父の先見
黒い雨
新潮社 1966
太宰治(507夜)が「井伏さんは悪人です」と書いていたということを猪瀬直樹の『ピカレスク太宰治伝』(小学館→文春文庫)で読んで、そういえば井伏鱒二偽善者説が以前にうっすらあったなあということを思い出した。それを言っていたのは中井英夫だった。当時は塔晶夫というペンネームで『虚無への供物』(講談社)が話題になっていたころだ。
30年以上も前のことになるが、そのころ中井も井伏も、あるところによく来ていた。あるところというのは早稲田のモンシェリの二階に出現した早稲田小劇場で、中井が初期に、井伏が後期によく訪ねてきていた。井伏さんは70歳をこえていたかもしれない。芝居を見るというだけでなく、芝居がハネると鈴木忠志や関口瑛や白石加代子をはじめとする劇団員たちと雑談をしていた。このころの早稲田小劇場の事情については井伏に『友達座連中』(筑摩書房・井伏鱒二全集24所収)という作品があって、そのころの雰囲気が醸し出されている。
ともかく、中井さんが井伏についてのそんな噂を一度だけだが話してくれたのだ。ぼくはいっこうに気にかけなかったのだが、それは井伏鱒二と中井英夫ではあまりにも共通点がないように見えていたからで、中井さんも誰かがそんなことを言っていたという話しっぷりだった。
井伏鱒二が大の川端康成(53夜)嫌いであったことも、そのころ聞いた。だれかが川端の話をしはじめると、ぷいと席を立ってしまうほど嫌っていたという。このことはどこかで安岡章太郎も書いていた。しかしこれもたいした話ではなくて、川端は贔屓で文学を見ていたのだし、そのため脇にやられた龍膽寺雄(178夜)も稲垣足穂(879夜)も、川端を好きにはなれなかったのは当たり前なのだ。
ぼくの父はたいていの井伏作品をもっていた。『本日休診』(講談社文庫)や『珍品堂主人』(中公文庫)のたぐいが好きだったようだが、ぼくは森繁久彌(590夜)や伴淳三郎(126夜)が出てくる豊田四郎の“駅前シリーズ”の大ファンだから『駅前旅館』(新潮文庫)にぞっこんで、その映画ばかりの印象で井伏世界を愉しんでいた。だから、そういう井伏が『黒い雨』のような深刻な被災文学を書くとは思えず、本書を父の本棚から手にとってみたときは、そうかユーモア作家じゃないんだと驚いた。
これはぼくが何も知らなかっただけのことで、その後よく見れば、井伏文学には『山椒魚』(講談社文庫)、『安土セミナリオ』、『川』(江川書房)、小林秀雄(992夜)絶賛の『丹下氏邸』(新潮社)、モノローグばかりの『夜ふけと梅の花』(講談社文芸文庫)、象徴詩のような『鯉』(田畑書店)など、けっこうシリアスな作品が多かったのである。とくに『川』なんて風景描写がえんえん続いて、この作家の底意地のようなものを感じさせた。『鯉』はそれこそクロード・ドビュッシーだ。
井伏が鷗外(758夜)をずうっと敬愛していたことも、やがて伝わってきた。鷗外の「簡浄」が好きなのだ。『武州鉢形城』(新潮社)は鷗外かと思った。ただそれが『鯉』や『屋根の上のサワン』(角川文庫)で生きものに触れるとなると、はぜるのだ。とくに『山椒魚』は山椒魚そのものが主人公で、頭が出口につかえたためにしだいによこしまになっていく意図の変化を扱って、奇妙な気分に向かわせる。
しかし、こういうことは結局は井伏が“文体の人”だったと言っているようなもので、あまり参考にならない。たしかに方言の入れぐあいはうまかった。広島の福山の出身だが、『黒い雨』でもその特色はよくあらわれている。
ぼくが井伏文学にまともに傾倒するようになったのはやっと『さざなみ軍記』(新潮文庫)からである。『平家物語』を絵巻ふうのスケッチにしたような組み立てで、平家一門の逃亡の日々を綴った日記を作者が現代語訳をするという日記重層化の手法になっている。『黒い雨』はこれを踏襲した。
舞台は広島だ。時間は原爆が落ちてから5年近くたっていた。鯉の養殖を仕事としている閑間重松が原爆症の予後を養いながら、自分がひきとった姪の矢須子の結婚を心配している。『黒い雨』はこういう状況のなかで「ピカドンのときの出来事」をさかのぼらせて、それを川の流れの上にポンと笹舟をおいて流したような作品である。
矢須子が縁遠いのは原爆症の噂のためなので、重松は見合い話がきたとき、相手を納得させるために診断書を添えた。それがかえってやぶへびになり、仲人から原爆投下時の矢須子の足取りを詳しく教えてほしいと依頼されてしまう。やむなく矢須子の日記を見せようと決断し、ついでながら自分の被爆日記を読ませたいという気になっていく。そこで妻のシゲ子の助けをかりて清書をはじめた。物語はこの清書の書き進みとともに焦点をもちはじめる。
こうしてあの8月6日の人間たちの動向が、少しずつあきらかになっていく。矢須子はそのとき疎開荷物を運んでいて、直接の被爆をしていないことがはっきりした。ただしその帰路に泥のはねのような黒い雨を浴びていて、それがしばらく消えてはいない。そういうことがわかってきたころ、矢須子の縁談は一方的にこわれる。そのうえ矢須子に原爆症があらわれてきた。
重松はもはや何者に憚ることなく“記録”を完成させようと心に決める。知人の細川医院の院長にも助力をたのんだ。細川は義弟の被爆日誌を送ってきてくれた。そこには凄絶な記録が綴られていた。重松は落胆する矢須子にその日誌を見せ、矢須子を鼓舞するが、実は自分がしている清書は自分のためだったことに気がついていく。
作品の終わり近く、重松は川を見る。その流れの中をウナギが行列をつくっている。この地方ではピリコとかタタンバリとよばれている幼生だ。そこからは水の匂いがたちのぼっていた。それは原爆の前も後も変わらぬ光景であり、匂いだった。重松は一人つぶやく。「今、もし、向うの山に虹が出たら奇蹟が起る。白い虹でなくて、五彩の虹が出たら」。
原爆文学とか被爆文学という言葉はぼくにはない。戦争文学という言葉もつまらない。そんな言葉を一度もつかわないで世の中を見てきたと思うのだが、それはともかく、これまで原爆を描いてきた作品では原民喜の『夏の花』(角川文庫)や大田洋子の『屍の街』(中央公論社・冬芽書房)などが話題になってきた。
そういう作品にくらべて『黒い雨』はかなり変わっている。どこかで石牟礼道子(985夜)が『黒い雨』の感想をのべるにあたって「魔界から此岸にふっと抜けるような蘇生」といったことを書いていたと憶うのだが、そんな風情もある。その一方、被爆者の内側までをも蝕んだ殺人光線の描写も克明にある。だったらそれで打ちひしがれた気分になるかというと、そういうものがない。明るいわけでもなく、暗いのでもない。匂いといえば、たしかに水の匂いがするが、その匂いが動いている。そこは太宰治が見ていた井伏鱒二ではない井伏鱒二が生きているのである。
これは井伏がもともとサンショウウオやカエルを見て育ち、それをそのまま『幽閉』や、それを改稿した『山椒魚』に書いてきたという“自分の関心を向こう側に託して見る趣旨”にもとづいているのだろうと思う。ごく初期の『やんま』『たま虫を見る』『蟻地獄』が、そのまま広島に落ちた原爆の街に拡張したわけだ。『山椒魚』のラストは、発表時のものではサンショウウオがカエルと和解することになっていたのだが、晩年、井伏はここを削除した。それもピカドンだったのである。ただ、そこには井伏がずうっと好きだったらしい淡彩画のような味がある。この味がピカドンに立ち向かった。淡いものが濃い衝撃に立ち向かったのである。
井伏が独得の黙笑感覚を文脈に仕込めたこと、長らく「ドリトル先生」シリーズを翻訳していたこと、ぼくの大先輩で早稲田の仏文科を出ていたこと、梶井基次郎(485夜)の『ある崖上の感情』にかなり痺れたこと、小林秀雄らの「作品」の同人になったが長続きしなかったこと、軽妙な剽窃がうまかったこと……などなどについてはふれなかった。ふれるまでもないと思ったからだ。
[追記]松本鶴雄をはじめ、これまで数々の井伏鱒二論がものされてきたが、最近の野崎歓の『水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ』(集英社)は、まるで井伏の文体が写し絵のように憑依して綴っているようで、感嘆した。きっと冥途の井伏も嬉しく読んだのではないか。