才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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「フクシマ」論

原子力ムラはなぜ生まれたのか

開沼博

青土社 2011

編集:菱沼達也
装幀:戸田ツトム

このごろ双葉にはやるもの、
飲み屋、下宿屋、弁当屋。のぞき、暴行、傷害事件。
汚染、被爆、ニセ発表。
飲み屋で札びら切る男、魚の出どころ聞く女。
起きたる事故は数あれど、安全、安全、鳴くおうむ。
なりふりかまわずバラまくものは、
粗品、広報、放射能。
運ぶアテなき廃棄物、山積みされたる恐ろしや。
これは、1972年に結成された
双葉地方原発反対同盟がつくった「原発落首」だ。
40年前に、すべてが言い尽くされている。
以下、そのフクシマをめぐる数冊を紹介する。
類書は多いが、ややディープなものを選んだ。

◆若松丈太郎『福島原発難民』(2011・5 コールサック社)

 福島が「フクシマ」になったのは3・11以降のことではなかったことを言いたくて、まず詩集をとりあげる。『鎮魂詩四〇四人集』(1408夜)のコールサック社の詩集シリーズのなかの一冊だ。サブタイトルが「南相馬市・一詩人の警告 1971年~2011年」になっているように、著者は南相馬市に住む詩人で(1935年生まれ)、福島第一原発が完成する前の1971年から地元紙や詩人会誌などに原発問題がもたらす危険性を指摘してきた。
 1989年の随筆詩には、国会が日本のブラックボックスの最たるものであると書いたのち、「私たちは東京から300キロ地点にあるブラックボックスの住人である」とも示した。1994年にはチェルノブイリ福島県民調査団に参加し、半径30キロ地帯を歩いた。そのあとに書いたのが、話題になった長詩『神隠しされた街』である。連詩『かなしみの土地』のひとつだ。アーサー・ビナードが英訳していると聞いた。
   私たちの神隠しはきょうかもしれない
   うしろで子どもの声がした気がする
   ふりむいてもだれもいない
   何かかが背筋をぞくっと襲う
   広場にひとり立ちつくす
と結ばれる。
 フクシマの苦労や葛藤や悲劇や食い違いは、すでに1971年には始まっていたわけだ。そのことは、本書にとりあげられているわけではないが、ぜひとも紹介したいので書いておくのだが、1972年に結成された双葉地方原発反対同盟がつくった「原発落首」にも、抉り出されている。こういうものだ。
 「♪このごろ双葉にはやるもの、飲み屋、下宿屋、弁当屋。のぞき、暴行、傷害事件。♪汚染、被曝、ニセ発表。飲み屋で札びら切る男、魚の出どころ聞く女。♪起きたる事故は数あれど、安全、安全、鳴くおうむ。♪なりふりかまわずバラまくものは、粗品、広報、放射能。運ぶアテなき廃棄物、山積みされたる恐ろしや。♪住民締め出す公聴会、非民主、非自主、非公開。♪主の消えたる田や畑、減りたる出稼ぎ、増えたる被曝。♪避難計画つくれども、行く意志のなき非避難訓練。不安を増したる住民に、心配するなとは恐ろしや」。
 この「原発落首」は、1968年から始まった福島第二原発建設計画に対して、双葉町の住民たちが立ち上がった運動から生まれた。双葉町は長らく“福島のチベット”と呼ばれてきた貧困地域だった。
 けれども、このまま原発反対運動が高揚したわけではない。このとき双葉地方原発反対同盟の委員長だった岩本忠夫は、その後は1985年から20年にわたって双葉町長となり、“転向”して原発立地推進の立役者となっていった。事態はつねに紆余曲折を孕んでいったのだ。
 こうしてフクシマは葛藤の裡に原発を次々にかかえる地域になっていく。原子力ムラは双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町にふえていく。若松は、福島原発を中心にした半径30キロ(双葉町・大熊町・富岡町・楢葉町・浪江町・広野町・川内村・都路村・葛尾村・小高町・原町市・いわき市北部)に住んでいるのが15万人であることと、チェルノブイリ30キロ圏に15万人がいたこととの不気味な暗合も指摘していた。

被災地(南相馬市)に佇む著者。
若松丈太郎『福島原発難民』(2011・5 コールサック社)より

◆佐藤栄佐久『福島原発の真実』(2011・6 平凡社新書)

 著者の佐藤栄佐久は、5期18年にわたって県政の前線に立ってきた福島県前知事である。1983年に当時の宏池会の福島出身議員であった斎藤邦吉・伊藤正義らの支援をうけて参議院議員となり、5年後に転じて知事選で勝利した。保守本流の政治家であるが、フランス大統領を務めたジスカールデスタンの『人間から出発する社会』を読んで、「プルーラリズム」(複数主義)による地方政治をめざした。
 プルーラルな地方政治というのは、首都圏機能の移転やリゾート乱開発抑止の新地域主義を標榜し、これを中央との交渉条件につかって地方の孤立を防ぐという政策をいうのだが、そういう手を打ったからといって中央との駆け引きがうまくいくとはかぎらない。佐藤も苦労した。実際にも原発政策や地方分権問題や道州制計画など、多くの政府方針と対立することになった佐藤は、再選を続けていくにしたがって中央の圧力を陰に陽に全面的に受けていく。
 挙句、2006年9月に県発注のダム工事をめぐる汚職事件で特捜検察の追及にさらされ、知事を辞職せざるをえなくなると、10月には弟とともに逮捕された。冤罪としか考えられなかった
 逮捕後、佐藤は『知事抹殺』(2009・9 平凡社)を世に問うた。冤罪に至る一部始終を、フリーランスの高瀬文人の構成力と平凡社の松井純・金澤智之のエディターシップを借りながら綴り上げたもので、県政の進捗と事件の経緯は順を追って詳しい。気骨まんまんの文章で、国を攻めるところはしっかり爪を立てていて、なかなかセンセーショナルな内容だった。原発をめぐる「フクシマの原則」をつくった事情やプルサーマル計画をめぐる憤懣やるかたない思いも吐露されている。

 その佐藤の第2弾が本書『福島原発の真実』である。同じく平凡社の金澤智之が編集担当した。
 こちらは3・11以降のもので、すでに知事を辞めていた時期ではあるが、3・11福島原発のメルトダウンが国と東電による「嘘と欺瞞のメルトダウン」だったこと、その伏線は知事時代からとっくに始まっていたこと、原発政策に対する問題提起がことごとく握り潰されていたことなどを縷々説明する。前著と重複している内容も少なくない。

 そもそも佐藤が1988年9月に福島県知事になって4カ月後に、福島第二原発3号機の原子炉が手動停止するという事故がおこっていた。東電トップが謝罪にきたものの、このときの東電の態度やその後の対応で、佐藤は原発管理を支える「ムジナの力」のようなものに違和感をもった。善悪の判断をことごとく同じ穴に入れてしまうムジナのような力が原発政策のどこかにあると感じたのである。
 この違和感は、東電がプルサーマル計画とベルギー製のMOX燃料の安全使用を説明してきたのち、1999年9月に東海村JCOの核燃料加工施設で臨界事故がおこり、さらに東電と保安院に何度ものトラブル隠しの発覚が続いていくなか、しだいに疑念に変わっていく。以来、佐藤は一貫して中央に対して「風林火山作戦」をとる。
 中央からの圧力には風のごとくすばやく県の立場についての声明を出し、その後の揺さぶりには林のごとく静まり、一方で火のごとく県条例をもって核燃料増税を仕掛け、どんな国側や業界の説明や釈明にも山のごとく動じない、というものだ。しかし、こんな風林火山作戦も空振りや裏切りも多く、佐藤は“知事抹殺”された。無念だったろう。
 原子力政策の地方への浸出と浸透は、そこに必ず巨額のマネーの行方が介在していたこともあって、一人の知事の抵抗ではどうにもならなかったのである。それでも1991年、双葉町議会が原発増設の決議をしたとき、佐藤は早々に原発政策に対して疑問を呈していたのだが、先に記した岩本忠夫の“転向”に如実だったように、その反原発も足元からも崩れていたわけで、このような原子力ムラの複雑骨折のような伸長を抑制できなかったことも、佐藤の誤算となった。
 佐藤が無力だったのかといえば、必ずしもそうとはいえない。それはすでに日本の戦後政治が地方社会に埋め込んだ執拗なプログラムであって、もはや一人の知事の力ではどうしようもなかったのである(小泉政権の三位一体改革に臨んだ知事会をもってしても、中央突破は難しかった)。しかも「フクシマ」はそうした中央の犠牲を強いられた“念入りの典型モデル”だったのだ。
 ところで前著の『知事抹殺』で、佐藤が右翼の大物・四元義隆にかなり抱きかかえられていたことを知ったのだが、これはちょっと意外だった。四元といえば井上日召や安岡正篤の影響をうけて血盟団事件に連座し、戦後は田中清玄(1112夜)から三幸建設の経営を引き継いだ“最後の右翼の大物”である。細川内閣でも影の指南役だった。その四元が佐藤を“自分の作品”だと思っていたらしいこと、本書を読むまで知らなかった。

◆開沼博『「フクシマ」論』(2011・6 青土社)

 社会学的な構成と地味な論述に徹していながら、この本はけっこう評判になった。帯に佐野眞一(769夜)、姜尚中(956夜)、上野千鶴子(875夜)の推薦文がくっついている。ゴーカでイミシンな3人だ。
 著者は東大の情報学府の気鋭の社会学者で(1984年生まれ)、在学中は吉見俊哉や姜尚中や上野千鶴子の指導をうけた。とくに上野ゼミで鍛えられたようだ。さぞかしだったろう。ぼくも上野ゼミの評判は聞いている。
 その著者がフクシマを研究する気になったのは、いわき市に生まれ育ったからで、それもあって2006年から福島原発の調査研究に本気でとりくんできた。当時、テレビ・新聞・雑誌が流すメディア情報や「ネットにはどんな細かい意見も拾い上がっている」という虚妄の上に満たされたウェブ情報などでは、とうてい福島原発のことはわかるまいと感じていた著者は、「原子力という鏡」に映し出された日本の戦後社会の本質的な断面をフクシマにおいて切り出し、できるだけ炙り出そうと考えて、メディア情報では得られない何かを求めて徹底取材に乗り出したのだ。
 テーマは、「中央と地方」「日本の戦後成長」「メディアとしての原子力」を通してフクシマにあからさまになった「加害と被害」の複雑な実様を描くことにある。これは戦後日本や現在日本の切り口としては多くの研究者やジャーナリストが設定するもので、とくに目新しくも深くもない。しかし、このことをフクシマにおいて現出させるというところが着眼だった。そこへ3・11の原発メルトダウンがやってきて、開沼の一貫した研究姿勢が評判になったわけである。
 本書は、3・11以前の1月14日に修士論文として提出されたテキストで構成されている。文章が堅くて稠密な配慮が目立つのはそのせいだろうが、よく読むと、ここからダイナミックな構図が整理されながら浮かび上がってくる。佐藤栄佐久へのインタヴューも下敷きになっていて、佐藤が「風林火山作戦」をもってしても倒れていった理由も、よくわかるようになっている。

 で、問題は福島はいつから「フクシマ」になったのかということだ。開沼の整理では、戦後政治が地方を服従させることによって復興・高度成長・GNP・GDP伸長を計画した当初から、福島はフクシマに向かって、中央の「原子力村」は地方の「原子力ムラ」を弄ぶことに向かって、一種の国内コロニアリズムのようなものが始まっていたのだという。
 開沼はそこを、「それまで農林漁業を中心に自給自足的に成立してきたムラ、つまり、それ自体独立してきたムラが、戦時下において国家の体系のなかに取りこまれるとともに、中央の余剰、つまり高度な都市のなかに政治・経済・軍事等の機能を集中してもち、その現場となってきたがゆえに、そのシステムは内部では処理できず、対外的な膨張にも任せられないこと、その引き受け手としてムラが動員されていった」からだ、と説明する。
 このようなことはすでに、福島県下では常磐炭鉱をめぐる推移や、大野村と熊町村が合併して大熊町になっていった経緯や、只見川電源開発計画の進捗などに如実にあらわれていた。しかも、これらは只見川ダム計画で吉田茂が白州次郎を東北電力の会長にもってきて決着を見たように、中央の説得に地方が服従するというしくみによって動いていた。
 しかしとはいえ、これらの施策は高度成長期といえども、日本列島の各地に「富」をもたらすものではなかった。貧困地域や不活性地方は、いくらでもあった。ここに新たな「富」と「地方活性」を謳い文句に、するすると登場してきたのが中曽根康弘と正力松太郎によって導入された原子力政策、すなわち「日本を原発列島にする政策」だった。
 中曽根・正力コンビの原子力政策の顛末とアメリカがらみの茶番については、『原発・正力・CIA』でも紹介しておいたけれど、ここには本書が新たに強調したこともあった。
 それはこのときから、中央の原子力村と地方の原子力ムラのバランスを巧みに補完する、吉岡斉が名付けるところの「二元的なサブガバメント・システム」が動きだしていたということだ。原子力開発利用を推進するため、二つのグループが分かれてそれぞれの利害対立を調整しながら事業拡大をめざすというシステムである。かくて電力事業体と通産省のグループと、科学技術庁を中心としたグループとが、国の原子力政策と地域におけるその受容を巧みに演出していった。
 本書はこのサブシステムの作用がかなりはたらいて、福島のフクシマ化をもたらしたと見ている。

メディエーター「地方」の転換。
開沼博『「フクシマ」論』(2011・6 青土社)より

 もうひとつ、本書が示したことは、近現代日本が見せてきた中央と地方の関係の構図の変移である。
 近代日本は明治維新によって中央集権体制をめざし、官選知事を中央からのエージェントとして次々に地方に送りこむという統治システムを確立してみせた。このことは、地方への鉄道敷設や電信電話網の拡張、および水道・電力などのインフラの全国化と工場建設をもたらし、場合によっては地方に自生してきた習慣や秩序とぶつかるものだったはずなのだが、近世社会がつくりあげた地方に根付いていた自律性や独自性を壊すにはいたらなかった。
 日本のムラ社会はそれなりに強靭だったのである。柳田国男(1144夜)が「家々の紙窓がガラスになり、各家に電話がかかって、電報が届けられても、まだ日本の民俗はそれを受け入れてその基本を変えようとはしなかった」と述べた通りだ。
 ついで戦時下に向かうにつれて、新たな中央集権体制がくみなおされた。そのシステムは一億総力戦の強要ではあったが、それでも地域の結束感や隣組関係を大きく変更することにはならなかった。
 それが戦後のGHQによる民主化改革が断行されていったとき、開沼が言うには、「総力戦」路線の残留と「民主化」路線との混在がおこっていったのだ。中央に合わせる総力性と、各地域が民主化をめざすという相反する目標が二つながら作動して、その結果、多くのムラを国家のために“動員”するような組み立てを進行させていったのだ。
 これが日本の高度成長のしくみというものである。戦後のダム建設ラッシュ、道路建設ラッシュ、そして原発建設ラッシュとは、その如実な産物だったのである。
 しかし成長はいつまでも続かない。経済力が鈍化し、代わってグローバリズムの波が日本列島に押し寄せてくると、中央と地方の関係は変質していった。地方が中央に従うシステムの基本は変わっていないものの、かつてのような中央と地方を媒介する中間機構やメディエーターが省略され、中央と地方がダイレクトに交渉するようになっていったのだ。フクシマ、六ヶ所村、各地の原発誘致、そして最近の普天間基地移転問題をめぐる国と沖縄のダイレクトな関係が、そのことを端的にあらわしている。
 佐藤栄佐久知事が試みた中央とのダイレクトな確執も、このような時代の変移とともにもたらされたものだったわけである。

 本書は、ガヤトリ・スピヴァクのポストコロニアル研究の手法を下敷きにしている。スピヴァクが『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)などで試みたのは、イギリスがインドを植民地にしたことによって過剰な自民族中心主義に陥り、そのため「インドという他者」を「イギリスという自己」の勝手な〈善〉で抑圧してきた意味を問うことだった。
 開沼はこの問いが「フクシマ」にもあてはまると見た。西洋的主体と植民地主体による代弁のなかで、両者から排除され社会移動困難な存在としてのサバルタンを規定する議論を、西洋的植民地主義を内在化した日本に移し替えることができると考えたのだ。
 そういうふうに見ることは可能であろう。けれども、これだけではいささか単調な移し替えだった。セオリー・ビルディングの方法としても単線的すぎる。スピヴァクもいいけれど、この著者の力量ならばもっと複合的な移し替えを試みてもよかったのではないか。とくに、戦後社会のフクシマ化のほうに分析モデルが片寄りすぎて、日本がグローバル資本主義に組みこまれていったプロセスの分析が不足したきらいがあった。
 ではどうすればいいかは今後の著者が考えるべきことだが、たとえばの例として、経済地理学のデヴィッド・ハーヴェイ(1356夜)の新自由主義批判やジョン・グレイ(1357夜)のグローバリズム批判との比較を試みてもよかったし、また日本の地域コミュニティがフクシマ化をせざるをえなかった理由をジグムント・バウマン(1237夜)やジェラーデ・デランティに尋ねて、新たな分析モデルを見いだしてもよかったのではないか。今後の展開と深化を期待したい。

これまでの研究と本書との違い。
開沼博『「フクシマ」論』(2011・6 青土社)より

◆たくきよしみつ『裸のフクシマ』(2011・10 講談社)

 本書はフクシマの現地に住んでいる者が綴った3・11以降の読みものとして、最も説得力がある一冊だった。
 叙述は有能なカメラワークのようで、それをリアルタイムな事態の進行テンポにあわせてスパスバと文章にしていく文体も小気味いい。350ページほどあって、ぼくのふだんの読書術からすると30分ほどで読むのが通例なのだが、ついつい3時間ほどかけてじっくり読んだ。読後感も気分がよかった。
 この著者には以前から注目していた。1991年に『マリアの父親』という小説で「小説すばる新人賞」を受賞した。自然と生命の相互環境性のなか、人間社会における「負のエントロピー」がどのように動いているのかというテーマを背景にひそませ、これをメルヘン仕立てにしたものだった。
 けっこうな問題作だったのだが、その後、この著者が小説を発表したのかどうかがわからなかった。その一方、各種雑誌に狛犬にやたら詳しい狛犬評論家として登場していたり、『日本のルールは間違いだらけ』(講談社現代新書)を書いたかとおもえば、『デジカメに100万画素はいらない』(現代新書)、『テレビが言えない地デジの正体』(ベスト新書)、『使い分けるパソコン術』(講談社ブルーバックス)といったIT指南書にも手を出していて、どうも作家としての継続打を放っていないようなのだ。
 それでもぼくは「負のエントロピー」派には原則的に応援するほうで、さらには正体不明のライターはもともと大好きだったので、それなりに注目していたのだった。

 そのうちこの著者の意外な一面を知ることになった。2004年から阿武隈山中に住まいを移して、カエルたちと共生していたのだ。福島県双葉郡川内村での日々だ。
 ここは戦前まではブナ林で覆われていた。近くには「獏原人村」というところがあって、かつてヒッピーヴィレッジふうに人が住み始めたところでもある。ただし電気も水道もガスもない。
 著者が川内村に移ってきたのは、ひとつは福島生まれであること、もうひとつはそれ以前に越後の豪雪地帯(川口町の田麦山小高)に終(つい)の住処を見いだしたのに、そこが中越地震で壊滅し、その集落すべてが「この土地に二度と家を建ててはいけない、住んではいけない」という条件を呑んで消滅してしまったからだった。著者は十数年をかけて作り上げた家を震度7の中越地震で失ったのだ。そこで福島の川内村に越してきた。
 その川内村が今度は3・11とともに、原発のメルトダウンによって放射線にさらされたのである。愕然とした。「ウソだろう」「頼むよ、冗談だろ」と思った。
 川内村は福島第一原発からわずか25キロしか離れていない。第二原発からは22キロ。だから著者の住まいでは放射線量計は常時オンになっている。本書を書いていた9月の時点では、食卓の上で0・38マイクロシーベルトを、外のウッドデッキはセシウムをたっぷり含んでいるのか、1マイクロシーベルトをいつも超えていたという。

 本書が説得力をもっているのは、フクシマ住民の目で政府発表、東電の対応、原発報道、現地の実感、ブログ・テキストなどを刻々と観察しながら、自身の周辺でおこっている家族や知人や住民の日々をそれらにまぜながら報告していることと、そのつど、国や政治家やマスコミの言動を厳しく批評していることにある。
 ぼくは原発関係の本を3・11以来のこの9カ月で、おそらく100冊以上に目を通してきたが、本書のように地元から“全部”を目配りしているものには出会わなかった。
 とくに放射線の被曝をどう捉えるかについては、著者が自身の継続的な計測をもって、過剰な反応や不安が決して説得力をもちえないことをさまざまな角度から説き、いったいほんとうは何が危険なのかをかなり適確にレポートしつづけていると感じられた。
 なかには胸がすくような捌きも見せている。5月末、平沼赳夫が会長になって「地下原発議連」(地下式原子力発電所政策推進議員連盟)を立ち上げた例を笑いとばし、「ほんとうに危険なのは原発ではなくて見当はずれの政治家たちではないか」とこき下ろしているところや、7月23日にNHKスペシャルが放映した「飯舘村~人間と放射能の記録」に映し出された原子力村のリーダーの一人・田中俊一が飯舘村の区長の家に乗りこみ、村に大規模な放射性汚染ゴミ貯蔵所を作らせようと籠絡する手口を、これは「詐欺か、いやもっとタチの悪い説教強盗ではないか。飯舘村を汚した犯人はおまえだろう」と切り捨てているところなど、この著者の面目躍如なのである。
 本書には、実名は伏せられてはいるが、たくさんの隣人・知人・友人が登場する。これがたいへんにアクチュアリティに満ちている。
 本書は次の言葉で結ばれている。「がんばろう日本、ではない。変な方向にがんばってもらっては、この国はどんどんひどいことになる。そうではなく、もう騙されるな日本、と言いたい」。その通りだ。

20キロ圏、30キロ圏の線にかかる自治体。
たくきよしみつ『裸のフクシマ』(2011・10 講談社)より

◆山本一典『福島で生きる!』(2011・8 洋泉社)

 もう一人、阿武隈山系に移り住んで農家暮らしをしている山本一典の本を紹介しておく。生活者の体温によって淡々と綴られている一冊だ。
 著者は1986年に都路村(現在は田村市都路町)を知って、その後15年にわたってそこを200回ほど訪れ、ついに移住をはたした。かなり本格的な田舎暮らしにすべての生活を傾けたのだ。その著者が3月11日から6月18日までの日々を綴った。
 都路では3・11地震の被害は大きくはない。それより問題は原発事故によって避難命令が出たことにある。著者は風評被害が最初に急激に高まっていった3月18日にフクシマに留まる決意をし、その後の日々をおくった。読んでいくと、悲惨なものは何もない。やっぱり“日々の生活”がある。著者が語りあっているのは、余震のあいまに庭でアタマを刈っている老人夫婦であり、空き家がどのように散らばっているかということであり、野生化した牛を心配している飼い主なのである。
 むろん政治家や東電の発言に怒りをぶつけている日もあるが、著者は自分の周囲でどうしたら独自の通信コミュニケーションができあがっていくかということをこそ、重視した。フクシマ日誌としてはたいそう静かな一冊であるが、こういう見方や生き方もまたフクシマなのである。
 本書は、ぼくにとっては懐かしい石井慎二のバックアップによって生まれていた。石井さんはぼくの早稲田大学新聞会時代の先輩で、石井さんではなくシンジさんだった。JICC(現在の宝島社)をおこし、数々のヒットを飛ばしたのち『田舎暮らしの本』を創刊して、そのとき著者にこの雑誌のライターを頼んだのである。広瀬隆の痛烈な『東京に原発を!』を手掛けたのもシンジさんだった。
 1999年からは本書の発行元の洋泉社の代表になっていたが、昨年2月に食道ガンで亡くなった。本書はそのシンジさんに対する恩が、随所に滲み出ている本にもなっている。

3号機建屋まで直線距離にして50m程度に接近した筆者
山本一典『福島で生きる!』(2011・8 洋泉社)より

『「フクシマ」論 ―原子力ムラはなぜ生まれたのか』
著者:開沼博
2011年6月30日 第1刷発行
発行者:清水一人
発行所:青土社
編集:菱沼達也
装幀:戸田ツトム

【目次情報】

「フクシマ」を語る前に
第Ⅰ部 前提
     序章 原子力ムラを考える前提 ―戦後成長のエネルギーとは
     第1章 原子力ムラに接近する方法
第Ⅱ部 分析
     第二章 原子力ムラの現在
     第三章 原子力ムラの前史 ―戦時~1950年代半ば
     第四章 原子力ムラの成立 ―1950年代半ば~1990年代半ば
第Ⅲ部 考察
     第五章 戦後成長はいかに達成されたのか ―服従のメカニズムの高度化
     第六章 戦後成長が必要としたもの ―服従における排除と固定化
     終章 結論 ―戦後成長のエネルギー
     補章 福島からフクシマへ

参考文献
あとがき
関連年表
索引

【著者情報】
開沼博(かいぬま・ひろし)
1984年福島県いわき市生まれ。2009年東京大学文学部卒。2011年東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。

【帯情報】