才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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新自由主義

その歴史的転回と現在

デヴィッド・ハーヴェイ

作品社 2007

David Harvay
A Brief History of Neoliberalism 2005
[訳]渡辺治
装幀:伊勢功治

やっとハーヴェイを紹介できる日がきた。
経済地理学にして、新マルクス主義。
社会空間理論にして、都市ダイナミックス理論。
でも真骨頂は、理論構成の妙と自在な引用編集力にある。
今夜は『新自由主義』をタイトルするけれど、
後半は、ぼくをハーヴェイ好きにさせた
『ポストモダニティの条件』(青木書店)をはじめ、
あれこれの著作をちょいちょいまたぐことにする。

 この人には参っている。そうとう切れる。この数年間の読書のなかで、ずいぶん痺れさせてもらった。切れるだけではなく、用意も周到、背骨も頑丈だ。歴史でも現在でもない「歴史的現在」というものがかなりディープに見えていて、しかも鳥の目と虫の目と人の目がある。その目は地政的であり原マルクス的であるが、その使い方をまちがわない。

 日本のインテリ然とした連中には鳥の目と虫の目の、また人の目と鳥の目の両義的交換がなく、それぞれの「あいだ」がなんだかんだと抜け落ちる。「鍵と鍵穴」の関係にはそれなりに気がつく知識人はいるのだが、その鍵と鍵穴のあいだにも世界現象がすばやく乱れこんでいることが、捨てられる。それがハーヴェイにはない。
それでいてハーヴェイにはバネもある。専門は経済地理学で、ケンブリッジ大学で博士号を取得して、ジョン・ホプキンス大学教授、オックスフォード大学教授をへて、ニューヨーク市立大学教授などを歴任した。
そういうハーヴェイの経済地理学とはどんなものかと思って、かつて『地理学基礎論』(古今書院)と『空間編成の経済理論』(大明堂)を取り寄せてみたら、『地理学基礎論』(1969)はもとは“Explanations in Geography”という大著で、古今書院のものはその部分訳だったのだが、それでも理論地理学と計量地理学を批判的な足場にして、ここへ論理実証主義の哲学や行動主義の視線をぶちこんでいる。
そう書くとずいぶん荒っぽいようだが、それがそうとうバネが効いていて、巷間、ハーヴェイをマルクス経済地理学の大成者とよんでいる印象から想像するような、理屈っぽいものではなかった。ただし『空間編成の経済理論』(1982)のほうは上下2巻の大著のまま翻訳されていたが、これはラディカル・ジオグラフィの名をほしいままにするような理屈に満ちたものの、建築環境と資本の第二次循環の関係がひどくなっていることを多様に検証していて、ぼくには読むのがしんどかった。

 そういうなかで一昨年、『新自由主義』(作品社)を読んだ。いっさいの偏向に迷わされることなく、すばらしくまとまっていた。
うーん、たいしたもんだ。これまで何冊ものグローバル資本主義批判や新自由主義批判を読んできたが、その多くが経済主義に陥っているか、旧来の自由論に先祖帰りしているか、さもなくばいささかヒステリックなアメリカ帝国主義批判になっているのに対して、これほどネオリベ・グローバリズムの発生・変遷・主張・誤解・限界をたくみにまとめたものはなかった。類書に『ニュー・インペリアリズム』(青木書店)や『ネオリベラリズムとは何か』(青土社)もあるので、それも読んでみた。
うん、うん、この3冊、いずれも冴えている。実は松丸本舗の昨年10月25日のオープン時に、セイゴオ式の“本の相場”を貼り紙する「本相」ボードで、ぼくはデヴィッド・ハーヴェイを赤い極太マーカーで“めちゃ褒め”しておいたのだが、それを見た小城武彦(丸善社長)と太田香保(イシス編集学校総匠)は『ネオリベラリズムとは何か』をまずもって入手したらしく、たちまちぞっこんになったようだ。

 この本『ネオリベラリズムとは何か』は初めてハーヴェイを読む者には、たしかにかなり気分がいいだろう。
どんなことが書いてあるかというと、アメリカが20世紀後半、とりわけ米ソ対立解消以降において、「植民地をもたない帝国主義」をどのような反民主主義的戦略によって非共産主義国を“解放”させていったのか、そのことがどのように「ネオリベラル国家の資本主義政策」となっていったのか、それが有利なビジネス環境づくり、アカウンタビリティ(資金管理責任)の確立、コスト効率などの強権的波及などを通して、結局は「あらゆるリスクを公共部門に担わせ、利益のいっさいは私企業が吸い上げるという新自由主義システム」の完成に向かうことになったのか、そういうことの一部始終がまことにみごとに浮き彫りにしている。
とくに、ネオリベラルな政策がどんな民主主義をも愚民政策にしてしまったこと、そのためにはIMFやWTOの動きをもまんまとネオリベラル国家の得策に寄与させたこと、さらにはNGOでさえネオリベ政策の“トロイの馬”にしてしまったこと、そのくせ個人の「自由と責任」だけは巧みに目立つようにしたことなどを問題視して、企業国家主義というものがいかにアメリカを構造矛盾に追いこんでいくか、それが金融市場主義の姿をとるのはまだまだ病巣の一部であろうことを喝破してみせた。
これは胸がすくだろう。丸善社長や総匠が、それならさあ、日本はどうするかと潔い覚悟をしたにちがいないことも想像できる。実は鳩山首相が松丸本舗に来たときも勧めておいたけれど、さあ、読んだかどうだか。
しかし、胸がすいただけではあるまい。ハーヴェイはこの本の後半では、ハーヴェイ独自の経済地理学的洞察も見せているので、そこからは新しい21世紀思想の母型を垣間見ることができたはずなのである。

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セイゴオの案内で松丸本舗店内をくまなく散策した鳩山首相
2010年1月11日「松丸プレス」より

 ハーヴェイは「地理的不均衡発展」の理論をもっている。これが「歴史的現在」としての現在社会を見通すのに、なかなか有効だ。
いま、世界の経済社会はきわめて高速で、度しがたい変動性(ボラティリティ)に富んでいるために、世界を空間的に一様化するような研究や理論は役に立たない。空間と時間がさまざまな地域を襲う不均等に着目し、そのうえでの見通しが必要になる。
実際、最近の世界論はあまりに視点が別々になっている。重層化が成功していない。環境主義者は地球を測定して温暖化や二酸化炭素や環境ホルモンを測定するが、それらの数値は一緒の図には並べられることがない。構成主義者は「低開発の解消」を標榜するけれど、人口・資源・労働力・開発技術力の認知についての算定がばらばらだ。政治学者は民主だ共和だ、自民だ労働だ社民だのの政体ばかりに気をとられ、経済学者はGNPや通貨レートや産業主義に傾いている。
そこでハーヴェイはこれらを重層化するべく一種の「場の理論」のようなものを構築しようとしてきた。この「場」は、下から突き上げる理論のための場で、それとともに多様で不均等で不揃いの「力」や「値」を思想として呑みこむための「場」なのである。そこに統計学も地理学も経済学も生態学も受け入れる。まさにハーヴェイ経済地理学の真骨頂である。
『ネオリベラリズムとは何か』の後半は、そのプレゼンテーションだった。とくに「資本」をあたかも自律的に動きまわる力だと思いこんでしまった連中に対して、「あんたがたが奪っていったものは、私たちが奪還するだろう」というメッセージ・プレゼンテーションをした。
いまや資本はさまざまに形を変えて、ありとあらゆる生活のネットワークの中に入りこんでいる。商品として、金融として、医療として、土地として。ほんとうはそこにはアンリ・ルフェーブルが言うような「余剰」があるはずなのだが、その余剰もさまざまに分割され組み合わされて「財貨の領土」とされていった。このような既存の資本領土に対抗するには、あるいはその一部を奪還するには、ハーヴェイは資本市場とはべつのもうひとつの「場」を用意して、そこから新たな価値の射出をなしとげ、それによって既存資本市場の一角を切り崩す必要を感じた創出をなしとげていく作業にとりくむ必要があったのである。

 だいたいはこういうことをハーヴェイは『ネオリベラリズムとは何か』の後半にプレゼンタティブに書いたわけだったが、実はこのような新たな価値観創出の「場」のための視野と視点は、すでに『新自由主義』や、その前の『空間編成の経済論』(原題は『資本の限界』)のほうに原理的に用意されていたことでもあった。
何を用意したかといえば、ハーヴェイが組み立てた理論的な枠組みは要約すれば、次の二つの表にあらわれている。図1は多くの問題概念と重要思想をできるだけジェネレートして絶対的空間・時間的空間・関係的空間の3つに再構成したもの、図2は同じ概念と思想を対グローバリズムを意図してややマルクス主義的に再構成したものである。ハーヴェイはこの二つの表を行ったり来たりして、新たな「場」の生成を構想したのだった。
この二つの表を見くらべていれば、ハーヴェイの構想はなんとなく見えてくるだろう。

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図1 空間性に関する全般的配列表
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図2 マルクス主義理論による空間性の配列表
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 さて、話を今夜の狙いにすすめると、ぼくとしては『新自由主義』とともに『パリ―モダニティの首都』(青土社)や『ポストモダニティの条件』(青木書店)を紹介したいのだ。けれどもまずは、ともかくも『新自由主義』をかいつまんでおこう。
ごくごく論点を絞って、以下、箇条書きにしておくが、ハーヴェイがいったいどのように新自由主義を捉えたかというと、ざっとは次のような視点と論証なのである。

 第1に、ハーヴェイは新自由主義(ネオリベラリズム・新保守主義)をアメリカの「不正」と断じているものの、グローバリゼーションを推進した先進資本主義諸国がこぞって採用した国家体制とか政治体制とかとは、必ずしも捉えていない。
途上国・旧社会主義諸国との相互関連性のなかで滲み出してきた一種の世界システムとしての、現代資本主義の一時代様相だと捉えた。ということは、新自由主義はアメリカあるいはワシントン・コンセンサスの押し付けとはかぎらないということで、そういう押し付けがましい圧力と不正がしばしばあったにせよ(チリとCIAとシカゴ学派の関係のように)、実際にはそこに各国の内的要因が絡んでいたということになる。
それゆえ、イギリスや日本などの先進諸国が新自由主義を採択したのは、かれらが福祉国家主義、社会主義的オルタナティブ、コーポラティズムなどに対抗するために選択したことは事実だが、途上国では開発主義国家体制下の矛盾を突破するための新たな資本蓄積の方策として採用されたと見たほうがいいということなのだ。そこにはネオリベ受容における経済地理学的な「地域的不均等」があったわけだった。
しかし第2に、やはり新自由主義はそうした地域的不均等を“利用”して、階級権力の復興あるいは創設に大きな拍車をかけた。これが日本などでさかんに議論されている「格差社会」というものだ。
かくて新自由主義は、資本主義の発展を「マッドマネー型・カジノ資本主義型」(1352夜)の度しがたい金融依存に追いやって、まさに癒しがたいほど致命的なミスリードしてしまった一方で、新たな階級権力の創出についてはまんまと成功したわけである。たとえばロシア、たとえば中国、たとえばインドだ。ハーヴェイはそういうふうに見た。この見方はたいそう「抉られたバランス」に富んでいる。

 第3に、ハーヴェイはこうした特色をもつ新自由主義が、国民の“同意”を生んだのはなぜかという議論に分け入った。
その理由としてハーヴェイがあげたのは、1968年前後の反体制運動が提示した「自由」と「社会的公正」の表裏一体性を、その後の新自由主義が無残に分断してしまったことだった。そのために、アメリカでは新自由主義によって白人労働者の文化ナショナリズムが助長され、イギリスではコーポラティズムの失敗が促されて、サッチャリズムによる中産階級の動員が容易になったのである。この歴史的見方もバランスがいい。
第4に、ここが重要だが、ハーヴェイにとっては新自由主義は「市場原理主義」そのものではないということだ。ということは、この問題の議論の仕方は「大きな政府か、小さな政府か」にあるのでもなく、「市場か、国家か」にあるのでもなくて、新たなエリート層の確立が実力行使されていったことを検討しなければならないということだ。
わかりやすくいうのなら、新自由主義はその主張や理論や商品は、新エリート層の確立のためにはいくらでもねじ曲げられて実行されていったということなのである。
そのほか第5に、ハーヴェイは新自由主義国家がこれからもどこかに誕生してしまう可能性と危険性に警告を与え、第6に、地理的不均衡が南米などにもたらす歪みを警戒した。
また第7に、新自由主義が新保守主義と混血し、これからも混血するだろう異常を縷々叙述し、第8には、これが最終的な結論と仮説であるようなのだが、新自由主義は資本主義の有益な発展を阻害するということを、明確に指摘した。

 これがごくおおざっぱなハーヴェイの論点だが、では、そうした動向のなかの日本の新自由主義はどうだったのかというと、本書には監訳者渡辺治の「日本の新自由主義」が40ページほど巻末収録されていて、それがいくぶん参考になるので、その見方を含めて要約しておきたい。
日本では1982年に中曽根政権が誕生し、いわゆる第二臨調の行政改革が始まったときに新自由主義の模倣もしくは導入がスタートしたという見方がしばしばなされるのだが、ハーヴェイ≒渡辺らによると、これは早計な見方だということになる。
たしかに佐藤公三郎・公文俊平・香山健一らのブレーンを擁した中曽根政権は、一見、新自由主義もしくは新保守主義の波頭を日本に展開したかに見えたけれど、それは早熟だったか、あるいは深刻な資本蓄積の必要性とはあまり関係がなかった。むしろ当時の日本は不況も第二次石油危機もすり抜けていて、べつだん金融主導の資本主義改革などに着手はしていなかったのだ。資本問題に懸念が出てきたのは細川政権時代のことである。ところが、このとき日本は舵をうまく切れなかった。
それをまとめて着手する気になったのは小泉政権になってからだった。つまり、日本の新自由主義政策は、もしも着手が必要だとするなら、その判断されるべき時期から10年以上も遅れたのだ。そのためはっきりいえば、小泉竹中改革はまことに跛行的でジグザク的なものとなる。
それにもかかわらず、小泉改革が諸手をもって大向こうに受け入れられたのは、ひとつには80年代の世界経済の主導性をジャパン・マネーや東アジアのタイガー・エコノミーがもっていたということ、もうひとつには、戦後日本が日米同盟などによって福祉国家体制がもつ矛盾から免れていたということ、すなわち日本が「階級妥協」を促進していなかったことによる。
かくて日本資本のグローバリゼーションは輸出主導型成長ゆえに大幅に遅れ、そのせいで開発主義的統合がうろうろすることになり、結果的には、アメリカではリーマン・ショックに集約された最悪の危機が剥き出しになったようには、そこまではひどくはならなかった。
ちなみに小泉政権が「自民党をぶっこわす」と言ったのは、新自由主義を日本に広げるには自民党の官民一体の政治システムがきわめて不都合であったからにすぎず、とくに自民党の刷新を望んだのでも、まして21世紀日本建設に邁進したものでも、なかった。

 まあ、こういうことである。
が、この話はこのくらいにしておく。次に、ぼくがおおいに“感じた本”となった『ポストモダニティの条件』(吉原直樹監訳)のほうを知ってほしい。さきほど書いたように、この本こそは、きわめて刺激的な記述に富んでいる。
本書は青木書店の重厚なシリーズ「社会学の思想」の第3冊目にあたっていて、アンソニー・ギデンズの『社会理論と現代社会学』、マニュエル・カステルの『都市・情報・グローバル経済』、ジェームズ・コールマンの『社会理論の基礎』、アラン・リビエッツの『レギュラシオンの社会理論』などとともに並んでいるのだが(そこにルフェーブルの『空間の生産』、ギアーツの『現代社会を照らす光』といった古典もまざっているのだが)、これらのなかでも俄然、異彩を放っている。

 記述はジョナサン・ラバンの『ソフト・シティ』(1974)から始まる。邦訳は『住むための都市』(晶文社)だ。
70年代のロンドンの状況を擬人化したもので、都市が「官僚やプランナーや企業の犠牲になっている」と知識人たちによって批判されるところを逆手にとって、都市はそんなにやわくない。その迷宮性・百科事典性・劇場性はめったに失われないとラバンが述べた。ここにはル・コルビュジエ(1030夜)は、もういない。

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ニューヨークのスタイヴェサン・タウン計画
今や解体しつつある合理的計画が支配する都市像

 ハーヴェイはいったん、このようなラバンの見方にポストモダンの萌芽を汲みとり、そこにトマス・クーン以降のシステムのゆらぎやシンディ・シャーマンの変装写真の多様性をくっつけ、テリー・イーグルトンが「典型的なポストモダニズムは冗談が好きで、自虐的で精神分裂的である」と指摘したことに、人々がしだいに巻きこまれていることを、暗示する。
が、はたしてそれはポストモダニティのみの特徴なのか。この本はそこを問うていったのだ。
そこでハーヴェイが持ち出すのはボードレール(773夜)の『近代生活の画家』(1863)である。『ソフト・シティ』の100年前の文章だ。このあたりが、うまい。ボードレールがそこで述べているのは、パリの状況が「うつろい」「はかなさ」「偶発性」「断片性」「流転」「束の間」に見舞われているということだったのだ。イエーツ(518夜)だって同じことを言っていた、「中心が力を失い、すべてはばらばらだ。全くの無秩序が世界に放たれる」。

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シンディ・シャーマンの「無題」(上)と「無題92」
自らをさまざまに変装を凝らしたスタイルの劇場
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聖ジェルマン宮殿の改築:第二帝政期パリの創造的破壊

 そうなのだ。実はモダニティこそが歴史の連続性に対する過信を打ち破ったのである。ピカソとシュンペーターの「創造的破壊」はモダンの象徴作用なのである。だからこそベンヤミン(908夜)はパリのアーケードにパッサージュ(通過者)としての「アウラ」を感じとったのだ。何がいまさらポストモダンであるものか。
こうしてハーヴェイは、ニーチェ(1023夜)の破壊と持続の意志、ウィリアム・モリスのレッサー・アーツ、ジェイムス・ジョイス(999夜参照)の多義性、ロシア・フォルマリズムと構成主義、ガートルド・スタインの解読不能詩、イタリア未来派(1106夜)の運動力学的表現実験、マックス・エルンスト(1246夜)やマン・レイ(74夜)やモホリ=ナギ(1217夜)のモンタージュとコラージュの手法、非ユークリッド幾何学の確立(1019夜)、ヒルベルトの超数学、ジョルジュ・ソレルの『暴力論』、量子力学と相対性理論などを次々にあげて、モダンがすでにラバンが指摘したポストモダンの大半をさまざまに告知していたことを列挙する。

 ハーヴェイが言いたかったことは鮮明だ。
すでにモダニズムこそが、希望とニヒルを、革新と保守を、自然主義と象徴主義を、ロマン主義と古典主義を綯い交ぜにもっていたのである。そんなものはいまさらではなかったのだ。集合的記憶を巧みに持ち出す磯崎新(898夜)やアルド・ロッシの建築作法は、本人の意図に反して決してポストモダンではなかったのだ。
さてさて、そうなると、ポストモダニティとはいったい何なのかということになる。ポストモダンが“出し殻”ではないとしたら、いったい何をモダンから奪い、何を付け加えたのかということになる。
あきらかなことは、第1には、ポストモダンにおいてはボードレールやベンヤミンが指摘したことが異質なものではなく、ことごとく需要されるものとして吸収されてしまったということだ。これはフォーディズム(マスプロダクト・マスセール)の波状攻撃が資本主義社会のどの場面においても、いまだに減速していないということをあらわしている。ポストモダンとは「モダンの大食い」ということなのだ。ポール・ヴィリリオ(1064夜)が「それなら事故を持ち出すしかない」と言っているのがよくわかる。
第2には、すべては何が何でも商品として統合されているということだろう。これはポストモダンは後期資本主義の代名詞にすぎないということで、さらに加えれば商品化したところで、そこで勝ち残るのは一部の商品と市場性だけだということになる。
この万事商品主義に抵抗できたのはベルイマンから唐十郎におよぶ1960年代の「負の過剰」であっただけだろう。さもなくば、リオタールの「ローカルな決定論」、アルチュセールの「重層的決定」、スタンリー・フィッシュの「解釈共同体」、ケネス・フランプトンの「地域的抵抗」、フーコー(545夜)の「ヘテロトピア」、ブルデュー(1115夜)の「ハビトゥス」のようなものを持ち出すしかない。
第3に、ポストモダンは「グーローバル・マネタリズム」と「現在の喪失」によって成り立っているという特徴をもつ。これは先物市場やデリバティブのことを思えばすぐわかることで、実はグローバル市場は「現在」にではなく、証書化(証券化)された「明日以降の時間」のためにだけ動いていたわけなのだ。それがブレトン・ウッズ体制の解体以降、ずっと変わっていない性質だったわけである。そこに新自由主義や新保守主義がやすやすと台頭することになったこと、あえて説明するまでもない。

 ずいぶん勝手なところだけを摘まんだが、こうした見方を随所にちりばめたうえで、ハーヴェイが『ポストモダニティの条件』の終わり近くの第22章で突き放すのは、結局のところ、次のことだった。
ポストモダンには「規模の経済/範囲の経済」「均質性/多様性」「目的/偶然」「公共住宅/ホームレス」「メタ理論/言語ゲーム」というような、つまりは「市場原理的なもの」と「そのフレキシブル化したもの」のデュアルな対比しかないのではないかということだ。
ハーヴェイには、いつもこういう突き放しがあるのだが、ぼくはそこを買っている。やったじゃないか、そう、そう、こういう手しかないんだよ。あとはミメロギアするしかないんだよ。そういう快哉だ。
ちなみに、この突き放しは、またしても対比対照表になっている。そのことを図3で一覧しておいた。よくよく眺めて、これらのどちらにもあてはまらない「例外」を想像してほしい。おそらく感情的なものと身体的なものばかりが浮かぶにちがいない。なぜなら、メンタルでソマティックなものこそ、ポストモダンからはみ出した「あいだ」に潜んでいるものであるからだ。
では諸君、よろしかったでしょうか。これがデヴィッド・ハーヴェイの略図原型です。おあとがよろしいようで‥‥。

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図3
フォーディズム的なモダニティ対フレキシブルなポストモダニティ、
あるいは資本主義全体における対立する諸傾向の相互浸透
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【参考情報】
(1)デヴィッド・ハーヴェイは1935年生まれのイギリス人。ケント州ギリンガムに育ったようだ。そのころ風土や地理や景観に惹かれ、世界の切手を集めていた。なるほど、なるほど。ケンブリッジ大学で地理学を修めたが、早くに地理哲学やメタジオグラフィの必要を感じていたらしく、やがて経済地理学あるいは社会経済地理学の探求に乗り出して、そこから論理学、実証主義、マルクス理論、社会学、分析哲学、身体論、さらには文学、アート、グラフィズム、映像、写真などの成果をとりこみながら、独自の社会時空論のような領域を打ち立てていった。オックスフォード大学教授、ジョン・ホプキンス大学教授、、ニューヨーク市立大学教授を歴任。

(2)ぼくは今夜の千夜千冊では、ハーヴェイの思想形成史にまったくふれなかったけれど、初期の地理学研究がすでに計量地理学から初めて脱却した画期的なものであったことは、『地理学基礎論』(古金書院・原著1969)を覗いてみても、すぐわかる。そこにはカルナップらのウィーン学団から学んだ論理実証主義がはやくも生かされていて、きわめて意図的な方法意識を横溢させていた。

しかし、その社会理論性という点からすると、当時のハーヴェイはいまだマルクス理論の咀嚼にはとりくんでいなかったようで、そのころの理論的組み立ては、本人の弁によると「フェビアン社会主義に近いようなもの」だったという。マルクスに本格的にとりくんだのは、ベトナム反戦下のジョン・ホプキンス大学に移って、学生たちと『資本論』や『経済学批判大綱』にとりくんでからのことだった。その成果の上で書かれたのが『都市と社会的不平等』(TBSブリタニカ・原著1973)や『都市の資本論』(青木書店・原著1975)である。自由主義と社会主義の批判的な比較検討はこのへんから始まった。アンリ・ルフェーブルの影響も強かったようだ。
こうしてハーヴェイは資本主義を空間時間的に再構成するという試みに挑んでいく。それがぼくにはいささか退屈だった『空間編成の経済理論』上下(大明堂・原著1982)だったのである。ハーヴェイ自身は「この本が自分の一番のお気に入りだ」と言っているので、たぶんぼくの読み方が雑だったのだろう。

(3)本文でもふれたように、ハーヴェイの真骨頂は、ぼくには『ポストモダニティの条件』(青木書店・原著1989)、『パリ—モダニティの首都』(青土社・原著2003)にある。都市の経済地理学に肉薄しながら、時代社会の多様な断面を掬い上げていく手法は、実に鮮やかなのだ。この二つの著書のあいだに、『公正・自然・差異の地理学』(1996)を書いているようだが、ぼくは未見だ。いずれにしても、これらの著作を通しているうちに、ハーヴェイはグローバル資本主義の仮面に気が付き、それがポストモダン幻想と表裏一体になっていることに、がまんがならなくなったのだ。
こうして、『ニュー・インペリアリズム』(青木書店・原著2003)、『新自由主義』(作品社・原著2005)、『ネオリベラリズムとは何か』(青土社・原著2005)がたて続けに書かれたのだった。それにしても、デヴィッド・ハーヴェイが本気で読まれるようになるのは、もう少しあとのことになるだろう。というのも、われわれはいま、地学と地理学とマルクス学のいずれをも半分以上喪失したままであるからだ。
実は3日前の4月8日、「中央公論」の対談で佐藤優さんと初めて出会ったのだけれど、佐藤さんこそはマルクスを本気で読みなおしていた。そう、そう、これがなくてはハーヴェイも浮かばれないのである。

(4)ちなみに、本書『新自由主義』はとても編集がゆきとどいている。渡辺治による「日本の新自由主義」についての論文が付加されているだけでなく、基本用語解説、事項索引、人名索引もよくできている。監訳者の渡辺治は一橋大学社会学研究科の教授で、『高度成長と企業社会』(吉川弘文館)、『憲法改正は何をめざすか』(岩波ブックレット)、『企業支配と国家』『戦後政治史の中の天皇制』(青木書店)、『構造改革で日本は幸せになれるのか?』(萌文社)などがある。本書の翻訳には、森田成也、木下ちがや、大屋定晴・中村好孝が分担したようだ。