才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ライティング・スペース

電子テキスト時代のエクリチュール

ジェイ・デイヴィッド・ボルター

産業図書 1994

Jay David Bolter
Writing Space ― The Computer, Hypertext, and the History of Writing 1991
[訳]黒崎政男・下野正俊・伊古田理
編集:江面竹彦・西川宏
装幀:戸田ツトム

編集工学は「遊」を編集しているうちに芽生え、バルトとフーコーに暗示を受けて船出してLISAとマッキントッシュのGUIを見たときに化けた。そんなふうに、かいつまめる。そのへんの考え方についての経緯を順を追って話したことがないので、少し説明しておく。

 結論から先にいうと、ぼくの「編集の先達」は世界中の本たちだった。書店や図書館や古本屋に通ってたくさんの本を矯めつ眇めつ眺めて出会っているうちに、編集の醍醐味が伝わってきた。本をよくよく見てさえいれば、世界観のつくり方やカットアップの仕方や、アナロギア・ミメーシス・パロディアをどう案配するかが伝わってきた。
 編集は本づくりにあるだけではない。書いたり読んだりすることも編集である。それゆえ技法としての編集力は、書き手のメッセージやコンテンツの内容だけを相手にするのではなく、そこにメソッドとメディアをくっつける。編集にはメッセージ(Message)とメソッド(Method)とメディア(Media)という三つのMが一緒に動く。編集力はこの3Mによってむくむくと顕在化する。それをみごとに体現しているのが本なのである。

 3Mによる編集力はすぐれた言語表現者とともに、さまざまな芸術的表現者によっても発揮されてきた。
 そういう編集力の見本はたくさんある。空海にもライプニッツにもヴィーコにも、藤原公任にもモーツァルトにも荻生徂徠にも、オスカー・ワイルドや菊池寛やジャコメッティや、北大路魯山人にもデュシャンにも阿木燿子にも躍如する。かれらは実に多様な編集手本を見せてくれた。ぼくはそのつど食い入るように見つめた。手本は文学だけでなく、アート作品や工芸や商品にもあったのである。
 たんなる創造力ではない。表現力でもない。表象力あるいはメディエーションを伴う想像的編集力だ。ぼくはそのうち、こうした編集的な3Mを顕在化させるスコープの仕事をまとめて「編集工学」と呼ぶようになるのだが、明確にそういうふうに呼ぼうと思うまでには紆余曲折があった。
 しかし、いまあらためてまとめていうとすれば、編集工学は「遊」を編集しているうちに芽生え、バルトとフーコーに暗示を受けて船出して、LisaとマッキントッシュのGUI(グラフィカル・ユーザーインターフェース)を見たときに化けた。そんなふうに、かいつまめる。
 そのへんの出会いと考え方についての経緯を順を追って話したことがないので、少しレトロスペクティブに説明しておく。

工作舎のロゴマーク
作:まりの・るうにい+羽良多平吉

 一九七一年夏、「遊」は「読み/書き/語り」にひそむ相互的な互換性を「関係の束」として感じながら行き来してもらうにはどうしたらいいのか、どんな表象空間(=メディア=インターフェース)を用意すればいいのかという模索から生まれた。「オブジェ・マガジン遊」と銘打ったのは誌面の中でさまざまなオブジェクトを動かしたいという意図があったからで、あとから想うとスモールトークによるオブジェクト指向をやや先取りしていたようなところがあった。
 雑誌の編集制作は連載ものやコラムを別にすると、次号あるいは次々号の特集を組み立てることから始まる。毎号、何十ページかの紙の束の中に特異な仮想空間をつくるのである。そのためいろいろな事前準備をする。企画をたて構成ができたら、ラフなサムネールとページ割りにもとづいて、複数の執筆者に原稿を頼んだりインタヴューをしたりする。対談も入れる。

オブジェ・マガジン『遊』創刊号(1971)
広告会社で3年ほど働き、父の借金を返済したのち、念願の新雑誌の編集制作にとりくんだ。20世紀末のためのニューウェーブ博物誌をつくる覚悟を決め、デザイナーに杉浦康平氏を迎え、前代未聞の「遊」が誕生した。目次ではなく「目録」と銘打った。

 原稿は「書きもの」だから、これはフォーマットにあわせて整理して、ページ状の仮想空間の中の柱にする。記事のタイトルは書き手(執筆者)が予定した言葉を尊重するけれど、少し変えることもあれば、サブタイトルで編集構成を強調して編み出すようにすることも多い。インタヴューや対談は「語りもの」なので、声を文字に変換するためテープをおこして中身や分量を案配して、対談時やインタヴュー時の臨場感を再現する。臨場感を失ったインタヴュー記事はつまらない。「えーっと」「それでね」「とかなんとか」といった口語通りにすれば臨場感が出るわけではない。むしろ「声の文字」「耳の言葉」にすることを努力する。
 「書きもの」にも「語りもの」にも、大小の見出し(ヘッドライン)が必要である。見出しは編集トリガーであって、読者の止まり木であり、関心と注目のための手摺りである。それとともに日本料理が皿や小鉢や椀にさまざまな器を使うように、タイトルとヘッドラインも「言葉の器」による盛り付けを心がける。だからタイトルやサブタイトルは記事によってボリュームやスタイルが異なるし、見出しは文頭や文中に入れるとはかぎらない。肩に付いたり、袖に付いたり、裾に付いたりする。フォントも変わる。

「第3期 1026号 食べる」(1981)
セイゴオと親交の深い山口小夜子氏が表紙をいろどった。表紙に「いただきます」、裏表紙に「ごちそうさま」。

「第3期 1020号 聴く」(1981)
音の特集。デレク・ベイリー、小杉武久、細野晴臣など、当時の「前衛」ばかりが登場する。

 こうして特集全体を一連の「読みもの」として仕上げる。「読みもの」ではあるが、これは小さなスペクタクルでもあるので、テキスト、写真などのヴィジュアル、ヘッドライン、キャプション、図解などがページをまたいで連鎖的あるいは断続的に組み合わさっていくように仕立てる。
 ときには引用やクロニクルや参考図版も入れる。執筆者や登場人物たちには顔写真やプロフィールが絶必だ。書き手や語り手は表情をもっている。
 こんな作業が次々に編集され、ページデザインされる。それは「読み/書き/語り」を相互に互換させる「仮想的編集体」とでもいうべきものの出現なのである。「遊」ではそういう特集タイトルとして「叛文学非文学」「相似律」「存在と精神の系譜」「呼吸+歌謡曲」「観音力+少年」「世界模型+亜時間」「盗む」「仏教する」「日本する」といったタイトリングを施した。

進化しつづけていった『遊』
1978年に第2期を迎え、特集テーマを「呼吸+歌謡曲」「化学幻想+神道」というふうな不思議な一対にし、1980年からの第3期は、特集をすべて動詞であらわすようにした。

「第3期 1026号 盗む」(1981)
五木寛之・吉本隆明などが自分で盗んだ物品を持ってポーズをとった「盗む」特集。

「第2期 1013号 電気+脳髄」(1980)
巻頭グラビアではさまざまな電線の写真をモーラした。セイゴオはエッセイ「文学的電界の消息」で、電気をあつかった文学をいくつかとりあげ、「電気は文学である」と断言した。

遊人紹介
執筆者紹介欄を「遊人紹介」と名付け、登場人物にふさわしい近況を入れた。1016号では、スーザン・ソンタグと写真家の横須賀功光、三宅一生や山田風太郎や後藤繁雄がフィーチャーされている。セイゴオは自己紹介よりも「他者連鎖紹介」こそが、すぐれて編集的な文化を広めると考えた。
「第3期 1016号 飾る」(1981)より

 編集制作をしているうちに気が付いた。もともとテキストや画像データは、どれ一つとして孤立してなんかいないということだ。それぞれが「互いにつながりあおう」としているのではないか、編集とはその「つながり」を掬いとる作業ではないかと思えた。アルス・コンビナトリアである。
 何によってつながっているのか、当時はまだそれが「情報の編集の仕方」によるつながりだとは言えなかったのだが(そのころは「意味」のつながりだと思っていた)、それでも、そのつながりをエラボレートする(入念に仕上げる)つど、ぼくが考えている「編集性」は、非線形的で重畳的で、多分にアナロジカルなものだろうという確信をもった。
 一方、本と知識がもたらしている成果から学ぶべきことが、いろいろあった。テキストが個別テキストの流れを超えて自在につながりあっていることは、ロラン・バルトの『S/Z』(みすず書房)やミシェル・フーコーの『知の考古学』(河出書房新社)がいちはやく示唆していた。
 『S/Z』はバルザックの短編小説とその注解で構成されたもので、バルトはテキストを超テキストないしは互換テキストとして扱いたがっていた。そうか、そういうことかと膝を打った。『S/Z』はバルザックのテキストよりもバルトが書き入れた注解のほうが多く、その注解で元テキストが分断され、横超され、意図的に再統合されていたのである。
 フーコーの『知の考古学』はもっと意図が明確だった。一冊の書物が示したテキストは、それ自体として網目(ネットワーク)が言及する結節点なのであるというテキスト像を持ち出していた。フーコーはそこにエノンセ(言表体)というモジュールさえ現出させていた。この見方に大きく影響された。少し遅れてジャック・デリダは『グラマトロジーについて』(現代思潮新社)で、テキストの単線的な書き方と非線形的な書き方を対比して、「意味は継時的な秩序、すなわち論理的な時間の秩序や音声の不可逆的な時間制にしたがってはいない」ことを指摘した。これらのことはぼくにはある程度は自明のことだったのだが、強い援軍を得た気分になった。

ロラン・バルト『S/Z』とミシェル・フーコー『知の考古学』の原著

 テキスト思想はそれでいいとして、では、そうした平行交差するパラテキスト状態を紙の束の上ではどうあらわせばいいのか。「遊」では、それを杉浦康平さんや戸田ツトム・木村久美子・森本常美・海野幸裕君らと相談して、とりあえずは複合的なレイアウトに仕立てたが、ほかに手はあるのか。もっとリアルタイムにその平行交差を実感できる手はないのか。コンピュータやワードプロセッサーは編集の支援ツールとしてどこまで進化できるのか。そんなことを模索しつづけていた。

表紙と裏表紙がつながった「第1期 8号 叛文学非文学」(1975)
「叛文学・非文学」という特集のため、タテ・ヨコ・ナナメの文章があたかもテキスタイルのように編まれて紋模様をなしている。背にも文章が流れる。

「型録非文学」
「叛文学・非文学」特集は、医療報告、裁判記録、三行広告を厖大に集めて、これらが「文学に匹敵する」ことを示した。
「第1期 8号 叛文学非文学」(1975)より

「存在と精神の系譜」での実験的デザイン
セイゴオは杉浦康平氏と多彩な編集デザイン実験を「遊」で試みた。古今東西142人の思想家や芸術家をとりあげて「存在と精神の系譜」と銘打った特別号を上下巻で刊行。雑誌に前代未聞のカバーが付いており、裏返すと142人の系譜が河川ふうの系統樹になっている。表紙デザインでは北一輝とダリ、宮沢賢治とアインシュタインなど、二人の顔がペア・コラージュされている。また背表紙の人物名の頭文字を並べると、ひとつながりのカタカナ文章になる。
「第1期 9・10 存在と精神の系譜[上・下]」(1977)より

 「第1期 3号 レオナルド・ダ・ヴィンチ学2」(1972)
巻頭グラビアページは杉浦康平監修による「オブジェ・コレクション」が16ページにわたって繰り広げられた。ページごとに「天壌無窮」「君子豹変」「玉石混交」など、四字熟語のテーマにそって模型が蒐集されている。

「第1期 6号 箱の中の筐」(1973)
武満徹、長新太、武智鉄二らによる「謎々」特集。各章ごとに7種類の色紙を使用した。竹尾洋紙店提供。d=市川英夫

美空ひばりインタビューと全身体感覚地図(画:西岡文彦)
左はインタビュー時の写真をコマ送りのように並べ、紙面で美空ひばりの呼吸を感じさせた。美空ひばりが文化誌に登場したのは初めて。右は10ページにわたって一つのカラダを作図し、各部位の感覚情報を割り付けていった。
「第2期 1002 呼吸+歌謡曲」(1978)より
「第3期 1032 感覚する」(1982)より

遊線放送局
「遊」の発行母体である工作舎の一部始終を毎号かいつまんでいた「遊線放送局」。工作舎ではどんなときも写真記録を欠かさなかったので(全員がDPEの技能をもっていた)、現場写真も豊富だった。木幡和枝率いる同時通訳集団と合体したため、ガイジンも多かった。
「遊 第2期 1013 恋+存在学」(1980)より

 編集力は機械にも充当できる。とくに楽器、ロボット、コンピュータだ。しかし多くは操作的で、編集的になっているというものは乏しかった。そこへ突如として登場してきたのがアップル・コンピュータのPCシステムだった。
 若いウォズニアックとジョブズが一九七七年に試作したアップルⅡは専用フロッピーディスクドライブがついていて、外部モニターにつなぐだけで起動した。一九七九年に発表された表計算ソフト(VisiCalc)は大ヒットして、八〇年には一〇万台、八四年には二〇〇万台が出荷された。
 ついでLisaが発表された。支援ツールというより「プレ編集マシーン」めいていた。ギョッとした。Lisaをぼくに見せてくれたのは、当時「遊塾」(ぼくの無料塾)に来ていた電通の秋山隆平君だったが、そこには驚くべきしくみが提示されていた。続いてマッキントッシュのプロトタイプが発表された。複数のテキストや画像がマルチウィンドウで表示され、さまざまなコンテンツはすべて枠組をもっていて、ユーザーはそこにカーソルを当てて動かせた。テキストの部分(単語)にリンクを張り、部分どうしを複数のノードで結べるようにもなっていた。
 これらは青年ジョブズがゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で見たGUIを採り入れたもので、ぼくが紙の束で考えていたことをやすやすと乗り越えていた。とくにマウスによってカーソルが動くのが卓抜で、「やられた!」と思った。「紙ではできない。目が動くポインターになっている」と呻くしかなかった。
 これでは「遊」は休刊だ。工作舎を出て、数人で松岡正剛事務所をつくり、そこで一から組み立てなおすことにした。紙の「遊」の試みは十年で了った。

初期のLisa(左)とマッキントッシュ(右)
Lisaはセパレート型のキーボードと箱状のワンボタンマウスを備えている。マッキントッシュは機能性に加え、デザインを熟慮していたジョブズがこだわりぬいた作品で、どこか「かわいい」というような親しみの印象さえ抱かせる。

マッキントッシュのデスクトップ
MACのインターフェースは、GUIを氾濫させる強力なプロトタイプとなった。その設計は、ファイルを見れば「開く」、ゴミ箱を見れば「捨てる」──という一般的頭脳労働者のステレオタイプ化された思考と行動をベースにしている。

 松岡正剛事務所には電子淑女とぼくが呼んでいた北里大出身の渋谷恭子がいた。彼女はたいへんアクティブで、電電公社やオムロンやNECといった企業のおもしろそうな部門に行っては、ぼくが挑むべき仕事をとってきてくれた。IQもやたらに高い。
 電電は民営化の最終準備に入っていて、記念出版物『情報の歴史』(NTT出版)の構成編集と、情報文化フォーラムの仕切り役を頼んできた。フォーラムの成果は『情報と文化』(NTT出版)にまとめた。実はNTT出版という版元づくりも手伝った。オムロンとは「花鳥風月ナビ」というソフト開発をした。
 そんなとき思いがけなく翻訳の仕事を頼まれた。リチャード・ワーマンの『情報選択の時代』(日本実業出版社)だ。訳しているあいだに、そのワーマンからモントレーのTEDに招待され、四日間を楽しんだ。テッド・ネルソン、アラン・ケイ、ビル・アトキンソン、ジャロン・ラニアーらと話しこめた。
 ネルソンはとっくに「ハイパーメディア」(hypermedia)と「ハイパーテキスト」(hypertext)という構想を提唱していて、この構想はもともとはヴァネヴァー・ブッシュの「メメックス」(Memex)の考え方にもとづいていると言った。アトキンソンは「ハイパーカード」(hypercard)というものを開発中なんだと言った。スーパーではなくハイパー。スーパーメディアではなくハイパーメディア。
 ハイパーというのは日本語にしにくいが、幾何学では次元数が自由であることを、素粒子物理学では粒子が予想のつかない奇妙なふるまいをすることをいう。ハイパーキューブといえば変換が自在な高機能立体のことだ。
 ビル・アトキンソンのハイパーカードはテキストや画像をもつカードそのものがノードになっているというもので、カードにはボタンも埋め込めた。いわば遺伝型(ジェノタイプ)と表現型(フェノタイプ)の両方をもっている情報単位カードなのである。プログラムにはHyperTalkを使うが、いったんハイパーカードができれば、それを使っていくらでもオーサリングができた。そうやってつくったファイルはスタックとしてさまざな活用場面を広げられるのである。
 これはオチオチしていられない。一九八七年の暮、なにはともあれ「編集工学研究所」(Editorial Engineering Laboratory)をスタートさせた。「編集する」と「工学する」を突き合わせたわけだけれど、その突き合わせのアクチュアリティは、さきほど述べたように「遊」のころの「読み/書き/語り」の編集現場の渦中で感じていたものだ。松岡正剛事務所もそのまま残し、編工研のことは渋谷と太田剛に任せた。金子郁容・宮之原立久・川崎隆章と、なによりも当時のNTTの研究者たちが手伝ってくれた。

システム花鳥風月ナビ(1996)
セイゴオの日本文化研究の成果を生かし、編集工学研究所が開発したマルチメディアソフト。デスクトップメタファーに変わるインターフェースとして「桂離宮」の構造を使い、従来の意味のリンクではない、日本文化モデルによる情報のリンクによって、イメージをキャナライズ(運河化)している。

リチャード・ワーマン『情報選択の時代』(1990,日本実業出版社)
爆発・加速する情報と人が手にする価値ある情報との落差、それをどう埋めていくかを、情報建築家ワーマンがやさしく手ほどきする。

編集工学研究所が成立してまもないころのセイゴオ
1990年、青葉台の松岡正剛事務所の書斎において

 しばらくして、こんなニュースが届いてきた。一九九〇年五月、エルヴサム・ホールで「テクノロジーと人文科学の将来」をめぐる学会が開かれたとき、ヒリス・ミラーがこう言ったというのだ。ミラーはイエール大学の脱構築派の旗手だった。「関係は……複合的で、非直線的で、非弁証法的で、非常に重層決定されたものである。この関係を定義するには伝統的なパラダイムはそぐわない」。そりゃ、そうだろう。そんなことは当然だと思ったが、これで多くのことがピンときた。
 ミハイル・バフチンがテキストの読み方として重視したのは、リンケージ(連鎖性)、インターコネクション(相互関連性)、インターウォーヴン(異質混交性)だったのである。デリダはそれを「リンク(連鎖)、ウェブ(クモの巣)、ネットワーク(網の目)、マトリクス(母型)によって読む」というふうに言い換えたのである。これらはその後、ハイパーテキストとして電子ネットワーク空間に投射された。

 八〇年代後半から九〇年代にかけては、日本がバブルに沸いてそのまま壊れていった時期だ。この時期は、一方では新たな認知意識の枠組がコンピュータ・ネットワークにかかわる技術や技能によってもたらされるのではないかという予感が急速に充ちはじめていた時期でもある。この時期に産業図書が次々に放った一連の本はたいへん刺激に充ちていた。
 デイヴィッド・マーの伝説的な論考『ビジョン』、シャンジュー&コンヌがニューロンの正体に迫った『考える物質』、マーヴィン・ミンスキーがフレーム=エージェント理論を解きあかした『心の社会』、ハワード・ガードナーが人工知能研究探索をめぐった『認知革命』、ジョンソン゠レアードが認知の枠組を整理した『メンタルモデル』、リチャード・ローティのコア・コンピタンスにあたる『哲学と自然の鏡』、日本の脳計算研究をリードした川人光男の『脳の計算理論』、ペシス・パステルナークが二分思考批判をやってのけた『デカルトなんかいらない?』、下條信輔の実験心理学レポート『視覚の冒険』、加えて、アナロジーの力に注目したバーバラ・スタフォードの鮮やかな『アートフル・サイエンス』や、そしてデイヴィッド・ボルターの『ライティング・スペース』などだった。
 片っ端から読んだ。いずれも興味深く、すばらしいエクササイズやトレーニングになった。ぼくの編集工学はこれらの本に鍛えられ、しだいに構想がふくらみ、その構想をどうやって「関係の束」や「表象のメディア」にすればいいかという展望をもつにいたった。

セイゴオが影響を受けた本たち

 今夜とりあげたのはその一冊、ボルターの『ライティング・スペース』である。ニューパラダイムに向かって翼を広げた一冊で、著者はノースカロライナ大学で古典論や文学理論を修め、ジョージア工科大学でメディア論を教えている当時の気鋭の研究者である。NTTの情報文化フォーラムの大事な一員を担ってくれた黒崎政男君のグループが翻訳した。さらっとした翻訳で、あまり用語の意義にこだわってはいない。
 タイトルに狙いがあらわれている。ライティング・テクノロジーがPCネットワーク上のハイパーテキストに向かう歴史的推移を証し、編集工学的なライティング・スペースの可能性をさまざまに提示した。
 ライティング・スペースという言い方には、紙と電子をまぜまぜしたいというニュアンスがあらわれている。まだインターネットが登場してくる前の著作ではあるが、その先駆性ゆえの示唆をいろいろもたらした。
 ボルターはライティング・スペースとしてのコンピュータが、これまでの文学者たちのさまざまな実験的な試みをあますところなく吸収できるだけではなく、それが電子的なハイパーテキストになることによって、新たなエクリチュールを感じさせるものになるという視点で、一冊をまとめた。
 冒頭、三人の本が案内される。ヴィクトル・ユゴーの『ノートル゠ダム・ド・パリ』(岩波文庫)、フランセス・イエイツの『記憶術』(水声社)、エリザベス・アイゼンステインの『印刷革命』(みすず書房)だ。これで本書の狙いがよくわかる。
 『ノートル゠ダム・ド・パリ』は伽藍(カテドラル)が知識と情報を刻んだ石造りのメディアであったということを、『記憶術』は中世の書物が「書き写し」と「読み移し」によって記憶と再生をリバースできる構成をもった紙のメディアであったことを、『印刷革命』はグーテンベルク以降の活版印刷が同一コンテンツが多くの読者に同時に読まれる可能性を孕んで書物・新聞・雑誌を新たな情報メディアにしていったことを、それぞれ告知していたのである。
 それなら、電子メディアはこれらの先行力をどう統合できるのか。ボルターは「ことごとく」と回答する。

ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』(岩波文庫)
フランセス・イエイツ『記憶術』(水声社)
アイゼンシュタイン『印刷革命』(みすず書房)

 書くとは、書き手の思考を外在化することである。その書き手は自分自身がそのテキストを最初に読む読み手でもあって、そのため、そこには当初から「書き手が読み手になっている」という再帰的な関係が成立する。
 この「書き手≒読み手」の関係モデルは、やがて書物や新聞や雑誌を通して第三者の読み手にも移行して、3M(メッセージ・メソッド・メディア)をともなった「読み手≒書き手」モデルをつくる。この途中に媒介しているのが編集モデル(editing model)である。ここには「書きながら読み」「読みながら書く」という相互編集的なコミュニケーションが成立する。
 しかし、ここには「書き手どうしがつながっていく」とか、「読み手どうしが重なっていく」というコミュニケーション・モデルは立ち現れてはいない。さらには、書かれたものや読まれたものが、次々にリンケージしていくとか、それらの情報体験がツリー状に蓄積されていくとかいうことは、メディア的に意図されてはいない。
 ハーバード大学で社会学を修めたテッド・ネルソンが、六〇年代半ばに「ザナドゥ」(Xanadu)という仮想システムで提起したのは、以上のことをハイパーテキスト空間として実現できるようにしようというものだった。一九四五年にヴァネヴァー・ブッシュがマイクロフィルムによってさまざまなテキスト体験を習合させる「メメックス」を提唱したことを発展させて、これをコンピュータ・ネットワーク上に出現させようとしたものである。
 驚くほど画期的な構想だ。こんな構想をどうして六〇年代に思いつけたのか、ぼくはサンフランシスコのマリーナに係留されているネルソンのクルーザー・ハウスを訪ねてあれこれ話しこんでみて、びっくりした。ネルソンは人なつっこく話しながら、ぼくの話を次々に色別のポストイットに書き込むだけでなく、自分でそのとき思いついたことも書き込んで、それらをテーブルの各所や自分の洋服の左腕の袖や胸のあたりに、のべつ貼りまくるのである。
 とてもおかしな異才だった。いったいどうしてそんなことを熱心にするのか聞き込んでいくと、彼には重度の注意欠陥障害があって、子供のころから思考が散漫になるらしく、それを「保持」したり「再生」したりできるようにするため、体中をインターフェースにしているのだという。これで得心した。なるほど仮想システム「ザナドゥ」はその拡張電子版だったのである。こうしたネルソンの思想はその後の『リテラリーマシン』(アスキー)という一冊にまとまっている。

テッド・ネルソン(1937-)
ハイパーテキストの生みの親。現在の「インターネット」として利用されるWorld Wide Web(ウェブ)の構想は、テッド・ネルソンの「ザナドゥ計画」がベースになっている。

ハイパーテキスト計画とテッド・ネルソン『リテラリーマシン』の原著
テッド・ネルソンによる、幻のプロジェクト「ザナドゥ計画」の全シナリオを明らかにしたもの情報ハイウェイ構想も、インターネットのコンセプトも、この一冊に端を発した。

 ボルターがハイパーテキスト状のライティング・リテラシーには「トポグラフィックな特徴がある」と言っていることは、とても重要だった。ただしトポグラフィックの意味をちゃんと説明していない。
 トポグラフィ(topography)はもともとは地勢や地形や地誌のことをあらわす用語なのだが、画家たちが風景や光景をトポグラフィックに描くというふうに言うと、俄然、ダイナミックな意味が躍る。ボルターは気がついていないようだが、ジョン・ラスキンがウィリアム・ターナーの絵を評したときに「ターナリアン・トポグラフィ」という表現をつかった。ターナー独特の地形的風景の描き方をそう呼んだのだ。そこでは「ヴィスタ」(vista)が「眺め解釈」の単位になっていて、今日のAIの画像認識に近い考え方が出現していた。
 ぼくはこれが大いに気にいって、それからしばしばトポグラフィック・イメージという言葉をつかうようになった。観測者や書き手や読み手やユーザーがそこに接すると変化する精神地形のようなものである。陶芸家が「やきもの」をつくるたびにおこっていることである。最近では脳科学研究や医療分野で「光トポグラフィ」という分野が登場して、近赤外光を用いて大脳皮質の機能をマッピングする装置もある。変換観測ができることがトポグラフィックなのだ。

アウトライン・プロセッサ
書き手の求めに応じて、見出しと本文の表示が操作できる。また順番も自由に組み替えることができ、書き手がグローバルな視点でテキストの概観がつかめることを可能にし、ライティングのエンジンともなりえた。現代のネット社会では一般的にすでにあたりまえの技術とされている。
『ライティング・スペース』p29

 ハイパーテキストやハイパーメディアは、思考や情報をトポグラフィックな網目の中の出来事に変えていく。それも発信者と受信者のアリバイを問わない「交信の途中」からそうさせていく。ぼくはこの「相互変容がつくりだす創発」こそが編集工学がめざしていることだと確信した。だとしたら編集工学はつねに「交信の途中」を受け持たなければならない。そう、考えた。
 九〇年代の日本は「失われた十年」になったが、ハイパーメディアは大きく前進してインターネット時代に突入していった。コンピュータ・ネットワークそのものが他の別の多くのコンピュータ・ネットワークとつながりあい、「ネットワークのネットワーク」時代がやってきた。たちまちWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)が生まれ、アプリケーション・プロトコルにHTTPやIRC(チャット)やFTP(ファイル転送)が適用され、ストリーミングも自在になってきた。
 いったい何がおこりつつあるのか。一九九五年、金子郁容と吉村伸とぼくは三度にわたって語りこみ、今後のインターネットの可能性を自由に予想議論する『インターネットストラテジー』(ダイヤモンド社)を上梓した。
 紙のエンサイクロペディアは「知の取引自在のエンサイクロメディア」に変わっていくだろうこと、銀行から家族にいたるまで、どんなお財布もとことん電子管理されていくだろうこと、電子ウィルスにまつわる技術とハッキングにまつわる技術がこれからの未到技術をリードしていくだろうこと、云々かんぬん……。吉村君は村井純らとともに日本にインターネットを導入したIIJの創立者の一人である。

『インターネットストラテジー―遊牧する経済圏』(ダイヤモンド社,1995)
第1章 インターネット・ボランティア・編集的世界観
第2章 ワールド・コミュニティモデルとしてのインターネット
第3章 WWW型インターネット応用技術の次にくるもの
第4章 インターネットと経済システム―
第5章 悪と欲望とインターネット
第6章 遊牧的知識共有社会をめざして
エピローグ 相互編集の時代へ

『インターネットストラテジー』の鼎談風景
松岡正剛、金子郁容、吉村伸の3人が、それぞれの視点から、インターネットがもたらす情報社会像を描き、また、これからの個人、企業、社会や経済がどのようになるか、どうすればいいかについて、2日間にわたって縦横無尽に語り合った。
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Office Workers
Staff at work at computer screens in a modern office in the City of London, circa 1990.

 インターネットについて予想議論をし、さらにその後の展開の中に身をおいてみると、踏んばっておかなければならないことが見えてきた。それはネットでは利用者の編集力が確実に奪われていくだろうということだ。まだグーグルもアマゾンも本格活動していなかったし、ウィキペディアもスタートしていなかったけれど、ネットが自動編集力のようなものを強力に掌握していくことは目に見えていた。そこで、どうしたらネット時代に編集力を養えるようにできるのか、いろいろ思索した。

 二〇〇〇年一月、初めて新書をまとめた。若い編集者の勧めのままに書いた『知の編集術』(講談社現代新書)だ。編集力を鍛えるための編集稽古のしくみをまるまる説明したものだったが、評判がいい。その勢いで数ヵ月後にネットの片隅に「編集の国ISIS」を立ち上げた。
 「編集の国」はネットの各所からここに移住(越境?)してきてもらえるようにしたもので、いくつかのイシューやイベントとともに「イシス編集学校」と「千夜千冊」をスタートさせた。なんとか編集力についての関心を盛り上げ、誰もが編集術のおもしろさに出入りできるようにしたかったものだ。渋谷恭子が建国資金(技術開発費)をソニー・エンタテインメントやNTTドコモや資生堂に声をかけて集めてくれた。

編集の国ISISのトップページ
「関係の発見」と「方法の冒険」をエンタテイメントにするバーチャルカントリーを電子ネットワーク上につくる実験プロジェクト。すべてのユーザーはクリエイターと呼ばれ、さまざまなサービスメニューを通して編集力を競い、相互編集コミュニケーションを楽しむ。

 イシス編集学校は「守」「破」「離」の三つのコースプログラムが同時に走っていて、ネット上の教室に一〇人くらいのネット学衆が集まり、教室ごとに就く師範代から次々に出されるお題をハイパーテキスト状に応えていくという方式にした。
 これは『知の編集術』で提唱した「編集稽古」ができる場で、「守」は四ヵ月にわたって三五番から五〇番ほどのお題が出るように仕組んだ(現在は三八番の「編集の型」を学ぶ稽古になっている)。「破」は文体編集術や物語編集術を学べるようにした。配信と回答のためのアプリは開発したが(エディット・カフェ)、その他のコミュニケーションにはあえて自動性を省いた。編集学校のライティング・スペースはすべて人力なのである。
 「千夜千冊」についてはとくに説明するまでもないだろうが、ネットだからこそ昔ながらの「紙の本」を執拗に紹介しつづけることにしたのである。書店に出回っていようといまいと好きに選書し、千夜千冊サイトを開けるとそこにはびっしり文字が充満し、かなりの関連図版や関連図像が掲示されているようにもした。一〇〇〇夜目の良寛まで、毎日毎晩更新したものだ。当初は一〇〇〇人ほどのアクセスだったけれど、一年をすぎると七〇万アクセスに達していた。

当時のイシス編集学校フライヤー
イシス編集学校は世界で初めて、インターネット上に開校した編集の学校。現在「守・破・離・遊」の4つのコースで、セイゴオの編集術を基礎から応用まで、着実にマスターできるカリキュラム=編集稽古を開発。セイゴオ自らも「校長」として、指導にあたっている。

千夜千冊1000夜突破記念イベント「これでだめなら日本は闇よ」(2004年07月24日)
原宿クエストホールで開催。「千夜千冊」にとりあげた高山宏・小谷真理氏らの著者や杉浦康平氏・田中泯氏・本條秀太郎氏・坂田明氏らとコラボレーション、司会はいとうせいこう氏。

 翌年、『知の編集工学』(朝日新聞社↓朝日文庫)も書いて、編集工学とはどういうものなのか、初めて概要を説明した。ここでは編集用法と編集技法を区別して、従来のコミュニケーション・モデルの変更を訴えた(エディティング・モデルと名付けた)。この本で強調したのは、編集を通して認知革命がおこるということだ。
 このような踏み出しというか踏んばりをしたのだが、そのとたん、世界のIT技術とIT市場があきれるほど異様な速度で爆発していった。一言でいえば圧倒的なパワーによるグーグル・アマゾン時代が到来したのである。ユーザーたちはグーグル・アマゾンが用意した便利な編集装置の中で自由に遊びまわり、消費活動に勤しみ、ランキングとリコメンデーションにたちまち酔っていった。自分で編集などしなくていい世界が整っていったのだ。二〇〇一年にラリー・サンガーとジミー・ウェルズが創始した「ウィキペディア」もあっというまに巨大な電子百科に膨らんだ。ウィキはごくごくおおざっぱなこと以外は、査読や編集はしない方針だった。
 これらのことの多くは『インターネットストラテジー』で予想し議論したことではあったものの、残念なこともいろいろおこっていた。炎上やハッキングがおこったことではない。個人情報が漏洩したりネット犯罪が頻発したりしたことでもない。そんなことは予想済みのことだった。そうではなくて、のちのツイッターやフェイスブックやラインが判で捺したかのごとくそうなったように、ネット社会はユーザーにできるだけ編集やライティングの負担をかけないように進捗(しんちょく)していったのだ。
 それでどうなっていったのか。ネットの全体は巨大なハイパーテキスト世界を形成しているにもかかわらず、一人ひとりがハイパーテキスト化やハイパーメディア化をおこす編集能力はガタ落ちになっていったのだ。ぼくはネットの中では、いまだに一人のバルトにも一人のフーコーにも、ネットらしい徂徠や魯山人にも、ネットならではの阿木燿子にも出会えていない。

『知の編集工学』(1996,2001)
セイゴオが初めて「編集工学」の全貌を体系的にまとめたエポックメイキングな本。編集工学が歴史の中のエディターシップや、認知工学・システム工学などの成果を総合化する試みから生まれたこと、「編集」は複雑な情報社会を生きる上で必須の技術であることを多様な切り口で世に知らしめた。文庫解説担当は思想家の山口昌男氏。編集工学は、非線形の想像力を世界像に組み込む方法であると高く評価した。

『知の編集術』(2000,講談社現代新書)
一般読者向けに、編集工学のエッセンスをわかりやすく説く入門編。「編集は遊びから生まれる、対話から生まれる、不足から生まれる」というスローガンを掲げつつ、要約と連想というもっとも基本的な編集メソッドをはじめ、セイゴオが体系化した編集技法や用法も紹介。発売以来、版を重ねるロングセラーとなっている。また本書に掲載された全28の編集稽古から「イシス編集学校」が生まれた。

 編集工学は「編集する工学」であって「工学する編集」である。二つは不即不離で、分かちがたい。しかしながら「工学する」の大半は、いまやICT(情報通信技術)の中身や最前線とほぼ同義になってきた。そのうちAIやAL(人工生命)やロボット工学を大きく取り込むことにもなるだろうし、おっつけ、すべての情報処理プロセスのデータがビッグデータ化され、すべてのプロセスがブロックチェーン化するだろう。
 そうだとすると、そうした工学シーンを前提にしつつも、いよいよ「編集する」の技法と意義と思想こそが深く理解され、体感されるべき時代が到来しているということなのである。「工学する」にくらべて、残念ながら「編集する」が立ち遅れてしまったままなのだ。
 そうなったことについては、理由がある。ひとつにはICTが超高速に発展してきたからであるが、もうひとつには「編集する」が長いテキスト・ライティングの歴史の中で哲学から文学にいたるまで、自由自在な試みを先行してきたため、その特徴を編集工学的に把握する作業を怠っていたせいだった。

 それでは、ぼくが編集工学的に「編集する」をどうしたかったかといえば、すでに述べてきたように、発想と思索と表現のいずれにも3Mと3Aを組みこむべきだということだ。ロジカルなデジタル・システムの枠組の上に、徹してアナロジカル・シンキングができるようにすることだ。一言でいえば「子どもが連想によって学習し、類推によって表現してきた」ということを、最前線のライティング・スペースに組み込んでいくということだった。
 そのためには、発想と思索と表現のいずれの「あらわれ」と「あらわし」もハイパーテキスト状にしておくこと、どのノードやどのリンクからも「連想の翼」がはばたくようなコノテーション(内示的意味)の辞書とデノテーション(外示的意味)の辞書を充実させておくこと、そのうえでコンピュータ・ネットワークの有利なしくみを適用していくということである。
 「あらわれ」と「あらわし」をハイパーテキスト状にしておくには、おそらくたくさんのテキストをまたぐためのマザーテキストが必要である。そのマザーテキストにはたくさんのアンカー(錨)が埋められていて、これを読む者はアンカーにもとづいて「世界」の解読に向かって飛び出していく。
 こういうマザーテキストをもった連想力に富んだ学習システムがつくれないだろうかと考えたすえ、イシス編集学校の「離」コースでその実現を試みたのである。総匠に太田香保を、指南陣に選りすぐりの師範や師範代を配し、おそらく世界のどこにもない複合的でハイパーなライティング・スペースが出現したのではないかと思う。そのあらましは、一五一九夜のブルーメンベルク『世界の読解可能性』のところに案内しておいた(本書三三八ページ以降)。

編集学校コースと3A・3M・5Mについて
イシス編集学校パンフレットより

 以上が約二五年ほど前の、ぼくの仕事が「編集する」と「工学する」の出会いとなったパサージュをめぐるスケッチだ。はなはだプライベートな出来事にまじえて綴ったけれど、これはテッド・ネルソンが「ザナドゥ」を提示したときからの交景なのである


⊕ ライティング スペース -電子テキスト時代のエクリチュール- ⊕

∈ 著者:ジェイ・デイヴィッド・ボルダー
∈ 訳者:下野正俊、伊古田理、黒崎政男
∈ 装幀:戸田ツトム
∈ 発行者:江面竹彦
∈ 発行所:産業図書
∈ 本文組版:一企画
∈ 印刷所:新日本印刷
∈ 製本所:小高製本
∈∈ 発行:1994年6月23日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 序
∈ 第1章 イントロダクション
∈  印刷時代末期
∈  本を書き直す
∈  電子ライティングの使用
∈  書物の新たな声
∈  文章を書くためにコンピュータを使用する
∈  ライティング・スペース
∈ 第Ⅰ部 ヴィジュアル・ライティング・スペース
∈ 第2章 新たなライティング・スペースとしてのコンピュータ
∈  ライティングのトポス
∈  電子ツリー
∈  ハイパーテキスト
∈  ハイパーメディア
∈  最初のハイパーテキスト
∈  ハイパーテキストを読む人、書く人
∈ 第3章 テクノロジーとしてのライティング
∈  精神の状態としてのライティング
∈  ライティングのエコノミー
∈  構造のハード的部分・ソフト的部分
∈  電子の構造
∈ 第4章 ライティングの要素
∈  絵文字
∈  二次的なライティング
∈  表音表記の後で
∈  絵画的空間
∈  余白に書く
∈  空中に書く
∈  構成的なライティング
∈ 第5章 見ること、書くこと
∈  機械仕掛けの文字
∈  電子の文字
∈  電子のページ
∈  テキストの中の図像
∈  表空間
∈  数空間
∈  グラフというレトリック
∈ 第Ⅱ部 概念的なライティング・スペース
∈ 第6章 電子書籍
∈  書物の概念
∈  大いなる書物
∈  百科全書的な秩序
∈  電子的百科全書
∈  電子環境
∈  電子的ライブラリー
∈  ペルセウスからザナドゥまで
∈  自然の書物
∈ 第7章 新しい対話
∈  読書のみちすじ
∈  プラトンの対話篇
∈  対話篇からエッセイへ
∈  線的なスタイルの終末
∈  新しい対話
∈ 第8章 インタラクティヴなフィクション
∈  「アフタヌーン」
∈  インタラクティヴなフィクションの幾何学
∈  文学ゲーム
∈  実験の伝統
∈  スターンと対話としての小説
∈  ジェームス・ジョイスのハイパーテキスト
∈  ボルヘスと印刷における消尽
∈  プログラムとしての小説
∈  多様な読み方
∈  多様な書き方
∈ 第9章 批評理論と新しいライティング・スペース
∈  テクノロジーと批評
∈  テクノロジーと文学における正典
∈  権威の終焉
∈  読者の受容
∈  空間的なライティング
∈  テキストの解体
∈  電子的テキストをデコンストラクションする
∈  見つめることと見通すこと
∈ 第Ⅲ部 ライティング・スペースとしての心
∈ 第10章 人工知能
∈  人工知能の目標
∈  精神の模型をつくる
∈  チューリングの筆記テスト
∈  人工ライティング
∈  チェスを書く
∈  電子のアニミズム
∈  テキストと精神
∈  自立的なライティング
∈  延引としての人工知能
∈  筆者を探して
∈  ライティング・テスト再考
∈ 第11章 電子の記号
∈  記号と指示
∈  活動する記号
∈  記号のテクスチュア
∈  限界のない記号
∈  文字の新たな世界 
∈ 第12章 精神を書く
∈  分析としてのライティング
∈  自分自身を書く
∈  ギャップができる
∈  テキストと記憶
∈  テキスト的精神
∈  志向的なギャップ
∈ 第13章 文化を書く
∈  知覚と記号論
∈  反読書
∈  仮想現実
∈  ネットワーク文化
∈  文化的統一
∈  文化を前提とした読み書き
∈  電子が作る隠れ家
∈ 第14章 結論
∈  ハイパーテキスト
∈ 訳者解説
∈ 参考文献
∈ 事項索引
∈∈ 人命索引

⊕ 著者略歴 ⊕
ジェイ・デイヴィッド・ボルダー(Jay David Bolter)
1951年生まれ。ジョージア工科大学教授(メディア理論)。ノースカロライナ大学でPh.D.を取得。ニューメディア・リサーチ・アンド・エデュケーション・センター教授。高い評価を得た『チューリング・マン』の著者でもある。