才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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市場・知識・自由

フリードリヒ・ハイエク

ミネルヴァ書房 1986

Friedrich von Hayek
Individualism~Liberalism 1945~1978
[訳]田中真晴・田中秀夫
装幀:石川九楊

ケインズを叩きのめしたハイエク。
自由主義経済と個人主義の旗手ハイエク。
「小さな政府」論と新自由主義(ネオリベ)の源流ハイエク。
新保守主義(ネオコン)の牙城ハイエク。「知識の分業」と「カタラクシー」を提唱して、
IT社会を予見したハイエク。
これらすべてがハイエクの凱歌なら、
たしかにとんでもなく凄いことだけれど、
さあ、うーん、はたしてそうなのか。
ぼくもついにハイエクやフリードマンの
お相手をしなければならなくなってきたようだ。
でも、そのあとは、たとえばルーマンやハーヴェイや、
あるいはいよいよ本気なリスク問題の
ネクストステージに向かいたい。

 ハイエクのような思想家を扱うのはちょっとめんどうくさい。日本中にうじゃうじゃいるエコノミック・ビジネスマンにはハイエクからやりなおしなさいと言いたいし、ハイエクを保守思想のバイブルにしたがる連中には、ハイエクのロジックは社会主義や全体主義や大政府主義に対してしか雄弁になりえないから、むしろハイエクが対立したケインズからやりなおしなさいと言いたくなる。
 一方、個人主義を標榜する連中には、たしかにハイエクの個人主義は今日の個人感覚の根底を提起したけれど、それはいまや「自由市場の中のネオリベ個人主義」になりつつあると釘をさす必要があるようだし、マネー資本主義に迷走して「自由」をはきちがえた連中には「ハイエクを読みまちがえている」と言う必要もある。
 これではハイエクの肩をもっているのかケチをつけているのか、こちらがおかしくなりそうだが、しかしまた、ハイエクやフリードマンらのシカゴ学派を信奉した連中には、その“新”自由主義(ネオ・リベラリズム)のロジックはごく一部しか貨幣論や金融論には使えまいとやっぱり言うべきだろうし、あるいは、ハイエクから「知識の自由」を金科玉条のように導きだす連中には、ちょっと待った、ハイエクの知識論は他の多くの知識論のなかでも最も狭いのではないかと突き放したほうがいいように思える。
 ようするにハイエクは半面では勝手に解釈されすぎていて利用され、半面ではハイエク自身がそんなふうに解釈されてもしかたがない市場主義と自由主義と個人主義を三位一体のままに謳歌しすぎたということなのだ。

 ハイエクの思想的背景には、カール・メンガーを領袖としたオーストリア経済学派と、その奥のデヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、アダム・ファーガソンという3人のスコットランド型社会哲学がある。もっと奥には崇高論のエドマンド・バーク(1250夜)も、カントもいる。
 実はジョージ・ソロス(1332夜)が依拠したカール・ポパーの「開かれた社会」も踏襲されている。
 まことに香ばしい。しかし、ハイエクがここから何を導き出したかといえば、いっさいの理屈を市場主義と自由主義と個人主義に帰結させた。その揺るぎない立場はお見事としか言いようがないけれど、それだけかよという気にもなる。しかも、そのわりには論争的だった。
 生まれは1899年、世紀末のウィーン。第一次世界大戦期に1年ほど兵役に携わったあとウィーン大学に入り、法学を専攻していながら、戦争の渦中で読んだメンガーの『国民経済学原理』に感動して経済学に転じた。
 前夜にも書いたように、メンガーは経済学史ではオーストリア学派の泰斗にあたる。その経済思想を一言でいえば、アダム・スミス以来の古典派経済学が「価値は生産費(および労働時間)で決まる」と考えたのに対して、「価値は消費者の“必要”で決まる」というところを強調した。いわゆる「限界効用」説だ。
 しかし価値が必要で決まるとは、その“必要”がいかにも心理的である。おそらくは、メンガーも所属していたウィーン学団の頭目であったエルンスト・マッハ(157夜)の感覚物理学の影響があったのだろうと思われる。マッハは実験事実は往々にして主観的な感覚によって構成される傾向があると見抜いていた。
 メンガーに始まったオーストリア学派は、ミーゼス、フランク・ナイト、シュンペーターというふうに続いて、結果的にはシカゴ学派に吸収されていった。けれどもハイエクはメンガーの影響を受けながらも、途中からしだいに旋回していく。旋回はハイエクのお得意だ。
 1931年にロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの客員教授に招かれたのをきっかけに(ソロスが入った学校だ)、その主任教授だったライオネル・ロビンズに認められ、当時話題になっていたケインズの『貨幣論』を批判したのが鷹の旋回の始まりだった。

 ケインズを批判したことは、その後のハイエクの思想形成の方向を決定づけた。
 ケインズは大蔵官僚で、男色が多いブルームズベイリー・グループのメンバーである。この連中は、知的で英明なエリートこそが社会を牽引すべきだと考えている(どの国でも官僚とはそういうものだ)。ケインズも、政府や役所こそが手助けをして国の財政や景気や失業の舵取りをすべきだと心底思っていた。ケインズ経済学の特色がまさしくそういう「市場介入」にある。そこには「社会や市場は不確実なものだ」という強い認識があった。
 この「不確実性」がどういうものかということについては、すでにフランク・ナイトが1920年代に、「計算可能なリスク」と「計算不可能な不確実性」とを区別していた。前者は保険などでリスクヘッジができるリスクだけれど、中東や朝鮮半島でいつどんな規模で戦争がおこるかとか、円高がどこまで進むとどんな恐慌がおこるかというようなことは、不確実なことなのである。だから政府や官僚は心してこの不確実性を前提に政策に取り組まなければならない。
 ぶっちゃけていえば、この考え方を強調したのがケインズの立場だった。ケインズは貨幣の本質も、将来の不確実性に対する備えにあるとみなしていた(この貨幣観はけっこう画期的だった)。
 それに対してハイエクは、社会や経済に不確実性があることはケインズ同様に認識していたのだが、そこから先はまったく逆で、だからこそ市場の自立性や自在性に事態の推移を任せるべきだと考えた。市場はとことん自律的に動くべきもので、政府はよほどのこと以外は手を出すべきではない。ハイエクはそちらのほうに立った。
 かくて二人は激しく論争をするのだが、このときはケインズが凱歌を挙げる。世界は大恐慌に見舞われ、ルーズベルトは“大きな政府”としてのニューディール政策を導入したからだ。それでもハイエクは自分の経済論にこだわり、1941年には『資本の純粋理論』を上梓する。けれどもこれはまことに不出来なものにおわった。ハイエクはこれを最後に経済学プロパーの理論構築には手を出さなくなった。

 ハイエクの時代は戦争の時代であり、恐慌の時代であり、社会主義の時代であり、ファシズムの時代である。
 このいずれにも関心をもって対峙しようとしていたハイエクは、次には社会主義批判に乗り出した。ソ連を相手にしただけではなく、身近な社会主義学派も批判した。
 当時、イギリス労働党は社会を集権的な「計画経済政策」を打ち出していた。すでに1920年にはミーゼスがその欠陥を突く論文を書いていた。ハイエクはその論文を英訳しつつ、『集産主義的経済計画』(1935)を発表し、さらに『隷属への道』(1944)によって全面的な社会主義批判と、加うるにファシズム批判を展開した。大当たりした。ハイエクの名が高まるのはここからだ。
 この名声は“現代保守思想の金字塔”のように扱われることが多い。とくに「自由」の定義を「強制しないこと」と捉えたことが大いに迎えられた。しかし、あとでもちょっと説明するが、はたして自由が非強制だけで説明できるものかといえば、難しい。
 けれども社会主義とファシズムがあからさまな「強制と計画」にもとづいていたと見えていた時代、「強制からの自由」を徹底して説いてみせた『隷属への道』は、真実に目をつぶらない社会哲学者ハイエクの名声をいやがうえにも高めた。
 それはいまも一部に続いていて、たとえばわが国では、渡部昇一が『隷属への道』を論拠にしきりに「マルクス主義を殺したハイエク」「自由を守ったハイエク」というふうに持ち上げている。

 評判になった『隷属への道』の翌年、戦後が到来した。1945年、ハイエクは『社会における知識の利用』(本書に包摂されている)で、さらにヒットを飛ばした。この論文はハイエクの数々の著作のなかでも最も質がいい。たしか岩井克人(937夜)が「ハイエクはこれに尽きている」とさえ言っていた。
 古典派経済学の考え方は、市場が効率的に資源を配分するという大前提に立っている。ハイエクはそれはその通りだが、そこには重要な条件が隠れていると見た。
 古典派の大前提では、市場に参加するすべての者が完全な知識をもっていると想定されているのだが、そんなことはありえない。それにもかかわらず市場はうまく動いているのだとすると、むしろ本当は、不完全な知識が市場に参加することによって、うまく分業されているのではないか。つまり知識もまた、アダム・スミスが「労働の分業」を説いたように、分業されているのではないか。そう、見たのだ。
 この指摘は鋭かった。スミスが想定した完全なホモ・エコノミクスとしての経済人なんて、ありえなかったのである。でこぼこで気象もめまぐるしい実在の地球を、つるつるで均一的なジオイド地球にするようなもので、そんなものは市場にいなかったのだ。
 そこでハイエクはさらに、市場の自由度と知識の自由度の関係に目をつけた。知識には「客観的な知識」とともに「個人的な知識」があって、市場に関与するのは後者のほうではないか。そう、読んだ。
 ハイエクが影響をうけたカール・ポパーは、「開かれた社会」では知識(客観的な知識や科学的な知識)が機能すると言った(1332夜参照)。しかしハイエクの見るところ、政府が上から流しこむような知識は市場にとってはありえないか、むしろ邪魔なもので、個人的知識こそが市場とともに分業されている。そういう姿こそが望ましいと結論づけたのだ。

 これはハイエクがポパーと別の道に進む分かれ目でもあり、また社会は「無知」に覆われているというハイエク独特の社会哲学のスタートでもあった。またさらには、ハイエクが「自由」を「強制からの自由」だけではなく、既存のいっさいの知からの解放と捉えていく方向の確立でもあった。
 つまりは、ここにハイエクを自由主義の祖父とも新自由主義の父とも呼びたくなる拠点が築かれたのである。
 このような考え方は、経済思想としてはもともとはワルラスが価格理論において「オークショナーが分散する需給データ(知識)を調整する」とみなしていたり、ミーゼスが「そうした作業を企業家がしている」とみなしたことを承けたもので、ハイエクは当初は、不完全な知識は市場とのやりとりによって能動的な均衡価格の予測という方向をもった知識になっていくというふうに捉えていた。それをしだいに社会哲学的に一般化して、知識論のかたちにしていったものだった。
 個人の知識には限界があるので分散されざるをえず、それゆえその分散された知識を市場で統合していけばいいというハイエクの発想は、知識を「情報」とおきかえてみればわかるように、高度情報社会や今日のITネットワーク社会を先取りしていた。各自が勝手に知識情報をウェブにのせていけば、その知識情報はほぼ自由に使えるものになる。「ウィキペディア」などを想定すればいい。
 しかしとはいえ、すべての人間の自由が無知にもとづいていて、それが市場によってのみ別の様相に変わっていく、あるいは進化していくというのは、かなりの決めつけでもあった。

 以上でだいたいの見当がついたと思うが、ハイエクの経済思想や社会哲学の中核にあるものは、実にはっきりしている。
 ①市場には「自生的秩序」(spontaneous order)がある。②知識は分かれて集めなさい(division of knowledge)。③個人主義は合理的な自由主義である(rational individualism)。まとめれば、この3つだ。
 では、これをどう見るか。諸手をあげて賛同するというわけには、いかない。納得できるところと不服なところが、まじっている。今夜、言いたいことをみんな言う気がないのであとあとのことを予定しつつ、遠慮しながら書くことにするが、それでもぼくはいろいろ注文を出さざるをえないのだ。

 ①についての注文。
 市場には「自生的秩序」があるというのは、あらためていえば、市場は誰も設計できないということで、市場は非人格的なメカニズムで動くということである。アダム・スミスが想定した「見えざる手」がここに生きている。
 それはいい。ハイエクは何であれ設計主義的(constructivism)な無理解を嫌ったわけである。各人の自由意志による「たまたま」が好きで、それは放っておきたかったのだ。実際にも、「市場では人はたまたまそれに出くわして(stumble upon)、それに従うことの効果を気づくのだ」とも書いている。
 しかし、人は市場にたまたま出くわすのだろうか。そこでの効果を知らないまま参入するのだろうか。そんなことはあるまい。
 市場に創られる秩序のことをスポンティニアス・オーダーと言っていることも気になる。市場をあたかも自然や生命のふるまいのように見ている傾向がある。
 これについては、かつて今西錦司(636夜)が桑原武夫(272夜)の司会でハイエクと対談したとき、ハイエクが「社会のルールも進化する」と言ったとたん、今西が「またしても効用説ですね。ナチュラル・セレクション・セオリーの提灯もちですね」とあしらったことがあるのだが(NHKブックス『自然・人類・文明』)、そのことを思い出す。ダーウィニズムを社会にあてはめているだけじゃないかというのだ。
 べつだん今西だけに軍配を上げるというのではないけれど、また今西が言うほどハイエクはダーウィン主義者でもないし、ハーバート・スペンサーふうの社会進化論に加担しているわけでもないと思うのだが、このハイエクの非設計主義と市場自律主義とをあまりに強調すると、ジャック・モノーの『偶然と必然』における生物の無意図性や、リチャード・ドーキンス(1069夜)のセルフィッシュ・ジーン(利己的遺伝子)説を過剰にしたような方向へ行きかねないともいえるのだ。
 ここは、そのうちそんな話も書いてみるつもりだが、今日の思想でいうなら「オートポイエーシス」などから考えなおしたほうがいいと思われる。

 ②についての評価と注文。
 ハイエクは、知識が社会のなかで任意に分散していると見ていた。任意な知識は、それぞれの専門や無知によって分断されて、とくに「それを知ること」(knowing that)と「使い方を知ること」(knowing how)がまちまちになっていると見ていた。これも、いい。これは当っている。そこでハイエクは、そのような知識はアダム・スミスが分業を重視したような意味で、知識を市場に放りこんで分業的統合へ向かわせる必要がある。そう、考えた。
 そのための「カタラクシー」(catallaxy)というモジュールも発想していた。この言葉はハイエクの造語で、統一的ヒエラルキーに対抗する概念になっている。ギリシア語の“katallatein(catallassein)”に由来するカタラクティクスの科学を想定したもの、網の結び目のようなものをいう。個々人の自発的な取引から自生的に発生してくるような、無意図的で目的独立的な経済組織の結び目がカタラクシーなのである。
 ハイエクは後年になるにしたがって、カタラクシーを知識の離合集散の度合のためのキーワードとしても、使うようになった。エコノミーが社会を統御するのに対して、カタラクシーは価格シグナルなどによって人々を離散集合させると見たわけである。
 このカタラクシーやカタラクティクスの提案も、いい。たしかに知識はそのように動くべきである。
 ただし、そのようなことをもって、ハイエクは一貫して「知識の自由」のありかたを説いたとギョーカイが評価しすぎるのはどうか。それでは知識と自由がくっつきすぎている。ハイエクの知識と自由の関係はあくまで「既存の知識からの自由」というもので、その自由は無知が根底なのである。それなら、その無知は老子(1218夜)や荘子(425夜)が言うような無知や無為自然や「無明の明」に近いものかというと、まったくそういうものでない。もっと合理的な「方向をもった無知」なのである。
 これでは、どこかに全知の神が隠れていて、われわれが無知から出発させられているような構図になりすぎる。そのあと神は「見えざる手」となって、市場にあらわれるというのだろうが、これは気にいらない。
 では、どうしてハイエクはそのように知識を捉えてしまったのかというと、実はその知識は「情報」とほぼ同義というべきもので、それ以上でも、それ以下でもなかったのである。知識を、科学的知識、慣習や法などの一般的知識、時間と空間に制約された具体的知識、および主観的知識に分類しているのも、知識の内実よりもその使い方のほうに重点がおかれていることを示している。
 ハイエクが「知識は分かれて集めなさい」と言うのは、市場は情報を集める場であるということ、市場を通せば情報は自由に使えるものになるということにすぎなかったのである。まるでグーグル・アマゾンのキャッチフレーズのようなのた。

 ③についての注文。
 さて、一番気になるのは、ハイエクが自由を重視しているのではなく、自由を正当化しすぎているのではないかと思えることだ。
 1277夜にも書いたように、「自由主義」(liberalism)という用語はかなり新しいものである。「リベラル」(自由な)という言葉が政治的な用語として浮上したのは、19世紀になってからのことで、厳密には1812年にスペインの自由主義派(Liberales)が用いたのが最初だった。
 少し遅れてこのリベラルズが、1830〜40年代の七月王政下のフランスの小党に使われ、ギゾーの純理派へ、さらにギャランティズム(保証主義)となり、これが1840年代にイギリスでホイッグ党と急進主義者が合体した「自由党」を名のったときに、自由主義(リベラリズム)が一つの政治的な立場をあらわすものになっていった。この程度の歴史なのである。
 もちろん思想的前史はあった。自由主義というより、近代的自由の思想を準備したのは、スチュアート・ミルの『自由論』を別格とすれば、今夜の冒頭にもあげたデヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、アダム・ファーガソンという、3人のスコットランド人なのである。まさにハイエクが継承した3人だった。ここに着目したハイエクはさすがなのである。
 それはそうなのだが、もっともこの3人が唱えたことは、「経済的な自由なくしては政治的自由もなく、個人的自由もない」ということが最大公約数(最小公倍数?)であって、それを超えるものではない。
 だからハイエクの自由論がここに起点をおいているとはいえ、そこからはサン・シモンのような産業組合的自由のほうにも、マルクスが言う階級的自由のほうへも、カール・ポパーの「開かれた社会」のようにも、自由はいろいろ発展していってかまわないはずなのだ。
 しかし、ハイエクは『隷属への道』やその後の『自由の条件』で、かなり独断的な自由論を展開していった。とりわけ「自由の基本法」としては、さきほどから説明してきたように、「自由とは、他人からの強制を受けない」という状態をさすとしたのだが、そのうち自分が考える自由は、世の中で言われている「政治的自由」「力としての自由」「内的自由」などとは違っていることを強調し、もっともっとミニマム(マキシマム?)な自由のほうへ向かっていったのだった。

 こうしてハイエクの自由は、財産所有権、法の下での自由、移転の自由、職業選択の自由、恣意的な拘束からの自由といったものに特化されていったのだ。
 これらはいまでは基本的人権とされているものとあまり変わらないように思えるだが、ハイエクはそれをこそ自由と言って頑くなに譲らない。とくに政治的自由とトレードオフになるような自由を排するべきだという立場を固守した。
 これをよく言えば、ハイエクの自由はどんな力とも富とも与(くみ)さない自由だということでは、たいへんナチュラルである。しかしながら、このような自由は個人に付与されたミニマム(あるいはマキシマム)なものとしてはナチュラルでピュアであったとしても、さて、これが市場を出入りするときの自由性を保証している証拠なのかといえば、これはあやしいと言わざるをえない。つまり自由資本主義とか資本主義的自由というものとハイエクの自由とが結びつくのは、理屈のうえでも考えにくいのだ。
 とくに市場に出入りするのが企業や組織であるばあい、それがハイエクの自由によって資本主義的自由を成立させているとは言いにくい。むしろ資本主義的自由の名のもとに隠れて、企業も組織も投資家も法すれすれをすりぬけて利得に走っているから、それが不安定であれ市場の自由を保障していると言ったほうが実態に近いはずなのだ。
 というわけで、どうもハイエクは自由を正当化しすぎたか、あるいは、自由の正当性をハイエク自身のワンウェイ社会理論のために純化しすぎたとみなされるのだ。

 まあ、今夜はこんなところでいいだろう。ぼくとしてはハイエクを論じることが目的ではなくて、ハイエクを通過しておくことがこれからの議論に必要だったのだから。
 しかし、このようなハイエク思想がその後はフリードマンのシカゴ学派と合流して、いわゆる新自由主義(ネオリベラリズム)の牙城となっていったことについては、もう少し説明がいるところだろう。けっこう決定的なことがおこっていったのだ。
 なぜといって、1979年にイギリス首相となったマーガレット・サッチャーが保守党の党首に指名されたとき、ブリーフケースの中から得意げに「これがわれわれの信じているものだ」と取り出したのは、ハイエクの『自由の条件』の合冊本だったのである。
 いったいこんなことがどうしておこったのか。サッチャーやレーガンはその「信じているもの」で何をやってのけたのか。それでその後はどうなったのか。こういうことを説明するには、もう少しいろいろな事情を点検してかなければならない。モンペルラン・ソサエティのこと、ミルトン・フリードマンのこと、シカゴ学派のことは早めに点検する必要があるだろう。そして、そのような事情のなかでどうして「資本主義的自由」が市場原理ばかりに集中しているように思われてしまったのかということについても、議論する必要があるだろう。
 いや、もっといろいろなことを考えたい。とくにぼくが感じるのは、ハイエクがシステムについての思索を欠いてしまったことが大問題だったということと、ハイエクは結局のところはリスクを理念的に消してしまったのではないかということなのだ。
 これは、理念上はともかくも、思想的にも実際的にもありえないことである。明くる新年からはそのあたりに脚をのばすことになるが、いやいや、年の瀬はもうちょっとハイエクが吹き残した空っ風の中を歩きたい。

【参考情報】
(1)本書はフリードリヒ・ハイエクの著書のタイトルではなく、ハイエクの8本の論文を手頃にまとめた論文集である。田中真晴が構成した。だからこのタイトルの本は日本にしかないのだが、ぼくはとても気にいった。編訳者の田中は京都大学、甲南大学、龍谷大学教授を歴任ののち、2000年に逝去した。

(2)ハイエクの著作はその大半が『ハイエク全集』(春秋社)に収められつつある。『隷従への道』は社会思想社のものと春秋社版全集の別巻がある。そのほか、『貨幣発行自由化論』(東洋経済新報社)、『ハイエク、ハイエクを語る』(名古屋大学出版会)など。
 ハイエクを論じた本はかなりあって、多彩だ。グレイ『ハイエクの自由論』(行人社)、バトラー『ハイエク:自由のラディカリズムの現代』(筑摩書房)、ノーマン・バリー『ハイエクの社会・経済哲学』(春秋社)、古賀勝次郎『ハイエクの政治経済学』(新評論)、古賀『ハイエクと新自由主義』『ハイエク経済学の周辺』(行人社)、間宮陽介『ケインズとハイエク』(中公新書・ちくま学芸文庫)、池田信夫『ハイエク:知識社会の自由主義』(PHP新書)、渡部昇一『自由をいかに守るか:ハイエクを読み直す』(PHP新書)、山中優『ハイエクの政治思想』(勁草書房)、渡辺幹雄『ハイエクと現代リベラリズム』(春秋社)など。

(3)ハイエクはケインズと真っ向対立したが、実はケインズこそハイエクの限界を見るうえでは最も有力な思想の持ち主だった。とくに貨幣については、じっくり比較するのがおもしろい。ケインズの『貨幣改革論』(中央公論社)とハイエク『個人主義と経済秩序』(全集3巻)を読みくらべると、ひょっとするとケインズのほうがずっとラディカルだったようにも見えてくる。
 もっともハイエクには『貨幣発行自由化論』に提案されているような、「貨幣の非国有化」というアイディアがあって、民間で貨幣を自由に発行するべきだという幣制論があった。管理通貨制度に反旗を翻したものだった。電子マネー時代とユーロなどの共通通貨時代の今日、これからこそ、あらためて議論されるとおもしろい。大阪大学の山本貴之に味読すべき論文があった(「大阪大学経済学」1988~1989)。

(4)本書の装幀は書家の石川九楊だ。へたくそな図らしきものがあしらわれていて、そこに筆だかサインペンだかでのグラフのようなものがくっついている。ぼくには合点できない意見は多々あるものの、石川九楊の文章はおもしろい。書壇には欠けていたクリティックを持ち込み、書を思想界に普及することに努めた手腕はそれなりに評価されるべきだ。だが、書家としての九楊はつまらない。つまらないどころか、書になってない。まあ、ネオリベ議論のこんなところで急に言い出すことではないけれど‥‥。