桂米朝
一芸一談
淡交社 1991 ちくま文庫 2007
装幀:船木有紀 編集構成:小佐田定雄
ぼくは平成より「昭和」を想うことのほうが多くなっている。矛盾に充ちていて、倒れても退いても、勝っても負けても、板場一枚の面(ツラ)が見えていた。何もかもが「語り」になった。だからというのではないけれど、今夜は桂米朝の本をもって除夜の鐘に代えたいと思う。

 今年も暮れる。体はガタピシで、ときどき部屋の椅子の脚や舗装の小さな出っぱりで躓く。おっとっとだ。COPD(肺気腫)はあいかわらずだし、右目の中の飛蚊(ひぶん)たちはときどき100匹ほどにふえてますますひどく、ときどき微熱が出ている。なんだか情けないことも多いのだけれど、それでも気分はなぜか悪くない。タバコもやっているし、夜更かしもする。
 気分が悪くないのは察するに、50冊か80冊かをめざして5月にシリーズがスタートした角川ソフィア文庫の「千夜千冊エディション」のおかげかもしれない。今年はこの次から次への作業に追われていたのがよかったようだ。1夜ずつの本を新たな構成のもとに20夜か30夜ほど1册のエディションとして関係付け、それらにちょいちょい書き足していくのは、当初に想像していたより心や身を“充緊”させるフェチな作業だったのである。
 この作業では千夜千冊は持ちネタである。その持ちネタを組み合わせて、新たな語り方と綴り方のエディションに仕立てる。これはさしずめ歌手の記念リサイタルや美術家の回顧シリーズ展、あるいは芸人さんの連続独演会だ。ふと白石加代子の「百物語」も思いあわせた。
 ま、ともかくも今年は『本から本へ』『デザイン知』『文明の奥と底』『情報生命』『少年の憂鬱』『面影日本』『理科の教室』の7冊まで来た。あと最低でも43冊だ(これ、多すぎない?)。もうしばらくお付き合いいただきたい。

「千夜千冊エディション」(角川ソフィア文庫)
2018年5月、千夜千冊の角川ソフィア文庫シリーズ「千夜千冊エディション」の刊行が開始した。2000年2月の第1夜『雪』から2018年12月現在までの1690夜以上の文章を松岡独自の「見方」と「読み方」でテーマ別に再構成、再編集するもので、各夜には新たなヘッドラインと大幅な加筆修正が施されている。造本デザインは町口覚と浅田農。

「千夜千冊エディション」ゲラの大量の赤入れ
すべてが松岡による手書き。本文の余白が足りない場合、裏面の白紙にびっしりと赤を入れることもある。

 今夜は平成最後の大晦日だ。先だって、今上天皇の震える声での回顧と感謝のメッセージがテレビから流れてきて、思わず畏まった。退位表明の準備万端のテレビ談話にも心を動かされたが、なかなかこういう「決然」に出会えなくなったものだ。なかで貴乃花光司だけが何かを敢行していたのかな。あとは推して知るべしである。平成は1989年からだったが、最初の「失われた十年」がひどすぎた。大きな自然災害に見舞われた平成だったけれど、実は人災が目立った。人事不信もしくは人事不審だ。そんなこともあり、ぼくは平成より「昭和」を想うことのほうが多くなっている。矛盾に充ちていて、倒れても退いても、勝っても負けても、板場一枚の面(ツラ)が見えていた。何もかもが「語り」になった。だからというのではないけれど、今夜は桂米朝の本をもって除夜の鐘に代えたいと思う。

桂米朝『私の履歴書』(日本経済新聞社)

 以前は米朝落語について書こうかな、それとも『私の履歴書』にしようかなと予定していたのだが、それよりも米朝が(米朝とキーボードを打つと米国と朝鮮の米朝カンケーが表示されて困る)、さまざまな「昭和な相手」と交わしている興味深い談話のほうを採り上げたくなったので、あえて本書を案内することにした。大阪朝日放送の『米朝ここだけの話』の記録から、小佐田定雄が巧みに活字にして『一芸一談』としたものだ。
 2015年に亡くなったのち、続編『一芸一談・置土産』(淡交社)を息子(長男)の5代目米團治がまとめたので、そこからも補う。
 小佐田は上方演芸界では有名な演芸作家で、桂枝雀の新作のほか、かなりの新作落語をつくっている。では『一芸一談』に入る前に米朝の昭和について、一言、二言。

『一芸一談』(ちくま文庫)
『置土産・一芸一談』(淡交社)

小佐田定雄と新刊『上方らくごの舞台裏』(ちくま新書)
落語作家。1952年、大阪市生まれ。77年に桂枝雀に新作落語『幽霊の辻』を書いたのを手はじめに、落語の新作や改作、滅んでいた噺の復活などを手がける。これまでに書いた新作落語台本は250席を超えた。近年は狂言、文楽、歌舞伎の台本も担当する。

 一つ、桂米朝は昭和そのものである。はっきり、そう言える。二つ、師の正岡容(まさおか・いるる)と桂米団治の教えを実直に守る生涯をおくった。三つ、上方落語の復興のために自らの芸を磨きつつ、ひたすら上方演芸文化を愛した。その姿勢は研究者に近かった。
 昭和元年の生まれだから、まさに昭和とともに生きた。最初は大連だ。そのころの大連は大日本帝国関東州の都市だった(ぼくの父もよく行き来していた)。4歳に奉天(いまの瀋陽)に引っ越し、そのあと実家の姫路で学校に通った。祖父も父親も九所御霊天神社の宮司さんで、米朝も神職の資格をもっている。
 昭和18年に上京して、池袋の大東文化学院(いまの大東文化大学)に入るのだが(男子校で、漢学主義の学校だ)、新聞で見た寄席文化向上会が寄席相撲を開催するという告知に興味をもって、大塚の鈴本に見に行った。このとき検査役として桂文楽の隣りにこの会の主宰者がいた。正岡容だ。
 売店で正岡の『円朝(787夜)』を買って、帰って読んだ。扉に「路地の奥 寄席の灯見ゆる深雪かな」という句がサインしてあった。感動した。これが病膏肓のはじまりである。すぐさま風変わりな演芸研究家でもあった正岡に入門した(落語家で研究者に〝入門〟したのは米朝が初めてだ)。
 そのうち友人が3代目桂米之助になったので、それにつられて4代目桂米団治の内弟子になった。その師匠から「芸人は好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはあかん。値打ちは世間がきめてくれるんや」「芸人になった以上、末路の哀れは覚悟の前やで」と言われた。
 内弟子の時期は短かかったが、「外」の風に当たることにして、まもなく3代目桂米朝を名のり、千土興行(のちの日本ドリーム観光)に所属すると、千日劇場、角座、梅田花月などの高座で修業しつつげた。
 こういうキャリアは落語家としてはいかにも半ちらけなのだが、米朝は気にしない。夢中で、熱心で、かつ上方落語の取材や収集や研究に余念がなかったようだ。そのあたりの経緯は『私の履歴書』(日本経済新聞社)に詳しい。

かけ出し時代の米朝の高座姿(左)と師・正岡容(右)
『私の履歴書』p78,p38

怪談噺『市川堤』で舞踊家・藤間紫雀と共演
『私の履歴書』p152

 高度成長をなしとげた昭和43年にフリーになった。大阪が2年後の万博開催に向けて沸騰しつつあった時期だ(また大阪万博をやるようだが、上方力が見せられるか、どうか)。東京ではアンダーグラウンドな動向が沸々と噴煙を上げていたが、当時の大阪ではそれとは別の「文化」を引っ提げていた。松下電器、タカラヅカ、梅棹忠夫(1628夜)、フェスティバルホール、林屋辰三郎(481夜)、サントリー、小松左京、上方芸能、阪神タイガース、吉本興業、武田薬品、ワコール、筒井康隆、京大西部講堂、お笑い芸人、京都信用金庫、ABC朝日放送などなどに彩られた当時の関西は、どこか明けっ広げで、それでいて虎視眈々としていたのである。
 米朝は大阪の寄席、小屋、ホール、どこにでも上がり、ラジオにもテレビにも出演した。まもなく6代目笑福亭松鶴、3代目桂小文枝(のちの桂文枝)、3代目桂春団治とともに上方落語四天王と評判になった。
 一方で一門を結成する努力を開始した。桂米朝落語研究会はその後もずうっと休みなく続いている。昭和49年に株式会社米朝事務所を設立すると(この立ち上げは早かった)、月亭可朝、桂枝雀、桂ざこば、5代目米団治ほか、月亭八方、桂南光、桂吉弥らを育てた。吉本全盛時代が到来しつつあったなか、このプロダクション・システムも早かった。枝雀は爆発した。一門は一人の破門もつくらなかった。

関西テレビ「ハイ!土曜日です」に出演。右側が小松左京(左)
米朝一門会(右)

『私の履歴書』p147,p159

代表作『地獄八景亡者戯』で閻魔の顔をする米朝
『私の履歴書』p156

 こういう桂米朝とその周辺だが、厖大な実績をのこし、数多くの落語を高座にかけ、著書もかなり多く、最後は落語家として初めての文化勲章を受けるに至ったが(人間国宝は5代目柳家小さんについで二人目)、ぼくが見るに残念ながら落語のほうは名人とはいえない。噺の出入りを袱紗(ふくさ)で折り開いて捌くところが、甘いのだ。代表作の『地獄八景亡者戯』も、ぼくは感心しない。
 しかし、あの語り口こそは「上方落語の言葉」で、話芸の達人だったのだと思う。生涯をかけて名作を残そうとしたという深いミッションも感じる。これには脱帽する。
 平成27年、早春に亡くなった。89歳だった。その年、すぐにETVが『洒落が生命(いのち)――桂米朝「上方落語」復活の軌跡』を放映し(よくできていた)、ユリイカが「特集・桂米朝」を組んだ(かなり広く関係者の声を拾っていた)のが、印象的だった。
 
 過日、米朝の真骨頂の一端をかいま見たことがある。祇園南の「波木井(はぎい)」のカウンターで遊び仲間の友人とともに、波木井おとうさんの三味線と都々逸(どどいつ)に聞き惚れていたときだ。ふと後ろのほうの席にただならない気配を感じた。振り返ってみると、米朝師匠が若い弟子数人と、おとうさんの唄と喋りと三味線に耳を傾けている。
 米朝が小声で弟子たちに「ほれ、あれが都々逸いうもんや、あの間(ま)やで」と言うのが聞こえた。それを見たとき、胸が詰まった。
 もうひとつ。大阪きっての老舗の南地(ミナミ)の大和屋が店仕舞いした。女将の阪口純久さんがさぞ悔しかろうと、最後に「ようけの客」を連れて大盤振舞いをしたのは米朝だった。これも胸が詰まる話だ。そういう人なのである。

桂米朝「始末の極意」(1994)

 こんなふうな米朝が、さまざまな先達たちと話を交わしているのが、本書だ。とても柔らかな対談だが、軽妙とか飄々というのではない。「おもろい」ところが深いのだ。こういう人は東京の落語家にも関西の芸人にも、また評論家にも大学にもメディアにも、もういない。やっぱり「昭和」を相手にしたときの一芸一談は只事ではないのである。米朝、一世一代の「芸」の聞き役だった。
 ということで、以下には何人かの話を適宜、見繕ってみた。歳の順にした。みなさん、そうとうのお歳である。

 四代目岡本文弥(1895~1996)

岩波ホールでの演奏風景
1960年代、岩波ホールはまだ貸しホールで、映画専門ではなかった。
『一芸一談』p227

 このとき94歳。小学校で日露戦争を体験した。母上が新内流しの鶴賀若吉で、幼いころから浄瑠璃節を仕込まれた。「明治大正は流しをするのが修業でした。7代目の富士松加賀太夫さんでもやっぱり流しをされた」。当時は町を流してお屋敷で旦那や奥様が来るのを待って、奥座敷でしんみり聴いてもらうものだった。「ですから、なまじっかな芸では通用しない」「それが花柳界専門になって、ただ聞こえてくればいいというふうになって堕落した。今の新内で売れている女の人も、ただ高く唄えばいいというふうになって」しまった。
 文弥は「新内が一番豊後節の空気を伝えている。豊後節の心中なんかの本当の気持ちは新内でしょう」と言う。米朝はそこまで聞きこんでいないようだが、平岡正明(771夜)の『新内的』でも案内したように、岡本文弥の新内は哀歓が尋常ではなかったのだ。一葉(638夜)の『にごりえ』や『十三夜』は永六輔がぞっこんだった。
 70歳になって中国に通うようになった。徐雲志の蛇皮線による「評弾(ひょうだん)」を聞いたら「私はやみつきですわ」。「先代の柳家紫朝の新内に実に共通するものがありました」。

 菊原初子(1899~2001)


『置土産・一芸一談』p27

 このとき90歳。「父の生まれました家が堀江の碇(いかり)問屋やった。父の父という人はお茶屋の行灯を見な寝られへんほどの極道でした」。お父さんは菊原琴治、おじいさんは菊植明琴である。初子さんはその地歌名人の家のお嬢さんだ。女ばかり4人の長女。お嬢さんも地歌箏曲の人間国宝になった。
 米朝は菊筋、富筋について尋ねる。菊筋にも生田流や古生田があって、「私らのほうは組歌の生田」。三味線の「本手」の組歌を32曲揃えて守ってきたのがお父さんだった。そこにも表組、裏組、中組、奥組、秘曲があった。「これをどう守るかですな」「もう、ほんまにやかましう言うて、私も寝しなにちょっとお布団の上ででも、さらえました」「譜面などあらしまへんでっしゃろ」。米朝も頷いて「私らでもテープレコーダーができてから、あんなんでは噺をおぼえても腹に入らんようになりました」と告白する。

十三世片岡仁左衛門(1903~1994)

『弁天娘女男白浪』(1931年)の日本駄右衛門を演じる仁左衛門(右)
『一芸一談』p101

 松島屋、このとき87歳。話の入口で米朝は義太夫のことを聞く。「どなたにお稽古なさいましたか」。「子供の時分に野澤吉十郎さん。(3世)越路大夫さんを弾いていた吉兵衛さんの兄弟子ですな。そのあとこれは古靱(こうつぼ)はん(豊竹古靱大夫)、これは土佐はん(6世竹本土佐大夫)と父に言われて、方々に行きました」。米朝がお父さんの11代目仁左衛門の義太夫のことを聞くと、「お父っつぁんは先々代の津大夫さんの兄弟子ですねん」。芸の世界ではこれであらかたわかるのだ。
 次に歌舞伎の話。「私ら芝居いうたら道頓堀の芝居というふうに思ってましたな。江戸のほうは江戸歌舞伎、大阪は芝居です」。仁左衛門が上方に戻ってきたのは昭和14年である。そのとき、いろいろ感じたようだ。「大阪は贔屓の強いとこでんな。東京は役者全体が好きやけど、大阪は誰々さんが好きというふうになる」。米朝「成駒屋贔屓になったら、松島屋の芝居が見たいんやけれども、ちょっと行きにくいんですわ」と応じる。
 仁左衛門は当時の状況をこんなふうに説明する。「寿美蔵さん(3世市川寿海)、蓑助さん(8代目坂東三津五郎)、富十郎さん(4世中村富十郎)、鶴之助さん(5世富十郎)、もしほさん(17世中村勘三郎)、それに私でしょう。みんな東京から大阪に来た。大阪のお客さんは気に入りまへんわな」。米朝「コクが違うんでしょうかな」。『梅忠』(梅川忠兵衛)で「急がにゃらん。道が遠ぉ~いィ」と言うところで、昔ならお客さんが「やあー、大当たり」と言っていたのが、「なんや頼りないなあ」となったんとちゃいますか。
 ここで女形の話へ。「うちのお父っつぁんは、片岡家は女形をしたらいかんと言わはった。けど、やっぱりいろいろせんとね」。米朝「女形もお軽は本役やけど、おかやも一文字屋根も心得ていただく必要がありますわな」。「男かてみんなが勘平でも、みんなが由良助でも困りますわ」。

 橘右近(1903~1995)


『置土産・一芸一談』p165

 寄席文字は提灯文字と勘亭流を工夫した独特の文字である。江戸後期に紺屋の栄次郎とそれを真似た孫次郎が始め、孫次郎の伜の兄がビラ清に、弟がビラ辰になった。右近は最初は落語家だったが、それをやめてビラ屋になった。ビラとは高座の「めくり」のことだ。
 米朝「初めは天狗連ですか」。右近「日本橋とか月島で十人くらいが集まりまして、大ネタで遊びました。弁士の井口静波さんなんかも入っていた」。落語家をやめてビラを書くうちに、昭和40年に桂文楽に勧められて橘流の寄席文字家元になった。
 米朝はこういう職人芸を愛していたし、ほったらかしにしなかった。正岡容が生きつづけていたのだ。

 松鶴家千代若・千代菊(1908~2000)

千代若・千代菊の漫才
『一芸一談』p137

 当時の最高齢漫才師だ。二代吉田奈良丸に憧れて浪花節をやりたかったのだが、初代松鶴家千代八に入門すると、千代菊と夫婦漫才を始めた。初高座は大正11年。「あのころは漫才だけの小屋もありましたな。法善寺の花月、小宝席、南陽館、三友倶楽部とか」「神戸の千代之座とか九条の正宗館とか」「正宗館にはラッパ・日佐丸がいた。兄弟分になりました」「手品が一本くらいで、あとは漫才」「それで一座が組めたんですな」「数え歌、しゃべくり、芝居の真似とか、芸の色取りがみんな変わってたから、それができた」「いまは、ほとんどしゃべくりばかり」。色味がなくなったのである。
 「怖い人はいやはりましたか」「うちの親父(千代八)、若松屋正右衛門、それから荒川千成さん」「漫才を東京へ持っていかはったんは?」「私が一人で持っていった。串本節がはやりました」「三曲萬歳とか御殿萬歳とかは?」「受けるとこだけを抜いて、ちょっとやりましたけど、長く続かなかった」「柱立てとか神力とか」「何々演芸社といった漫才の周旋屋みたいなところも何軒もありましたな」「五厘屋(ブローカー)みたいなね」。
 松鶴家千代八の一番弟子が松鶴家日の丸。朝日日出男・日出丸もいた。誰も彼もがおもしろかった。「エンタツ・アチャコは突如あらわれたんですか」「東京で喜劇をやってた。そしたら俺も漫才に転向するからめんどう見てくれよと言って、そしたらポーンと売れた」。「早慶戦」がラジオに流れて爆発的に当たったのだ。「ちょうどツェッペリンが空を飛んでる時でした」。

河原崎国太郎(1909~1990)


『一芸一談』p259

 2世市川猿之助の門で初舞台を踏んだのち、昭和6年に前進座の旗揚げに参加した立女形(たちおやま)の名人である。沢瀉屋(おもだかや)の喜熨斗(きのし)に頼んで女形になった。喜熨斗というのは猿之助の本名だ。河原崎家の実家は銀座文化を代表するカフェ・プランタンだった。多くの文化人や芸人が交差する昭和を代表するカフェだった。
 「ずっと老けはおやりにならなかった?」「やってません」「背の高いほうでしたね」「そうでございました。梅朝さん(4世尾上梅朝)が女形としては大きい人でした。梅幸旦那(6世尾上梅幸)が三千歳(みちとせ)をなさる時にね、新造は梅朝さんと羽三郎さん(坂東羽三郎)が出ていました。梅幸旦那を小さくみせたんでしょうね」。
 「女形はいろいろな役をしておぼえていくものですか」「女形はね、少しじっとしてなきゃね。やまいづかされ(悪口を言われ)ますから。それで、なかでおとなしい人が教えてくれたりするのです。でも着物の着方は歌舞伎役者もわかりません。見た目でおぼえるんです」。自分で工夫をしなければ役者修業はできなかったのだ。「両袖がありますね。下手(しもて)と上手(かみて)のツケ打つとこ。あそこで舞台の大先輩のお芝居を見るのがせめてもの勉強なんです」「見てもかまわないんですか」「拝見いたしますと言って、黒衣にすっかり着替えて正座して見るんざんす」「はあ、はあ」「歩き方とか裾の払い方とか、じっと見ます」。
 「やってみたいお役はありますか」「もうほとんどございませんなあ。芸者の役が一番でした」「後家おまさとかお染の七役とか。絶品でした」「男だからやれるんでしょうな」。国太郎は今後の歌舞伎を心配していた。見当違いが多くなっているというのだ。

 吉田玉五郎(1910~1996)


『一芸一談』p167

文楽 「仮名手本忠臣蔵」一力茶屋(昭和30年)
吉田玉五郎は、吉良の側用人の家老・鷺坂伴内を操っている。主人公・大星由良之助は三世吉田玉助。

 このとき文楽人形遣いの最高年齢だった。徳島出身である。父親が藍の仲買人だったが暴落で失敗し、貧窮の中で育った。吉田蓑助(2代目桐竹紋十郎)に入門して、昭和24年に吉田文五郎の弟子になった。
 「初めて役らしい役がついたのは、おいくつぐらいの時でした?」「すぐにつきました。『菅原伝授』の菅秀才ね。阿波に源之丞座(げんしじょうざ)がありまして、そこで見てましたので、この悲しみはさせまいに、かわいなものやと御袖を絞りたまえばと言うて泣いて、ちょっと首を振りもってやってました」「目のとこにちょっと手をやる」「ええ、そしたら座頭の吉田辰五郎さんが、うまいやないかと言わはりました」「やっぱり地が出たんですな」。
 一人でやる落語と違って文楽は三人で遣う。「おたくはよろしいな、一人で」「扇子持ってれば、それでやれまんのや」「結構な商売ですなあ」「三人ずつでは大変ですな」「ええかげんなやつは左だけかけといてもよろしいのや。動かんやつで。ほんで動くような場面になったらちょっと出てきよる」「そういうやりくりでやれるもんですか」「やれますな。かえって人数が足りんほうが、お客さんから見ると迫力があって面白い時もあるらしい」。
 こうしていよいよ肝心の質問へ。「偉いなあと思うた先輩は誰を一番にあげはりますか」「太夫さんでは(豊竹)山城少掾ね」「やっぱり」「三味線では(4世)鶴澤清六やな」「人形では文五郎師匠ですか」「そうですな。これは誰にも真似できませんわ。左手の指にたこが五つおまんね」「はあ」「たいがい一つですわ。私らは三つあって、まだましやけど、師匠は五つやった」。なんとも驚くべき話だった。

 二世茂山千之丞(1923~2010)

兄・千作と弟・千之丞(右)
天衣無縫の兄は、舞台に立つだけで笑いをとり、理論派の弟は、自らを演出して芸の枠を広げた。

 茂山といえば京都の大蔵流の狂言方能楽師一族のこと。三代茂山千作の次男である。若くして武智鉄二(761夜)の演出作品に何度か出ていて、新機軸には勇敢な狂言者だった。クセもあった。武智の映画『紅閨夢』では谷崎潤一郎の役をやって、能楽協会から退会を勧告されたりもした。『狂言役者――ひねくれ半代記』(岩波新書)は読ませた。
 「狂言を外国へ持っていくと大変よくわかるようですね。やっぱり物まねのせいですか」「それと狂言は比較的筋が簡単でしょう。人間の欲望とか弱点がストレートに出ている。向こうにもたいてい同じような話がある」「嫁はんが旦那より強いというのは世界共通や」「言葉はわかりにくいだろうけど、これはいまの日本人でも同じです」。
 では英語でやればいいかというと、そこが微妙だ。英語になるとどうしてもスピードが速くなる。「野村万作さんのところには外国人のお弟子が多いんですが、あの人たちが『附子(ぶす)をやると12、3分で上がる。ぼくらがやると20分から25分かかるんです」。
 夢幻能の幽玄もいいが、現在能のリアリズムも面白いという見方をとる。『安宅』『望月』『現在鵺』『現在巴』などだ。大阪の大槻文蔵がそういう能の復曲活動をしている。そもそも「型」はそういうリアリズムから生まれた。「型そのものの中にリアリティがちゃんとあるんです」「野上豊一郎さんが櫻間金太郎さんの『野宮』を見て、源氏物語を感じたということを書かれているんですが、弓川(きゅうせん)さんは型のうまい人でした」。

 四代目吉村雄輝(1923~1998)

舞踊「ゆき」を舞う吉村雄輝(右)
『置土産・一芸一談』p77

 大阪の宗右衛門町で育った上方舞の吉村流の家元である。ピーター(池畑慎之介)のお父さんになる。吉村流は世襲ではなく、代々が実力のある女性の内弟子が継いできた。子供時代の雄輝は新派の高田実に気にいられ、高田が3世吉村雄光の内弟子に押し込んだ。昭和14年、雄輝は名取になった。
 「私より二つ上の大正12年のお生まれでんな」「そうでんねん」「まあ言うたら青春時代が戦争ですな。踊りのお師匠はんがなんでまた海軍に志願されたんですか」「『海軍』という映画を見たからですわ」「岩田豊雄さんの原作」「そう、それが16、7の時でした。宗右衛門町を人力車で挨拶にまわって、大阪駅で化粧おとして、国民服と着替えました」。
 戦争体験は大きかったようだ。それにもまして敗戦で日本が一変したのがこたえた。「終戦からの私は付録みたいなもんです」「それでもここまで来やはったんや」「まあまあね」「子供時分からずっとお着物でっしゃろ」「着物で学校行ってたの、私だけでしょう。着物で黒足袋はいてました」「それで学校が怒らへんのは島の内の学校やったからでしょうな」。
 「上方舞なんて言葉、昔はなかったでしょう」「私が昭和27年に三越劇場で第一回の会をするとき、花柳のおじちゃん(花柳章太郎)と喜多村禄郎(きたむらろくろう)先生とがプログラムに書かはって、そのとき花柳のおじちゃんが京舞があるし、地唄舞もあるけど、おまえとこでも長唄も清元も常磐津もあるやないか。それやし、これは上方の舞なんやから上方舞にしたらどうかと言われたんです」「はあ、そういうことでっか」。
 上方舞には本行物(ほんぎょうもの)、艶物(つやもの)、芝居物、作物(さくもの)などがあり、いまでは山村流・楳茂図(うめもと)流、井上流(京舞)、吉村流を上方四流という。その家元が昭和を惜しんでいろいろ嘆く。もう、言葉が通じなくなった、始末をせんようになった、浪花(なにわ)の四季がわからんようになっている、「振り」のことがおおざっぱになってしもうた、小さな会が少のうなった……。「おてしよ」が手塩皿で、「こなから」が二号さんのことだというのが、もう伝わらないというのだ。

京山幸枝若(1926~1991)

『一芸一談』p69

 お父さんが加茂川燕楽という浪曲師、お母さんが江戸川蘭子という曲師。昭和5年に広島で初舞台ののち、昭和12年に京山幸枝に入門した。「入門しはった当時は浪曲の全盛でしたね」「私が全盛時代を知っている最後の浪曲師ですわ」「松島の八千代座が賑やかでした」「あそこには遊郭の連中が迎えにくる」「終戦後は?」「浪曲の盛りは昭和27、8年くらいまでですな」。
 占領日本のなか、浪曲も『伊達騒動』や『会津の小鉄』や『忠臣蔵』の一部がGHQによって禁止されたのである。加えて浪曲師はみんな短命だった。「マイクがない時代に大きな声で怒鳴りますやろ。早よう死んだんです」。それでも大阪には南、当麻、富岡といった浪曲専門の芸能社があったのだが、それもだんだんなくなっていった。「浪花節の寄席はだいぶん焼け残りましたね」「若春館、双葉館、天王寺館、天六の末広座」「それから堺の中村座、朝日座」「なかで天満の国光と千日前の愛進館はよう入った」。
 浪曲は三味線の曲師がないと演じられない。相三味線(あいじゃみせん)が自分でもてたのは吉田奈良丸、京山幸枝、日吉川秋水と、秋斎、梅中軒鴬童、富士月子など十人くらいだったらしいが、それでもこの二人の呼吸、二人の声と手が噛み合っての「芸の力」は、他のどんな演芸にもなかったものだったのである。。

 藤山寛美(1929~1990)

『拝啓天皇陛下様』(1963年)で柿内二等兵を演じる寛美(右)
『一芸一談』p7

 この対談の2ヶ月後に寛美は肝硬変で亡くなったので、これが最後の対話記録になった。「私、肝臓だんがな」「私もや」「酒を二日にいっぺんにした」「薬と思たらええんです」。寛美「薬、ちょっと一合と言うたらええ」、米朝「その薬が後引く薬や」、寛美「薬が効いてきたと思ったらええ」。水割り十杯を欠かさなかった寛美は、結局はこれでやられた。
 曾我廼家五郎の他界をきっかけに、昭和23年に松竹新喜劇が旗揚げした。渋谷天外、曾我廼家(そがのや)十吾、浪花千栄子、藤山寛美、曾我廼家明蝶、曾我廼家五郎八らが創立メンバーだ。天外と浪花千栄子が女性問題で別れて危機が生じたが、寛美の絶世の喜劇力で持ち直し、酒井光子らも育った。
 父親が関西新派の成美団の俳優、母親が新町のお茶屋「中糸」の女将だった。戦時中は慰問隊で演じ、ソ連軍にも抑留され、敗戦後はキャバレー、靴磨き、ブローカー、芝居、なんでもやった。昭和26年の天外『桂春団治』で酒屋の丁稚役をやったのが大評判となり、以降「アホ役」がはまり役になった
 「寛美という名前は?」「花柳章太郎先生ですわ。寛く美しくいけという意味らしい」「出は関西新派ですわな」「花柳先生のとこへ弟子入りして、しばらくして都築文男先生に預けられて子役をしてた。そしたら家庭劇で子役がおらんから、天外のとこへ行った」。
 どうして花柳章太郎が面倒を見たのかというと、母親の営む「中糸」に川口松太郎、大平野紅、長谷川幸延、5世瀬川如皐らがのべつ来ていて、父親が死んだときに母親が川口松太郎に相談したら、川口が花柳のところに連れていったということらしい。「花柳先生は給金のことをお身上と言うてはりましたね」。以来、芸歴60年である。
 「笑わす芝居というのは狂言や俄(にわか)がありましたな。喜劇はいつからですか」「曾我廼家五郎先生が尾崎紅葉(891夜)の『喜劇夏小袖』をしやはった時からですわ。日本の喜劇は今でちょうど85年目」「アドリブはいつごろからでっか」「アドリブ言うてもね、私が投げた球を向こうが拾うてこっちへ放り返してくれて、それを私が受けんと、アドリブになりまへん」「そうでんな、千葉蝶さん(千葉蝶三郎)さんとは長々とやりとりしてはりましたな」「10分のところを30分くらいやりましな。あの人は一人でやるとおもろいことおまへん」「よほどうまい人が受け答えをせなならん」「いや、うまいかどうかというより、一段、二段、三段目に上がるなというところで、三段目をほっといて、四段目で待つんですわ。そうすると三段目できっちり遊んではるわけですわ」「なるほど、受けさせまんのやな」「そやから持っていきようだんね。一段目まで降りていって、そこから呼んでやる手もあります。慌てるんでおもろい」。
 この対話は長いものになっている。それほど二人の話はノリノリで聞かせる。話も急に飛ぶ。寛美が「けどこんなこと言うたら冒涜になるけど、ぼくは米朝師匠はやっぱり独裁者になってもらいたいと思いまんな」と切り込む。米朝が「いやあ」と躊躇していると、すかさず「独裁者やないと文化は残りまへんのや。ワンマンでないと文化は残らない」と突っつく。米朝は芸人は韜晦ではあきまへんかと言うのだが、寛美は「役者は今日雨が降ってるか何かわからんでいいというけど、それではあきまへん」とはっきりしているのである。
 さらに「枝雀さんが英語の落語をやらはったのはええけど、歌舞伎や落語が英語でわかるのでええのかと思う」と、そこまで言う。ぼくは次の言葉で降参した。今夜の除夜の鐘とする。「あんな、人間の弱さが芸でっせ」。

ユリイカ 2015年6月号 特集=桂 米朝

⊕ 一芸一談 ⊕

∈ 著者:桂米朝
∈ 題字:桂米朝
∈ カバーデザイン:舩木有紀
∈ 装幀:安野光雅
∈ 発行者:熊沢敏之
∈ 構成:小佐田定雄
∈ 発行所:筑摩書房
∈ 印刷所:三松堂印刷
∈ 製本所:三松堂印刷

∈∈ 発行:2007年4月10日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 藤山寛美
∈ 京山幸枝若(初代)
∈ 片岡仁左衛門(十三世)
∈ 松鶴家千代若・千代菊
∈ 吉田玉五郎(二世)
∈ 旭堂南陵(三代目)
∈ 岡本文弥
∈ 河原崎国太郎(五世)
∈ 辻久子
∈ 安田里美
∈ 林正之助
∈ あとがき
∈∈ 文庫版あとがきにかえて 桂米朝座談

⊕ 著者略歴 ⊕

桂米朝(Beityou Katsura)

1925年生まれ。兵庫県姫路市出身。1947年、四代目桂米団治に入門。滅亡寸前の上方落語を、故松鶴、春団治、文枝らと力を合わせて現在の繁栄まで導いたリーダーで、数多くの滅んでいたネタを復活させた。上方落語の研究家でもある。1996年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。著書に「上方落語ノート(正、続、三集、四集)」(青蛙房)「米朝ばなし」(講談社文庫)「落語と私」(文春文庫)「桂米朝 私の履歴書」(日本経済新聞社)他がある。2002年、文化功労者に選ばれた。2015年没。

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