才事記

頭巾かぶって五十年

吉田簑助

淡交社 1991

 世界のあらゆる芸能芸術のなかで最も高度なのが文楽(人形浄瑠璃)である。世界中の芸術芸能などむろん見てはいないけれど、映像などの視覚情報を含めて、だいたいこんなものがあるという感じはわかる。それらにくらべて、文楽はダントツなのだ。
 そう思ってからは、文楽にかかわる人たちが船底や床の神様のように見えてきた。それとともに、ずっと昔、黙って白黒テレビを見ていた父が「セイゴオ、ちょっとここに来て、坐って見てみい」と言って、吉田文五郎や桐竹紋十郎の遣い、豊竹山城少掾や竹本越路太夫の語りの場面を、半ば強制的に見させてくれた理由の奥にひそんでいた正体不明だった意味も、だんだん納得できるようになってきた。
 もともと「語る音楽」あるいは「聞く文芸」としての義太夫は、なぜか高校時代から好きだった。あのフシやノリやウナリやオクリを聞いているだけで、とても気分がよくなっていた。レコードやテープも買いこんでなんとなく流していた。中江兆民の『一年有半』(博文館→岩波文庫)の影響もある。けれども人形遣いについては、それほど見えてはいなかった。それがしだいに釘付けになっていったのである。変なことだが、おそらくは土方巽の舞踏を見てから文楽の動きに関心をもつようになったのだ。

 ふつう、文楽の観客は太夫のカタリやクドキや三味線の手を〝見る〟わけではない。ぼくは「語りもの」が好きだったので、最初のうちは舞台よりも床(盆)の声と三味線のほうをしょっちゅう気にしていたのだが、そのうちやはり人形の動きに惹きつけられていった。そのほうが太夫の語りの細部が見える。
 人形の動きに惹き付けられはじめると不思議なもので、かえって人形遣いの動きが次々に立ち上がってきて、いろいろのことが目にも如実になってくる。そうか、喜多川歌麿はこのように遊女の指のように筆を使ったのかというように、人形遣いの筆さばきともいうべき遣い方がまるで芸術の秘密を証すかのように伝わってくるのだ。ここからが、たまらない。
 
 文楽ファンのだれでも最初はそうだったろうが、観客席にいて一番厄介なのは、主遣いや左遣いや黒衣たちの動きが、人形のなりふりを邪魔しているように見えてしまうことである。ところが、ある時期をすぎると、人形だけがちゃんと見えてくる。すべては阿弥陀来迎の眷属や雲中供養菩薩のオーケストレーションの協奏のごとくに美しい。それでいて人形遣いの技もちゃんと見えてくる。
 ぼく自身もあらためてふりかえってみると、さていったいその一線をまたいでいろいろの細部が見えてきた臨界値がどこにあったのか定かではないのだが、ある日突然に人形と人形遣いの両方がすべてくっきりと見えてきた。これは譬えようのない感動で、人形と人形遣いが微妙に連鎖していることが、近松なら近松のドラマトゥルギーの本質的な骨格とさえ思えてくるものなのだ。
 それを見ているうちに、耳だけで聞く太夫の義太夫や太棹の三味線が、そのすべての動きの連動の中に渾然と溶けてきて、ひとつは異様なほどに恍惚となっていくのだが、もうひとつには、これこそは身体芸術の最高の総合化なのではないか、ここまで芸術芸能を極めているものはないのではないかと確信するようになっていく。文楽とはそういうものなのだ。
 
 吉田簑助に釘付けになったのは、最初からではなかった。最初はちょっとキザかな、愈々の入り口が見えすぎるかなと感じていたのだが、いつごろだったか、《封印切》(冥途の飛脚)の梅川や《酒屋》(艶容女舞衣)のお園をつづけさまに見たころだったか、これはとんでもない人形遣いが出現しているんだという気になって、それからはこの才能にすっかり参っている。
 本書はその簑助が初めて語りおろした芸談で、さすがに簑助だと感服させる箇所が随所に出てくる。
 しがない人形遣いだったお父さんとの複雑な関係ものべられて、簑助が尋常ではない斯界の実情と立場と家庭を背負いながら、子供時代から必死に芸を磨いてきたことも切々と伝わってきた。文楽の世界が戦後の日本社会のなかでも格別に苦労をした業界であったことは、有吉佐和子『一の糸』(新潮文庫)でも安藤鶴夫『文楽 芸と人』(朝日選書)の千夜千冊でも書いてみたが、そうした文楽界の複雑な事情についてもなんらの批判がましいことなど一言も挟むことなく、つねに真摯な目で語っている。
 しかしなんといっても目が洗われたのは、簑助ならではの女方の拵えや遣いっぷりを語っていくくだりだ。とくに人形の色気をどう出すか。これはまさに独壇場だった。
 
 人形遣いは人形の着付けは全部自分でやる。簑助が大事にしているのは、まずは襟足で、ここで色気の大半の源泉が決まるのだという。次に胸づくりにとりかかる。娘だからといって大きくはできない。お染や八重垣姫も控え気味につくり、そうすることでかえって羞じらいの色気を出していく。しかし、もともと色気があるところをぐっと抑えるから色気も出るのであって、たとえば《宿屋》の朝顔はそこがむずかしい。
 それでも衣裳やその柄が何かを象徴しているばあいはまだ楽である。それが継ぎ接ぎの《沼津》のお米や縦縞の《引窓》のお早のような、零落した身の上の女方をやるときは、その奥にある色気を絞って出していくことになる。そうなると腰の落とし方ひとつ、髪に手をやる仕草ひとつが勝負になっていく。
 遣い方の最大の要は、首を差しこんだ肩板の操作ぐあいにあるようで、ここにすべてがあらわれてくる。荒い呼吸から息を呑む動作まで、いわば生きものの微細な表現を演じる。胴串も小指や薬指をゆるめ、トンと当たられたら首を落とすほどにぐらぐらなのである。だからこそ、伏し目から決断の意志までが演じ分けられていく。
 けれども、その繊細きわまりない動かし方は、一番弟子にさえ教えられないという。教えたくないのではなく、とうてい言葉などにはできないらしい。弟子は師匠の指のタコにすら注目して、これを心得ていくしかないものらしい。
 こうして世界中に文楽の女方しか表現できないクドキの「うしろぶり」、片手遣いでときには立て膝入りの「ねじ」、《合邦》が有名だが、玉手御前が「身を尽くしたる心根を」で3人の遣いが呼吸をあわせて両袖を左に振ると同時の左足の「踏み込み」、膝をつくって腰を折り、袖から袂を見下ろすという「姿見」、左遣いが活躍する「三つ指し」などなど、まあ、それはそれは溜息が出るほどの至芸の数々が、次々に生まれていったわけである。

 簑助は《心中宵庚申》上田村の千代をやったとき、苦しみ抜いたうえに、ある開眼をしたという。「上田村」というのはクドキも大落としも当て節もなく、他の義太夫とはかなり違った場面になっている。
 その変化に乏しい曲を竹本綱太夫が引き締めて語っていた。竹澤弥七の三味線も手らしい手がないにもかかわらず、驚くほどに細かく弾いている。そこへ「駕籠の戸明くれば、打萎れ、目元しぼよる縮緬の」と入って、「涙の色に染めかへて、泣く泣く出づれば」で、千代は駕籠を出る。ところがここには節があるのやらないのやら、動作や思い入れのあらわしようがない。それでいて、客には不憫な女と思わせたい。簑助はこのとき「情」というものの端緒を忽然と発見したのだという。動作でない動作が表現する「情」である。それがパッと体についた。
 ついで段切で、父に「灰になっても帰ってくるな」と言われるところは、この段のなかでは芝居ができるところだが、さあ、そうなると、ここも余情であらわすしかなくなってくる。「というより、そうしないと玉男兄さん(吉田玉男)の半兵衛に寄り添ってはいけませんでした。これが私のリアルの出発点でした」なのである。
 このほか、ここに書くのがもったいないくらいの話がいっぱい並ぶ。本書を読んで、またまたぼくは簑助明神様々だった。
 簑助は、文楽というもの、1ミリか2ミリで勝負が決まり、1秒か2秒で仕損じる世界なのだと断言する。きっとそうなのだろう。それは1行ずつ読むうちにひしひし伝わってくる。こちらもその1秒や2ミリを見る。ただひたすらに、その至芸を固唾をのんで堪能する。けれどもこちらはその1秒や2ミリを見逃してもすむのだが、簑助はそれがぶっ通しなのだ。そのうち、日本にこういうものが伝承され、それを1ミリずつ1秒ずつ命を延ばそうとしている神々がいるという、そのことだけに大泣きしてしまうにちがいない――。