才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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基地はなぜ沖縄に集中しているのか

NHK取材班

NHK出版 2011

編集:宮本英樹ほか
装幀:須山悠里

沖縄にオスプレイがやってくる。
そこに海兵隊がいるからだ。
海兵隊がいるのは、そこに基地があるからで、
そんな基地がなぜあるかといえば、
日本が敗戦で占領され、サンフランシスコ条約以降も
日米安保が最重要条約として発動しているからだ。
では沖縄に基地が集中したのは、なぜなのか。
沖縄が長らくアメリカの統治下にあったからで、
返還後もそれがずっと続いてるのは、
日本政府がそれをまるまる容認したからだ。
オスプレイは、こういう戦後日本のすべての履歴矛盾を
両翼に抱きかかえたまま、近々飛来する。
以下に100のシーンを用意した。

 シーン1。民間から防衛大臣となった森本敏は、もはや決定的になっている海兵隊のオスプレイの普天間基地配置をめぐって、沖縄県知事以下から次々に肘鉄を食らわされた。シーン2。岩国でも各地でも反対がおこった。シーン3。これからオスプレイの10月発進に向けて、他県の首長や住民からの反対運動が激昂していくことは目に見えている。
 シーン4。反対運動はオスプレイの安全性に対する疑問に発している。シーン5。2005年から運用が開始されたオスプレイV22は、ベル・ヘリコプター社とボーイング・バートル社が共同開発した高速軍用ヘリコプターで、ローターと固定翼を融合している。最高速度は550キロが出て、STOL(一挙的離陸)ができる。シーン6。ただし、4回の事故をおこしたことが知られている。シーン7。アメリカ国防省はオスプレイの安全性に対する理解が確認されないかぎり、ただちに配備はしないという談話を発表しているが、こんな議論で埒があくはずがない。
 シーン8。が、問題はオスプレイの安全性にあるのではない。オスプレイを活用するのは沖縄の海兵隊であって、問題はその海兵隊が日本を発進基地にしたオスプレイに乗って何をするかということにある。

 シーン9。沖縄には230平方キロの米軍基地があり、海兵隊の基地はその76パーセントに達する。33の米軍施設のうち、海兵隊が15施設をもっている。
 シーン10。沖縄には25000人ほどの米軍兵士がいて、そのうち海兵隊は60パーセント以上を占める。全米の海兵隊は約20万人だが、主力部隊の機動展開部隊が常駐しているのは沖縄だけである。シーン11。あとはアメリカ本土の東海岸と西海岸にいる。沖縄における海兵隊の比重はそうとうに大きい。
 シーン12。沖縄になぜこれほど強力な海兵隊の拠点があるかといえば、戦略地理的に重要だとみなされているからだ。シーン13。何が戦略地理的なのか。シーン14。本書はこのことを浮上させていったNHKスペシャル「シリーズ日米安保50年」プロジェクトから切り出した一冊だった。いろいろ教えられた。
 シーン15。ちなみに今夜は、次のことも銘記しておきたい。シーン16。二カ月前に北方二島にロシアの首相がこれみよがしに訪れて、三週間前には竹島に韓国大統領の一行が乗り入れて記念撮影をし、二週間前には尖閣列島に中国の活動家たちが海上保安庁の制止を振り切って上陸したということだ。
 シーン17。これらの島もまた、戦略地理的に際立つところだ。しかし日本政府は沖縄も北方列島も竹島も尖閣列島も、日本にとってのコマンディング・ハイツだとは説明していない。そこをどうするかということも、銘記しておかなければならない。

 シーン18。さて、沖縄問題をさかのぼると、琉球時代や島津の動向をべつにすれば、結局は日本の敗戦と連合国を代表したアメリカの日本列島占領にすべての発端があったということになる。
 シーン19。敗戦後、日本軍がただちに解体され、これに代わってアメリカ軍が占領軍として日本列島各地に駐留した。その才略が今日まで続いている。なぜなのか。シーン20。そもそも、たんに日本軍が解体されて米軍が君臨したのではなかった。シーン21。そこがちょっとややこしいのだが、まずは日本には復員庁が新設され、内地にいる436万人の、外地にいる353万人の兵士を復員させる必要があったため、擬似的な兵士転送機関が日本側にも残ったのである。シーン22。この復員業務は復員庁から厚生省と総理庁に引き継がれ、1959年まで存続していた。
 シーン23。敗戦後、陸軍省と海軍省はすぐさま解体された。けれども、日本の兵士はほったらかしだったのだ。シーン24。さらにややこしいのだが、GHQの指令によってこの兵士たちは列島各地の海に仕掛けられた6万個近い機雷の処理に当たらされた。シーン25。この掃海部隊は復員庁から総理庁復員局に所属しながら、1948年に海上保安庁に吸収された。シーン26。他方、朝鮮半島海域で掃海に当たっていた1200人の日本人兵士は、アメリカが介入した朝鮮戦争主力部隊の国連軍に組み込まれ、1952年には海上警備隊として定着していったのである。
 シーン27。なぜ、こうなったのかといえば、こうした“奉仕”のルーツは、敗戦直後の4日目に設置された終戦連絡中央事務局に発していた。シーン28。これは占領軍のお世話をするという役目の部局で、その後は特別調達庁として機能した。シーン29。それでも、日本は1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約(日米平和条約)を結び、この時点で「独立」をはたして占領時代にピリオドを打ったのだから、ここからは米軍が駐留することも、そのお世話をすることも必要ないことだったはずである。

 シーン30。ところが、そうはいかなかった。シーン31。サンフランシスコ講和条約とともに締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」いわゆる(旧)安保条約に、次のように規約があったからだ。
 シーン32。「日本国は武装を解除されているので、固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。(略)よって日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国との間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する」「日本国は、(略)日本国内及びその付近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」。
 シーン33。ようするに日本が希望して米軍の駐留を“お願い”したのである。その配備については、安保条約第3条にもとづく日米行政協定によって設置された日米合同委員会で検討することになった。シーン34。しかしながら、そこで決まったことは、「日本政府が不動産所有者などの権利者と正当な交渉をして、日本政府がその使用権を取得したうえで米軍に軍隊配備の土地を提供する」というものだった。これがつまりは「基地」なのだ。
 シーン35。大半の基地は旧日本軍の基地を接収したもので、1952年時点で総面積は1350平方キロに及んだ。沖縄も接収されたが、面積比でいうと90パーセントが本土にあった。
 シーン36。一方、サンフランシスコ講和条約はもっと決定的な屈辱を沖縄にもたらしていた。シーン37。日本は「独立国」として主権を回復したのだが、このとき沖縄は日本本土から切り離されて、アメリカの施政権の下に置かれたのだ。シーン38。USCAR(琉球列島アメリカ国民政府)の統治がこうして始まったのだ。

 シーン39。海兵隊が日本にやってきたのは1945年の沖縄戦のときである。沖縄を戦火と業火に巻き込み、20万人以上の犠牲を出した沖縄戦の主力戦闘部隊が海兵隊だった。
 シーン40。ただ、この海兵隊は終戦後にそのまま沖縄に居座ったのではなく、日本本土に移って占領政策に従事したのち、いったんアメリカに戻った。シーン41。それが第三海兵師団として再結成され、日本に戻ってきたのは朝鮮戦争の戦略予備軍として召集されたからだった。キャンプ岐阜とキャンプ富士に司令部が置かれた。
 シーン42。この海兵隊は各地で軍事訓練をした。シーン43。本書には、そのひとつに「茅ヶ崎ビーチ」があって、いまは海水浴と観光で名高いこのビーチが、かつては海兵隊がしきりに上陸作戦訓練をやっていた場所であることが報告されている。「茅ヶ崎ビーチ」は、日本で最も上陸作戦の訓練がやりやすいところだった。
 シーン44。こうした生活民の間近でアメリカ軍の訓練がおこなわれていることに、さすがに市民からの反対運動がおこった。シーン45。内灘闘争や妙義山闘争だ。シーン46。茅ヶ崎市議会も訓練の停止を求めていた。理由のひとつは砲弾射撃訓練場の拡張に対する反対運動だったが、やがて米軍兵による「風紀の乱れ」も問題になった。

 シーン47。では、そうした本土に散っていた海兵隊がなぜ沖縄に集中的に移転するようになったかというと、ぼくも意外だったのだが、これまでその点に関する正確な資料が見つかっていなかった。正確な記述もなかったらしい。シーン48。不思議なことに、日本の研究者やジャーナリストも、「日本の市民の反対運動に押し出される形で沖縄に移転していった」としか書いてこなかったようなのだ。
 シーン49。NHKの取材グループはそこを探そうとする。決定的な文書は探し当てられなかったものの、アイゼンハワーの大統領就任以降、極東戦略が見直され、1953年12月の国家安全保障会議で「極東の陸上へ威力の削減」が議題に浮上したあたりから、なんらかの方針転換がおこったようなのである。
 シーン50。それでも、4カ月後に統合参謀本部がウィルソン国防長官に提出した「極東アメリカ軍の包括的な再配置計画」では、とくに日本国内の配置変更は言及されていなかった。シーン51。それがさらに4カ月後に、突如として海兵隊の沖縄移駐案が取り沙汰されたのだ。
 シーン52。この案を強く勧告したのはジェームズ・バンフリート元陸軍大将だった。この勧告書のことを、NHKは「バンフリート・レポート」と名付けている。シーン53。主旨は「日本本土は反対運動が激しいが、沖縄は二個師団規模の戦略的予備軍のための大演習区域を供給できる。中国南部・中央部に作戦を実行する場合の主要な後方支援基地にもなりうる」というもので、この勧告がどうやら大きな影響力をもったようなのである。
 シーン54。けれども、決定的な理由はそこに「コストの問題」がかかわったからだという説明をするアメリカの海兵隊史の研究者もいる。

 シーン55。ともかくも、こうして海兵隊は沖縄に根を下ろすことになった。そのためにアメリカは合法的に土地を収用するための布令109号を発した。シーン56。「土地収用令」である。沖縄の人々はこれを“土地強奪法”と言っている。
 シーン57。強引な土地接収に住民は反対したが、那覇、小禄村、読谷村、伊江島、伊佐浜などが次々に接収されていった。シーン58。そのひとつに辺野古があった。
 シーン59。辺野古には当時500人の住民が住んでいた。平地が少ないために、丘を開墾して細々と生計をたてていた。シーン60。この住民たちが辺野古の接収に抵抗して、要望書をつくった。500人の生活を守るため、アメリカ軍と軍民共生をはかる要望書だ。シーン61。ところが、この前後から米兵による暴行事件が頻発し、事態はなかなか進捗しなくなった。シーン62。これを一蹴したのが、1955年10月にプライス下院議員を団長とする調査団が嘉手納基地に入った。半年後に「プライス勧告」が発表された。これで沖縄住民の期待が打ち砕かれた。
 シーン63。なかで辺野古は軍民共生を受け入れて、アメリカ軍の基地施設建設を許容した。いまは名越市辺野古になっている。シーン64。たちまち1957年からキャンプ・シュワブの工事が着工し、5年間で辺野古の人口が4倍に膨れ上がった。シーン65。アップル・タウンもできた。アップルとは、アメリカ国民政府の土地課長として辺野古住民との軍用地契約の交渉にあたったハリー・アップルのことだった。
 シーン66。沖縄における基地事情はかなり屈折している。日本政府と外務省は「アメリカが施政権を保持し、日本は潜在的主権をもっている」というような、はなはだ曖昧な解釈と表明しかできなかった。海兵隊の駐留についてをほほ黙認していた。

 シーン67。それでも、沖縄の基地問題や海兵隊駐留問題を“変化”させるチャンスはあった。シーン68。それが1972年の「沖縄の本土復帰」であり、それに伴う基地返還計画である。
 シーン70。ニクソンと佐藤栄作のあいだに交わされた沖縄返還の合意には、両政府による通称「関東計画」と呼ばれる基地返還計画が付随していた。首都圏のアメリカ空軍基地を大幅に削減して、軍の機能を横田基地に集約させるかわりに6つの基地を日本に返還するというものだ。
 シーン71。こうして府中・立川・日立・水戸など6つの基地が返還されることになった。面積を合計すれば、普天間基地4つぶんの面積の返還だった。シーン72。返還は速やかだったが、日本政府は代替施設の建設費用など、約450億円という多額の予算を投入した。シーン73。このとき沖縄基地にはまったく手が伸ばされず、考慮もされなかった。それどころか、F4戦闘爆撃機ファントムの部隊が横田から嘉手納に移されるありさまだった。シーン74。「本土並み」という合言葉はどんどん空語化されたのである。
 シーン75。辺野古を嚆矢として、沖縄の各地で軍用地契約が結ばれ、沖縄は基地の島になっていった。シーン76。軍用契約は広域にも及んだ。キャンプ・フォスターは沖縄市・宜野湾市・北谷町・北中城村にまたがり、キャンプ・ハンセンは沖縄本島北部の金武町など4つの市町村にまたがった。普天間飛行場があるのが宜野湾市である。

嘉手納ロータリーと嘉手納飛行場[1945]

 シーン77。そうしたなか、沖縄を怒らせた事件がおこっていった。「風紀の乱れ」だけではなかった。シーン78。小学校にジェット機が墜落した1959年6月の宮森小墜落事故や、中学生が軍用トラックで轢死した1963年2月の国場君事件をはじめ、大小いくつもの事件や事故がおこった
 シーン79。なかでも沖縄県民や地域住民の怒りが爆発したのが1995年の少女暴行事件と、2004年の普天間のヘリ墜落事件である。これらが新たな火種となった。シーン80。とくに沖縄国際大学のキャンパスにヘリコプターが落下した事故は前代未聞のもので、夏休みだったため死傷者は出なかったのものの、これで「普天間問題」が一挙に浮上した。
 シーン81。普天間問題の大きな転換点は少女暴行事件後の1996年、SACO(沖縄に関する特別行動委員会)の最終報告で、政府(橋本内閣)が普天間飛行場の県内移設を決めたことにある。5~7年で移設をしようという方針だった。シーン82。翌年には移転候補地を名護市辺野古周辺にする動きになり、橋本龍太郎は海上施設を提案したのだが、工法と建設をめぐっての議論が噴出し、二転三転した。
 シーン83。ここから先はかなりの試行錯誤が交差する。名護市には名護湾ウォーターフロント構想があり、工法には埋め立て案ひとつとっても、杭打ち桟橋工法、メガフロート・ポンツーン案、メガフロート・セミサブ案などが出たり入ったりし、移設先も辺野古やキャンプ・シュワブやその他の案が錯綜した。
 シーン84。そこへヘリ墜落事件と鳩山内閣登場だった。シーン85。その後のことはよく知られているように、「最低でも県外移設」という鳩山発言が一人歩きして、事態は混乱をきわめていった。シーン86。現地の側にも錯綜は走っていた。県知事交代、市長選挙、名護市や辺野古のための振興予算や保証費の変動、その他多くの課題が組み合わさり、そこにアメリカ側の鳩山不信が加わった。
 シーン87。振興予算がアメとムチでできていたことも白日のもとにさらされていく。シーン88。これは「再編交付金」というもので、「計画の進捗に支障が生じた場合は減額またはゼロにすることが可能」とされるように仕組まれていたため、柔順な自治体ほど政府からの予算をもらえたが、頑固になれば離れていくようになっていた。シーン88。このためすでに多額の支給を受け取ってきた名護市は、さらに折衝の態度を微妙に変えていくことになった。
 シーン89。辺野古に飛行場を移設することを容認する島袋善和と、反対する稲嶺進とのあいだで市長選が戦われたのは、そういう時期だった。シーン90。勝利した稲嶺市長は、「子供たちためにも基地を作らせない」と明言したが、平野官房長官の対応はかなり冷ややかだった。
 シーン91。こうした事態が進行するなか、鳩山政権がもろくも崩壊すると、日本のジャーナリズムもやっと海兵隊の実態を調べたくなっていた。シーン92。けれども、ぼくが知るかぎり、本書のもとになったNHKの一連のドキュメントほどにその実態に迫れたものはなかったように思う。

 シーン93。本書には、いろいろ考えさせられた。かなりの説得力もある。それゆえ、今夜の「千夜千冊」世走篇になった。シーン94。海兵隊の現場取材にもとづいた切り込みも、ハワイをはじめけっこう盛り込まれていた。シーン95。しかしひるがえっていえば、その問題意識は戦後日本のすべての履歴矛盾に由来するものだった。
 シーン96。海兵隊とオスプレイという話題はこれらのうちの一つの切り口にすぎない。
 シーン97。実は2006年の日米合意では、海兵隊の8000人がグアムに移転することになり、日本政府は60億ドルの負担をすることになった。シーン98。なぜ沖縄からグアムに移るのかといえば、グアムでは他国の軍隊との共同演習や共同発進ができるからだ。さすがに沖縄にはアメリカ以外の他国軍を迎えるわけにはいかないからだ。
 シーン99。だが、こうした意向をわれわれ日本人はまだ十分に聞き込んでいない。沖縄基地問題すべてが置き去りにされている。シーン100。もちろん、問題の本質に鋭く迫っている人たちはいる。苦汁と苦悶と闘っている人たちもいる。けれども全体感がなかなか伝わってこない。やっぱりNHKのドキュメンタリー・チームにさらに突っ込んでもらうしかないのではあるまいか。

沖縄県の米軍基地の現状
出典:沖縄県知事公室基地対策課「沖縄の米軍基地」(平成20年3月)

『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』
著者:NHK取材班
2011年9月25日 初版第1刷発行
発行所:NHK出版
発行者:溝口明秀
印刷:文唱堂印刷・大熊整美堂
製本:田中製本

【目次情報】

第一章 基地集中の原点[一九五〇ー六〇年代]
  第一節 戦後、沖縄にはいなかった海兵隊
  第二節 半世紀前の辺野古の選択
  第三節 日本政府の黙認

第二章 固定化[一九七〇ー八〇年代]
  第一節 進む本土の基地整理縮小
  第二節 沖縄返還と軍用地契約
  第三節 軍用地主の“葛藤”

第三部 海兵隊「抑止力」の内実
  第一節 海兵隊の中枢へ
  第二節 変貌する海兵隊
  第三節 沖縄の海兵隊

第四章 期待と裏切り、そして迷走へ[一九九〇ー現在]
  第一節 再び「移設先」となった名護
  第二節 鳩山政権の迷走
  第三節 「沖縄問題」とは何か
  第四節 半世紀後、辺野古の再びの選択
  第五節 アメリカの本心はどこにあるか
  第六節 知事選、そして――

おわりに
参考文献

【帯情報】