父の先見
関西と関東
文春学藝ライブラリー 2014(青蛙房 1966)
編集:岡本経一 DTP制作:ジェイ エスキューブ
17歳からは横浜と東京各所で暮らしてきた。
そのなかで、言葉と声と味をまたぐ
「口」と「耳」の風土力を感じてきた。
そこに「二つ以上の日本」があると知った。
残念ながら、いまだ列島の南北を動けていないのだが、
東西日本の対照性については、
かなり刻印されてきた。
風土も着物も、出汁(だし)も邦楽も、政治も差別も。
いったい関西と関東は何が違うのか。
この二つの地域力は、このままでいいのか。
宮本又次さんの軍配を使ってみた。
カタルーニャ(カタロニア)の独立投票はスペイン政府から憲法違反だとの咎めがあって、調査行為とみなされる自主投票に格下げされてしまったが、投票率4割のうちの約8割の住民が独立を望んでいた。今後が愉しみだ。
その前に話題になったスコットランドの独立投票のときは、決定数を上回れなかった。イギリス(UK)は、正式には「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」である。そこにイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドが入る。それぞれずいぶん異なる風土と人種感覚と産物がある。今後もこの4地域が並立していくかどうかは、なんとも言えない。
いっとき「東北人はスコットランド人に似ている」と言われていたことがあった。ぼくはいつのころからか、東北4県の自立に期待をしてきたようなところがあって、スコットランドの独立の是非を問う投票にも胸騒ぐものを感じていたのだが、実態はなまやさしいものではないのだろう。
スペインやイギリスとは風土も歴史も事情が異なるけれど、日本も花綵列島の中でさまざまな風土や文化や気質や嗜好が分かれてきた。方言の違い、風味の違い、歌謡の違いもそうとうにある。それを地域文化でどう分けるかは、なかなか微妙なセンスが必要だ。
いまは天気予報がそうなっているように、日本を北海道、東北、北陸、関東、中部、関西(近畿・畿内)、四国、九州、沖縄諸島に分けるのが通常だが、こんな地形的区分けは何もあらわしていないと、たいていの土地の人たちは感じている。
同じ中部でも愛知と岐阜は違う。新幹線がないころ、ぼくがいつも感じていたのは大垣から乗ってくる客の声や動作で東海道の文化ががらりと変わることだった。トコロテンを箸一本で食べるのは同じなのに、隣りどうしの尾張と三河だってずいぶん違っている。
北陸も越後・越中・越前ではそうとうの別国だ。かつては同じ「越」(高志)の国ではあったけれど、いまでも糸魚川を渡るとあきらかに別のクニになる。寒ブリの味も変わる。そもそも富山人自体が五東五西を分けているし、石川県では金沢と能登とはまったく異なる文化圏なのである。
しかしわれわれの歴史的な社会文化観は、大きく東日本と西日本に分けるのを好んできた。とくに関東と関西を比較することが歴史的に続いてきた。
この区分けはどうやら日本人の好みにぴったりくるものがあったようで、徳川社会に東海道五十三次が登場して「上り」と「下り」が鮮明になってからは、やたらに西と東を比較することが多くなった。たんに比較されたのではない。関西は関西として、関東は関東としての誇りと自慢と意地をもつようになった。どちらも威張りたい。
それがいまでも続いていて、橋と箸のアクセントが関西と関東では逆になり、朝・花・海のアタマを上げるかシリを上げるかで出身がわかる。踵は東京ではカカトだが大阪ではカガトだし、「そうですか」は「さよか」、「どうですか」は「どや」なのである。
それが芸能にまで及ぶ。東の落語と西の落語はいまなおそうとう異なるし、歌舞伎も西の和事は東の荒事とずいぶん趣向が違っているままにある。坂田藤十郎などの上方役者は「濡事」がうまく、市川家などの江戸の役者は「実事」に当たり狂言が多かった。実際にも、そう思う。
大都市の東京と大阪はいまも張り合っている。これは秀吉の大坂城が徳川に攻められたからとも、江戸の旗本町奴のイナセな風情と大坂の商人感覚とが対照的だったからとも言われるが、大久保利通の大阪遷都論が一蹴されて東京遷都が決定してからは、さらに目立ってきた。天皇が東京の皇居に移ったので、御所が空いた京都も東京に反発するようになった。
そうでなくとも、東京方面の「バカ/りこう」の感覚と京阪神方向の「あほ/かしこ」の感覚は、まったくその睥睨の感覚が違ってきた。『全国アホバカ分布考』(718夜)でたっぷり紹介したことだ。
こういうことは、ウナギの蒲焼きにも、味噌の好みにも、労働着の出来具合にも、「いろはかるた」にも顕著にあらわれている。かるたでいえば、たとえば東京式の「イ」は「犬も歩けば棒にあたる」でチャンスメイキングの教訓になっているのだが、大阪式では「石の上にも三年」で辛抱することを教える。東京は努力だが、大阪は辛抱なのだ。違いは歴然なのである。「ロ」もまた、東京式が「論より証拠」で理屈っぽく、大阪式は「論語読みの論語知らず」というあてこすりだ。
日本をおおざっぱに関西と関東に分けるようになったのは、大化改新のあとに三関がおかれたせいだった。
三関は伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)で、この三つの関をつなぐ線よりも東が関東になり、西が関西になった。その結果、関東一円は東海道15ケ国、近江を除く東山道7ケ国、北陸道6ケ国の計28ケ国をさし、関西は三関以西の諸国に5畿内と東山2道を加えた計38カ国をさした。
以来、関東と関西の特徴はいろいろなところにあらわれてきた。たとえば「東の源氏」に対しては「西の平家」だ。平家は船と打物(うちもの)を武器とし、源氏は馬と弓を武器にした。平家は滅亡したと言われているが、落ち武者はたいてい西に流れた。仏像なども西は古くから乾湿像や銅像が多く、東はヤリカンナによって木目をいかす木彫仏を得意にしてきた。
本書はそういう関東と関西の違いを縦横無尽に綴り上げたもので、こういうことを書かせたら日本一だった宮本又次さんが自在に書いている。
宮本さんは戦前に『株仲間の研究』(有斐閣)を著して、その後もずっと近世の商人社会を徹底して研究した人だ。いったんフランスの商業経済史と比較して日本商業史についての労作を次々に問い、その後は大阪の商業文化にやたらに詳しくなった。
京都帝大から彦根高商・九州帝大・阪大・関西学院の教授をへて、宮本商業経済学ともいうべき独特のジャンルを打ち立てた。『小野組の研究』で学士院の恩賜賞をもらってもいる。
著書も多い。『日本近世問屋制の研究』(刀江書院)、『鴻池善右衛門』(吉川弘文館)、『船場』(ミネルヴァ書房)、『大阪人物誌』(弘文堂)、『大阪商人太平記』(創元社)、『大阪繁昌記』(新和出版)、『キタ』(ミネルヴァ書房)、『企業にしひがし』(日本経済新聞社)、『五代友厚伝』(有斐閣)など、軒並みだ。
1977年には『宮本又次著作集』全10巻(講談社)も刊行された。なかで『豪商列伝』と『大阪商人』は講談社の学術文庫にもなっている。ぼくの仕事を長らくサポートしてくれてきた大阪の荒木基次君は、ずっと前から「大阪のことは宮本さんを読まんとあきませんわ」と言い続けてきた。
それなら一冊読むなら何かというと、ぼくは『大阪繁昌記』だったけれど、諸君には本書『関西と関東』を薦めたい。1967年の日本エッセイストクラブ賞受賞作にもなった。読んでいて愉しいところもいい。さいわい文春学藝ライブラリーで文庫化もされたので入手もしやすいだろう。
さて、関西と関東を比べるにはどこから入ってもいいのだが、せっかくだからちょっと意外なところから入ると、まずは雨の降り方が違うのだ。いや、これは必ずしも気象学的なことではなくて、印象が違う。
関西は雨の頻度は必ずしも多くないのに、降ればどしゃぶりが多い。滝沢馬琴は『羇旅漫録』に、京都では雨天でも合羽を着ない。合羽を着ているときは遠出だと思ったほうがいい。これは雨が横に降らずにまっすぐ降るせいだと、なかなか鋭い観察をしている。
関東はいつもしょぼしょぼ降っている。ただし、その雨はなんとなく横に降る。なぜか江戸では斜めの雨や横雨なのである。そこで広重のあの斜めの線分のような雨が描かれるのだ。吉行淳之介(551夜)の『驟雨』の感覚だって、あれは東京の娼婦の家なのだ。織田作之助(403夜)とは異なる。
米山正夫が詞と曲をつくった美空ひばりの『関東春雨傘』という名曲がある。「関東一円 雨降るときは さしていこうよ蛇の目傘 どうせこっちはぶん流し」とあって、「えー、抜けるもんなら抜いてみな、斬れるもんなら斬ってみな」からひばりが啖呵を切って、「あとにゃ引かない女伊達」と結ぶ。高校時代に浸りきった。
雨が変われば梅雨が違い、梅雨が違えば田畑が変わる。そこで「西の田」「東の畠」というようになった。
稲作が西から入って東上あるいは北上していったのだから、これは当然であるようだが、それだけではない。西は灌漑用の貯水池も多く、そこから巧みに水利をまわすしくみが発達し、そこに西国独特の村落共同体が生まれていった。
一方の東は、土壌や地質に特徴がある。関東ローム層に覆われていて、武蔵野のクヌギ林と赤土が、雨が降れば履物にべっとりとつく。灌漑の技術もあまり発達しなかった。これでは関東はイネよりソバやカンピョウなのである。
田畑が違えば、当然、野菜も違ってくる。京大阪は野菜がうまい。フキ・みずな(水菜)・大根・かぶら・ネギ・ナス・キクナ、いずれもうまい。天王寺かぶら、賀茂ナス、毛馬キュウリ、守口大根、九条セリなど、昔から有名だった。
対して、関東の野菜は長らく遅れをとってきた。なかで自然薯や関東ネギや関東大根が評判になった。千住ネギ、練馬大根、西町大根、亀戸大根などだ。そのほか関東以北が自慢するのは山菜で、これは関西ではそんなに重視してこなかった。関西の山の幸はマッタケだ。
野菜の名前に東西の差が出てくることも少なくない。カボチャはもともとはポルトガル人がもってきた「カンボジア」に由来するが、同じポルトガル語の「ボーボラ」が琉球や西日本では「ぼうふら」になったこともあった。
大阪ではカボチャは「なんきん」である。これは中国語の南瓜が転じて、大阪に定着した。
ちょっと余談になるが、大阪では見かけは悪くとも噛みしめると味がやたらによい「なんきん」が愛されて、これを「勝間(こつま)なんきん」と言った。大阪西成あたりでよく採れた。転じて、「こつまなんきん」はそんな味がする女のことをさすようになった。今東光の『こつまなんきん』は「わてのことを口説いておみやす。こつまなんきんみたいに固うて、締まって、味よろしイ」と自慢する、お市という河内女が主人公になっている。
水の違いは味の違いにつながり、その違いが食べ物の嗜好や料理のつくりや味付けの違いになっていく。
早い話が、握り飯やおむすび(おにぎり)は、京阪は俵型で、関東ではまんまるか三角形なのだ。最近のコンビニのおにぎりが三角形が多いのは、海苔が巻きやすいからなのではなく、東京の食品形態が優位になったということだったのである。
どこにでもおなじみの稲荷寿司だって違っている。関東では長方形の油揚げを横に二つに切って開いて飯を入れるけれど、関西風は正方形の油揚げを対角線に切って寿司飯を入れ、これを握る。長方形に握るときは干瓢を帯状に巻いて、あしらった。
もっと決定的なのは、江戸では朝にご飯を炊く「朝炊き」が一般的であり、これに対して京阪では「昼炊き」だったということだ。このため関西では朝に茶漬け(ぶぶ漬け)が好まれた。ひるがえってそもそも関東では、かつては「炊く」のは飯(めし)だけで(だから「飯炊き」とか「飯炊き女」という)、あとはすべて「煮る」だった。
もっとも、冷や飯(おひや)をどう活用するかは日本の家庭の工夫のしどころで、お櫃に入れたり、布巾をかけたり、再炊したりするほか、雑炊やおじやや粥にもした。その雑炊のタネや味付けが全国津々浦々なのである。つまり日本のお国自慢は、主食ではなく、その再利用や再々利用からなのだ。
ちなみに基本的なことを言っておくと、日本人が一日三食になったのは明暦をこえてからのこと。加藤雀庵の『綿蛮草』に「今の世の如く上下とも一日三食食ふやうになり」とある。
中世までは武家は一日二食、僧侶は一日一食だった。これは徳川の初期社会までは、「飯」といっても籾をとった玄米を甑(こしき)にかけて蒸(ふか)した強飯(こわめし)だったので、腹持ちがよかったのだ。麦や粟や稗を入れることも多かったせいもある。
おかずも東西ではさまざまな傾向が違っていた。そもそも京阪では「番菜」、江戸では「惣菜」だ。だから京都ではいまだにおバンザイという。
主菜という言葉がいまも使われているように、東西いずれも菜っ葉(関西ではナナ、関東ではナッパ)を大事にしたことには変わりないのだが、酒の肴というときのサカナは、実は「酒菜」のことだった。
このように東西の食文化が劇的に違うのは、いまさら言うまでもないだろうけれど、正月の雑煮とお節にこそいまなおあきらかで、日常会話でも「えっ、餅を焼かないの?」「里芋、入れる雑煮?」といったやりとりが頻繁にかわされる。
もともと雑煮は年神祭の直会(なおらい)から派生した。年神とはその年の恵方を示す来訪神(マレビト)をいう。それを祝っての雑煮なのだが、江戸では鰹節の汁を沸騰させて切餅をこんがり焼いたものを入れ少し煮て、そこに小松菜などを加えた。関西は白味噌の汁に丸餅を入れて沸騰させ、そこに小芋・大根・干しアワビ(椎茸)を入れた。ぼくの家ではこれにたいてい花カツオをふりかけた。
お節は「五節供」が本来で、ふつうは「お煮しめ」(煮染)という。これを重箱に入れる。関西では組重の上が数の子、二番目がごまめ、三番目が卵焼き・串貝・つくね芋、四番目に鮒甘煮・ぼう鱈・くわいなどとなり、別の組重に、一重に水菜・おひたし、二重にたたき牛蒡、三重に人参・昆布・黒豆・梅などを入れた。公家っぽい。
これが関東では、田作り(ごまめ)・数の子・黒豆が祝い肴の三品で、組重に栗きんとん・伊達巻き・紅白蒲鉾を欠かさない。酢の物として紅白のなますを入れるようになったのは、明治期以降のようだった。
魚は昔から「関東サンマ、関西サバ」という。東京落語の「目黒のサンマ」もそこから派生する。京都から福井に向かっては鯖街道がある。日本海のサバが越前から運ばれた名残りだ。
ついでにいえば、関東の自慢はサワラ、関西はグジ(甘鯛)である。グジは若狭から塩をあてて今津へ、今津から大津・逢坂山をこえて三条粟田口に入った。若狭のカレイの生干しとともにグジの潮煮や酒ぐしが好まれた。一方、江戸のサワラは伊豆あたりから運ばれて、花見時のサワラの照焼となって町人が大いに舌鼓を打った。
ウナギは東西どこにもあるが(すでに大伴家持がウナギは夏痩せにいいと書いている)、ドジョウはやっぱり関東だ。柳川(ドジョウ鍋)を隅田川あたりの小屋掛けや料亭でつつくのは、関東の男たちの心意気だった。
これに匹敵するのは関西のハモである。やたらに旬にうるさい。ぼくは京都時代からずっとハモがだめで、東京に来てからはドジョウがだめだった。いまでも京阪の連中が「もうハモ食べはりましたか」と言うと、うんざりする。
魚をすり身にして食べるようになると、さまざまな練り物になる。これをぐつぐつ煮て櫛に刺し、適当な味噌で食べたのが「おでん」(味噌田楽)であるが、こちらは関東の得意技だった。そこで関西では「おでん」のことを「関東だき」と言う。
料理や味の話はキリがない。だいたい関西の「薄味の起源」までさかのぼらなくてはならないし、いっぱしの懐石料理のルーツの話も必要になる。そういうことは宮本又次さんは好きではなかった。そこで、ここからは東西のおしゃれの感覚的な違いを、ちょっとだけ見ておきたい。
しばしば「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」と言われてきたものの、これは時代によって動いてきた。久須美祐雋の『浪花の風』では「京の着倒れ、江戸の食い倒れ」だった。久須美は大坂も着物のおしゃれがさかんだと書いている。
そもそも上方とくに大坂は桃山期のころに堺から相当の舶来品がどんどこ入っていて、天和のころには女性の礼服に綸子(りんず)、絖(ぬめ)、天鵞絨(びろうど)、唐織などを着るのはざらだった。宮崎友禅斎が西陣で派手な友禅を染める気になったのは、こうした大坂の勢いに感染したからだとも言われる。西鶴(618夜)の浮世草子はこの風情に乗った。
その西鶴は『本朝町人鑑』では、それにしては大坂は厚化粧をしすぎになって、御所白粉(ごしょおしろい)を二百ぺんも塗りたくっていると揶(からか)った。いま大阪はケバイほうの代表になっているが、その伝統はこのころからあったわけである。
その後、糊置き師の一珍が一珍糊を工夫して、これで友禅が簡便になり、京都でも広まった。そうなると、おぼろ染、あかね染、御所染、本御所染などと京都の職人はさすがに工夫する。それでも、その豪華なものを着るのは大坂の茨木屋幸斎や淀屋辰五郎らの豪商たちと、その一族や仲間だった。
宝暦から安永にかけて角袖が流行した。ほぼそのとたんと言っていいほどに、意匠にさまざまな「粋」や「通」が登場した。
藍色や茶色や鼠色が好まれ、小紋(こもん)・縞(しま)・絣(かすり)が流行し、桟留(さんとめ)、市松、金巾(かなきん)、青梅、琥珀などが評判になり、歌舞伎衣裳や浮世絵が三筋格子や三桝(みます)をつくって大向こうを羨ましがらせた。
桟留は最初は島渡りだったけれど、たちまち各地で織られるようになって、細縞・二筋・大名縞・めくら縞・横縞などの多様な様相を呈した。占城(チャンパ)、老枢(ラオス)、弁柄(ベンガラ)などの古渡(こわたり)・中渡・新渡の流行も続く。『縞のミステリー』(1537夜)のときにも書いたことだ。
もっとも、こうした渋い縞柄をみごとに着こなしたのはもっぱら江戸の町人のほうで、ここから江戸好みの「粋」(いき)の感覚が縦横に発露し、浮世絵にもその衣裳や風姿がさかんに描かれた。対して大坂は紬(つむぎ)の本結城が一番で、それを上方ではイキとは言わずに「粋」(すい)というふうに呼んだ。これが島の内の言っぷりで、船場ではこれを「こうと」と言った。
「こうとやなあ」という感覚はよほど上方センスに通じていないとわからない。京都ではそこをしばしば「はんなり」と言うが、ぼくは以前から、この言葉の使い方はおかしいと思ってきた。もとは「花なり」で、何か華やかなものが少し染め出しているような感覚が「はんなり」なのだ。『落葉集』の「聞き初め足るる早咲梅のはんなりと」という、この感覚だ。
おしゃれは着物ばかりではない。髷(まげ)や化粧や足袋や持ち物にもあらわれる。それが東西の女たちの妍の競いにあらわれ、男伊達にあらわれ、言葉づかいにあらわれた。
だいたい東西の顔の土台からして、徳川中期から「江戸のうりざね、京のまるがお」「江戸の中高(なかだか)、上方の平面(ひらおもて)」などと言われていた。むろん全部が全部そんなわけではないにせよ、菱川師宣の描いた美人は武士の妻が理想になっていて、これがやがて遊女の浮世絵になっていくのだし、上方の美人は西川祐信の「丸顔さくらいろ」に象徴され、これが芸妓のモデルや近代日本画の美人絵にまで続いたのだ。
髷も東西で結い方が競われた。関西風は唐輪(からわ)が兵庫髷になり、そこから根結・玉結・笄髷・御所風・太夫髷・銀杏髷などのヴァージョンが分かれ、関東風は若衆髷が女髷に転じて、勝山・角ぐり・ぐるぐる・丸髷になって、やがて島田になった。勝山は吉原の遊女勝山が腕をふるった創作で、前髪をひっつめて、つとを思い切って出すという結い方だ。
そのうち兵庫髷は立兵庫・横兵庫・結立兵庫・うつぼ兵庫などを生み、島田は島田で高島田・投島田・腰折島田などが鴛鴦・つぶし島田・禿(かむろ)島田・銀杏くずし・奴(やっこ)島田のバラエティをつくっていった。まとめて島田のルーツはいまは元禄島田などと言っている。
むろん徳川晩期や明治になってこれらはまじるのだけれど、また結髪師の手に負えなくて廃れるものも出てくるのだが、いずれも溜息が出る美しい結構だ。それをまた浮世絵師たちがみごとに描き分けた。与謝野晶子の「乱れ髪」がそのあたりのラストシーンだったろう。
男の髷もある。というよりも、もとは男の髷から女髷が転用されていったわけだった。大銀杏、銀杏髷、月代(さかやき)、丁髷(丁髷)、茶筅髷、本多髷、奴髷などがある。これが身分社会のなかで武家・旗本・町奴・町人・商人・農民に区分けされ、さらに親方と子方、主人と番頭・手代、家主と店子というふうに対比的に区別された。
そういった髷のもと、女たちはぞんぶんに化粧をたのしんだ。西澤李叟の『皇都午睡』によると、当時の化粧は意外にも「男めきたる気性あるところがよろし」とみなされていて、男めく化粧を心掛けた。西澤は、そのてん上方は白粉を塗りすぎて、戸外で手鏡をとりだして化粧を重ねているのは女めきすぎていて、ことのほか見苦しいなどと書いている。
延宝元年(1673)、伊勢松坂出身の三井高利は江戸本町一丁目に呉服の越後屋を創業し、着物はもちろん首から上だけのアイテムでも眉墨・頬紅など9つの化粧道具を売り出した。のちの三越であり、のちの三井物産である。
どうであれ化粧も凝っていったのだ。ぼくは資生堂の仕事をしているとき、佐山半七丸の『都風俗化粧(けわい)伝』(平凡社東洋文庫)に出会って、いかに徳川社会の女たちが化粧に長じようとしていたか、これはまさに最近の女性誌と同じだなと思ったことだ。この『化粧伝』のコンセプトはただひとつ、「色の白きは七難隠す」だった。これ、いまのメーク業界でも女性誌の特集でも継承されている。
髪や顔のおしゃれは足元にも通じた。ただし足袋や履物を競ったのは関東風である。戦国時代は鹿皮の足袋だったのが、明暦の大火(振袖火事)で皮革の値段が急騰し、以来、木綿の足袋を履くようになった。長岡三斎の母が工夫したらしく、男は薄柿木綿の黒足袋を、女は白晒木綿の白足袋を常用するのがもっぱら一般化した。なかで紺足袋のスタートは関西風らしい。
芸能ぶりにも東西の趣向はよくあらわれた。このことは、いまでも大阪の吉本のお笑いや、ちょっと前まで一世風靡していた上方漫才や松竹新喜劇であからさまなので、いまさら言うまでもないことのように思うだろうが、つまりは「たけし」と「さんま」で東西を比較するのは容易だろうが、ぼくはテレビ型「笑い」から日本芸能文化を説き始めるのは、やめたほうがいいと思っている。せめて鴈治郎と団十郎を、できれば一中節と常磐津を較べてほしい。
芝居については、並木五瓶がおもしろいことを書いている。「京は皮、江戸は骨、大坂は肉」というのだ。これは「筋は骨、仕組みは肉、せりふは皮」をもとに三都の芝居を比較したもので、大坂で育って江戸で活躍した五瓶ならではの見方だろう。
江戸歌舞伎と上方歌舞伎の違いは、『仮名手本忠臣蔵』の六段目を見ればすぐわかる。
江戸では勘平は水色の紋服、切腹するのは千崎と腹に問い詰められて割り台詞のうちにいきなり腹を切ってしまうのだが、上方では勘平はあくまで漁師として芝居をし、死に臨んで武士に戻るというリクツになっているので、姿も漁師のヤツシ姿で、幕切れにおかやが紋服に着替えさせている。切腹も千崎と原が与市兵衛の傷痕を確認しているときにやる。
江戸歌舞伎は様式性を重んじ、上方は近松以来のリアリズムなのである。この上方リアリズムの意図と意表がわからないと、関西の芸能は語れない。そこを吉本お笑い主義はぐちゃぐちゃにしてしまったのだ。せめて藤山寛美や浪花千栄子に戻らなくてはあきまへん。
つまりは較べるべき舞台芸能のもともとは、西の浄瑠璃、そのあとの東の荒事歌舞伎なのである。ということは浄瑠璃すなわち義太夫節から東西文化を見るのがいいということだ。ようするに三味線がわからないと何もわからないということだ。
まず古浄瑠璃が先行した。これは御伽草子の『浄瑠璃十二段草子』に平曲、謡曲、説経節などの節回しをつけて語っていたものが、永禄年間に琉球から蛇皮線がやってきて、ニシキヘビのいない本州では皮を猫に借りたところから三味線が生まれ、これがいったん上方地歌として流行した。まとめて浄瑠璃物語とか浄瑠璃姫ものと言われた。浄瑠璃姫と牛若丸の物語だ。
これを盲人たちの特異な感覚が研ぎ澄ましていって、文禄期には三味線ものになった。早くも沢住検校などの名人が出た。続く慶長期に出雲の阿国や名古屋山三が四条河原で「かぶき踊」や「ややこ踊」を見せたのだが、その背景は浄瑠璃物語にあった。ここまではみんな西の出来事だ。
そこに登場したのが杉山丹後掾と薩摩浄雲で、沢住検校に学んだ二人が寛永期に江戸に浄瑠璃をもちこみ、薩摩藩の島津の庇護のもと薩摩座をおこし、薩摩太夫を名のった。これが太棹三味線の大薩摩(おおざつま)というもので、その後の江戸歌舞伎の源流になる。関東武士にむけて武勇を豪快に語ったのだ。ここまでが古浄瑠璃の時期である。
けれども、これは上方風ではない。そこで貞享時代(1680年代)、道頓堀に竹本義太夫が竹本座を開いて、まったく新しい声と三味線で浄瑠璃をつくった。その台本と構想を練ったのが近松門左衛門(974夜)だった。上方言葉を用い、人形を遣い、太夫と三味線を分けた。驚くべき芸能、いや芸術だった。すでに初期の『出世景清』にして、シェイクスピア(600夜)を超えている。
義太夫節が確立すると、あとは一瀉千里だ。竹本義太夫と同門だった都一中は一中節をおこし、その弟子の宮古路豊後掾がここから絶妙の豊後節をつくりだして、江戸に流行させた。近松の心中ものの悲哀は人形浄瑠璃から独立して、三味線と声を通して江戸に響きわたったのである。
こうして常磐津文字太夫と富士松薩摩掾が中棹の常磐津節と富士松節を打ち出して、「語りもの」はピュアな「歌いもの」になっていく。そのぶん江戸では人形に代わって金平物や若衆歌舞伎から女形が生まれ、江戸三座による本格的な江戸歌舞伎が誕生していった。こうなると「歌いもの」はさらに妙(たえ)なるものに磨きがかかっていく。日本の三味線音楽は富本から清元に至って至高のものになる。
このへんのことは本書にはざっとしたことしか書いていないので、詳しいことはまた別の機会に千夜千冊するが、ともかくも上方と江戸を動いて三味線音楽は世界一の仕上げをもたらしたのだ。なかで、ウレイとクドキを攻めた新内節、江戸半太夫の流れを汲んだ細棹の河東節(かとうぶし)、市村座の唄方の露友がおこした荻江節などが関東風の味になっている。
ちなみに三味線による伴奏音楽を、「唄の邦楽」として確立していったのが長唄で、これを自由にショートバージョンにして弾き唄にしていったのが端唄や歌沢である。小唄はこれらをさらにお座敷で芸者たちがつくりあげていった。小唄の多くは明治のものだ。
ごく勝手な摘まみ食いで関西と関東の特徴を小鉢に盛り付けた。宮本さんの本書はもっといろいろなことに触れていて、たのしい。
たとえば大阪にドートンボリ、ドージマ、ドショーマチなどドがつく盛り場が賑わったこと、江戸っ子にシャンとしてツンとするところが受けたこと、上方は「いなせ」「いさみ」「あだっぽい」がわかっていないこと、つまりは助六が関西では生まれなかったこと、けれども近松と西鶴の感覚にはなんといっても上方の「ええとこ」がみんな噴出していることなどを、強調していた。
おそらく関西は出目をおもしろがる「きばりや」で、関東は筋目を通したがる「いっこく」なのである。
⊕ 関西と関東 ⊕
∃ 著者:宮本又次
∃ 発行者:飯窪成幸
∃ 発行所:株式会社 文藝春秋
∃ 印刷・製本:光邦
⊂ 2014年4月20日発行
⊗ 目次情報 ⊗
∈∈ 第一章 関西と関東の概念と境界
∈∈ 第二章 風土および風土心理から見た関西と関東
∈∈ 第三章 災害史から見た関西と関東
∈∈ 第四章 食物史から見た関西と関東
∈∈ 第五章 服飾史から見た大阪と江戸
∈∈ 第六章 芸能史から見た関西と関東
∈∈ 第七章 方言から見た関西と関東
∈∈ 第八章 気質から見た大阪と江戸
⊗ 著者略歴 ⊗
宮本又次(みやもと またじ)
1907年-1991年。歴史学者。大阪府生まれ。京都帝国大学卒業。彦根高等商業学校教授、九州帝国大学教授、大阪大学教授、関西学院大学教授、福山大学教授を歴任。専攻は、日本経済史、近世商業史。1967年、本書(『関西と関東』)で日本エッセイスト・クラブ賞、1971年、『小野組の研究』で日本学士院賞恩賜賞を受賞。1979年、日本学士院会員、1988年、文化功労者。著書に『大阪商人』『豪商列伝』(いずれも講談社学術文庫)『船場-風土記大阪』『キタ-中ノ島・堂島・曽根崎・梅田-風土記大阪〈2〉』(いずれもミネルヴァ書房)『宮本又次著作集』(全10巻、講談社)『小野組の研究』(全4巻、新生社)『日本近世問屋制の研究』(刀江書院)『近世日本経営史論考』(東洋文化社)『大阪経済文化史談義』『町人社会の学芸と懐聴堂』(いずれも文献出版)『五代友厚伝』(有斐閣)など多数。