才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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グローバリゼーション

マンフレッド・スティーガー

岩波書店 2010

Monfred B. Steger
Globalization 2003
[訳]櫻井公人・櫻井純理・髙嶋正晴
装幀:後藤葉子

グローバリズムは意図的で、啓蒙的だが、
グローバリゼーションは歴史そのものの動向である。
キリスト教もイスラムも、
大航海時代も植民地主義も、
ワインもコーヒーもGパンだって、
グローバリゼーションだった。
それなのに、なぜグローバル資本主義や
市場原理主義や新自由主義ばかりが、
グローバリズムと呼ばれるのか。
そろそろこのような問題を俯瞰しておくといい。
そのあれこれの思想については、
今後しんしん、千夜千冊せんせんしたい。

 このタイトルや、スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)のタイトルに象徴的なように、グローバリズムとかグローバル資本主義といえば、だいたいは資本(とりわけ金融資本)が国境をやすやすと越えて市場社会を『暴走する資本主義』(1275夜)に巻きこんでいったことをさすものだと思われている。端的にいうのなら、ブレトン・ウッズ体制が崩壊して変動相場制になってからの、とりわけ米ソ対立が解凍してからの世界経済の動向がグローバリズムなのである。その評判は、かなり落ちてきた。
 しかし各国の経済政策や多くの企業家は、いまもってこのようなグローバリズムやグローバル資本主義を否定していない。フランシス・フクヤマのようにそれこそが”民主主義の頂上”だと見る者は少ないけれど、またさすがに行きすぎには多少の反省もしているのだが、たとえば、ピュリッツアー賞をとって話題になったトマス・フリードマンの『レクサスとオリーブの木』(草思社)や、その続編にあたる『フラット化する世界』(日本経済新聞出版社)は、「どこにも統轄者のいないグローバリズム」が、これからの柔軟で正当で持続可能な社会を必ずや拡張していくだろうという見方をとっている。
 日本企業の大方のビジネスマンにあっては、グローバル化の波に乗り遅れたことのほうに切歯扼腕しているほどなのだ。そこを戒めたのが、たとえば水野和夫の『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(日本経済新聞出版社)だった。
 いったいグローバリズムを肯定的に見る可能性がどのくらいあるのかということについては、いずれまた議論したいと思うのだが、今夜は、この資本主義的なグローバリズムという見方と、「グローバリゼーション」という見方は必ずしも一致していないということを、いったん眺めておきたい。
 ジョン・グレイが指摘したようにグローバリズムが啓蒙主義であったとしても、グローバリゼーションにはそうした主義主張がかぶさらない歴史もあったからである。そのことは、最近の力作ナヤン・チェンダの大著『グローバリゼーション』(NTT出版)に「人類5万年のドラマ」という副題がついていることでもすぐにピンとくるだろう。

 グローバリゼーションについては、このところ実に多くの本が書かれてきた。ぼくは松丸本舗のオープニングの棚づくりのとき、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)が最もグローバリゼーションの歴史母型になりうると見て、一番目立つ棚に並べておいたものだけれど(それが今年4月の「ゼロ年代の50冊」のベスト1に選ばれたけれど)、そのほかデレック・ビッカートンの『言語のルーツ』(大修館書店)やスティーヴン・フィッシャーの『ことばの歴史』(研究社)などの言語の歴史をグローバルに解くものから、フェルナン・ブローデルの『物質文明・経済・資本主義』全6巻(みすず書房)をはじめとするアナール学派の業績まで、いろいろのグローバリゼーション史やグローバリゼーション論が出揃ってきた。
 まとめて「グローバル・スタディーズ」の本という。それらのなかの数冊をこれから時に応じて千夜千冊したいと思っているのだが、今夜はまずはそうした歴史の流れをかいつまんで俯瞰をしておくのがいいだろうから、本書を選んでみた。
 著者のマンフレッド・スティーガーはイリノイ州立大学から王立メルボルン工科大学のグローバリズム研究所に移った政治学者。グローバリゼーション研究のほかに禅の歴史やガンジーの研究もしているようだ。
 本書は“Very Short Introductions”シリーズ(日本では「1冊でわかる」というシリーズ)で、まことに具合よく俯瞰がゆきとどいている。手頃に問題点を列挙するにはふさわしい。2003年の初版をアップデートしたセカンド・エディションなので、最近の動向も組みこまれている。櫻井公人の解説もわかりやすい。では、俯瞰の俯瞰をしておこう。

 グローバリゼーションは、人間の社会・文化・地理・言語・道具などがさまざまな接触することによって相互に連続していく“一連の社会状態”のすべてにあてはまる。厳密にはその社会状態は「グローバリティ」とでも呼ばれるべきだろうが、そのグローバリティが社会化していく状態がグローバリゼーションである。そのプロセスは「ローカル→リージョナル(地域的)→ナショナル→グローバル」というふうに転じ、ある段階からはその逆にも、相互的にも交じっていく。
 したがってグローバリゼーションはそもそもが不均等なプロセスをもつ。またつねに多元的であり、たえず多様でもある。その特徴は次の4点にまとめられる。
 ①グローバリゼーションは伝統的な政治・経済・文化の境界を横断し、そこに社会的ネットワークを創出もしくは変容させる。ときに新たな秩序をつくりだす。②グローバリゼーションは社会的な関係と行動にまつわって、たいていは相互依存の拡大と伸長を反映する。このことは金融市場からNGOまで、多国籍企業からアルカイダまで、あてはまる。③グローバリゼーションは社会的な交流活動の強化と加速をともなっている。つまり技術革新とグローバリゼーションはほとんど合致する。④グローバリゼーションは人間の意識とも関連するため、共同体というマクロ構造と個性というミクロ構造の両方に影響をおよぼす。

 こうした特徴をもったグローバリゼーションは、100万年前のアフリカのルーシーの出現やその途中までの波及までにはさかのぼらない。
 1万2000年ほど前にその原人狩猟集団が南米の突端に届いたときをもって、最初のグローバルな”輪っか”が成立したと見るべきだろう。とりわけ1万年前に、人間が自分自身の食料を生産するという仕事についたときに、劇的なグローバリゼーションの歯車が動きだした。
 狩猟的で遊牧的な集団が耕作や農耕に向かうと、それまでの集団の性質に集権的で階層化されたパトリアーキー(家父長的)な社会構造が芽生えていったはずで、そこに三つのグループが生まれたのだったろう。祭司的なグループ、管理的なグループ、職人的なグループである。

 シュメール、エジプト、中央アジアにおける「文字」と「書記」の発明と発生と、西南アジアにおける「車輪」の発明と「交通力」の発達は、ほぼ時期を一にしている。
 このあと、初期のグローバリゼーションはユーラシアの主要な風土軸が東西の方位に広がり、同じ緯度線に沿って食料生産を保っていた幸運にもめぐまれて、これらの文化と技術をまたたくまに広げていくことになった。また、そのような文化技術の波及力を軍事力に変えうる部族や一族だけが特定のセンターを築き、それを驚くべき「古代帝国」に発展させていった。ここでは四大文明よりもヘレニズムやシルクロードや海の潮流の行く先こそが雄弁だった。
 ここから先のグローバリゼーションの歴史は、今夜は詳しくのべる必要はないだろう。大規模な民族移動、人口増加、道路インフラなどの発達、中枢都市の形成、移民の流入などが打ち続いて、それ以前は地域的な宗教でしかなかったユダヤ教、ヒンドゥ教、仏教、キリスト教、イスラム教を「世界宗教」に変えていった。そこには鉄とウィルスと農作物と、そして価値観とが入り混じっていた。
 こうして中世社会からアーリーモダンへの歩みがゆっくり興っていく。そのグローバリゼーションは文明文化の交流の歴史でもある。しかし11世紀くらいまでの文明技術に貢献したのはもっぱら中国やイスラムであって、西欧社会がグローバル化のイニシアティブの一端を握るのは、ずっとあとになる。それには、機械印刷、水力技術、航行技術、郵便システムと、プロテスタントを生み出す宗教革命意識と商業取引意識とが必要だった。これらと1648年のウェストファリア条約(宗教戦争の終結)が重なっていったとき、西欧諸国は「国家」と「宗教」と、そして「マネー」を動かすことの同時性を獲得しはじめたのだった。
 アダム・スミスの「自由な市場」、蒸気動力技術の革新、金本位制に向けた鉱物資源の確保、土地と資本のエンクロジャー、これらはほぼひとつながりの出来事なのである。ここからマルクスやエンゲルスが資本家と労働者を分け、生産手段と剰余価値の分断を怒りをもって叙述した時代までは、一足飛びだろう。
 そして穀物や綿が、ならびに奴隷や植民地侵略が、ついでは電気や石炭や石油や蒸気機関が、グローバリゼーションの西欧型のエンジンとなっていったのだ。

 今日のグローバリゼーションが経済に及ぼした影響は、世界経済システムがグローバリゼーションを乗っ取ったかの様相を呈している。その安定的なスタートは、第二次世界大戦直後のブレトン・ウッズ体制の固定相場制にあらわれた。IMF、IBRD、GATTがこれを後押しした。
 ほぼ30年にわたるブレトン・ウッズ体制は、たしかに世界経済を「統制のとれる資本主義の繁栄」に導いたかのようだった。ネーションステート(国民国家)各国が、内外に出入りするマネーを調整できたからだった。世界は金(きん)に裏打ちされていた。
 しかし1970年代に入って、ドル・ショックとオイル・ショックが連打されると、この体制はもろくも崩れ、世界経済は変動相場制に一挙に移り、その後の10年は高インフレ率、低い経済成長、高い失業率、政府部門の財政赤字、そして度重なるエネルギー危機、各地域での飢餓増大という、とんでもない矛盾と破綻に見舞われることになった。ソ連を中心とする社会主義諸国はこれとはまったく異なる計画経済の確立に向かっていたのだが、やはりしだいに失速していった。いずれその理由も説明するが、例外は西ドイツと日本にだけおこったのである。
 ここに登場してきたのが、新自由主義政策を背景とした80年代のグローバリズムだった。
 新たな経済秩序をつくりだすため、このグローバリズムはグローバル資本主義として、「貿易と金融の国際的自由化」「多国籍企業の許容」「IMFなどの国際経済機関の大作動」をもっぱらの軸にして、①公営企業の民営化、②経済の規制緩和、③大規模減税、④マネタリズムの奨励、⑤公共支出の削減、⑥小さな政府の実現、などに向かっていった。
 サッチャーとレーガンが先頭を切り、これをジョージ・ブッシュが「新世界秩序」として掲げた。その思想的根拠としてハイエク(1337夜)やフリードマン(1338夜)が動員された。

 資本主義的グローバリズムに特化されたそのようなグローバリゼーションの新たな動向については、いまでは「グローバリゼーション誇張派」と「グローバリゼーション懐疑派」が互いに別々の見解を交わしあうという図になっている。この二つの見解のあいだを、エコノミストたちは右往左往する。日本の政党も右往左往する。
 誇張派は「小さな政府」による資本国境のないボーダーレス社会を主張し、ネーションステートの静かな後退を強調する。そこでは市場の自由な拡大と個人の自由意志とが執拗にセット化されている。懐疑派はグローバリズムも政府の力によるものだったのだから、今後も「国家の退場」はありえないと主張し、新しい市場も新しい技術も国家間がコントロールすることが可能だと強調する。どちらもグローバリゼーションの発展を認め、そのグローバリティの運用を問題にする。
 懐疑派のなかには、グローバリゼーションにおけるグローバリティを市民社会や地方自治体が担うべきだという意見、アソシエーション(自発的結社)が担うべきだという意見、ネットワークが担うべきだという意見などが、いまではかなりの数で林立している。環境保護運動、自立経済派、アントニオ・ネグリ(1029夜)の「マルチチュード」的なるもの、ITネットワーク主義、各種のリバタリアニズム、ラディカル・フェミニズム、アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)などもここに入る。
 けれども本書では、次の3つのグローバリズムがグローバル・イデオロギーの鎬を削りあっていると見るのが、まずまず妥当だろうと俯瞰する。スティーガーは、グローバリズム市場派、グローバリズム正義派、グローバリズム聖戦派というふうに分た。

 市場派が何を言ってきたかは、いまさら説明はいらないだろう。グローバルなパワーエリートたちが依拠している思想で、消費主義的な自由市場の拡張を金科玉条とする。ビジネスウィーク、エコノミスト、ウォールストリートジャーナル、フィナンシャルタイムズ、日本経済新聞は、ここに属するメディアである。しばしば「強力な言説」と呼ばれる。
 この連中は、「グローバリゼーションを統括している者はいない」「グローバリゼーションは世界の民主主義を守るとともに広めている」「グローバリゼーションは非可逆的である」という確信をめったにゆるがせない。厄介なのは、この理念と方針のためには、これを妨げる障壁をどんな手段をつかっても除去しようとすることだ。小泉・竹中改革もそうだった。ここに、この連中が市場原理主義というファンダメンタリズムとしての強烈な性格をもつゆえんがある。サッチャーはこれを「選択の余地がない」と言って、TINA(There Is No Alternative)という略語をはやらせた。

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ビル・ゲイツ氏
世界でもっとも強力なグローバリズム提唱者の一人

 正義派は、グローバル資本主義がさまざまな格差をもたらすものなので、これを別のしくみによって組み立てなおさなければならないとする。グローバル環境の保護、南北対立の解消、フェアトレード、労働と雇用の格差問題の解決、セーフティネットの提案、人権擁護、人種差別や女性差別の撤廃、そしてグローバル市民社会の確立である。
 最近、ここからは「グローバル・ニューディール」という方針やコミュニタリアン(共同体主義者)の活動といった実際運動が次々に派生している。メキシコのサパティスタ民族解放戦線、インドのチプコ運動、フィリピンのウォールデン・ベローのコミュニタリアニズム、フランスの半農家ジョゼ・ボヴェのマクドナルド破壊活動、マレーシアに本拠がある第三世界ネットワークなどが、その例だ。市場派グローバリストが集まる「ダボス会議」に対抗して、しばしば「世界社会フォーラム」(WSF)を主催するという動きもある。
 こうした正義派の要求は、①第三世界の債務の帳消し、②いわゆる「トービン税」の施行(国際金融取引に対する課税)、③オフショア金融センターの廃止、④厳格な地球環境協定の履行、⑤公平なグローバル開発アジェンダの履行、⑥新たな国際開発機関の創設、⑦グローバルな労働者保護基金の確立、⑧政府と国際機関が市民に対して透明性を発揮すること、⑨あらゆるグローバル・ガバナンスが明示的なジェンダー配慮を示すこと、などにまとめられる。
 なかにはすでにジョージ・ソロス(1332夜)が提案し、実施にとりかかったプランもある。

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シアトルの商業地区でWTOに抗議する者たちと警官隊

 聖戦派を代表するのは、なんといってもオサマ・ビンラディンやアルカイーダによって展開されているテロ・ネットワークであろう。自爆テロという驚くべき方法を“技術化”した。
 しかし、このネットワークはテロリズムがテーマになっているのではなく、アメリカに集約された欧米資本主義の堕落と失敗を糾弾しているという意味で、やはり一連のグローバリゼーションの進捗に関与する聖戦的グローバリズムなのである。だから、イスラム過激派の原理主義者と呼ばれるネットワークだけが聖戦派なのではない。当然、キリスト教原理主義にもとづく動きも、極端な迫害を好む一部のWASPの動きも、ハマスなどの反イスラエルのパレスチナ戦線も、また世界各地の民族主義運動や過激な自然保護団体も、いずれも聖戦派に位置づけられる。
 しかし、それらの多くがしばしばナショナリズムや排外主義やディープエコロジーに陥っているのに対して、ビンラディンが呼びかけた活動はあきらかにグローバル・ネットワークというにふさわしい。しかも、その第一波のムジャヒディンの活動はソ連のアフガン侵攻を契機とした無神論的ソ連帝国主義の打倒であったのが、第二波では副官アイマン・アルザワヒリの代になって、欧米諸国のグローバルな誤謬がすべてのイスラム共同体(ウンマ)にとっての聖戦の攻撃目標になったのである。
 これは言ってみれば、西欧諸国のウェストファリア条約の虚妄を世紀末あるいは21世紀になって新たに暴くという歴史訂正にもなっている。
 それにしても、おそらくこれまでのグローバリズム議論でオサマ・ビンラディンのグローバリズムを本格的に論じたものはないのではないかと思われるほどに、この第3のグローバリズムは世界史から屹立しすぎている。前夜に紹介したジョン・グレイの『アル・カーイダと西欧』(阪急コミュニケーションズ)を見られたい。

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世界中の視聴者に呼びかけるアルカイダのリーダー、
オサマ・ビン・ラディン

 本書では、ざっとこういう俯瞰が提供されていた。いったいここから何を議論すべきかというと、巻末解説で桜井公人がまとめた腑分けでいえば、次の疑問にどう応えるかということだ。

①グローバリゼーションは歴史的に不可避で不可逆動向なのか。

②グローバリゼーションは何をその原動力にして、何を決定要因にしているのか。

③グローバリゼーションは古いのか、新しいのか。それとも繰り返されてきたプロセスなのか。

④グローバリゼーションは世界に利益をもたらすのか、あるいは格差を広げていくのか。

⑤グローバリゼーションは本当に民主化および自由化を推進しているのか。

⑥グローバリゼーションは国家の役割を狭めていっているのか、強化させつつあるのか、あるいは変容させていくのか。

⑦グローバリゼーションはアメリカの動向と同一の現象になっているのか、それともどこにでもおこりうる資本文化の帝国主義段階なのか。

 われわれの前途には、まさにこのような問題が臆面もなくずらりと揃っているのだが、著者のスティーガーは、これらにはあえて答えずに、著者が「多次元的アプローチ」と名付けた叙述に徹している。なるほど、俯瞰するには賢明なやりかただったが、ではここを一歩も二歩も踏みこんでいくとどうなるかというと、けっこうな難問となる。
 たとえばスーザン・ストレンジ(1352夜)のように、あまりにまぜこぜになったグローバル資本主義の価値観を国別と世界機関別にいったん分離して検討していくべきだという方針もあれば、デイヴィッド・ヘルドによる肯定でも否定でもない「変容」を選ぶべきだという方針(『グローバル・トランスフォーメーションズ』中央大学出版部)、あるいは、それをいったん自由主義の問題に戻してそこから“第三の道”を提案するアンソニー・ギデンズらの方針もあるし(『第三の道』日本経済新聞社)、もっと原点に戻してカール・ポランニー(151夜)ふうに「いっそ経済を社会に従属させるべきだ」というエマニュエル・トッド(1355夜)やジョン・グレイ(1357夜)のような方針、いやいや、もっと否定的にグローバリゼーションのなかの「反グローバリズム」をこそめざすべきだという方針など、いろいろ噴出してくる。
 その反グローバリズムも、ジャック・アタリ(764夜)の『反グローバリズム』(彩流社)はそこから「友愛」を導き出したものだったし、ジョージ・リッツアの『無のグローバル化』(明石書店)は拡大しすぎる消費市場が「存在」をすら喪失させているという分析に至っている。いずれ紹介するが、先頭的リバタリアニズムの思想や鈴木謙介の言い分なども、グローバリズム議論を裂いていったり、反転させたりしていった。

 いや、まだまだある。デヴィッド・ハーヴェイ(1356夜)はこれらを総体としてポストモダンの中のグローバリゼーションなどと見ずに、議論の仕方をもっと包括的でかつ細部が生きてくるような「近代の総合的検討」にもちこんで、そもそもポストモダン幻想の中に安住していることに警告を発したのだし、それをニクラス・ルーマン(1349夜)やノルベルト・ボルツ(1351夜)のように「意味のシステム」の自律的でコンティンジェントな“ひっくりかえし”にすべきだという見方もあった。
 イアン・ハッキング(1334夜)になると、そういう場合は言い方をメタフォリカルに扱う以外はないという、粋な心得さえ披露した。
 いずれにしても、これからの日々、グローバリゼーションの「蜜の味」と「厄災」は、アイスランド火山の爆発灰のように空を覆って、まだまだネステッドにわれわれを見舞いつづけるはずなのである。空港に立ち往生するくらいだなんて、まだましなのだ。そのうち精神や思考の空港に閉じ込められたままになったら、どうするのか。

【参考情報】
(1)本書のシリーズ“Very Short Introductions”は岩波によって「1冊でわかる」というシリーズになっているのだが、これがけっこういい。ちなみに本書は今年3月に出たばかりで、同時期に『ゲーム理論』も配本された。そのほか、ぼくがこのシリーズで薦めるのは『古代哲学』『イスラーム』『コーラン』『デモクラシー』『ファンダメンタリズム』『ポスト構造主義』『ポストコロニアリズム』『ヨーロッパ大陸の哲学』『暗号理論』『感情』『意識』『知能』『経済学』『文学理論』など。あまり本屋にそろっていないのがもったいないので、松丸本舗に来てほしい。巻末の参考文献が充実しているのもいい。
(2)グローバリゼーションについての参考文献は、ここではあげるのを封じておく。それでも本文中に示したもの、たとえばナヤン・チャンダの『グローバリゼーション:人類5万年のドラマ』(NTT出版)は最も長大で、実に人種の出現からワシントン・コンセンサスやブログやiPodまでの、まさに5万年を扱っていて圧巻。著者はインド出身の編集スペシャリストで、最近はエール大学の「グローバリゼーション研究センター」の出版部長をしている。そうそう、アンドレ・フランクの『リオリエント』(藤原書店)も予告しておこう。アジアのほうから見たグローバリゼーション論なのだ。いずれとりあげたい。
(3)グローバリゼーションと反グローバリズムの議論は、これから最も熱いものになっていくだろう。気がはやる諸君は、とりあえずデヴィッド・ヘルドの『論争グローバリゼーション』(岩波書店)、ボー『大反転する世界』(藤原書店)、スーザン・ジョージ『オルター・グローバリゼーション宣言』(作品社)、ポール・ケネディの『人類の議会』(日本経済新聞出版社)、ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)、エセキエル・アダモフスキ『まんが反資本主義入門』(明石書店)などを覗いてみるといい。そのうち、これらの1、2冊を案内するつもりだ。