才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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沈黙の艦隊

かわぐちかいじ

講談社漫画文庫 1998 1989~1996

編集:「週刊モーニング」編集部
装幀:鈴木一誌・竹内さおり

お待たせしたね。いよいよ『沈黙の艦隊』だ。
ぼくが大好きなかわぐちかいじの登場だ。
北方四島から尖閣列島まで、竹島からオスプレイまで、
日本のシーレーンがぐちゃぐちゃになっている今日、
まだ米ソ対立があった国際社会を舞台にした話とはいえ、
この作品が問いかけた提案は、
いまなおひりひりするほどに熱いのではあるまいか。
原子力潜水艦シーバットの艦長海江田四郎が
独立国「やまと」を宣言し、世界に対峙したのだ。
これでいったい何が日米におこっていくのか。
世界はどう反応したのか。政治家は何をしたのか。
そもそも日本の自衛隊とは何なのか。
話は、海江田の乾坤一擲がどこに届いたのかをめぐって、
世界を前代未聞のシナリオに導いていく。

 画工かわぐちかいじ。1948年生まれ。広島県尾道市出身。
 双子の兄である。父親は戦時中は掃海班の乗組員で、戦後は小型タンカーの船長をしていた。根っからの海好きだ。明治大学文学部の日本文学科を卒業。大学では漫研に所属した。根っからのマンガ好きだ。その後『アクター』『沈黙の艦隊』『ジパング』のいずれでも講談社漫画賞を受賞。『太陽の黙示録』では小学館漫画賞もとった。いわずとしれた広島カープのファンだ。
 ふりかえれば、ぼくは1975年くらいから「現代の眼」に連載された夢野京太郎との合作『黒旗水滸伝』以来のファンだった。社会に対抗して無政府を夢見る男たちの描きっぷりが、すこぶるよかった。
 夢野京太郎とは、かの竹中労(388夜)のことだ。当初の『黒旗水滸伝』は「大正地獄篇」「昭和煉獄篇」「戦後浄罪篇」の大型3部作を予定したようだったが、竹中らしく「大正地獄篇」だけでアナーキーきわまりなく幕が下ろされた。それでも大部の2冊組が皓星社から2000年に刊行された。ぜひ読まれるといい。絵と文章が上下段に分かれていて、今日の電子書籍を先取りしていた。かわぐちのアウトロー志向がすでにここに出所していたことも、よくよく見えてくる。
 その後のかわぐちは『アクター』で講談社漫画賞を受けて大きな人気を引き付け、その直後に満を持して「週刊モーニング」に連載を始めた。それが『沈黙の艦隊』だった。
 もともと少年期からの潜水艦マニアで、一卵性双生児の弟とは小澤さとるの『サブマリン707』に熱中してアスロックという自動追尾魚雷を描いていたらしい。かわぐちは、もってこいの舞台を選んだのだ。

『黒旗水滸伝:大正地獄篇』のページ見開き。
漫画と場面解説の2段レイアウト。
新聞の切り抜きや写真などが漫画に組み込まれた斬新な構成。

 いま日本のシーレーンでは、尖閣列島の領有をめぐって日中が不発弾をかかえ、竹島をめぐっては日韓に亀裂が走っている。北方四島問題もロシア有利のままに再燃している。
 これらに共通する問題は「国境とは何か」「外交とは何か」「国防とは何か」ということである。また「日本をとりまく海で何を訴えるか」ということだ。
 それにもかかわらず政界もマスコミも、また知識人たちも、これらの問題をめぐる議論をひどく低俗なままに傍観しつつある。遠く林子平の『海国兵談』には、敵前上陸をしてくる連中を水際で次々に叩くという海防政策が提案されて、「寛政のハリネズミ論」と揶揄されたものだが、いままたそんなシーレーン議論に終始しているかのようなのだ。尖閣列島に近づく中国船や台湾船に放水を仕掛けている海上保安庁の巡視船の映像をくりかえし見せられていると、そんなふうにも思いたくなる。
 こんなへんちくりんな状況など、誰も望んではいなかった。ぼくのまわりも「気分が悪い」と言っている連中ばかりだ。しかしお寒いことに、その気分の悪さを晴らすシナリオがない。日本は行き詰まったままなのか。
 ということもあり、ここは千夜千冊にいよいよ『沈黙の艦隊』を紹介するときがきたのだろうと勝手に思うことにした。連載は8年を越え、単行本はシーレーンの限界状況を描きつづけて32巻に及んだ。文庫版でも半分の16冊だ。ぼくは麻布十番の喫茶店に通って、これらを5回ほどに分けて読んだ。真っ黒いお湯の十番温泉で温まったあとに『沈黙の艦隊』の行き詰まる続きに耽るのが、なんとも爽快な日々だった。

 この長編劇画をどう読むかは、諸君の好きにするといい。たった2カ月間にわたる激変未曾有の展開だが、日本が世界に向けて、何の問題をどのタイミングで、どのように選択し、表示するべきかという“お題”が、劇的なクリティカル・シナリオをもって次々に提示されている。

 “お題”は大きくは7つくらいある。国境とは何か独立とは何か日米同盟とは何か保険とは何か戦争とは何か、国連とは何か、情報とは何か。いずれもごつい問題だ。もっとも最後の最後に「アメリカとは何か」が描かれていて、肩透かしを食った。
 それで、何がどうなったのかといえば、かわぐちかいじはつねに渾身の乾坤一擲を用意したわけである。諸君なら何をどうしたくなるのか、よくよく目を凝らしてみるべきだろう。

『沈黙の艦隊』おもな登場人物

 まだこの作品を読んでない諸君にサービスをしたい。話の核心的発端はこうなっている。
 アメリカの要請によって日本初の原子力潜水艦シーバットが極秘裏に建造されていたと思われたい。ウラン235の核分裂エネルギーで駆動する強力な原潜である。
 シーバットはアメリカ第7艦隊に所属するものの、その費用は日本政府が全額を負担していた。艦長に任命されたのは海上自衛隊随一の切れ者といわれる海江田四郎だった。この男がこの作品の主人公である。その海江田がとんでもないことをしでかしていく。そんな草茅危言(そうぼうきげん)の手があったのかという大胆不敵なシナリオが次々に繰り出されるのだ。
 が、シナリオは海江田だけが用意したのではない。海江田の第一撃、第二撃を受けて、周辺で何人もの凄腕が決断と選択を迫られ、インテリジェンスをめぐって暗躍した。そう思って読まれればいい。政治家の態度決定も何度も迫られる。何を世界に向かってメッセージするのかという問題も浮上する。折しも先の国連で野田首相や玄葉外務大臣が尖閣列島問題でろくな演説ができなかったことをおもえば、このこと、あれこれ身につまされる。
 話の中身を詳しく書きすぎるのも何だろうけれど、ストーリーがわからなければ何も始まらないだろうから、最初はやや詳しく、あとはすっとばして紹介する。当時の中曽根康弘を唸らせた連載だった。諸君も日本の舵をどう切ればいいのか左見右見考えながら、以下のぼくなりの拙い梗概を読まれるといい。むろん全16冊の文庫を入手することをこそ勧めるけれど‥‥。

 まだ米ソが対立しながら世界を律していた時期である。日本近海をソ連の原子力潜水艦がうろうろしているという噂があった1980年代というところだろう。
 そんななか、海上自衛隊のディーゼル潜水艦「やまなみ」が犬吠崎沖で消息を絶った。日本海溝の真ん中だ。まもなく海上から遺留品も発見され、艦長の海江田四郎二等海佐以下、乗員75名は全員絶望とみなされた。ソ連原潜ロマノフと激突して沈没圧潰したのだろうと推測された。圧潰はアッカイと読む。しめやかに自衛隊葬もおこなわれた。
 ところが、どっこい海江田は生きていた。艦員も生きていた。そのことを察知したのは海江田の親友でもあった深町洋だった。防衛大学校の同期の桜である。二等海佐でディーゼル潜水艦「たつなみ」の艦長をしていた。かわぐちは、当初は深町を主人公にするつもりだったらしい。それが連載が進むうち、刑事役よりも犯人役のスケールが主人公をぶんどっていったらしい。その深町が僅かなソナーの分析から海江田たちが奇蹟的な手法をつかってみごと脱出しただろうことを確信したということになっている。
 「あいつならやりそうなことだ」。しかし、では、海江田たちはどこにいるのか。

 実は、日米の軍事関係者の暗黙の了解のもと、日本初の原子力潜水艦が極秘裏にもうできあがっていた。
 かつて日本政府は原子力船「むつ」を誕生させ、次は原潜の建造だという計画をたてていたのだが、「むつ」試験運転中の事故で世論が原潜反対に傾いた。これで政府は建造を断念した。しかし計画は中止されてはいなかったのである。話はそういう仮想の設定になっている。ひそかに建造が進み、アメリカ第7艦隊に所属することになっていた。
 太平洋軍総司令官スタイガー大将はこれを「シーバット」と名付け、自衛隊トップの推挙によって艦長に海江田四郎を任命していた。だから話はここから始まっていた。「やまなみ」の艦員はこのシーバットに吸収されたわけである。
 したがって物語はここから始まるのだが、その話の劈頭、海江田はシーバットの試験航海中に突如として音響魚雷を乱射して自艦を逃亡させ、海中に消えてしまうのだ。第1巻であっというまにその佳境に入る。この劈頭の一気の急転直下が作劇的には断然におもしろい。この作品が大ヒットした最初の理由だろう。
 海江田は離反したのか、どこへ行ったのか。
 日本はむろんアメリカもこの反乱逃亡事態に騒然となった。おそらく亡命して、中東諸国あたりに原潜を抱きこませようとしているのではないかと推測された。
 アメリカ軍はただちにシーバット撃沈を指令して、第7艦隊と第3艦隊を太平洋に集結させた。もしそんなことになれば日本の国防事情の万事があかるみに出て、日本政府はたちまち転覆してしまう。日米同盟もどうなるかはわからない。政府はなんとかアメリカによる撃沈や中東亡命より先んじてシーバットを捕獲しなければならなかった。深町洋の「たつなみ」が秘密任務を背負って出港した。

 一方、海江田はシーバットが核弾頭魚雷を保有していることを通告すると、大胆にも第7艦隊最大空母カールビンソンの眼前に浮上して相手を金縛りにしたまま、全世界に向けて、次のような宣言をしてのけた。
 この原子力潜水艦シーバットは、ただいまこの瞬間から「独立国やまと」になったのである、と!

独立国「やまと」宣言。

 まさに神工鬼斧(しんこうきふ)のプレゼンテーションだ。いったい海江田は何を企んでいるのか。どうみても原潜「やまと」は世界を相手に独立戦争をしているとしか思えない。
 深町はなんとか「やまと」に接触するも、海江田はこのまま世界を相手に自分の作戦を貫くと言って譲らない。自分の作戦とは何なのか。まったく意図が読めない「やまと」の動向去来をめぐって、海中の戦闘はさらに激化していった。
 たとえば、モルッカ海峡沖のアクロバットな紆余曲折ののち、海江田はアメリカの艦隊に容赦ない攻撃を加えた。南太平洋のアメリカ原潜6艦はたった10分足らずで戦闘不能状態に陥ったのだ。ついで沖縄沖に転じた「やまと」を、新たに追撃してきたのはソ連の原潜レッドスコーピオンである。深度1000の死闘が進行するなか、世界中のトップシークレットの状況に何本もの亀裂が入っていく。かくしてここに「やまと」の処分をめぐっての、アメリカ・ソ連・日本という国家間の一触即発のきわどい事態が続いていった。
 しかし驚くべきは「やまと」の強靭な装備力と海江田の天才的な戦闘勘である。世界はじりじりと何かに向かって追いつめられていく。

 日米首脳会談がハワイでもたれることになった。
 ニコラス・ベネット大統領と竹上登志雄首相が出会った。議論は最初からまったくの平行線だった。
 日本側はソ連の攻撃になぜアメリカは同盟国として反撃をくわえないのかと詰め寄った。アメリカ側は「やまと」を放置する日本がこれ以上危険な状況を黙認するなら、日本を「再占領するしかない」と言い張った。海原官房長官はアメリカがそんな気なら「日本は独立する」と息巻いた。首脳会談は過剰に、激越になっていく。
 ベネット大統領はハワイにくる前から、日本の再占領が可能になるというシナリオをひそかに準備していた。そういう占領プログラムを懐中に入れてきた。日本はこれに対してあいかわらずの「専守防衛」に徹することから転換できないでいる。しかし「やまと」はあたかもそうした両国首脳の腹を読み切ったかのように、それら両国の思惑を正面から裏切っていく。この断裁感覚がこの作品をわくわくさせていく。
 こうした膠着状態のなか、米ソの艦隊が海上自衛隊第2護衛艦隊を攻撃、海江田はただちにこれに対する反撃を開始した。このあたり息詰まる海中と艦内の戦闘シーンが連打されていく。かわぐちかいじがどれほど原潜好きなのか、重々よくわかる。ぼくは何本かの潜水艦映画を想い出す程度だったけれど。

 緊急に国連安保理事会が開かれた。いったい「やまと」は独立国家たりうるのか。もしも国家なら領土と元首があるはずである。
 海洋移動中の原潜そのものが領土なのか。そうだとすれば排水量7000トンの艦体が領土ということになる。しかしそうであるのなら、もともとはシーバットはアメリカ海軍のものだった。これは国家乗っ取りだった。では艦長が元首なのか。そうだとすれば海江田には外交権もある。国民はたったの70余名にすぎない。けれどもこれまたアメリカからすれば第7艦隊の所属を振り切ったということだ。
 各国は大いに悩ましい。しかも各国ともにかつては植民地を乗っ取って巨大軍事力をわがものにしてきた経歴の持ち主ばかりなのである。海江田はそこを突いていく。そのため「やまと」をどこも制御できないでいる。
 議論は紛糾した。しだいに見えてきたことは、「やまと」が絶妙な軍事バランスを演出しようとしているらしいということのみだった。いや、それだけでもない。海江田は「戦争の終結」を世界に告示するために「やまと」の世界航行を見せびらかすかごとく続けているようなのだ。

 海江田は艦員たちには「私とともに歴史の予言者になってくれ」と告げていた。そのためには、アメリカの増長する軍事力をいったんは砕く必要があるとも説いていた。それは、そうだろう。核の拡散と分有は、アメリカを頂点にコンパスを拡げていったのだ。
 海江田は沖縄沖で空母ミッドウェイを撃沈すると、続いて世界最強のイージス艦「鉄の爪」を撃破する。
 が、この海戦で「やまと」の通常魚雷が打ち尽くされた。これでは戦闘能力がなくなっていく。どうするか。海江田はここでまたもや意外な手を打った。独立国「やまと」が唯一友好関係に入りたい国がある、それは日本国だと言いだしたのだ。おそらくは「核」のみを搭載したままであろう「やまと」は、かくして日本との同盟締結をめざして東京湾に入っていく。
 もし同盟が成立するなら、「やまと」は独立国家ということになる。アメリカはこの進展を食い止めるため、日本が同盟を結ぶなら「やまと」の武装解除をただちに決行すべきだと迫った。国連事務総長ジョージ・アダムスは考えこんでいく。

 竹上首相も考えこんでいる。「やまと」を東京湾に入れ、同盟を結ぶのはやぶさかではないが、なんとか武装解除も約束させたい。そのうえで友好条約を結びたい。
 しかし海江田は東京湾に不気味な黒い艦体を浮上させると、これを無線を通じてきっぱり断ってきた。「わが国は軍事力のみによって構成される戦闘国家である。武装解除はわが国の存在を否定することになる。よってわれわれはこのままである」。竹上はそれならば現在の日本は「非核3原則」によって成立しているのだから、「核」を保有しているかどうかをあきらかにしてほしい、そうでなれば入港を許可できないと言う。
 海江田は「わが国は核兵器を所有していない」と言明した。これでとりあえず「やまと」の入港が許可された。しかし、海江田の言明などどこまで本当であるのかは誰もわからない。アメリカ側は「やまと」に核弾頭を装填したサブ・ハープンが保有されていると踏んでいた。有効射程距離50キロの核弾頭ミサイルである。
 もしそうなっているのなら、アメリカは「やまと」を東京湾に封入させておくことが有利になる。仮に核が爆進しても、それは日本近海を汚すだけであるからだ。

 海江田は東京に上陸し、日比谷のプレスセンターにおいて竹上首相と会談に入った。要求はただ一つしかなかった。日本は安保条約そのほかすべてを現状のままにして、わが「やまと」と友好条約を結び、「やまと」の存続に協力してほしいというものだ。ここには軍備補強やロジスティック補給が当然ふくまれる。
 竹上以下の閣僚はその意図がすぐには理解できないままにいると、海江田はこれは無条件の要求だ。なぜなら「やまと」は「世界規模の超国家軍」を創設するからだと言い放つ。

 全世界に中継されていたこの会談の半ばから、各国からメッーセージが一斉に届いてきた。
 「海江田は核によって世界を軍事制圧しようとしいる狂人である。日本のヒトラーである。日本がこんな男と条約を結ぶなら、われわれは日本に経済制裁をするのみならず、軍隊の派遣も厭わない」と。
 最も過激な決断をしたのは大統領ベネットだった。国連総会を招集し、そこで「第7艦隊および在日米軍が東京制圧をする」という方針を承認させようというものだった。竹上の手元にもこのベネットの連絡が届く。竹上はこれを見て、捨て身の提案を思いつく。そして、こう言う。
 海江田君、現在、国連安保理事会で貴艦のおこした事件について審議されている。その審判が下るまで、日本は陸海空の自衛隊の指揮権をいったん国連に委ねる。それまで自衛隊とともに「やまと」も国連に指揮権をゆだねてほしい。
 貧者の一燈ともいうべき提案だった。海江田は了承するが、ベネットはそうはいかない。これではアメリカのシナリオがまったく頓挫する。ベネットは急遽プレスセンターに電話をかけ、海江田との直談判にもちこんだ。
 しかしここで海江田は好機とばかりにベネットに、全世界に向けての「政軍分離」を訴えたのである。さらに自分はそのために国連総会に出席する意志がある逆提案をした。この「政軍分離」は、かわぐちかいじがこの作品で用意したいくつもの不適な妙策のひとつであった。

 むろんアメリカがそんな理想に走る要請などにのるわけはない。アメリカ軍は、補給点検のために東京湾の移動浮きドック・サザンクロスに入渠(にゅうきょ)した日本政府と「やまと」に退船勧告を発する。竹上も海江田も応じるはずはないと見ての勧告である
 案の定、「やまと」はこれを無視した。アメリカは一気に攻撃を仕掛けた。「やまと」は動けないままにある。サザンクロスは「やまと」を抱きこんだまま海底に沈んでいく。さしもの「やまと」も最後を迎えるだあろうと思われたその瞬間、これを救ったのはまたもやアクロバティックな深町の「たつなみ」である。この作品を通して、このように海江田と深町はこんな対照化と鏡像化をくりかえす。
 こうして東京での勝負は双方見送らざるをえなくなり、「やまと」は東京湾を脱出して極寒の北極海に向かうことになる。海江田はそこからニューヨーク港に入り、最終決断を国連総会の場において世界に提示してみせる気でいるらしい。

 日本は大混乱に陥ったままにある。独立国「やまと」との友好条約を批准するかどうか、国会は大いに荒れた。政党ゲームもヒートした。
 竹上首相は「やまと」を国連指揮下におくことによって、これまでさんざん議論されてきた「自衛隊の違憲性」を免れるのではないかという究極の論法に達し、「やまと」支持を旗印とする保守新党の立ちあげを表明する。民自党を割ったのである。
 この竹上の「やまと」を国連による国際平和維持軍に帰属させるというアイディアは、日本国憲法が定める「国権の発動」による軍隊の禁止をブレークスルーさせようというものだ。これをさらに突き進むと、自衛隊を常設国連軍にしてしまうというウルトラCになる。かつまた「やまと」の世界保安力を容認することにもなる。
 竹上は、大国が紛争解決を名目に世界各地に大軍を送りこんでいることよりも、いま「やまと」が示しつつあることにこそ世界を平等に紛争解決させる力があると認めたのだった。
 民自党の旧守派の領袖・海渡一郎はこのアイディアに噛み付いた。吉田茂がかつて「呑舟の魚は枝流に游(およ)がず」と言ったのを引き、舟を呑み混む大きな魚は小さな川では泳げないのだから、もし日本が大魚ならんと欲すれば大きな川が必要で、その大きな川とはアメリカとの同盟関係の維持にほかならないという論法だった。禍心の包蔵は許さないという論法だ。しかし、両者はもはや反対方向を向いている。
 民自党は割れ、総選挙に突入することになった。社民党はここぞと「世界社会主義」による資本主義的軍事力の闘争に終止符を打つべきだとぶちあげ、革新連合の組織化に走った。

 そんな日本の動揺をよそに米ソ首脳はしきりにホットラインで意志を確認しあうと、北極圏の両国の軍事配備を棚上げにする。
 アメリカは世論の70パーセントが「日本は悪、アメリカは正義」に傾いたとみるや、ただちに「やまと」殲滅のためのオペレーション「オーロラ作戦」を発動させた。「やまと」が浮上すれば、ミサイル巡洋艦からトマホークを命中させるという作戦である。
 ところが「やまと」はそれを見越しているかのように、なかなか浮上してこない。大統領は最新攻撃型原潜シーウルフを差し向けた。冠氷下1000メートルの死闘が始まった。

 この作品にはいろいろ特異な登場人物が配されているが、その一人に第3の保守党「鏡水会」の党首・大滝淳(山口3区)がいる。
 大滝はアメリカのテレビネットワーク局ACNのクルーと北極海に飛んで海江田との直談判に出て、誰もが思いつかなかったような途方もない提案をした。
 「やまと」に莫大な保険をかけようというのだ。保険をかけるのは日本国、保険を引き受けるのは世界各国、保険金の受取人を国連にするというもので、この申し入れを海江田に了承させようという作戦である。
 軍艦には保険はかけられないが、大滝は「やまと」という国家機能とその効果に保険をかけるという、千載一遇の奥の手のカードを切ったのだった。その額、約30兆円。保険会社はロンドンのライズ海運保険を選んだ(いうまでもなくロイズのことである)。
 もし「やまと」が沈めば国連に莫大な保険金が入る。沈まなければ、そのあいだ世界各国に安全が保証される。これはいわば「やまと」を担保とした新機軸の安全保障システムの提案なのである。ライズ側もこの途方もない提案を受け止めようとする。
 大滝は「平和を金で買う」ともいうべきこの賭けをもって総選挙に臨んだのだが、雪の日の総選挙の結果は竹上の勝利に終わった(立候補者によるテレビ討論場面もなかなかおもしろかったが、ここでは割愛する。安倍晋三も石破も林芳正も、このくらいの総裁選挙演説をするべきだったね。)
 それにしても、この世界保険型安全保障システムのアイディアを、かわぐちかいじは連載中によくぞ思いついたものである。あえていうなら世界通貨や為替改変ルールもまぜてほしかった。

 話はここから後半部に入る。概要を急ぐことにする。
 海江田は最後の舞台をニューヨーク港としていた。相手はやはり世界最強国アメリカであり、その懐にとびこんで乾坤一擲を演じるつもりだった。そして国連総会へ。
 そんなことをアメリカは黙って見ているわけがない。大西洋艦隊40艦は要撃作戦ナイアガラフォールズをもって「やまと」を潰しにかかる。海江田は爆圧を利用した操艦飛行によって40本もの魚雷を回避し、ピンガー(探信音)のみの攻撃を続けた(この作戦の技術的な妥当性については、ぼくはよくわからなかった)。
 折しも、世界の7カ国の首脳(米・英・仏・独・ロ・中・日)がワシントン・サミットのために続々アメリカに集結しつつあった。ニューヨークの海は火と油で真っ赤に染まっている。そのとき「やまと」が空母ルーズベルトにピンガーを打ち、逆に空母からは攻撃機が発進した。「やまと」は体当たりを食らって魚雷管1門を残すのみとなった。アメリカ艦隊はその機に乗じてアスロック魚雷のいっせい射撃に出た。180度回頭した「やまと」はそのアスロック全弾を引き連れて、艦隊中央に突入する。
 事態はぎりぎりの限界状況に向かっていく。「やまと」がハープーン・ミサイルを洋上に発射したのである。核ミサイルか。
 誰もがそう思ったが、そうではなかった。しかし、2発目が発射された。今度は核ミサイルか。7カ国の首脳は核シェルターで議論することになった。シェルター・サミットの首脳たちはニュースを食い入るように見つめつつ、戦々恐々とする。これでは世界中が核戦争の想像恐怖を体験することになる。
 ある首脳は「これは核のロシアン・ルーレットじゃないか」と叫んだ。ベネットはアメリカが「核のシミュレーション戦争」にまんまと巻き込まれたことに切歯扼腕する。

各国のテレビ通信網を使って、
核シェルターに身を隠した各国首脳に発言する海江田。

 「やまと」はおおかたの予想を裏切ってニューヨーク港に浮上した。全機関を停止させている。核の恐怖は去ったのである。
 ACNのセシル・デミル社長が白旗を掲げて停止した「やまと」に、果敢な取材を申し入れた。海江田はACNのテレビクルーを受け入れた。ボブ・マッケイによる海江田インタヴューは、たちまち世界平均78パーセントの視聴率をあげた。海江田は「超国家たるサイレントサービス」として「原潜艦隊」の可能性を語った。
 このデミルの行動と構想も、この作品の見せ場のひとつてある。ACNはそのネットワークをつかって「やまと」をとりこんだ「情報国家」を確立しようとするからだ。デミルは世界の視聴者を釘付けにしたまま、海江田の計画に対する賛否を問い、その数字を刻々と放映すると、ついでは大統領の「やまと」殲滅の意志を砕くべく全世界に「海江田の話をもっと聞きたいか」と問うて、その驚くべきハイアベレージを獲得していったのだ。
 デミルはこのことによって、アメリカという国家の上を情報国家で覆ってしまおうと企むのである。いまならグーグルならやれそうなことかもしれない。

 それはそれ、話はいよいよ大団円、あるいは予想をこえる結末に向かっていく。
 ベネットの前にはシンクタンク所長のアイザック・ネイサンが登場して、ここはいったん「東洋の知恵」に政治のイニシアチブをまかせたらどうかと迫る場面になっていく。ネイサンの弁論は、これまでアメリカは3段階にわたって核戦略シナリオを提示してきたが、それも使い尽くしたのではないかというものだ。
 第1にはMDA(相互確証破壊構想)を機能させた。理性的核抑止のシナリオだった。これは一応は50年ほど核の使用を未然に防ぐことができた。第2はSDI(戦略防衛構想)だった。恥も外聞もなくスターウォーズ計画などと呼ばれたが、空想的きわまりない核対応シナリオを見せたにすぎなかった。第3がTMD(戦域ミサイル防衛構想)で、現在のアメリカが選んでいるシナリオである。ネイサンはそれを現実的な核対応と解釈し、それでは可能性の高い地域でのパトリオットミサイルの配備以上のものは生まれないと言う。
 これらに対して、海江田は新たにSSSSともいうべきシナリオを提示したとネイサンは言う。
 SSSSとは“Silent Security Service from the Sea”のこと、つまりは「沈黙の艦隊」戦略だ。これは国家ではなく世界市民が運営できるシステムである。そろそろアメリカもこれを認めたらどうかという提言なのである。
 しかし、ベネットはこの説明にまったく動揺しなかった。SSSSとてアメリカのような最強の軍事力をもった国家がないかぎりひとつも動かないと確信していたからだ。
 かくして、海江田は国連総会の会場に向かい、ベネットはアメリカの栄光ある最終勝利を信じて国連会場に向かう。第15巻と第16巻はその最終決戦を描く。
 ところが、ところが、だ。世界政府や世界市民によるサイレント・サービスの説明が進むなか、「やまと」はひそかに撃沈され、海江田は国連会場にまぎれこんだ一人の暗殺者によって狙撃されるのである。
 海江田の死の間近、セントラルパーク病院に無数のアメリカ市民が参集している。ベネット大統領は最後の国連演説に臨んでいた。物語は、あと数分しか残っていない。ベネットはついに「核廃絶」を宣言した。アメリカが物語の最後の最後にすべてを引き取ったのか。そんなバカな‥‥。

 こうしてさしもの大胆不適な物語はあっけなく閉じる。実際にももっとさまざまな登場人物が最後に向かってカレイドスコープされていくのだけれど、だいたいはこうして『沈黙の艦隊』は幕を下ろしたのである。
 感想めいたことを書くならいろいろあるが、ぼくとしては今夜はこれ以上に屋上に屋を架ける気はない。「政軍分離」と「やまと保険」と「世界政府」を一隻の原子力潜水艦の振舞いが吐き出したということで、十分だ。また、かわぐちかいじの快挙についても、この作品のラスト・アペンディックスで海江田の女房がちょっと顔を出した以外、一人も女性を登場させなかったということを指摘しておけば、十分だろう。
 かわぐちかいじ自身は、こんなことを言っている。「作品の説得力とは、ストーリーの辻褄が合っているということもあるだろうが、その表層とはべつに、作品のメッセージがどれほどの真理に達しているかどうかで決定する」というふうに。この「真理」とは何なのか。そのことはこのあとの傑作『ジパング』においてさらに展開していることでもあろうので、これまたこれ以上のことを付け加えない。
 ともかくも、ぼくは今夜の千夜千冊を、実は、松丸本舗の消滅までにまにあわせたくて紹介しておきたかったのである。諸君、「沈黙の艦隊」とはわれわれの周辺の小さな内海にだって出現しうるのだ。では、諸君、あれこれあしからず。海江田四郎に幸あれ。

【著者情報】

かわぐちかいじ(1948 -)
1948年広島県生まれ。1968年にヤングコミック(少年画報社)に掲載された「夜が明けたら」でマンガ家としてデビュー。1987年「アクター」で第11回、1990年に「沈黙の艦隊」で第14回、2002年に「ジパング」で第26回の講談社漫画賞を受賞。2006年には「太陽の黙示録」で第51回小学館漫画賞と第10回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞した。現在、小学館「ビッグコミック」誌上にて『兵馬の旗』(協力/惠谷治)を連載中。

セイゴオ・デスク(2012.09.27)