才事記

貨幣とは何だろうか

今村仁司

ちくま新書 1994

装幀:間村俊一

貨幣は、いつわれわれの手元に
近寄ってきたのだろうか。
いつのまにか近寄ってきたのだ。
では近寄った貨幣を、われわれは
真に所有したことはあるのだろうか。
どうも、そこがよく見えない。
見えないのはきっと、貨幣がわれわれの知らない何かと
悪魔的な契りを結んでいるからなのではあるまいか。
そこにはわれわれの「生と死」が絡んでいるのではないか。
おそらく、そうなのだ。だから貨幣には
怪しげな「死」の匂いが漂っているわけなのだ。

 先年亡くなった今村仁司をやっと千夜千冊することになった。問題意識旺盛な著作が多かったので、採り上げたい本はいろいろあったのだが、最近の千夜千冊の文脈では、ホモ・コムニカンスの原型を探求して「贈与の社会」をあきらかにしようとした『交易する人間』(講談社選書メチエ)か、ずばりゲオルグ・ジンメル(1369夜)以降の貨幣論の本質の一端に挑戦した本書『貨幣とは何だろうか』がいいだろうので、さあ、どちらかにしようかなと思っていたのだが、ちょっと以前のものにはなるが、結局、本書にした。

 今村仁司さんにはぼくもいっときお世話になった。リクルートのワークデザイン研究室で研究会を1年ほど開いたときに、指南役の一人としてぼくが呼んだ。いつもたいへん示唆深い指摘をしてくれた。このときの成果はのちに『レジュメックス』という、レジュメのようなセンテンス・ノートと浅葉克己ディレクションのポップ・ヴィジュアルだけでダブルページ単位に構成されているレポートメディアに組み立てた。

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『Resumex 1-7』エディトリアルディレクター松岡正剛、アートディレクター浅葉克己。
リクルートが発行した非売品雑誌。

 それ以前、すでに今村さんのものはだいたい読んでいた。一貫してフランス現代思想やポストモダン思想の佳き先達者として、その著作群はつねにわがゲンダイ参照系のリストに上がっていた。
 けれども最初のころはなぜこんなに現代フランス思想ばかりを追いかけるのか、とても面倒な気がしていた。1980年代に入る直前、ぼくはパリのミシェル・フーコー(545夜)の家に行って、何かの憑きが落ちたのを感じ、以来、フランス・ポストモダンに付き添うのが面倒になっていたせいだろう。
 それが『近代性の構造』(講談社選書メチエ)、『精神の政治学』(福武書店)、『排除の構造』(青土社・ちくま学芸文庫)、『暴力のオントロギー』(勁草書房)と連打されることになって、ふーん、そうか、なるほどとだんだん味読するようになった。リクルートの仕事でお呼びするようになったのは、そのころだ。
 今村さんの分析力はしばしば参考になった。ベンヤミン(908夜)と重なるところはとくに参考にした。のみならず、晩年にはたとえば『清沢満之の思想』(人文書院)などを発表して、仏教哲学が近代と出会った亀裂と深化を扱って、今村さんはいよいよ「東洋」かと思わせもしたのだが、そのことの発展を見ることなく亡くなった。
 その今村仁司の貨幣論なのである。気にならないわけがないが、けれども、そんじょそこいらのものとも異なっていて、単なるエクイティとしての貨幣論を期待すると火傷をするようなものでもあった。わかりにくいといえばわかりにくい。

 本書は経済学的な貨幣論ではない。貨幣の社会哲学的考察の試みである。貨幣の機能論ではなく、貨幣の存在論を語ろうとする。
 だからわかりにくい。容易ではない。貨幣の機能なら、たとえば「交換と市場が貨幣をつくる」と言っていればよく、あいかわらず「計算手段」「支払い手段」「価値貯蔵力」などをそれぞれ順ぐりに議論すればいいのだが、貨幣の存在論はそうはいかない。だいたい貨幣の存在論なんて、何をもたらすのか。なぜ必要なのか。そこがわかりにくい。
 そこで今村は読み手に四の五の言わせないために、まずは貨幣にひそむ「死の観念」を炙り出すことから着手した。それにしても貨幣論を「死の観念」から始めるなんて、なんということか。冒頭からしてあまりに大胆な入口だ。けれどもあとで述べるように、それこそはジンメルの貨幣哲学とも今村の一貫した近代社会論ともきわどくつながるものだった。
 貨幣はいまや社会と生活のなかで遍く流通するものになっている。だからその存在といったって空気や水や都市のようなもので、存在それ自体は何も主張してくれない。
 資本金や売上げや株価のように数値や価格に変じたものなら、CO2量や河川の水流速度や都市の汚染度のように見えてはくるだろうが、貨幣自体は存在を主張しない。そのため今村は、貨幣の存在を人間の存在との比較において語るべきだと考えたのだった。

 人間という存在は個人においては必ず「生と死」をもっている。この「生と死」の両端は人間にはとうてい実感できない。空海(750夜)が「生まれ生まれ生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に死に死に、死んで、死の終わりに冥(くら)し」と『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく=『秘密曼陀羅十住心論』の空海自身による短縮版)に書いたように、生と死とはゼッタイにわからないものである。
 けれども個々の生と死は、家族においても一族においても、その家系や部族ではつながっている。そのことだったら誰だってうすうす感じられる。共同体や村や町や国家においてもつながっている。いやいや、人類としてはもっと連綿とつながっている。生と死は人間の総体としては大きな連鎖になっていて、そのつらなりが人間の歴史をつくり、社会の歴史をつくってきた。
 一方の貨幣のほうはどうかといえば、個人や集団への出入りや、ドル・円・リラ・ルーブルの差異はありつつも、やはり貨幣価値としては連綿と連なっている。個人のもつ貨幣はその数時間後にスーパーでの食品と入れ替わり、数カ月後には家のローンの一部になっていく。「個の貨幣」はさまざまな断絶をもつけれど、それらは結局は「類の貨幣」とのつながりの中にある。
 このように見れば、人間も貨幣も個別的には切れていながら、その存在のありかたとしては類的なつながりをもっているのだから、かなり似ているというふうに言える。ただし、貨幣にはまさか「生と死」なんてないものだと思われている。使うか貯めるかだけ、あるいは鋳造するか印刷するかだけ、もしくは物財との関係をもつだけだと見なされてきた。そもそも貨幣に生死を見立てるのはムリがあるようにも思われる。
 しかし、はたしてそうかと今村は問う。
 近代における貨幣の役割は、銀行制度が生まれ、保険制度が確立していったように、人間の近代的社会生活に応じて「交換」「変換」「保留」「利息」などのシステムをつくりだすことによって、強大な力をもつようになっていった。それがまさしくマネーパワーだが、それはしかしよくよく考えると、入金者に対して銀行が利子を付け、土地などの財産を担保に読み替え、もっというなら人間の死を保険制度に組み替え、疾病を健康保険に切り替えて、あえてカネ(貨幣)からカネ(マネー)をつくりだしていったものだった。
 貨幣は人間社会のいくつかの切れ目ごとに、そのマネーパワーをつくりだしていったと言えるのだ。
 そうだとすれば、このような貨幣と社会の関係は、人間の生病老死を含む社会的な行為性を貨幣の行使力が巧みに分断して(切れ目をつけて)、それらに「擬似的な生死の仕切り」のようなものを与えることで、ようやっと成立していたともみなせるわけである。それなら貨幣にはどこか「死の観念」を引きずっているところがあると見ることもできるはずなのだ。
 もっというならば、マルセル・モースがマオリ族の贈与行為を分析したように、「贈与」という行為がすでにして人間の関係に生と死の区切りを与えていた。贈与財はそのスタートからして「死の観念」を孕んでいたはずだった。それがまわりまわって貨幣になっていったわけだから、貨幣のルーツの本来に「死の観念」がなかったとはいえない。
 いや、そもそも貨幣の価値を人間社会に結びつけた「労働」にしてからが、まさに「生きた活動」によってもたらされていたわけで、ということは、そこにはその生が断絶される「死のタイムテーブル」があらかじめ組みこまれていたとも言えるのである。
 だいたいこのような論法で、今村は貨幣の奥に「死の観念」が内属しているのではないかという見方を搾り出す。そして、それがジンメルの貨幣哲学にも続いているとみなすのである。

 ジンメルが『貨幣の哲学』で貫いた姿勢は、「もし貨幣の哲学が存在するとすれば、そこには貨幣についての経済学の此岸および彼岸だけがある」というものだった。また、こうも書いた。「貨幣を、その内的世界に対する諸作用において、すなわち、諸個人の生の感情や、かれらの運命の連鎖や一般文化などに対する作用において追求する」と。
 前夜に続いて改めて説明すると、ジンメルが経済学の此岸と彼岸で貨幣を哲学したいというのは、アダム・スミスとはずいぶん異なっていた。スミスは、平均的なホモ・エコノミクスとしての人間の行為が市場においてはたす自由度に注目して、そこに「神の見えざる手」の恩寵をシンパシーをもって感得したわけだが、ジンメルはその人間の「手前」(此岸)と「向こう」(彼岸)に貨幣を捉えたいというふうにした。
 人間の「手前」と「向こう」とは何かといえば、そうである、もちろん「生」と「死」にほかならない。ジンメルは、人間の手前(生)と向こう(死)の関係のあいだに貨幣が生じてきたのだろうから、そこに注目したいと見たわけなのだ。貨幣を、人間の存在の手前と向こうにあるものに近いという解釈をしたわけだ。「神の見えざる手」は市場にではなく、生と死のキワのほうにはたらいていると見たわけだ。
 こうしてジンメルは貨幣に「非人称性」「抽象性」「普遍性」を読みとっていった。これは、人間が生前の世界にもつイメージや死後にもつイメージときわめて酷似する。とくに死後における人間のイメージは、古来、非人称的で抽象的で普遍的なものだったのだ。

 本書はこのあとジンメルの貨幣論の解説に移っていくが、それについては前夜に案内したばかりなので省略しておく。ジンメルは、貨幣と人間の相互作用のほうに貨幣の本質があると解釈した。
 こうして今村は、ついでは二つの“貨幣小説”を採り上げて、貨幣が人間の存在の作用に転化してきたことを説明する。小説を借りて貨幣存在と人間存在の類似化を説明するというふうに進んだ。
 二つの小説とは、ゲーテ(970夜)の『親和力』とアンドレ・ジッド(865夜)の『贋金つくり』だ。

 ゲーテの『親和力』は、二組の男女が対角線的に入れ替わっていく物語である。青春時代の恋愛相手とようやく結ばれたエドワルトとシャルロッテの夫婦の関係が、オットー大尉とオッティリエの登場によって崩壊する。その後にエドワルトとオッティリエ、オットー大尉とシャルロッテというふうに相手を入れ替えて、それぞれにふさわしい愛の相手を見いだす。そこで新しい結合が見られるはずだったのに、それらはともに悲劇的な結末を迎えるというふうになっていく。
 一見、恋愛と結婚の話を扱っているような物語だが、それらは貨幣が人間社会にもたらした制度性に似て、恋愛と結婚が制度という“変換”によって切断されていたことが暗示されている。その融合と切断を“見えない力”で動かしているのが、ゲーテのいわゆる親和力だった。
 それは今村によると、貨幣の“見えない力”と相同的なのである。その相同的な作用を『親和力』は、ミットラーという人物に可視化させている。
 ミットラーは世間的な知識をいっぱい詰めこんでいる凡庸な人物で、他人の言うことにはほとんど耳を傾けない。いまふうに言うなら、世間的なコンプライアンス(法令遵守)のことしか重視していないような人物だ。それでも世話好きだから、けっこう好人物だと思われている。
 そのミットラーにとっては結婚こそが世間と人生を安心もさせ、安定もさせるすばらしいものであるのだが、それは社会の経済価値観が貨幣があることによって成立している制度のようなものである。それがなければ物々交換と同様に、恋愛と結婚だって足したり引いたり、交換したりすることができなくなっていく。
 社会というもの、どこかで結局は貨幣のような制度的様式が必要なのである。つまりは貨幣的なるものこそが親和力なのである。ということは、ミットラーこそは人間の姿をとった貨幣様式だったということなのだ。ゲーテはそのことをミットラーという名に刷りこんでいた。そもそもミットラーとは「媒介者」という意味でもあった。

 ジッドの『贋金つくり』は、かつてぼくが瞠目させられた小説だった。読んだきっかけは25歳のときに東販に頼まれて高校生向けの読書新聞「ハイスクールライフ」を編集していたとき、「私の一冊」を野間宏さんに頼んだところ、『贋金つくり』が指定されてきたことによる。
 急いで読んだが、心底、びっくりした。その狙いの凄まじさに圧倒されたと言ったほうがいいかもしれない。
 モチーフはそうとうに入り交じっている。いくつもの「父」とその隷属者が登場する。しかもそれらがすべて、人格・愛情・言語・価値観において、「ほんもの」と「にせもの」を争っている。なんという小説かと思った。メタフィクションなどというありきたりの手合いではない。もっともっと魂胆が凝っていた。だからたまげたのだ。
 主要な父のプロフィタンディウーは、物語のなかでも「奇妙な名前」と呼ばれているのだが、実は「神を利用して利潤を上げる」という意味になっている。そのことはのちにあきらかにされるので、われわれにはわからない。そのかわり、息子のベルナールがこの父が「義父」であり、「偽父」であることを発見する。だとしたら息子もまた私生児であるのだから、「贋の息子」だったのである。
 裁判官のモリニエは社会的には「法の父」にあてがわれているが、子のジョルジュはこの権威を失墜させたい。折よく愛人からの手紙を盗み見て、不倫の父が「贋の夫」であることになる。二番目の息子のオリヴィエは作家志望で、まともな息子に見える。
 ところが、オリヴィエは驕慢な貴族パッサヴァンにおだてられ、くだらぬ前衛雑誌の編集長の空ポストを信じて、社会のドラ息子になっていく。物語の後半、オリヴィエはどんどん「にせもの」になっていくのである。悪貨パッサヴァンが良貨オリヴィエを駆逐したわけだ。

 このような「ほんもの」と「にせもの」が交錯する出来事を淡々と観察しているのが、この小説の語り手のエドゥワールである。
 ほとんど物語のなかでは観察者として以外の行動は見せないけれど、ところが彼はホモセクシャルで、妻のローラとはなんらの交接もしていない。二人はまさに擬似夫婦だったのだ。ということはこの物語の語り手そのものがニセの語り手だったのだ。
 実際に偽造貨幣をつくっているストゥルーヴィルーも、むろん登場している。クリスタルガラスにせっせと金のメッキを施しているのだから、この男はさしずめ「贋金の父」であろう。しかし贋金つくりは贋金を使えない。そんな危険なことはできない。贋金つくりの本質は「贋金つかい」によって実証されるのだ。
 その贋金つかいの手先になるのがストゥルーヴィルーの甥のゲリダニゾルで、このはしこい甥は、やがてストゥルーヴィルーがパッサヴァンと組んでいることを知る。そして、自分は「贋金つかい」だが、叔父たちはニセモノの文学によって「価値を偽造しているのだ」と見破っていく。
 こうして物語は複雑にからまりつつ進んでいくのだが、ジッドがこの小説によって何をあらわしたかったかは、もはや明瞭だ。言語と貨幣の相同性を徹底化させることで、金本位制が崩れていった近現代ヨーロッパの価値観の狂いを凝視しつづけたのだった。

 このあと今村さんは、貨幣と文字の呪物的関係からエクリチュール的関係までを詳述し、今度はジャン・ジャック・ルソー(663夜)の言語貨幣論からジャック・デリダにかかわる貨幣論的なスコープに驀進していくのだが、そこを案内しているとキリがなくなってきそうなので、今夜は割愛したい。
 ここでは、今村さんが、近代以降の人間がしだいに「商品語」しか喋らなくなって、ついに「貨幣語」の何たるかをすっかり失念してしまった問題を最後に投げかけていることを付け加えておくにとどめる。そして、フランシス・ベーコンがとっくに「市場のイドラ」を問題にしていたこと、そのイドラ(偶像)こそその後の貨幣が負わされた宿命になっていったことを、控えめに付け加えておくことにする。

【参考情報】
(1)今村仁司さんは1942年の岐阜県出身。京大の経済学部の博士課程から東京経済大学の経済学部の教授となって、ながらく活動された。もとはマルクス経済学の研究者だったのだが、初期にルイ・アルチュセールに関心をもち、その重層的決定のプロセスのほうに深入りしながら、フランス現代思想のあらかたの渉猟者となった。ボードリヤール(639夜)、ゴドリエ、リオタール(159夜)、ブルデュー(1115夜)、ベンヤミン(908夜)の翻訳も多く手掛けた。2007年5月に死去。まだ65歳だった。
 著作はそうとうにある。主なものでも、順に『歴史と認識』(講談社学術文庫)、『労働のオントロギー』『暴力のオントロギー』(勁草書房)、『批判への意志』(冬樹社→勁草書房→講談社学術文庫)、『社会科学批評』(国文社)、『排除の構造』(青土社→ちくま学芸文庫)、『現代思想のキイワード』(講談社現代新書→ちくま文庫)、『仕事』(弘文堂)、『現代思想の系譜学』(ちくま学芸文庫)、『思想の現在』(河合文化教育研究所)、『思想の星座』(洋泉社)、『精神の政治学』(福武書店)、『理性と権力』(勁草書房)、『作ると考える』『格闘する現代思想』(講談社現代新書)、『現代思想の基礎理論』(講談社学術文庫)、『近代性の構造』『ベンヤミンの問い』(講談社選書メチエ)、『群衆:モンスターの誕生』(ちくま新書)、『近代の思想構造』(人文書院)、『近代の労働観』(岩波新書)、『交易する人間:ホモ・コムニカンス』『抗争する人間:ホモ・ポレミクス』(講談社選書メチエ)、『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(岩波現代文庫)、『清沢満之の思想』(人文書院)、『清沢満之と哲学』(岩波書店)、『マルクス入門』(ちくま新書)、『社会性の哲学』(岩波書店)など。
(2)本書は実はぼくにとっては不消化のものだった。だからこの先のことが気になっていたのだが、今村さんの著作としてはその結実がなかった。逆に、その先に続き、かつ、さらに痛快の議論を展開したのは、ぼくには仲正昌樹の『貨幣空間』(情況出版)だった。ゲーテの貨幣論を『親和力』に終わらせず、『ファウスト』まで踏みこんだだけでなく、さまざまな切れ味を見せていた。近いうちに千夜千冊したい。
(3)本当は、ジンメル貨幣論と今村貨幣論のあいだには、マルセル・モースの贈与論を収めた『社会学と人類学』(弘文堂)や、その延長と超越にあたるモリス・ゴドリエ『贈与の謎』(法政大学出版局)、ナタリー・デーヴィス『贈与の文化史』(みすず書房)、さらにはメアリー・ダグラスの『儀礼としての消費』(新曜社)、また伊藤幹治の『贈与交換の人類学』(筑摩書房)などのいずれかを挿入しておくべきだったのだが、これらは別の流れのなかで掴まえることにした。あしからず。