
(01)やっとバーバラ・スタフォードをとりあげる夜になった。スタフォードは、高山宏君(442夜)が鳴り物入りで快著『アートフル・サイエンス』(1994)を訳している最中から、「ねえ、松岡さん、これからはスタフォードですよ」というふうにさんざん聞かされてきた天下の才女だ。
高山君の言うとおり、『アートフル・サイエンス』(産業図書)の翻訳ができたときの読後の印象も、その後に『グッド・ルッキング』(産業図書)や大著『ボディ・クリティシズム』(国書刊行会)を読んだときも、いずれも存分に堪能させてもらった。スタフォードはそういう20年に一人のイメジャリーな知性派の代表だ。
(02)スタフォードの本はすべて高山宏の翻訳である。高山君の仕事はいま巷間で評価されている喝采度の10倍か50倍かは評価されていいものばかりだが、なかでもスタフォードを一人で翻訳しつづけたことは絶賛されていい。
では、なぜもっと早く「千夜千冊」にとりあげなかったかというと、どのスタフォードの本にも高山君のすばらしい“あとがき解説”がちゃんとついていて、また別の単著にも(『終末のオルガノン』や『表象の芸術工学』とか)けっこうスタフォードが言及されていて、諸君もそれを読めば十分だろうと思ってきたからだ。
が、やっぱり放ってはおけないし、この新たな「イメージング・サイエンス」を“新人文学”としてここまで爆発させている成果は、ユビキタスが何たらかんたらするぞといったインチキは別として、まだ世の中で提案されていないのだから、このへんで気をとりなおして紹介することにした。
(03)ともかくおもしろい。いや、おもしろいのではなく、デジタルウェブ世紀の新編集時代はここからしか始まらないと言ったほうがいいだろう。これは確信して予言していいことだ。
ただし今夜は、スタフォードの広範で精緻な作業の全貌は、とりわけアーリーモダン(主に18世紀)についての研究内容については高山君に任せ、本書の中身についても「アナロジー仮説」と「メタファー思考」のところだけに光を当てることにする。当面、そこが一番の核心であるからだ。
それから、もうひとつ、あまり丁寧な解説をしないでぶっとばすことにする。この「ぶっとばし」が困るというなら、スタフォードに単身のりこんで自分で取っ組むか、高山宏の本をよく読むか、あるいはイシス編集学校の「離」に入ってもらうしかない。「離」はアナロジー仮説とメタファー思考を徹底して鍛えるようになっている。
(04)この20年間というもの、事態はずっと急を告げていた。新たな知性による歴史観や世界観が待望されていたのだ。
欧米では、その新たな歴史的世界観への期待をひそかに、「ニュー・インテレクチュアル・ヒストリー」(新しい知性史)の出現とか「ニュー・イマジズム」の登場というふうに噂していた。ただし、それは、構造主義から象徴人類学にいたる成果によっても、バルト(714夜)やフーコー(545夜)やデリダのポスト構造主義的な脱構築によっても、ラカン(911夜)やガタリ(1082夜)以降の精神分析主義によっても、またAIがらみの工学アーティストたちのインタラクティブ・アート主義や、VR的アニメ主義やロボティックスによっても、ましてや日本の「へたうま」や「かわいい主義」によっても(つまりはジャパン・クールなどによっても)、とうてい説明も開拓もできないものだろうことは、わかっていた。
なぜなら、もはや事態は文化民族的多様性のてんでんばらばらな爆発とウェブ・ネットワークの異常に急速な普及と、グーグル・アマゾン的全面検索主義と、脳科学や神経生理学の決定的な限界の露呈とによって、今後はまったく新たな様相をもって語られなければならないだろうことが見えていたからだ。
(05)新たな様相というのは、これからの知性は必ずや「ヴィジュアル・スタディーズ」を伴うものであろうということを含んでいる。一言でいえば、テキスト解釈とイメージ解釈(=ヴィジュアル解釈)とが一緒に進む「グラフィック・エディティングな複合知」ということだ。それをときに“新人文学”とも名付けることがある。
では、そんな状況のなかでどんな期待が高まっていたかというと、端的にいうなら、次のようだったろう。
(06)新たなグラフィック・エディティング思想(新人文学)の方向は、ポストモダン的なものではないだろう。人工知能的なものでもないだろう。ユビキタスやユニバーサル・デザインの方にあるはずもないだろう。
そうではなくて、たとえばワールブルグ研究所やルネ・ホッケ(1012夜)やワイリー・サイファーやマージョリー・ニコルソンや、さらにはマリオ・プラーツや白川静(987夜)や杉浦康平(981夜)らの系譜を隔世遺伝的に継いだような、かなり「テキスト=イメージ解読」に長けたラディカル・メソッドによってこそ、担われなければならないだろう。まあ、こんなふうに目されていたのだ。
(07)しかしながら、これはけっこうたいへんだ。ぶっちゃけていえば、ライプニッツ(994夜)の「アルス・コンビナトリア」とパース(1182夜)の「アブダクション」をまるごと一からやりなおせる力量とセンスが必要だし、かつ、そこに加えて「イメージINとマネージOUTのあいだ」に必要な“デバイス”や“フィルター”がいったいどういうものかということの見当があらかたついているような、すこぶるマン・マシナリーな知性でなければ、やりおおせない仕事なのである。
もっと言うなら、フォン・ユクスキュル(735夜)の「抜き型」もフォン・ヴァイツゼッカー(756夜)の「開転扉」も、さらにはキットラー(529夜)もベンヤミン(908夜)も、ピンチョン(456夜)もディック(883夜)も見えていなければ無理なのだ。ダニエル・デネット(969夜)やロジャー・ペンローズ(4夜)くらいで止まっている認知科学や脳科学めいた憶測では、しょせん無理なのだ。なぜなら、これらの学問は「アナロジー」をちゃんと研究していないからである。
そんなふうなので、十数年前のこと、高山君は「ねえ、これはもう、ぼくや松岡さんがやるしかないよ」と言っていたのだが、こうしたなか、バーバラ・スタフォードが『象徴と神話』や『本質への旅』や『ボディ・クリティシズム』を引っ提げて登場してきたのだった。
(08)いま、世の中がどうなっているかといえば、これを端的にいうのなら、PC上のカット&ペーストばかりなのである。それもかつてのインタールシオ(象嵌)やイルミネーション(写飾)のような精緻なリテラル・ヴィジュアルではなくて、やたらに粗雑なものになっている。
しかし、ウェブ的コンピューティングやリミックスな音楽の事情を見ればわかるように、今日、カット&ペーストよりも速いイメージングの方法はだんだん見当たらなくなっている(直観の速さと恋愛を別としてね)。実はウィリアム・バロウズ(822夜)のカットアップこのかた、いずれはこうなる宿命だったのだ。それが放置されていたわけなのだ。
そうであるのなら、いまやそのカット&ペーストそのものをPC上においても、書物の中においても、そしてわれらが脳髄の知覚作用においても、もっと大胆に、もっとダイナミックに、もっとシナジェティックに、もっと編集的に、もっとイメージ・サイエンスに充実させるしかないはずだった。
(09)ざっとは、以上のごとく予想されたのだ。ところが、これをやってのけているのはいまもってブロガーたちでもソフトプログラマーでもなく、一人よがりのCG屋や工学アーティストたちでもなかったのである。
むしろそういう予感を告示していたのは、ひとつはハンス・ベルメール以来の四谷シモンに及ぶ人形師たち、ひとつはバーバラ・クルーガーやシェリー・レヴィーンやシンディ・シャーマンや森村泰昌(890夜)らの写真師たち、ひとつはやサイバーパンクやメタフィクションに強い作家やアーティストやマンガ家たち、そしてアンドレイ・タルコフスキー(527夜)やピーター・グリーナウェイや、押井守や大友克洋(800夜)らの映像派たち、さらにはジェームズ・タレルらのトポグラフィック・アーティストたちだったのだ。
(10)かくてスタフォードは早期に以上のことに気がついて、かつてこのようなカット&ペーストにイメージング・サイエンスをこめた連中はどういうものだったのかということを探ったのだった。
彼女の分厚い著書にはたくさんのアーリーモダンの図版が収容されているのだが、それを見てもらえばわかるように、その先駆例の大半は18世紀の観相学や博物学や解剖学や地図学にこそあらわれていた。スタフォードは、それを「アートフル・サイエンスの時代」と名付け、そこに今日のアート&テクノロジーとの相同律や相似律を読み込んでいったのである。
たとえばピラネージ、たとえばショイヒツァー、たとえばラファーター、たとえばカンペール‥‥。かれらこそはハンス・ベルメールやフイリップ・K・ディックの先駆者だったのだ。ここにリドリー・スコット『ブレードランナー』の先駆モデルがあったのだ。

切り出された物塊のような露骨な建築感覚には
当時の解剖学的イメージが反映されている

動物学、地質学、天文学、生物学を動員した寓意画
(11)さて、ここまでの事情がおおむね以上のようなものだったとすると、問題はさらにさかのぼってもいいことになる。どこまでも、だ。プラトンやアリストテレスまでも。ルルスやライプニッツまでも。『ギルガメッシュ』や『古事記』までも。
それでどういうことを考えればいいかというと、そもそも「観念」と「概念」の分岐関係はどうなっていたのかとか、あるいは「イコン」と「アレゴリー」の当初の関係はどうなっているのかとか、もしくは古代中世では「言語」と「図像」の“あいだ”に何があったと思うべきかというようなことを、高速にも広範にも深甚にも研究すべきだということだったのである。これをアーリーモダンから入って前後左右を切り結び、現代のアート&テクノロジーにつなげていったのがスタフォードなのである。
(12)多少は自慢をさせてもらうけれど、実は、スタフォードを知る以前から、ぼくはこのような研究問題にそれなりにずっととりくんでいた。
それを30年前は「概念工事」とか「自然学曼陀羅」と言い、25年前は「遊学」とか「科学的愉快」と名付け、20年前は「編集工学」と名のり、15年前は「総合的情報文化学」の見取図とか「情報の歴史」に仕立て、10年前からそれを思いきって「主客のとりかえ」や「方法という日本」に組みこもうとしてきのだった。途中に生まれていったのが「編集学校」や「図書街」だ。
けれども、いまそれらをスタフォードや高山宏の視座に即して言い直すとすると、そしてそこにぼくの視座をもちょっと重ねるとすると、これはやっぱり新たな「グラフィック・エディティング・システムの可能性」の追求だったということなのである。そしてその追求を獰猛にすすめることは、その「グラフィック」と「エディティング」の“あいだ”にどれくらいアート&テクノロジーの精髄をぶちこむか、どのくらい既知の「イメージの図像学」と未知の「イメージング・サイエンス」を注入できるかということになるはずなのである。
そこにこそ、いや、そこにだけ、おそらくは新たな“知のデバイス”と“像のフィルター”の発見があるはずなのだ。
(13)新たなデバイスとフィルターは、当然ながらすこぶる編集インターフェース的なものだろう。それはまたシーノグラフィックで、アフォーダンスに富んだものだろう。ところどころはオートポイエーシスで、多分に二項同体的、多項照応的だろう。それは見方を変えれば、来たるべきカルチュラル・コンピューティグを先取りするだろうし、それをこそニューシステムとかニューチューリングマシンとかと呼びたくなるような、そんな予告に満ちたものだろう。
(14)と、まあ、こんなふうに膨らむものを暗示することもできるのである。が、しかし他方、これらにひそむ方法をうんと煎じつめてみれば、どうなるか。そこも考えておく必要があった。
そこをスタフォードは“merger”(くっつく)と“takeover”(のっとる)との両方の構成原理を同時にもっているはずというふうに見た。一言でいえば「連」である。DNAではなくてRNAである。そして、ここからがスタフォードの強靭な予告力と、ぼくがずっと追いかけてきたことが大きく重なっていくところだったのだ。
(15)こうして、スタフォードが次なる著作『グッド・ルッキング』(産業図書)と『ヴィジュアル・アナロジー』(産業図書)によって予告したこととは、今後のすべてのイメージング・サイエンスの方法は、それを集約していえば「つなぐ」(コネクティング)か、「組み合わせる」(コンビネーション)かの作用の中ににあるだろうということになっていった。
しかもスタフォードは正しくも、その「つなぐ」や「組み合わせる」はアナロジー編集あるいはメタファー思考によってのみ運ばれているにちがいないという仮説的結論も提出したのだった。
これはぼくが最も望ましいと思っていた結論だ。おまけにありがたいことに、スタフォードがこれらの著作を通して、夥しい事例と図版を駆使しながら検証したことは、「つなぐ」という技法こそが、古代ギリシア以来の「アナロギア・ミメーシス・パロディア」(類推・模倣・諧謔)の3つのいずれの手法をも共通させるスペクテーターシップ(spectatorship:見方)だったろうという研究になっていたことだった。
アナロギア・ミメーシス・パロディアは、結局はアナロジーの3種の変容であって、それらはことごとく、互いに異なる発生源をもったイメージとイメージとをつなぐ方法だったということなのである。では、いったいアナロジーとは何なのか。
(16)ちょっと説明しておこう。アナロジーという用語やその意味は、もともとはギリシア数学に萌芽したプロポーション(均衡)から派生した。ギリシア語の「アナロギア」ないしは「アナロゴス」は、その当初は「適正な比率に従って考える」という意味だった。
それがプラトンによって「そこに参加する」という意味合いをおび、アリストテレスによって「そこから表現を得る」という意味合いに発展していった。そしてどうなったかというと、アナロギアは「見かけ上似ていない複数のもののあいだにある均衡」という意味になった。ここにはパルメニデスやエンペドクレスやアナクサゴラスの議論が入る。古代ギリシアはアナロジーを、「張力のある均衡」もしくは「相同律」「相似律」にまでは発展させたわけである。そこには本来のミメティズム(模倣学)が駆動していた。

ゼリーで熊の胴部を象ったものがカーテン状に連なった玩具
同じ形、同じ大きさのものを通して、逆にそれぞれの色合いと
表情が千差万別であることに注意を喚起する

「突風」の様子を描いた後方照明の透し絵
特異性と集合性の複雑な積層を目に見えるものにし、
現在進行中の歴史と偶然的な現在の関係を視覚にとり戻させる

生滅寸前のはかなく表現し難いふしぎな
光芒を捉えた9枚の銀ゼラチン印画
分析的アレゴリー
(17)時代をがんがんとばしていうが、つづいて、このギリシア的な相似的アナロジーの見方を、ひとつの流れでは、トマス・アクィナス、カント、スチュアート・ミル、ニーチェ(1023夜)、ハイデガー(916夜)、アドルノ、後期ヴィトゲンシュタイン(833夜)らが大きな振幅をもって拡張していった。ここには知覚・言語・論理を介在させた「知のプロポーショナリティ」が含まれた。
もうひとつの流れは、ここにイリュージョン、幻想、連想をふんだんに入れこむほうに膨らんでいった。これは「ファンタスマゴリア」とか「ファンタジア」とか「メラヴィリア」とかとよばれた。つまりはインテレクチュアル・スペクタルである。のちにノヴァーリス(132夜)が「夜」に託した幻想も、スウェーデンボルグが「神秘」に託したものも、メルツェルが機械人形に託したカラクリ性も、ここに入ってくる。ここからは、パースの「アブダクション」、フォン・ユクスキュルの「抜き型」、バロウズの「カットアップ」、ギブソンの「アフォーダンス」などが羽ばたいていった。
この二つの流れの交点に君臨していた知のシステム仮説が何だったかといえば、それこそがライプニッツの「アルス・コンビナトリア」(結合術)という考え方なのである。もっと広くは「バロックの知」というものだ。

アーリーモダン期の間に、このような豪奢な世界観が
二元論の詩学に、あるいは断片の美学に変化していった
(18)ここでいささか注目しておくべきことがある。それは、以上のおおざっぱな流れの説明でもおよその見当がつくだろうが、アナロジーの作用には、一見、類推だとか連想だとかとは思えないほどの、つまりは「なんとなくアタマに浮かんだ」とは言えないほどの、きわめてラディカルな方法が含まれているということだ。
かつてサミュエル・バトラーは「アナロジーはしばしば誤解や曖昧を含むと思われているが、あらゆる思考のなかで、アナロジー思考が最も論理的なのである」と言った。わかりやすくいえば、アナロジーはその連想のプロセスに、実際には論理をさえ含むのだ。いま、そのアナロジーの作用を3つに分けて注目してみたい。
(19)第1には、アナロジーは、まずは何かの物体やイメージを“そこ”に「もってくる」(コレクションする)というところから始まっている。
ここからイエイツやスタフォードやマリオ・プラーツや高山宏が分析してやまない「驚異の部屋」(ウンダーカンマー)や「世界劇場」という室内現象も出てくる。つまりは博物誌や博物学は、また事物収集や美術収集は、そして本来の舞台演劇は、すべてアナロジーから出発していたということだ。なぜなら「コレクト」(収集)は必ずや「コネクト」(結節)を惹起するからだ。これを忘れてはいけない。

擬人化された"視覚"が、コレクティブな空間で沈思黙考する様子
イメージ迷宮のただ中に知的パターンを探ろうとする
プラグマティズムを表現している

この事物に溢れた宝部屋は、かつて事物の宇宙が放った魅惑、
人々の熱中を証拠立てる。一方、抑制知らぬ「愚者の楽園」とも
みなされていた
(20)第2に、アナロジーは物体やイメージを“そこ”(テーブルの上やタブローの面)にもってくることから始まるのだから、そもそも“そこ”には言語や概念も並べられていたのだということに気がつく必要がある。つまり論理が萌芽していたとみなす必要がある。
ということは、アナロジーによって“そこ”に引っ張ってこられた言語や概念は、それらがトートロジー(同義反復)にならないように仕組まれていたということになる。つまり、アナロジーこそは袋小路から脱出するための論理の発展の原理だったのである。当然、三段論法も弁証法もアナロジーの出来の悪い子息だったということになる。
(21)第3に、アナロジーはさまざまな「意味の象徴」をどんどん組み上げ、イメージの類縁を天使や兵士のようにふやしていったということだ。
ここにはアレゴリー(寓意)が滲み、シンボル(象徴)が君臨し、インスタンス(事例)が躍る。そのほか、記号、エンブレム、エニグマ(謎絵)、紋章、テンプレート、さらには数々のイラストレーションなども派生させていった。これらはいずれものちにメタファー思考の重要な歯車となっていたイメージ天使やイメージ兵士たちばかりだが、スタフォードはこのようなイメージの多彩なメタファー化にあたっては、おそらくは「紡ぐ」(spinning)、「編む」(plaiting)、「織る」(weaving)の3つが主要な手法になったろうと言っている。
ちなみにイラストレーション(図解)は、中世では総じてイルミネーション(光が画いた)と呼ばれたもので、その後に光を意味する「ルスト」に接頭辞と接尾辞がついてイラストレーションとなった。

イラストレーションとは「光」であり、同時に「絵」であった
文章だけではオブスキュア(暗い)とされた
(22)これであらかたわかるように、もともとアナロジーとはつねに意味と論理を含む「多様の統一」のための劇的な方法論だったのである。アナロジーはずっと「多の中の一」(unity in multiplicity)を求めていたということである。
かつてアーサー・ケストラー(946夜)はそういうアナロジーの方法力があまりにワンダーなので、「異縁連想」(bisociation)と呼んだほどだった。が、今夜はふれないが、これは東洋においては華厳や大乗起信論や密教や禅においては、もっともっと知的華麗(インテレクチュアル・ワンダー)なのである。いずれ案内してみたい。
(23)というわけで、アナロジー学の基本の基本は「つなぎ学」だったといってよい。もうちょっと柔らかくいうのなら「つなぎ目」の発見の学であり(ということは「割れ目」の発見の学であり)、そのように現象や出来事や概念やイメージがつながっていくときの「関係の発見学」なのだ。
それをフーコーはかなり縮小して、かつて「関節学」(arthrologie)と言ったものだったけれど、ホッケもスタフォードもぼくも高山宏も、それならせめて「シナジェティックな分節学」と言ったほうがいいだろうと思っている。アナロジーは、どんな場合も対象やイメージを相互関連的なアーティキュレーションとして取り扱うからだ。

生物の滑らかな長円、回転する球体と、星団、星辰の集合を
だぶらせることで、細胞構造のアナロジーを相互連関的に
生み出していく

ノイズ的に織り上げられた浮きだしのキャンバス
「多様の統一」を幻視したライプニッツの
積分的世界観と似ている

現象界から取ってきた呪縛力あるイメージャリーを
可塑可変というビデオの特性を生かして処理した作品
ネオプラトニズムの流出論の流出物じみた流動性がある
(24)しかし、話はこれでおわらない。アナロジー学のもっとものすごいところは、アナロジーはわれわれの思考を「同時併存」(simultanety)にはこぶということ、そのうえで意味とイメージの関連性の総体に「相転移」をおこさせ、かつまた、それまで気がつかなかった「創発」を生じさせるということなのである。
これをシンクロニシティとか創造性の哲学などと思ってはいけない。そうではなくて、これはフィギュアやプロフィールの本質的動向を追跡する知学なのである。フィギアとかプロフィールと言っているのは、これまで諸君が漠然と「イメージ」というふうに思ってきたものの“実態”をいう。ホワイトヘッド(995夜)なら「アクチュアル・エンティティ」と名付けていたものに当たる。
(25)というところで、今夜はそろそろ打ち切ろう。いったい『ヴィジュアル・アナロジー』とは何を言いたかった本なのか。最後に、そのことを簡素に告げておこう。
こうである。本書には「つなぐ技術としての人間意識」(consciousness as the art of connecting)というサブタイトルがついている。ここに着目すればいい。また、本書の帯には、きっと高山宏がつけたのだろうが、こんなふうにある。ここにも着目するといい。これこそスタフォードの言いたかったことなのだ。こうである。【「ちがう」という時代に「同じ」をさぐる!】
スタフォード自身の言葉によれば、ヴィジュアル・アナロジーとは「何かが他の何かに似ている、自らではない何かに参加していることを説得してくれそうな、そんな架橋のプロセスを閃光のように垣間見させてくれるもの」ということだ。
(26)それでは、本書のなかのとびきりのスタフォードの一節をさらにいくつか引いておく。このメタフォリカルな言い回しもスタフォードなのだから、そのキラキラを味わってほしい。
「自ら持たぬものと結合したいという人間の欲望が生むアナロジーは、とめどないオシレーション(揺動)を特徴とする情熱的なプロセスである」。「身体にしろ、感情にしろ、精神的なものであれ、知的なものであれ、何かが欠けているという知覚があって、その空隙を埋める近似の類比物への探索が始められる」。
「人々や事物や概念を、知覚的に混ぜるか、分けるかという問題は、アナロジーのヴィジュアルな部分に真にかかわっている」。「アナロジーにおいては、知覚(perception)と了解(bomprehension)とが同時におこる」。そして、「引き延ばされた未生(delayed not-yet)を、もの言いたげな未満(allusive not-quite)としての中間へ!」。
おまけで、もう一声。「メタフォリックス(metaphorics)としてのアナロジーという方法は、統合されたイマジスティクス(imagistics)としての修辞学的構築に預かっておおいに力あるはずである」。

スタフォードの著書にはいずれもアーリーモダンの図版と現代アートの図版とが夥しく収録されていて、それがみごとに立体交差しているのだが、今夜はそちらのほうのお手並みは大半割愛した。文中および欄外の図版を見てなんとなく予想されたい。いや、ちゃんと本を入手して見るべきだ。いや、むろん読むべきだ。ただし、今夜、ぼくが書いたようには読めないかもしれない。あまりに情報量と知識量が多く、それが自在に出入りしすぎているからだ。(スタフォードの文章や展開は必ずしもうまくない)
スタフォードに関連して読んでおきたい本はたくさんあるが、まずは高山宏の『終末のオルガノン』(作品社)、『表象の芸術工学』(工作舎)は必読だ。ほかにせめて、ジョン・ノイバウアーの『アルス・コンビナトリア』(ありな書房)、田中純の『アヴィ・ヴァールブルク=記憶の迷宮』(青土社)、マリオ・プラーツ『記憶の女神ムネモシュネ』(美術出版社)などを読んではどうか。新人文学の入口がわかる。それが気にいったらスタフォードや高山宏が引用している本を片っ端から見ることだ。なお、認知科学ではまだまだアナロジーの研究が突出してこないのだが、一応の成果はキース・ホリオークとポール・サガードの『アナロジーの力』(新曜社)にあらわれている。
