぬ日常世界の社会的実践(大西秀之)
∈ 第6章 人とモノのネットワーク
  モノを取りもどすこと(足立 明)
∈ 第7章 モノをめぐる実践のトポロジー
  タイの機械技術からみた「人間のフェティシズム」批判(森田敦郎)
∈ 第8章 考現学における断片化と再構築
  〈キッチュ考現学〉における風景の蒐集(伊藤遊)
∈∈ 第Ⅲ部 フェティシズム研究の展開
∈ 第9章 平和のフェティシズム考
  文化的フェティシズム批判(松田素二)
∈ 第10章 フェティッシュとマジカルリアリズム
  タウシッグの著作をめぐる覚え書き(春日直樹)
∈ 第11章 事物との濃密で幻想的な関係
  存在論的テリトリー論に向けて(箭内匡)
∈ 第12章 親密性と身体
  フェティシズム現象と人類学の地平(青木恵理子)
∈∈ あとがき(田中雅一)
∈∈ 索引

『越境するモノ』
∈∈ はじめに(田中雅一)
∈∈ 序章 越境するモノたちを追って(田中雅一)
∈∈ 第Ⅰ部 フェティッシュとであう
∈ 第1章 呪物の幻惑と眩惑(石井美保)
∈ 第2章 リンガとファルス
  フェティシズムの植民地主義からの解放のために(田辺明生)
∈ 第3章 装飾のフェティシズム
  東アフリカの衣服カンガの誕生をめぐって(金谷美和)
∈ 第4章 コモディティ化するフェティシズムへの挑戦
  社会主義国キューバのアーティスト、コロニアリズム、グローバル市場(細谷広美)
∈∈ 第Ⅱ部 フェティッシュをしんじる
∈ 第5章 変奏される伝説、転置するフェティッシュ
  奇跡をめぐる欲望が生み出す人・モノ・場所(藤原久仁子)
∈ 第6章 モノ化する「運命」
  西アフリカ・ベナン南西部の宗教実践(田中正隆)
∈ コラム1 フェティッシュ・メーケット瞥見——トーゴでの体験から(鈴木正崇)
∈ 第7章 聖なる複製・商品の信仰空間
  イスラームの聖遺物とフェティシズム(小牧幸代)
∈ コラム2 大量生産された神像や宗教画を祀る
  インドにおけるヒンドゥー教徒の家庭内礼拝をめぐって(木下彰子)
∈ 第8章 複製化し、増殖するブッダ
  韓国仏教の物質化、ポップカルチャー化と忍び込むフェティシズム(岡田浩樹)
  コラム3 モノと図譜と知識人、あるいは日本近世のフェティシズムの構造(上杉和央)
∈ 第9章 本物をのっとる贋物
  インドにおける小生産物がかきたてるフェティシズム(岩谷彩子)
∈∈ 第Ⅲ部 フェティッシュをあつめる
∈ 第10章 歴史の翻案
  合衆国における博物館コレクションの政治性と象徴性(田川泉)
∈ コラム4 武器を欲望する人々
  広島県呉市における戦艦大和の展示をめぐって(福西加代子)
∈ 第11章 博物館とフェティシズム
  秘匿と開示をめぐる地域博物館の抵抗と交渉(窪田幸子)
  コラム5 近代天皇制の「秘匿性」と御物(高木博志)
∈ 第12章 性を蒐集・展示する(田中雅一)
∈ 第13章 収拾のつかない蒐集(長尾晃宏)
∈ 第14章 ガンプラというフェティシズム
  モノと物語の相互作用(川村清志)
∈∈ あとがき(田中雅一)
∈∈ 索引

『侵犯する身体』
∈∈ はじめに(田中雅一)
∈∈ 序章 侵犯する身体と切断するまなざし(田中雅一)
∈∈ 第Ⅰ部 身体をかたどる
∈ 第1章 皮膚をまさぐる視線
  一八、一九世紀タヒチ社会における他者認識にみるフェティシズム(桑原牧子)
∈ 第2章 韓国社会における身体の商品化とフェティシズム
  美容整形の流行と新生殖補助医療技術をつなぐもの(岡田浩樹)
∈ コラム1 ゼウクシスのひそみ(岡田温司)
∈ 第3章 ドラァグ・クイーン
  触発するフェティッシュあるいは最も美に近い創造物としての(佐藤知久)
∈ 第4章 「人体模倣」の現在 (西村大志)
∈ 第5章 観光化する複製身体
  マダム・タッソー蝋人形館をめぐって(妙木忍)
∈∈ 第Ⅱ部 身体をつつむ
∈ 第6章 布とフェティシズム
  インドネシア・東ヌサテンガラ州の絣織の考察をとおして(青木恵理子)
∈ 第7章 袈裟の裂に対するフェティシズム
  金襴袈裟と糞掃衣の裂をめぐって(松村薫子)
∈ 第8章 ファッション・フェティッシュ・ファケーレ(フィロメナ・キート:藤原久仁子訳)
コラム2 文化フェティシズムと欲望される身体(成実弘至)
∈ 第9章 ふわふわの訳
  ゴシックロリータ・ファッション(小野原教子)
∈ 第10章 ランジェリー幻想
  官能小説と盗撮、格子写真(田中雅一)
∈ コラム3 お札とハイヒール(大浦康介)
∈∈ 第Ⅲ部 身体をえがく
∈ 第11章 谷崎文学におけるフェティシズム
  フロイトとマゾッホを超えて(佐伯順子)
∈ 第12章 初期映画と身体
  フェティッシュとしての表象された身体(森村麻紀)
∈ 第13章 「やおい」の男性表現にみる女性の欲望の現在
  女性とフェティシズムについて語りはじめる前に(藤本純子)
コラム4 侵犯されるカラダとココロ——アダルトビデオにおける「フェティシズム」(花房観音)
∈ 第14章 サイボーグに性別はあるか?(田村公江)
∈ 第15章 〈BBS〉の片隅で
  身体、書物、インターネット(菊地 暁)
∈ コラム5 これは愛ではない(立木康介)
∈∈ あとがき(田中雅一)
∈∈ 索引

⊕ 著者略歴 ⊕
田中雅一(たなか・まさかず)
1955年和歌山市に生まれる。ロンドン大学経済政治学院(LSE)博士課程学位取得。国立民族学博物館助手を経て、現在、京都大学人文科学研究所教授。大学院人間・環境学研究科(文化人類学)担当。専攻、社会人類学、南アジア民族誌。著書Patrons,Devotees and Goddesses:Ritual and Power among the Tamil Fishermen of Sri Lanka(New Delhi:Manohar,1997)『供犠世界の変貌——南アジアの歴史人類学』(法蔵館2001)『暴力の文化人類学』(編書、京都大学学術出版会1998)『女神——聖と性の人類学』(編著、平凡社1998)『ジェンダーで学ぶ文化人類学』(共編著、世界思想社2005)『ミクロ人類学の実践』(共編著、世界思想社2006)。