才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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フクシマ以後

エネルギー・通貨・主権

関曠野

青土社 2011

編集:西館一郎
装幀:戸田ツトム

フクシマは日本の明日に何を突き付けたのか。
安全神話とクリーン神話が崩れ、
そのうえエネルギー経済の原則をも揺るがした。
では3・11を思想するにはどうすればいいか。
フクシマ以降にどんな展望をもてばいいか。
各界の論客がさまざまな見解を披露した。
今夜はそのほんの一部を紹介する。
問われているのは明日のことばかりではなかった。
試されているのは哲学であって技術論であり、
政治判断であって経済社会であり、
外交であって国防なのである。

◆佐藤優『3・11クライシス!』(2011・4 マガジンハウス)

 本書は3・11以降、単著として最も早く上梓された本だった。ライブドアニュースの「佐藤優の眼光紙背」の原稿と新聞・雑誌に3月中に書いた原稿とで構成されている。次から次へと問題作を問う瞠目すべき佐藤優の本についてはあらためて千夜千冊したいので、これまで登壇機会を見ようとしてかえって紹介が遅延してしまっていたのだが、それはそれで別掲するとして、今夜は佐藤の3・11クライシスに対する先見性をひとくさりだけ記しておきたい。
 3・11直後、佐藤は「この瞬間から日本は新しい歴史的段階に入った。戦後が終わったのである」と書いた。「戦後」には二つの意味がある。太平洋戦争敗戦による戦後と、冷戦終了後の戦後だ。
 ついで佐藤は、あえて今日の社会では抵抗感が強い「翼賛体制」「大和魂」の発揚といった用語をつかって、菅直人政権下の指導体制にカンフル剤を打つことを連続して提案している。たとえば、政府と主要メディアが報道協定を結ぶこと、過去の首脳経験者がアピールを出すこと、東京電力にエールを送ること、支援諸国に対する感謝声明を示した意見広告を出すこと、“原子力犯罪国家”の烙印を捺される前にロンドン条約(1972年に採択された「廃棄物その他の物の投棄による海洋汚染の防止に関する条約」)を遵守した言動を明確に打ち出すこと、原子力関係の科学技術者が安全と危険に関する表明を出すこと、なんらかの超法規的措置をとること……などなどだ。
 もうひとつ、本書が早々にあきらかにしたことがある。それは3月16日に天皇のビデオメッセージが発表されたことだ。
 ビデオメッセージには、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています、原発事故の事態悪化が回避されることを願っています、救援活動のひろがりに胸を打たれています、自衛隊・警察・消防・海上保安庁の労をねぎらいたいと思います、各国からの援助やお見舞いへの感謝を申し上げます、被災者が希望を捨てることなく明日に向かってほしいと希っていますといったことが述べられた。
 このことを佐藤はたいへん重視して、おおげさにいえばこれは「玉音放送」に匹敵するものだと捉えた。また、「このビデオメッセージは国体開示の再開に当たっているのではないか」と言う。天皇と国体を結びつけて語るだなんていまどき時代錯誤も甚だしいというのが今日の相場だが、そういう反応を佐藤はものともしない。
 佐藤がどうしてここまで踏みこんで日本を憂慮するのかについては、あらためて佐藤の『国家論』(NHKブックス)、『誰が日本を支配するのか』3部作(マガジンハウス)、『日本国家の神髄』(扶桑社)、あるいは『国家の罪と罰』(小学館)などから一冊をとりあげて、ちゃんと説明しようと思うけれど、ここには戦後日本の「知と組織と判断」が、アメリカ型の合理主義・市場主義・生命主義・派遣主義・個人主義などによってズタズタになったこと、それをせめてインテリジェンスの“復興”を通してなんとか再起動させたいと言う思いがあったはずなのである。
 それにしても本書の即刻の佐藤提案が、その後の日本でほとんど実っていないこと、いささか暗澹たる気分になる。

企業研修講座ハイパーコーポレート・ユニバーシティ(HCU)
特別ゲストとして佐藤優さんを招き、7時間におよぶ講義が行われた。
インテリジェンス論や存在論、キリスト教社会と東洋社会の比較について
講義する佐藤優さんと松岡正剛。(2012年2月11日)

◆河出書房新社編集部編『思想としての3・11』(2011・6 河出書房新社)

 3・11以来、各種雑誌の東日本大震災特集のほとんどを見たが、6月末に緊急刊行と銘打って書店に並んだ『思想としての3・11』が読ませた。20人近くが文章を寄せたりインタヴューを受けているので、ここではごく一部を紹介するにとどめるが、冒頭の佐々木中の『砕かれた大地に、ひとつの場処を』(講演記録)が全体をリードしていた。
 佐々木はジル・ドゥルーズ(1082夜)の「われわれはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、発言を強要するさまざまな力があるから悩んでいる」を引いて、こういうときは「沈黙の気泡」を整えることが大事であるという見方から、3・11の被災者たちを“利用”する思想には無言の圧力がかかっていることを指摘する。そしてそういう圧力ゲーム盤には乗りたくないと言う。
 1755年のリスボン大地震の前後にヨーロッパの言説が大きく変わって、ヴォルテール(251夜)らの啓蒙主義が登場してきたことにもふれる。それを、大地が鳴動することは「法の根拠を鳴動させることだ」というカール・シュミットの『大地のノモス』に話をつなげ、いったいわれわれにとって「グルント」(大地・根拠)とは何かを問うた。ただし、そこから話が深まるかというと、そこはあっさりしていて坂口安吾(873夜)に移り、道徳と破壊がない時代は自分で堕落するしかないという、例の『堕落論』のロジックを説明して、新たな創造のためにはさまざまな根拠とされている虚妄の妥当に向かわなければならないのではないかと結ぶ。かなりの尻切れトンボだった。
 これに対して立岩真也は、トマス・ポッゲの『なぜ遠くの貧しい人への義務があるか』を引いて、義務や責任は物理的な距離をこえた「近さ」と「深さ」にもとづいていることを示した。

 3・11のときに京都で研究会を開いていた小泉義之は、大学から親戚や知人の安否を気遣う連絡のためにスケジュールを変更してもいいと言われ、連絡がとれて安否がわかればまだしも、連絡もとれず安否もわからなかったらどうするのかという思いをもったことを綴る。
 そこで、分析哲学者のマイケル・ダメットが「遠方での安否が当方に届くまでの時間が異様に長いときでも、またそのときすでに相手の生死が決まっていたときでも、そのときの祈りは無意味であるはずがない」という見解を述べていることを検討し、それにしてもこうした災害時ににわかに出現した「共感の共同体」のようなものの正体はいったい何だろうか、それはかつて国民主義がもった偽宗教性のようなものと似てはいないだろうかと、そこを考える。

 一方、加藤典洋は、大災害以降の世の中にふりまかれている言説そのものが「知の力」をもつに至っていないことを痛感して、3・11以降はあえて科学者たちの言説に耳を傾けていたという。
 そうしたなか、日本が原発をここで完全放棄すると、いよいよ「初めての丸腰」で世界に立ち向かうことになり、そうなると唯一憲法9条の平和条項だけを抑止カードとする国家になるのだが、そんな覚悟も準備もできていないのではないか、それでも反原発をみんなが唱和するのかと、そこを心配する。このあたり佐藤優の見方に一脈通じるものがある。
 鶴見俊輔(524夜)も日本の「知の力」の問題を指摘して、3・11以降の思想がかなり軟弱になってしまったのではないかと危惧している。そしてこれは、日本人にアイザイヤ・バーリンの「難民」の思想や内藤湖南(1245夜)の「独学」の方法がなくなったせいだというのだ。ぼくもその通りだと思う。ついでに加えれば内村鑑三(250夜)の「棄人」の感情もなくなっていよう。
 しかし鶴見が言うには、○×式の入学試験を通過した学生でマスコミや企業の前線がつくられている以上、日本はいつまでもこの体たらくを演じていくだろうと、そこは冷ややかなのである。

 原発が歴史から切断され、ひたすら資本主義の無尽蔵な象徴となっていることを指摘したのは池田雄一だ。
 プルサーマルや高速増殖炉やMOX燃料発電などによって構成される核燃料サイクルは、資本主義が見る永久機関の夢にすぎず、それらによって延命される原子炉は国家を国家とならしめ、資本を資本とならしめるためだけのものになってしまったと指摘する。
 そうだとすると、原発は過剰な現在そのものの中に放り出されていて、放射能の危機という言説も「データ」と「推論」でしか語りえないものになっているとみなせる。とするのなら、原発は、まさに歴史から切断され、国家と資本による「爆縮レンズ」の中心にあるだけなのだ。
 そう綴って、池田は、われわれが原発と放射能のなすユートピアを語れば語るほど、そのユートピアからフクシマの当事者が排除されていくことになるだろうと予想する。

 以上の議論にアナーキーな起爆をもって応ずるのは、2009年に『新しいアナキズムの系譜学』(河出書房新社)を問うた高祖岩三郎である。
 高祖は3・11以降、ニューヨークにいて日本からのテキストを英訳し、それに反応する英語テキストを和訳して配信しつづけている。ぼくがこの数年気にいって読んでいる遠方の著者だ。
 その高祖は、高度成長期以降、長らく多様な先駆的継承を世界に発してきた「日本という記号」が3・11によってそれまでの理想像を内破させたと見ている。この内破は日本のフクシマを発火点にしたけれど、「世界原子力体制」(ワールドニュークリア・レジーム)の統治形態との共食い状態そのものに限界を突き付けているのであって、かつてポール・ヴィリリオ(1064夜)がチェルノブイリ事故のときに「偶然性が実体を開示する」と言ったように、技術文明そのものの崩壊を決定づけるものでもあった。だったら、こう言わなければならない。事態はもはや不可逆なのである、と。
 高祖はまたフクシマを、2010年4月にボリビアのコチャバンバで開かれた「世界民衆の気候変化と母なる地球の権利をめぐる会議」と連動する対極的なモデルだととらえるべきだとも言う。フクシマも「母なる地球(パチャママ)」を持ち出すべきだというのだ。このあたり、ぼくが考えている「母国」論といろいろ交差する。

◆関曠野『フクシマ以後:エネルギー・通貨・主権』(2011・10 青土社)

 「三十年間ずっと恐れていたパニック映画のような悪夢が現実になってしまった。反原発派の一人として福島原発の破局を許してしまったことは痛恨の極みと私は言うしかない」。
 本書はこの一文で始まる。ついで「事故の帰結については未だに予断できない現状だが、我々は今から事故の戦後処理に備える必要がある。とにかく原発の恩恵には蛮人が浴したのだからという一億総ざんげをまかり通らせてはならない」と続き、「原発は核反応という非ニュートン的現象をニュートン物理学の枠内の技術で制御しようという原理的に矛盾し、はじめから破綻している試み、テクノロジーの名に値しない極端なアクロバットなのである、スキャンダルなのである」と進む。
 著者はぼくと同い歳のフリーランスライター。共同通信社で1980年まで海外記者などをして、その後『プラトンと資本主義』(北斗出版・はる書房)、『民族とは何か』(講談社現代新書)などを発表した。それらを読んでみるとわかるだろうが、ジャーナリスティックではあるが、その奥はごっつい憂国思索の持ち主だ。
 もっとも本書『フクシマ以後』は、3・11論やフクシマ論で埋まってはいない。サブタイトルに「エネルギー・通貨・主権」とあるように、日本が選択すべき方向を議論した。それが3・11によって火急の課題になっているという視点で編まれた一冊なのである。
 そのため本書には、いくつもの警告と提案が散りばめられている。日本が「武装中立」の戦略をとるべきこと、クリフォード・ダグラスの提案した社会信用論に応じた「政府通貨」のようなものを発行すべきであること、あらためて皇室問題と戦後憲法問題と自衛隊問題を同時に検討すべきであることなどを問うとともに、他方ではブレトン=ウッズ体制が自由貿易の名目では正当化できないことに加え、その体制を終了させたニクソンの金とドルの交換停止による市場最大の債務不履行はその後の新自由主義のなんらの基盤にもなっていないこと、ひいてはそういう背景のままに日本がTPP(環太平洋経済連携協定)参加を断行すれば全面的な日米貿易戦争をひきおこしかねないことなどである。
 これらは3・11問題と直接にはまじりあっていないようでいて、むろんそんなことはない。結局は「フクシマ以後」の最深部の問題に触れている課題ばかりなのである。しかし関曠野のこうした視点は、前記の佐藤優の戦略的インテリジェンスの提案もそうなのだが、本格的に日本の社会政治にとりこまれるには、まだまだ時間が必要だとしか思えない。
 そうしたとき、最近の世論を賑わせているのは大阪の橋下徹の“船中八策”などであるようだ。これは、あんたがた知識人はそういう悠長なことばかりを言って、机上の空論に人々を巻き込んでばかりいるが、でもオイラたちはそんなこと待ってられないぜというクリティカル・パフォーマンスの表明だった。けれどもこれはこれで、そのどこにも3・11以降の現実解もなく、首相公選制のような憲法改正を必要とすることばかりに終始していて、やはり逆悠長を感じさせている。

◆斎藤誠『原発危機の経済学:社会学者として考えたこと』
 (2011・10 日本評論社)

 原子炉開発者の柴田俊一(1454夜)と反原発の高木仁三郎(1433夜)の原発議論を本気で比較検討したのは本書だけだった。それだけでも一読の価値があるが、本書が『原発危機の経済学』と銘打ちながら、できるかぎり原発周辺の技術の細部に入ろうとしていることは、3・11以降の経済学議論にはほとんど見られなかったことで、特筆に値する。
 だから本書は“原発工学入門”としても読めるようになっていて、この手のものを初めて読む読者にはけっこうなベンキョーになる。だが、そもそもの狙いはそこではなくて、軽水炉発電、原子炉廃炉、使用済み核燃料再処理、高速増殖炉発電、高レベル放射性廃棄物処分などを、事業として成立させようとしたばあい、それが民間企業がおこなう収益プロジェクトになるのかどうかを検討することにある。
 著者の推理だけを紹介しておくと、まず最も望ましい原発事業の可能性は、軽水炉発電事業が大規模に展開されている現状からみても、ほぼなくなった。これはまちがいない。高レベル放射性廃棄物処分をプロジェクト化することも、これを地下への封じ込めに求めるとすると、「廃棄物を永遠に貯蔵する一方でその管理を途中で放棄する」という矛盾が生じて、とうてい経済学を満足させない。それゆえ使用済み核燃料再処理の経済学も、全量を地上で長期に貯蔵することを唯一の方法とせざるをえないのだから、これも成り立たない。
 かくて著者がなんとかたどり着いた仮説は、再処理と高速増殖炉の事業から完全に撤退して、廃炉などのバックエンドの費用を計算に入れながらMOX燃料による軽水炉発電事業をやっていくというのが、かつかつのシナリオだろうというものだ。これなら、さまざまなコストを積み上げて原発コストが火力より高くなってもなんとかクリアできる。再処理事業からの撤退に必要な資金も、再処理等積み立て資金の一部でまかなうことができるだろうという、ギリギリの予測である。
 東電の事業再生と東北復興プランを経済学的にはどう判断すべきかということにも言及している。著者は、債務超過近傍にある東電はまず株主に負担を強いたうえで債権者の義務で再生プランを組み立てるべきで、それでも国が引き受けるのは損害賠償負担ではなくてフクシマ原発事故処理ではないかと言う。そのスコープ上であらためて特別法を設定し、東北復興を戦後史最大のナショナル・プロジェクトにするべきであると言う。
 これらはとくにめざましい判断や提言ではないが、経済学者が原発にとりくむとどうなるかという例を示したという功績を感じた一書だった。

◆円居総一『原発に頼らなくても日本は成長できる:エネルギー大転換の経済学』(2011・7 ダイヤモンド社 )

 福島第一原発のメルトダウンとそれに付随する各種の連続事故や放射線汚染の拡大は、原発の安全神話を壊しただけでなく、CO2排出が低いというクリーン神話もあっけなく崩してしまった。いや、経済神話の基本も壊れた。「もはや原発は経済システムとしての意義すら失った」というのが、本書の円居総一の判定である。
 そもそも原発の発電コストは設備の稼働率に左右されすぎているし、その安全システムはローテクにすぎず、原発がもたらす廃棄物の処理負担は長期にわたっているだけでなく、費用は40兆円を超える。
 しかし現在の原子力発電に関連する市場規模が急に喪失してしまうのは、日本経済の大きな痛手になるというのが原発維持派のロジックである。たしかに現在の原発市場は、設置・建設で10年、運転を40年くらいだとして、それに廃炉構造物の処理などの20年を加えれば、80年ほどは関連業界を潤わせ、その規模は毎年20兆円になる。
 雇用においても電力会社関係で4万5000人、地元関係でもかなりの雇用があるので、ざっと2兆5000億円の雇用を維持しているとみられる。とはいえこれは安定運転が続いて、かつ使用耐用年限が切れながら新たな軽水炉ビジネスなどがそこに効率よく接ぎ木されていったとしての予想であって、このような楽観的な展望はフクシマ以降に通じるとは思えない。
 とくに核廃棄物を地球に戻すという経済学が異常でありすぎる。そもそも人間の経済というもの、地球から資源を借り受け、資本と労働の活用サイクルによって生産とサービスを運用するという大原則のもとに成り立ってきた。そこに下水処理・ゴミ処理などのリサイクルが古代ローマ以来加わるのだが、いくら消費社会が拡大しても、それらの1サイクルに要する社会時間というものは40年から80年までである。これによって人間の経済は地球に資源の利用コストを支払わないですんできた。
 ところが、プルトニウムを手にしてからというもの、地球に払う時間コストがその半減期(プルトニウム239)までですら、一挙に2万5000年にのびきった。これはとうてい人間の経済のスタンスでの勘定項目には入らない。
 では、どうするか。あらためて考えるべきは、まず原発安価神話の前提になってきた「総括原価方式」の再検討である。日本では全国を10ブロックに分け、発電と送配電の一体化と地域独占を保証することで、諸費用のすべてを加算して電気代を徴収するようになってきた。これを改造する。
 ついで、原発による電力供給力をスローダウンさせていったときの代替システムを検討する。詳しいことは本書を読まれるといいが、あらためて試算してみると、LNG(液化天然ガス)や石炭による火力発電のほうがコスト・パフォーマンスはずっといい。原発には生産調整力がなく、市場の自由度がないから競争調整力もはたらかない。
 そこで、火力に太陽光発電、風力、地熱発電、水力などを加え、これにスマートグリッド方式を活用し、部分的には排熱回収式のコンバインドサイクル方式などを導入していけば、オールドモデルからの脱出は可能になるのではないかというのが、本書の青写真なのである。
 さあ、こういう青写真がどのくらい妥当なのかはぼくにはわからないが、一番の感想は斎藤誠『原発危機の経済学』にも言えることなのだが、ここまでくるともはや電力をめぐる経済学だけでは、話は終わらないだろうということだ。当然、関曠野の『フクシマ以後』が「エネルギー・通貨・主権」をサブタイトルにならべたようなところまで踏みこまざるをえない。
 そのへんのこと、またこのあとの「番外録」でも、またグローバリズムを検証してきた「連環篇」でも、考えたい。著者はロンドン大学LSE出身の日本大学の大学院教授で、東京銀行で海外勤務をへて大学で教鞭をとるようになったエコノミストである。

◆山名元・森本敏・中野剛志『それでも日本は原発を止められない』
 (2011・10 産経新聞出版)

 ここまで紹介してきた一連の見方に対して、本気で水をさしているのが本書である。
 山名元は柴田俊一や小出裕章(1454夜)と同縁の京都大学原子炉実験所の教授、森本敏はテレビでもおなじみの安全保障問題のエキスパートで、もとは防衛大の電気工学科の出身、中野剛志はいまは京大の工学研究科で教えているが、ごく最近までは経済産業省の課長補佐をしていた。最近は『国力とは何か』『TPP亡国論』などで話題になっている。
 山名の意見はだいたいは次のようなものだ。原発は「深層防護」という考え方で成立してきた。いわば時速100キロが出るクルマを時速10キロで運転することで安全性を保つという方針だった。が、その深層があっけなく津波で壊された。そうなるとこれからはクルマを道路で走らせるということ自体の基本を修正しなければならない。まずは政府も電力会社も原発技術者も「汚した環境」の修復と「原発技術の全面修復」の二つの修復にかかる必要がある。
 ついで発電とその分散のためのシーズとロジスティックスをベストミックスさせる方途を組み立て、そこに地政学のリスク、地質学のリスク、供給のリスクという3つのリスクに対する作戦を練り、次にはそれが産業構造、運輸体系、ライフスタイルにどの程度の改変をもたらすかを計画しなければいけない。
 しかしここまではまだ半分である。最も重要なのは再生可能エネルギーによって日本を向こう100年間あるいはそれ以上を発展させていけるかどうか、その決断に至らなければならない。再生可能エネルギーは自然条件によって変動する。そこから安定的な需給の原則は導き出せない。そうなると自然エネルギーを「貯める」というしくみが必要になる。これがとんでもなく高くつくだろう。
 一方、材料となる天然ガスや石炭によって火力などの発電量を安定させればいいかというと、ここには新たなリスク、たとえばカントリーリスクがくっついてくる。ロシアから輸入しようと思えば、日ロ関係の常時のリスクを勘定しておかなくてはならない。
 放射線被曝の危険が生じたばあいのリスクも(すでにフクシマでそれはおこってしまったが)、すべて点検しなければならない。しかし、そのためには日本列島の汚染地図が放射線を含むあらゆる分野で整備されなければならず、これにもきっと莫大なコストがかかる。
 というわけで、こういうようなことをすべて点検していくと、「脱原発」といっても容易なものではないことがわかってくる。これはエネルギー安全保障の問題にまで広がっていくからなのだ。

 この、エネルギー安全保障の考え方を説明するのが森本敏である。
 そもそも「安全」には必ず「残余のリスク」がつきまとう。設計想定を超えるリスクが発生することを「残余のリスク」というのだが、このことは国と国との安全保障においても大前提になっている。
 原発がこれまで推進されてきた背景には、プルトニウムを「日本という国家」が保有するという目的を暗にもっていた。それは日本に核保有の可能性を絶やさないための政策でもあって、そのことが日米同盟や世界各国との緊張関係のプレゼンスにもなっている。したがってここで、日本が原発を破棄するということは同時に核を破棄することにあたるわけだが、それは今後、それによって失う仮想権利のいっさいを放棄することにつながる。たとえばCO2排出削減競争においても、一からの出直しをすることになる。
 これらは原発技術がもたらす「残余のリスク」と同様の、もっと巨大なリスクを日本がかかえることを意味する。
 一方、日本の安全保障の根幹をなす防衛力は、ほとんど民間産業の技術によって支えられてきたため、自衛隊員は自分では兵器を直すことができないという現実がある。それゆえここで民間産業から核技術が次々に脱落していけば、日本の防衛力はその根底で積み上げをなくすことになる。
 もうひとつ、日本は武器を海外には売れないという武器輸出三原則に縛られている。そのため、どんな兵器開発プロジェクトにもかかわれない。ネジ1本でも海外に供給してはならない。となると、日本の安全保障は何によって守られるかというと、日米同盟のように海外との友好関係によって守られるしかない。
 以上のことがエネルギーの安全保障にもあてはまっていく。したがって、日本のエネルギー安全保障が支えられるためには、いまは①エネルギー供給国との外交関係をよくすること、②エネルギー輸送のルートを確保しておくこと、③エネルギーの海外依存度をへらすこと、この3つばかりにかかっているのだが、こういう事情のなかで原発を放棄することは、さらに日本の苦境を増長することになるというのが森本の見方なのだ。

 本書での中野剛志は、山名や森本の発言に応じてそのつどいろいろの見解を述べているのでまとめにくいのだが、そもそも国や官僚に電力会社をコントロールできる能力がないのではないかというところから意見を述べていることが多い。
 そこからすると、日本の電気料金が世界一高くたっていいじゃないか。ドイツは自国で安価な石炭が掘れるけれど、資源小国の日本はそうはいかないのだから、料金体系に特色が出るのは当然だという見解になる。また、電力の自由化や発送電の分離の議論についても、それをするにはむしろ原子力発電をふやさなければならないという見方になる。
 再生可能エネルギーの普及にももっとアトサキがあるのではないかと言う。まずはコストの削減と安全供給のメカニズムをめぐる技術を開発しなければならないし、ドイツで試みられたFIT(フィード・イン・タリフ=固定価格買取制度)などの導入も必ずしもコストを下げることにはならないので、慎重であるべきだと述べる。
 中野がこうした見解を次々に述べるのは、そのTPP亡国説でもあきらかなように、日本という国家が独立性や自立性をもつための条件とシナリオを彼なりに考えているからである。
 本来、国家の自立力は「軍事の安全保障」「食料の安全保障」「エネルギーの安全保障」の3つで成り立っている。ちょっと考えればわかるように、原発問題はこのいずれにもかかわっている。したがって安易な脱原発計画は、この基本の3つの太い幹に同時にひび割れをおこさせかねないことになる。そんなことが許せるとしたら、それは「反国家」にしたいという願望が国家にとって正当だという、きわどい最終思想になっていく。そんなことをたいした議論もせずに、また現実的な政策や事故を前に論じていられるんですかというのが、中野の基本ロジックなのである。
 それなら、この3人の議論で何が展望できるのかということについては、次夜以降の「番外録」を期待してほしい。 
 

『フクシマ以後:エネルギー・通貨・主権』
著者:関曠野
2011年10月20日 第1刷発行
発行所:青土社
本文印刷:ディグ
表紙印刷:方英社
編集:西館一郎
装幀:戸田ツトム


【目次情報】

1 原発
  原発の破局に直面して
  ヒロシマからフクシマへ
2 歴史
  政党制度はまだ生きているのか
  我々はどこに回帰するのか
  皇太子が言ったこと ―一つの注釈
  皇室・自衛隊・憲法
3 世界経済
  TPP考
  「自由貿易」とアメリカン・システムの終焉
  日本の内なる問題としてのTPP
4 国家
  近代租税国家の欺瞞
  ベーシック・インカムをめぐる本当に困難なこと
  経済のデモクラシーへ
5 小品
  写真の力
  ルソー『人間不平等起源論』を読む
あとがき
初出誌一覧
 

【著者情報】
関曠野(せき・ひろの)
1944年東京生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、共同通信社に入社し名古屋支社、国際局海外部などをへて1980年からフリーランスの文筆業。思想史、経済などの分野で論文、エッセーを発表して現在に至る。ルソー論「ジャン=ジャックのための弁明」を執筆中。
著書に「プラトンと資本主義」(北斗出版、現在ははる書房が委託管理)、「ハムレットの方へ」(同前)、「民族とは何か」(講談社現代新書)など。訳書にヒレア・ベロック著「奴隷の国家」(太田出版)。