才事記

東京裁判

アーノルド・ブラックマン

時事通信社 1991

Arnold Charles Brackman
The Other Nuremberg 1987
[訳]日暮吉延

誰が戦争犯罪を裁くのか。
誰が東京裁判に立ち向かうのか。
誰が靖国問題を解けるのか。

 広島・長崎の原爆投下は暑くて白く、そして熱かった。それでも「黒い雨」が降った(238夜・第5巻)。日本はその前に段ボール箱を上から叩き潰したように壊れていた。8月15日は遠方から送信されてきたような切れぎれの玉音放送が流れた。この日も晴れていたらしい。父もそう言っていた。ぼくは1歳半だった。

 それから日本全土がすぐさまマッカーサーのGHQ・SCAPのもとに占領され、日本人は「アメリカひじき」(877夜・第5巻)にありついてスキャッピーなジャパンになり、朝鮮戦争の特需を挟んで「奇跡の復興」をめざした。サンフランシスコ講和条約と安保条約で独立国として認められたのが折り返し点だった。
 その後は、日本列島の各地に米軍基地と自衛隊を配備して、「明るいナショナル」の蛍光灯と力道山の空手チョップのもと高度成長をとげ、ついには日本列島改造をなしとげて経済大国となり、いまでは憲法改正を狙い、国連の常任理事国をさえ窺うようになった。
 そういう8月15日に一国の宰相小泉純一郎が靖国参拝を敢行し、この2週間はハチをつついたような議論がマスメディアに溢れ、連日連夜、政治家やコメンテーターや研究者たちがテレビや雑誌に登場しつづけている。その裏で靖国問題は総裁選や政局の争点にしつらえられている。中国と韓国もここを先途とハチの巣のナイーブなところをつついてくる。それかあらぬか、次の首相になるらしい安倍晋三は4月に靖国参拝をしたことには口をつぐんだままにいる。
 そこに、1カ月ほど前からは昭和天皇の靖国参拝拒否メモの真偽騒ぎが報道されてきた。日経のスクープだった。天皇はほんとうに合祀に反対していて不快な思いをしていたのかどうか。

 最初に言っておくけれど、ぼくは小泉純一郎の靖国参拝はたんなる意地か打算か一知半解としか思えない。私的参拝ではないし、正式参拝でもない。が、公式参拝である。そこに深い配慮があるとは思えない。
 そう思うのは、中国や韓国の抗議を配慮してのことではないし、外交技術が拙劣だからではない。どこかに分祀してから行けばいいとも、別の無宗教の英霊施設(国立追悼施設)をつくって行けばいいとも思わない。だいたい本気で参拝したいのなら、もっと礼拝のマナーを守ってやりなさい。日本人の心性を持ち出すのなら、そういうことは心したほうがよい。
 首相が靖国に参拝したほうがいいと言っているのではない。GHQ以降、サンフランシスコ条約以降、安保同盟以降、大半の政治判断をアメリカに阿(おもね)るようなことばかりしておいて、せめて神仏に関しては日本人として日本流を貫きたいというのなら、そんなことを靖国ばかりにあらわすな、それもいいかげんにあらわすなと言いたいのだ。
 神仏ではなくて英霊に応えたいというなら、それなら戊辰戦争からではなくて、日本史を貫く戦没の慰霊システムあるいは顕彰システムの只中に向かうべきである。厚生省のリスト(霊璽簿)などにまかせておいていいはずがない。
 そもそも問題は小泉純一郎だけにあるのではない。1978年にA級戦犯が合祀されたのち、大平・鈴木・中曽根・橋本各首相が靖国参拝をしていることそのことに、なんら深い配慮も方針もなかったというべきだ。
 多少の方針があったのは中曽根康弘である。が、その方針こそ最も拙劣で、分祀を画策しただけだった。それが失敗するとかえってその後の政府の立場を悪くした。中曽根こそは今日の靖国問題のタネをぐちゃぐちゃに掘り返した張本人だった。小泉純一郎はその轍を踏むまいという意地があるばかりなのだろう。
 もうひとつ言っておく、中国が靖国問題を政治問題にしているのは、この問題で日本の戦争責任や侵略戦争問題を拡大したいからではないだろうということだ。昨今の中国のことはぼくには推測しがたいが、それでも、問題を靖国に絞ることによって政治決着に持ち込みたいというシナリオなのであろうというくらいの予想は立つ。ただ、自民党の宰相がその問題に今後もたえず躓くであろうことも、中国は読んでいる。
 吉田茂から小泉まで、日本にはアデナウアーもナセルもゴルバチョフもいなかった。唯一、石橋湛山が「謹んで靖国神社を廃止奉れ」と言っただけだった。お粗末きわまりない。

今年は例年よりはるかに多く参拝者が訪れた靖国神社

 ということで、今夜は東京裁判についての一冊をとりあげてみようと思っている。なぜ東京裁判かということは言うまでもないだろう、
 靖国問題がこんなにこじれるのは東京裁判を受け入れたせいだ、という強弁が罷り通っているからだ。1951年のサンフランシスコ条約第11条で、日本は東京裁判の判決を受託した。受けざるをえなかった。それがすべての原因になっている。そういう見方が蔓延しつつあるからだ。
 いつからだか知らないが、「東京裁判史観」という言葉も流行している。日本の戦争の大半が侵略戦争であったとみなすことを全面的にうけいれる被虐史観のことをいうのだが、数日前、安部晋三は自民党総裁になり首相になったら、その被虐史観をこそ取り除きたいと故郷の山口の墓参りがてらに言っていた。被虐史観を取り除くということは、これまたどうするのかは知らないが、東京裁判史観を訂正したいということである。
 東京裁判の裁定に文句をつけたい日本人が多いのは、よくわかる。けれどもそんなに文句があるなら、それを整然としてであれ、熱情をもってであれ、激怒をもってであれ、世界に向かって語ればいい。アメリカにも、マスメディアにも、語り続けてみればいい。ところがそういうことをした政治家はほとんどいない。知識人もごく僅かだ。まったく意気地のないことだ。およそ不可解なことだ。保守政治家の大半が東京裁判に恨みのようなものをもっている雰囲気だけがあるばかり。
 たとえば誰だったか忘れたが、先だってのテレビの片隅で「広田さんがなぜA級戦犯なのか、ぼくにはわかりませんね」と言っていた自民党議員がいた。文民でたった一人処刑された『落日燃ゆ』の広田弘毅のことである。が、そういう言い草ですませているのが、事態をいくらでもこじれさせるだけなのである。これだから小泉のような意地っぱりが目立つのだ。

背後に戦勝国の国旗が架かる東京裁判の裁判官席

 極東国際軍事裁判(つまり東京裁判)は、連合国11カ国がA級戦争犯罪人28人を起訴し、これを1946年5月3日から1948年11月12日にいたる審理のうえで裁可した歴史上例を見ない裁判りことをいう。A級戦犯という規定は国際法にもとづくものではなく、この裁判がつくりあげたものだった。
 首席検事はアメリカのジョセフ・キーナン、裁判長はオーストラリアのウィリアム・ウェッブ。判事団は米・英・ソ・中・豪・仏・蘭・印・ニュージランド・カナダ・フィリピンから各1名。日本弁護団は団長が鵜沢総明、副団長は清瀬一郎だった。
 A級戦犯になったのは、荒木貞夫、土肥原賢二、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、板垣征四郎、賀屋興宣、木戸幸一、木村兵太郎、小磯国昭、松井石根、松岡洋右、南次郎、武藤章、永野修身、岡敬純、大川周明、大島浩、佐藤賢了、重光葵、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳、東条英機、梅津美治郎である。
 この選定にはずいぶん紆余曲折があったのだが、だいたいはキーナンとマッカーサーの合意によっていた(この顔触れの順はどんな東京裁判関連の本にも出てくるが、ABC順によっている)。このうち土肥原、広田、板垣、木村、松井、武藤、東条が絞首刑になった。死刑執行はアメリカ陸軍の手で、アメリカ陸軍の方式にもとづいた。

 同じ時期のちょっと前、1945年11月20日から翌年10月1日まで、米英仏ソ4国がニュルンベルク裁判(国際軍事裁判)を開いて、ナチスの24人を裁いた。東京裁判よりずっとスピーディに審理を終えた。
 東京裁判とニュルンベルク裁判に基本的な差異はないが(あえてそうした)、その後の日本とドイツの態度にはかなりの違いがあった。ドイツは1979年にナチスの犯罪の時効を廃止し永久に追及するという国会議決をしたことにあらわれているように、ドイツ人自身による犯罪裁判をしてきた。国家間の賠償よりも個人を対象にし、個人を救済しようとした。日本はアジア諸国への“補償”と“謝罪”をほぼ完璧に果たしたが、日本人が日本人を裁くことはしなかった。国家間で責務をはたした。すべては東京裁判で終わっていた。終わらせた。これをサンフランシスコ条約でもう一度、確認した。
 しかしその東京裁判史観が気に食わないのである。ともかく右も左も、リベラルもナショナルも、いまさらながらなんとも納得していない。承服しているのだが、納得ができていない。しかもその理由が曰く言いがたい。じれったいほどなのだ。
 いちいち例示はしないが、ごくごくリベラルだと思われる二人の例を出せば、たとえば秦郁彦は『東条英機と戦争責任』で、「東京裁判は結果的に東条たちの罪を浄化し、殉難者に仕立てる役割を果たした。国内法でさばいていたら無実の罪を押し付けて逃げのびた真の責任者を洗い出せたかもしれない」と書いた。吉本隆明は『文学者と戦争責任』に、「東京裁判は筋書きがはじめからきまった、犠牲の羊を屠るまえの儀式のように滑稽にみえた」と書き、「被告の弁明を認め、条理をつくして判決する公正な手続きのようにみえ、はじめて西欧的な法理念に接する思いがした」と書き添えた。

東京裁判の判決を伝える新聞トップ記事
(朝日新聞 昭和23年11月13日)

 日本人にとって釈然としないばかりではないということも知っておいたほうが、いい。すでに東京裁判が始まる前、当初、弁護団に予定されていたテオドール・ステンルンベルクは「日本はまちがった理想主義にかられてあのような罪を犯したのだ。しかしながらかれらを極刑に処することは法律的立場から絶対に反対である」とのべていた。
 ロバート・タフトは、ニュルンベルク裁判が終わり東京裁判が開廷されるにあたって、「ニュルンベルクの判決がアメリカの汚点になるというのに、いままた事後法によって東京裁判を復讐心によって裁くことがないように」と警告した。
 鬼の主席検事となって日本人の多くが恨んだ酔っ払いのジョセフ・キーナンすら「侵略戦争とみなせるのは、論理的には満州侵略以外にはありえなかった」と回顧した(キーナンは最初は天皇を裁くつもりだったが、マッカーサーの一存で天皇を被告にも証人にもしないことを約束させられた)。
 ようするに東京裁判は終わっていないのだ。納得など、誰もしていないのだ。何をもってその裁きを正当化できるのか、事態はいっこうに進展していないのだ。にもかかわらず、東京裁判は事実として厳然と戦後史の原点となったのである。
 ひとつだけわかりやすい例をあげておくが、あれから半世紀後の1991年の湾岸戦争のとき、イラクの捕虜処遇をめぐってアメリカ政府はサダム・フセインを戦犯として捕縛する可能性を持ち出した。国務省ではさっそく「東京裁判・ニュルンベルク裁判」型のアドホックな法廷をつくりあげることを検討した。
 日本だけではないのだ。東京裁判はいまでも世界中で蘇ろうとしていると見たほうがいい。東京裁判の設定と判決とその理屈は歴史の巨きな事例となって、今後の戦争と犯罪をめぐるすべての事例に結びついている。そういうなかで、いったい日本はどうするのか。

 本書はジャーナリスト出身の太平洋戦争研究者のアーノルド・ブラックマンによって書かれた。ニューヨーク生まれのアメリカ人だ。すでに亡くなっているが、ウェスタンコネティカット大学のメディア・ジャーナリズム担当教授の仕事だった。
 もとはUP通信の記者で、戦後に来日し東京裁判担当になった。ラッセル・ブラインズやマーク・ゲイン(112夜・第5巻)のような花形記者ではない。巣鴨プリズンに被告インタヴューを許された数少ない国際ジャーナリストで、徹底した取材にもとづくタイプの記者だった。本書も記録と証言の積み重ねで、どちらかといえばストイックに構成されている。ただし、東京裁判を肯定する立場にたっている。
 こうしたアメリカ人による東京裁判をめぐる著書を、ぼくがかつて読んだのにはむろん理由があった。井上ひさしの背水の陣ともいうべき東京裁判への取り組みに刺激され、そのころ片っ端から“東京裁判もの”に目を通そうとしていたのだが、どうしても見方が片寄りがちになっていた。たとえばラダビノッド・パル判事(パール判事)の見方についつい加担してしまっていた。
 つまりは「東京裁判はまちがいだった」説である。当時のぼくもほとんどこの説に傾いていたのだが、何かが理解しきれていない。昭和天皇の戦争責任を不問としたことの事情も、よく見えていなかった。しかしともかくは、この裁判の政治的背景を知る必要があるだろうとだけ思っていた。それで、読んだ。そして、視線の先をこの裁判が徹底して政治判断にもとづいていたのだとしたら、むしろ知っておくべきはアメリカ側(連合国側)のロジックがどう組み立てられたのかということだろうという気になっていた。
 本書はそれをすべてあきらかにしているものではなかったが(そういう意味では期待はずれ)、裁判の政治プロセスをアメリカ人の目が追跡するとどうなるかという恰好のドキュメンタリズムの素読にはなった。そういう意味では、清瀬一郎の『秘録東京裁判』、パル判事の『パル判決書』、児島襄の『東京裁判』、滝川政次郎『東京裁判をさばく』とともに必読だろう。
 ちなみに必見もある。小林正樹の長大な映像記録『東京裁判』だ。これは日本映画ベスト10に入れたい。しかし、今夜、書いておきたいことは昭和史の暗黒をたどることではない。戦争犯罪という裁定がひとつの国家に被せられたことを、どうするかということだ。

戦犯が処刑された巣鴨プリズンの処刑室「13号室」

 いったい戦争犯罪とは何なのか。それを戦勝国が敗戦国が裁くとどうなるのか。東京裁判をどのように見るかにあたっては、つねにこの問題そのものが問われる。
 第二次世界大戦以前、戦争犯罪とは「戦時重罪」のことだった。戦闘員もしくは一般住民の行為が戦争法規ないしは慣例の違反行為に当たったとみなされたとき、交戦国はその行為者個人を戦闘終了時までに自国の刑法にもとづいて処罰することができるというものだ。
 これを「通例の戦争犯罪」(慣例の違法行為)という。ハーグ条約やジュネーブ条約などにもとづく。占領地における一般住民の殺傷・虐待、奴隷労働、捕虜の殺傷・虐待、都市町村の破壊などが違法となる。
 ところが、東京裁判では、この(1)「通例の戦争犯罪」に加えて、まったく新たに、(2)「人道に対する罪」と(3)「平和に対する罪」を設定して、その個人責任を問うて戦争犯罪者を特定して裁くことにした。ナチスを対象としたニュルンベルク裁判を下敷きにしたからである。
 その付け加えられた二つのうちの、(2)の「人道に対する罪」は、戦前戦中を通して殺人・殲滅を意図した非人道的行為を画策ないしは実行したかどうか、また政治的・人種的・宗教的理由によって一般住民を迫害したかどうかが問われる。ナチスのユダヤ人虐殺が想定されていた。戦前の謀議や着手も戦争犯罪とみなしただけでなく、その指導者の責任を追及できるようにもした。この方針はその後、国連が採択したジェノサイド条約に継承された。
 (3)の「平和に対する罪」のほうは、いわゆる「侵略戦争」であったかどうかを問うている。侵略戦争あるいは「違法戦争」の計画・準備・開始・遂行と、その事前謀議を国際犯罪として裁こうというもので、しかもこれらを個人の戦争犯罪に帰着させようとした。これも「ヒトラーの戦争」を前提に組み立てられた。それなら東京裁判は「天皇の戦争」を裁くことになるのだが、天皇は免責された。代わって28人のA級戦犯が選ばれた。

 こうして東京裁判では、(1)を犯した者がB級戦犯、(2)を犯した者はC級戦犯、(2)(3)を犯した者がA級戦犯となった。しかし、この規定ははなはだ曖昧なものだった。
 何をもって侵略とみなすのか、また、戦争が国家行為であるにもかかわらずそれをどの時点の行為で個人の戦争犯罪とみなすのか、東京裁判ではこの点は明確にはなってはいない。
 もうひとつ、ここには英米法に特有の「コンスピラシー」(共同謀議)という独立犯罪が焼け火箸の烙印のように加えられていた。これは法的には「推定事項」にすぎないのだが、アメリカでは共同謀議をしたと推定される少なくとも一人が計画遂行のための明白な「表現行為」をしているとみなせるときは、この罪が立証できるとしてきた。
 これらのことを前提として見ればわかることだが、ようするに東京裁判(ニュルンベルク裁判)とは、国際社会が英米型のヘゲモニーによって、新たな戦争犯罪という罰則をつくって「戦後社会の指導原理」をどのように打ち立てておくかという乾坤一擲のゲームだったのである。
 ところが「ヒトラーの戦争」と「天皇の戦争」は戦後体制を想定すればするほど、事情が異なっていた。各国、とりわけソ連が東ドイツを分割したドイツと、連合国とはいえアメリカが単独で占領した日本とでは、その地政も経済も文化も異なっていた。
 そこでアメリカは東京裁判で天皇の戦争責任を問わないことによって(証人にも呼ばなかった)、戦後の日米同盟社会の構築をつくりだそうとした。しかし、それはどう見てもアメリカのシナリオである。これによって、裁かれた日本の戦後社会には、いまなお核心のぼけた戦争責任という複合亡霊がアメリカがらみで残ることになった。それなのに、アメリカがらみでなく、東京裁判史観と靖国問題が複合亡霊のまま空中浮遊しているのである。

 いったい戦争と法との関係は、もともと国際法上の規定も論理的なつながりも、何ももっていなかった。19世紀までの戦争では、戦争は合法でも違法でもない超法規的な戦闘行為だった。
 20世紀になってこれに唯一加わったのは、1907年のハーグ条約で、条件付き開戦宣言もしくは最後通牒をふくむ事前通告なく敵対行為を開始してはならないという条項だけだった。ここまでの戦争観を「無差別戦争観」という。
 それが第一次世界大戦で「戦争違法観」(つまりは「差別戦争観」)が浮上した。総力戦争が世界にまきちらした惨禍を眼前にして、戦争行為に違法行為が含まれることを摘出しようという動きになった。これは自制だ。1919年のヴェルサイユ条約でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が特別訴追されることになったのが、その最初の準備だった。
 その後、国際連盟を舞台に違法戦争の規定をめぐって議論がなされ、1928年の不戦条約で次のような規定が確立した。「国際紛争の解決のために戦争に訴えること」「国家の政策手段として戦争をすること」が禁止されたのだ。しかし、ここでも問われたのは国家であって、指導者の刑事責任ではなかった。
 そこへナチス・ドイツの侵略が始まった。そこへさらにイタリア・日本が加わった。1941年、ルーズヴェルトとチャーチルは枢軸国の戦争犯罪を撃破するという目的で連合国が戦争することを決断する。さらに1943年には米英ソ「ドイツの残虐行為に関するモスクワ宣言言」を発表して、国家指導者を連合国政府の共同決定で処罰する方針をかためた。日本に対しても同様のカイロ宣言がなされ、日本が戦争犯罪を犯しつつあることを明示した。
 このときすでに、東京裁判(ニュルンベルク裁判)の方針は予定されていたのである。いや、複合亡霊が空中浮遊してもいいということが決定されていた。あとはドイツと日本を徹底的に敗戦に追いこみ、戦勝国が戦後社会をどのように支配するかというだけだった。

 東京裁判の実情がどういうものであったかは、最終判決の前の1948年9月7日、オーウェン・カニンガム弁護人がシアトルで開かれた法律会議に提出した「東京裁判の主要な悪弊」という文書に、ほぼ実感をもって書かれている。おおむね、次のような内容だ。

 
1)この裁判の目的は報復であり、弁明であり、宣伝であった。
(2)侵略戦争については十分に定義されたわけでも、理解されたわけでもなかった。
(3)極東憲章(いわゆるチャーター)はあきらかに事後法だった。
(4)被告は公正な裁判を受けなかった。反対尋問は証拠の抑圧というにひとしいほど制限されていた。
(5)法廷にロシア判事と検事がいるため、この裁判は矛盾したものとなった。しかもロシアは日本に対して告発した犯罪から自国が免れていることを示せなかった。
(6)判事たちは裁判中に、同時に何カ月も欠席した。

 まことに辛辣だ。苦情や当てつけに近いものもある。が、この程度の認識は誰もがもっている。とくに、このうち(2)と(3)および(4)については、東京裁判史観に文句をつけたい日本人の大半が持ち出している“欠陥”である。
 この“欠陥”を日本人が自身で摘出しきれず、その認識に立ってアジア諸国と「歴史認識」をめぐる論争をしてこなかったから、日本人の多くがいわゆる被虐史観に陥ったのだというのが、東京裁判批判派の拠点になっている。
 東京裁判が(2)(3)(4)で成り立っていることはあきらかだ。いや、(1)すらあてはまる。また、戦勝国が敗戦国を裁き、その敗戦国に「悪」がなかなか人格化されていないときは、東京裁判のようなしくみが今後もつねに計画されるだろうことも、予想に難くない。ただし、こうした東京裁判の“欠陥”によって日本人の「歴史認識」が歪んでしまったとみるのは、どうか。そう見ることによって、何かが見えなくなっていくことのほうが多いのである。
 東京裁判の“欠陥”は当時の清瀬一郎やパル判事や滝川政次郎の指摘はむろん、世界中の多くのジャーナリストや法律学者や知識人だけではなく、おそらく多くの日本人にも“見えていた”はずである。ぼくは、そう感じる。そうだとすると、日本人は「歴史認識」に欠けているのではなく、それが東京裁判の“欠陥”のせいでもなく、自分たちの昭和史のあらわしかたの方法を知っていないのだということになる。

 アメリカのシナリオにはまるなという指摘についても、疑問がある。本書を読んでみると、アメリカのシナリオはずっと(5)をめぐって動いていたことがよくわかる。
 すでに米ソ冷戦の前哨戦が始まっていて、アメリカはその勝利のためのシナリオを東京裁判の裏側でテストをしていた。日本は付け足しなのである。アメリカからすれば、当時の日本を根こそぎ民主化するのは赤子の手を捻るようなものだった。
 アメリカが東京裁判とそれにつづく占領政策によってしたかったことは、国際秩序を危機におとしいれた日本の国家体制を解体し、戦争遂行能力を奪うことをもって日本の国体護持型の精神文化そのものに鉄槌をくだすことだった。こんなことははっきりしている。そこにトルーマンの原爆投下と密接につながるジャパン・バッシングの徹底があったこともはっきりしている。
 だから、問題はカニンガム弁護人やパル判事の指摘とともに、次のことにもあると見たほうがいいということになる。本書の巻末についている訳者の日暮吉延の適確な解説に加えて、ぼくの勝手な感想を織りまぜて箇条書きにしておく。「歴史認識」を議論したいなら、このくらいのことは言ったほうがいい。

1)東京裁判は一貫して「文明ノ断乎タル闘争」(キーナン)だと位置づけられていた。アメリカはこのことを最大に活用し、かつ、その後のアメリカの国際舞台での役割の下敷きにした。
(2)東京裁判は「リーガリスティック・モラリスティック・アプローチ」(ジョージ・ケナン)がきわめて有効で雄弁であることを示した、このことはやはりのことアメリカのその後のどんなときの“弁明”にも使われるようになった。
(3)原爆投下、東京裁判、占領政策、憲法制定は一連のシナリオである。アメリカはそのように見ているが、日本はこの4つを貫かないで戦後社会を送るようになった。
(4)日本が独立したのち、安保条約と基地と自衛隊設置を呑んだことこそ、東京裁判史観を積極的に延長させてしまっている。

 今夜の気分で書いておきたいことはざっとこのくらいのところだが、二つばかり付け加えておきたい。東京裁判を議論するという点から見ると、やや意外な感想かもしれない。
 ひとつは、今後の戦争はひたすら「デファクト戦争」になっていくのかという疑問だ。アメリカが太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争・コソボ戦争・アフガン戦争・湾岸戦争・イラク戦争などでどのように戦争を正当化してきたのかというと、攻撃以前に「デファクト戦争」を準備していた。それを徹底していた。そこを今後はどう見るかということだ。もっともアメリカもイギリスもつねに成功しているとはかぎらない。イラク戦争ではフセインが大量破壊兵器をもっていなかったということが、事後に暴かれた。
 しかしそれでも現代の戦争はアメリカ型のデファクト・スタンダードが君臨しているとしか言いようがない。これを破っているのはイスラム過激派の自爆テロだけなのだ。左翼も右翼もいなくなった日本は、ここをどうするか。
 もうひとつは、「日本の失敗」はどこに始まっていたのかということだ。東京裁判では満州事変までさかのぼったが、日本からすればもっと前に問題があったと言わざるをえまい。たとえば松本健一は、アメリカが米西戦争に勝ったことと日本が日清日露に勝ったことがほぼ同時であったため、互いに互いを「仮想敵国」にしたことがすべての不幸の始まりだったと仮説した。この仮説は半ば当たっている。それなら大隈重信内閣の対支二十一カ条の要求が決定的な失敗だったのである。
 こういう問題をこれからどうするか。それがいまは気がかりなのだ。もっとも、ぼく自身はこういう問題については丸山真男よりも木下順二の心情を、吉本隆明 よりも井上ひさしの追究を、採りたい。なぜならかれらの戯曲には、「デファクト・スタンダードに対する疑問」と「日本の失敗の範囲と細部」をあらわせる表現構造があるからだ。

 ところで、“東京裁判もの”を読んでいると、毎度、いくつかの感情の高ぶりを禁じえなくなる。近現代の日本の行動思想の総体が問われ、暴かれ、裁かれ、突き放されているからだ。わかりやすくいえば、心が晴れないのだ。
 これはローマ帝国の爛熟と崩壊を読んでも、ロマノフ王朝の凋落を読んでも、ユーゴスラヴィアの解体過程を読んでも感じなかったことだった。あえていうなら、後鳥羽院の承久の乱の失敗と隠岐配流(203夜・第5巻)近松門左衛門の『国姓爺合戦』などの戯曲の顛末(974夜・第6巻)水俣病と闘って「はにかみの国」と呟いた石牟礼道子の心情(985夜・第1巻) 、そういうものと交わったときの感想と似ているのだ。
 いつか、なぜそんなふうな感想になるのか、ゆっくり考えたい。今夜はそのくらいにしたい。駒大苫小牧と早実のこと、亀田大毅のこともある。

今も花が絶えることがない巣鴨プリズン跡の石碑

附記¶東京裁判についての文献は数多い。しかし、一般に耽読できるものは意外に少ない。記録としては『極東国際軍事裁判記録』(公式記録)と『極東国際軍事裁判関係資料』(法務大臣官房司法法制調査部)があって、これに『東京裁判』全8巻(ニュース社)、清瀬一郎『秘録東京裁判』(読売新聞社)、『共同研究パル判決書』(東京裁判研究会・講談社学術文庫)などがつづく。『パル判決書』は絶対の必読書。東京裁判の全貌についての“定番”は児島襄『東京裁判』上下(中公新書)であろうが、これに滝川政次郎『東京裁判をさばく』上下(東和社)、太平洋戦争研究会『図説東京裁判』(河出書房新社)、リチャード・マイニア『東京裁判』(福村出版)などが加わる。ごく最近に粟屋憲太郎『東京裁判への道』上下(講談社メチエ)が刊行された。
 東京裁判をめぐる議論をまとめたものとしては北岡俊明の『ディベートから見た東京裁判』(PHP研究所)がある。また話題をまいたものとして、小林よしのりの『戦争論』(幻冬舎)をはじめとした『いわゆるA級戦犯』(幻冬舎)といった一連のマンガ著作、司馬史観は東京裁判史観と裏腹につながっているとした福井雄三の『司馬遼太郎と東京裁判』(主婦の友社)などがある。
 ドイツとの比較に対はまだろくな本がない。ぼくが勧めるのはイアン・ブルマの『戦争の記憶』(TBSブリタニカ)と粟屋憲太郎・田中宏・三島憲一ほかの『戦争責任・戦後責任』(朝日選書)だ。ドイツと日本の此彼の差を、前者はさまざまな例示とエピソードによってうまく浮き彫りにし、後者はデータと事実の積み重ねによって厳密に比較しようとしている。
 靖国問題についは、いま書店へ行けばずらりと手にとれるだろうが、ぼくが最初にこの問題に関心をもったのは1974年に出た村上重良の『慰霊と招魂』(岩波新書)だった。ぼくはまだその問題の重要性がつかめなかったのだが、その10年後、大江志乃夫の『靖国神社』(岩波新書)と『靖国違憲訴訟』(岩波ブックレット)が執筆されて、事態の背景がそうとうに深いものだということがやっと見えてきた。しかし現在の靖国議論は、(1)首相の靖国参拝は日本の侵略戦争の肯定を表明しているのではないか、(2)戦争の死者を祀り、これを祈るのは日本に特異なことではないではないか、(3)戦争犠牲者と東京裁判が結論を出した戦犯を合祀するのはおかしいのではないか、という3つの主張が混濁するようになっている。ずいぶん狭隘な論点だが、世の中はこれで論争に火が吹いた。小堀桂一郎『靖国神社と日本人』(PHP新書)と坪内祐三の『靖国』(いまは新潮文庫)が比較的先頭を切って、靖国にひそむ日本人の精神性を問題にした。そこからは百花斉放である。田中伸尚『靖国の戦後史』(岩波新書)、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)、小林よしのり『靖国論』(幻冬舎)、三上治・富岡幸一郎・大窪一志『靖国問題の核心』(講談社)、山中恒『靖国神社問題』(小学館)などが立て続けに書店に並んだ。
 しかし、ここまでくると、問い直されるべきは明治維新による近代国家のしくみの問題そのものになってくる。上にあげたものでは大江と山中のものがそこまで踏みこんでいるが、それが理解できるには島崎藤村が『夜明け前』(196夜・第5巻)に問うた「或るおおもと」にまで歴史の目を戻さなければならない。