才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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排泄物と文明

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ

築地書館 2014

David Waltner-Toews
The Origin of Feces - What Excrement Tells Us About Evolution, Ecology, and a Sustainable Society 2013
[訳]片岡夏実
編集:倉田卓史
装幀:中西一矢

ついに「うんこ」の千夜千冊だ。
とうとうこの日がきてしまったかなどと、
ゆめゆめ思わないでほしい。
以下に書くように、
ぼくはフンベツにはけっこう愛着をもってきた。
でも、本格的にはとりくんでいない。
本書のウォルトナー=テーブズは
そのてん、筋金入りだ。
「国境なき獣医師団」の創設者でもある。
このウンチクをお読みいただきたい。
ヒエラルキーに代わるホラーキーとパナーキーと、
そしてレジリエンスとホロノクラシーについても、
フンフン感じてほしい。

 懐かしい話からしてみたい。
 ぼくが最初にテレビに出たのは、NHK教育テレビの「若い広場」という番組だった。『江夏の21球』や『スローカーブを、もう一球』で話題をふりまいていたスポーツライターの山際淳司(609夜)が司会をしていた。そこで「松岡正剛の世界」という特別番組が組まれた。
 スタジオ撮りだったので、自転車の部品や気圧計や鉱物標本や月球儀などをぐるりとグレーのサイコロ台の上に並べて、それらを順に手にとりながら話した。番組の最後はカメラに向かって若者たちに何かのメッセージを喋るというシーンになっていた。そこでぼくは、なんとウンコの話をしたのである。
 「われわれは自分が一個の生命をもった人間だと思っているけれど、そういう認識はたいへんおぼつかない。細胞はしょっちゅう入れ替わっているし、体の中にはたくさんのバクテリアも寄生虫もいる。だいいち何かを食べると、それは自分のものになっているように感じるが、そのうちウンコになって外に出る。そのウンコは出たばかりはひょっとしたら“私のウンコ”なのだろうけれど、水洗をジャーッと流したあとも、それを“私のウンコ”“私のウンコ”というふうに呼び続けるわけにはいかない。どうしますか‥‥」といったような話だった。
 そんな話をしたせいか、その後テレビからとんとお呼びがかからなくなった(笑)。

どこまで自分のもので、どこから他者なのだろうか?

 ところがちっとも懲りなかった。「遊」の特別号を同時に3冊出すことにして、その一冊を「へ組=糞!あるいはユートピア」と銘打った。他の2冊は「ち組」と「は組」というもので、それぞれホモセクシャルと笑い・冗談を扱った。
 「へ組」はまるごとウンコや排泄物やスカトロジーの特別号である。金色のカバーの本にした。筆でうんこっぽいうねりを描いて、それを赤いオペークインクで載せた。1980年2月15日の刊行だった。

雑誌『遊 へ組 糞あるいはユートピア』

 「遊・へ組」にはびっくりするほど多くの執筆やメッセージが寄せられた。そのごくごく一部を紹介する。これを見てもらえば、当時の「へ組」がいかに真剣なフントーをしようとしていたか、察しがつくだろう。そして今夜、本書をとりあげた意味がわかるだろう(敬称略)。

 精神医学者の岩井寛(1325夜)は「真の美術教育にはウンコを写生させるといい」。そのころ岩井さんは精神障害者に絵を描かせていた。イラストレーターの長新太は「ぼくのウンコはコロコロしているから、手に乗せたい」。荒木経惟(1105夜)は「もっと太いウンコが出ないといけないなと、いつも思想している」。アラーキーは新入社員の面接試験でウンコのことを聞くといいとも書いてきた。山田風太郎は「一日一便、人類はみな糞友」。これは凄い。「ヤケクソの意味をもっと探求したい」とも言っていた。これも参った。うんこのおもちゃを作っていた岡本謙治は「あの握り具合の意外性に執着したかったのです」。

長新太はその後、『おなら』を描く

 マンガ家の秋竜山は「ウンコによって石油にかわる新エネルギーがつくりだせるような気がする」だった。この予感は最近では排泄物を再利用したバイオダイジェスターによる発電の工夫などとして検討されている。
 民族音楽研究の小泉文夫(601夜)は「うんこは体調のバロメーターだから脈拍や血圧と同じように見るべきものでしょう」。「紙で拭く文化」と「水で洗う文化を交流させたい」とも言っておられたが、それは20年後、ウォシュレットで実現した。万人が認めるうんこ博士の中村浩は「セッチンや太古のままの糞の色」。中村センセイは白髪で美しい紳士だった。
 永六輔は「やっぱり野糞がとどめです」。天才おなら少年の松下誠司は「ぼくのおならは肛門から空気を吸い込むから匂わない」。数学者の森毅は「クソとともに生まれたヒトが、クソとともに死ねる環境をつくるべきだ」。岡山の怪人・能勢伊勢雄は「ウンコは魂の異性体だ」と言って、さらに「う~ん」という息み声の次元についても考察してくれた。

雑誌『遊 へ組 糞あるいはユートピア』より

 調香師の廣山均は「香水にはスカトロジカルな匂いが欠かせない」である。むろん麝香や龍涎香などの話だ。
 荒俣宏(982夜)はお尻に「肛門リング」をはめることによってウンコを自由な形に造作すべきだというアイディアを提案した。荒俣君らしい。とりいかずよしは「まるで我が子のように見つめます」。
 そのころぼくに初の小説を上梓してほしいと頼んできていた草間彌生は「太くたくましく偉大なのが横たわっているとき、感嘆の声をあげる。水に流すのがもったいないくらい」。食料資源開発協会会長でトイレ学者の李家正文は「神話は日月の糞から派生したようなものです」。だから「ウンコを感じることは神話時代とともに生きることだ」と奨励する。この特別号に多大の努力を発揮した高橋秀元はこう書いた、「糞は全生物がとる最終的な色である」。
 もっとある。雲古(ウンコ)に対して失古(シッコ)という綴りを提案する中国文化研究の中野美代子は「うんこは輪廻と循環の永遠のシンボルだ」。当時の上野動物園飼育課長だった小森厚は「動物のくそこそ多様な情報をもっている」。五味太郎は「宇宙は桃割れで、ぼくたちの星の生命体は母なる宇宙の排泄物なんです」。鎌田東二(65夜)は数句をひねった。「いい気持ち糞出(インダス)川にいびりぐそ」。
 ミイラを撮って話題になった写真家の内藤正敏は「もっともっとありがたいという気持ちを抱くべきです」。そして松岡正剛は「ウンコは凝集したアナキズムではないか」‥‥。

雑誌『遊 へ組 糞あるいはユートピア』の目次

 これほどみんながウンコに愛着を寄せるとは想像していなかった。いろいろなフンベツとウンコロジーが表明されたものだ。十人十色、百物百臭、まさにフントウ千差万別だった。
 ぼくの企画構成だったとはいえ、これらの見地を広範囲に収集して編集した当時の工作舎のスタッフと若き遊軍の諸君に敬意を表したい。 

へ組のメンバー
『遊 へ組 糞あるいはユートピア』の「遊人紹介」より

 ウンコに向かうと誰もが千差万別のフンベツをもつように、本書の著者のウォルトナー=テーブズも、いくつかの顔をもっている。獣医師、疫学者、生態学者、作家、詩人などなどだ。本人が複合フンベツ人間なのだ。
 最近では「国境なき獣医師団」の創設者として有名になった。だから、しょっちゅう世界各地の生き物を求めて歩いている。歩いてみて、いかに糞尿が重要な地域差や文化圏をつくってきたかということを思い知ったらしい。とくにタンザニアをくまなく歩きまわったことが著者を変えた。
 本書の原題は“The Origin of Feces”である。直訳すれば『糞便の起源』とでもなるが、これはダーウィンの『種の起源』をもじったものだった。冒頭に、「ウンコと肥料の区別がつかない連中は原子力の話をしないほうがいい」というすごい一文がある。痛烈だ。

タイで象の糞から紙を作っている著者

国境なき獣医師団のホームページ
[外部リンク]https://www.vetswithoutborders.ca

 ウンコは科学と社会学にとって、ながらく「ウィキッド・プロブレム」(やっかいな問題)だった。たかがウンコではあるけれど、これが生態系や人間社会に及ぼす影響は途方もなく大きい。
 人間社会にとって糞便が大問題だったことは、下水道と水洗トイレを完備していなかった歴史がべらぼうに長かったことを思えば、すぐに了解できる。
 たとえばパリが文化都市として「花の都」と呼ばれたのは、オスマン市長らの悪臭・糞便・疫病対策が断行されてからずっとあとのことで、それまでは最悪だった。1608年には国王アンリ4世が「家の窓から糞尿を投げ捨ててはいけない」という奇妙な布告を出し、その100年後の1777年にもルイ16世があいかわらずの「窓からの汚物の投げ捨てを絶対禁止する」という法令を定めたほどだった。
 それでも本格的なウンコ処理には、オスマン市長時代を待たなければならなかったのである。そのあたりのこと、パトリック・ジュースキント(453夜)の前代未聞の“鼻の小説”『香水』などにも詳しい。

ホガース「夜」1738年
18世紀初頭のイギリス、アン女王の時代、はるか頭上で、五階、六階あるいは十階の窓が開き、糞尿を街路に放つ。上階から捨てる人はあらかじめ「ガーディ・ロー(そら、水がいくぞ)」と叫ぶのが礼儀だった。

 いやいや、19世紀のパリまでさかのぼることもない。ぼくの京都の家は中学3年まで水洗トイレがなく、ずっと汲取り式だった。その便所も冬はぶるぶる震えるような縁側のさきっぽにあった(昭和30年代のことだ)。
 ひと月に一度、汲取りのおじさんたちがやってきて、最初は天秤型の大バケツで、ついでは外に停車させたバキュームカーから延びてくる大蛇のようなホースで、わが家族の成果を蛇腹をぶるぶるふるわせながら運び去ってくれていた。「市中の山居」とはこのことだったのだ(笑)。

バキュームカー

 自然界にとって、ウンコがもっている意味と意義は大きい。
 本書の序章にはアフリカの生き物たちが何を食べて、何を排泄しているかが空の上の鳥の目のように一挙一瞥されているのだが、そもそも動物たちが何を食べているかが、とんでもなく多様なのである。食べ物が違えば体のしくみも違ってくるし、そのあとの排出物も変わってくる。
 動物の食事には、ざっと見ても「菌食・草食・屍肉食・肉食・雑食・腐食」などがある。みんながハンバーグやサラダ巻が好きなのではない。かれらの食品には賞味期限もない。腐ったものも平気で食べる。コンドルやハイエナだけではない。多くの微小生物は腐乱を腐乱とは思わない。
 それらの多様な食事の結末は、当然ながら多彩な排出糞便の生態をつくりだしている。食べたら、何かが出てくるのは当然なのである。金魚だってウンコをしつづける。
 この「食べたら出てくる」という自然の摂理は、しかしどこかで循環しなければならなかった。でなければ原子炉の廃棄処理物のように、とんでもないものが、どこかに累々とたまるだけである。それは生命自身と生態系の活動を脅かす。そこで生き物たちは「食べたら出てくる」をせっせと循環させていった。
 循環はたんにぐるぐるまわっていれば成立するというものではない。捕食による食物連鎖だけでは循環しない。最終排出物を処理できる連中も必要だ。かくて、食物連鎖の各所に「菌食」と、そして「糞食」が加わった。糞食とはウンコを食べてくれる連中の食事のことをいう。

 アフリカにはスカラベ(ふんころがし)のような糞食動物がたくさんいる。ウォルトナー=テーブズは夢中になった。
 スカラベ(scarab)は偉大な生物である。コガネムシ科に属していて、太陽の光があたるとキラキラする昆虫だが、ファーブルが『昆虫記』に詳細な観察記録を綴ってその名を記したときすでに「スカラベ・サクレ」になっていた。「聖なるスカラベ」だ。ウンコを食べてくれる聖虫なのだ。和名はタマオシコガネとかフンコロガシになっているが、ファーブル先生同様、もっと敬うべきだろう。
 ファーブル以前、スカラベを最大級に敬っていたのは古代エジプト人だ。太陽神ケプリと同一視して、スカラベを「死と復活と誕生」のシンボルにした。象形文字にも印章にも彫像にもなった。いまでは100万円は当然のこと、3000万円をこえる宝飾品もある。
 スカラベは体長は平均26ミリくらいだが、アフリカの哺乳動物たちがウンコをすると独特のアンテナを利かしてどこからともなく飛んできて、ノコギリのような前脚でうんこを幾つかに刻み分け、これを巧みにまるくして転がしていく。アタマを下にして逆立ちするように、まるで運動会のように玉を転がしていく姿は、いまやドキュメンタリー映像でもおなじみだ。巣穴に持ちこんで保存食にするわけなのである。
 こうして保存ウンコは食用だけでなく、土壌の生態系を活性化させる。

 それにしても驚くのは、スカラベのように糞食をする「糞虫」(Dung beetle くそむし・ふんちゅう)たちが、地球上にはざっと5000種から7000種ほどいるということだ。
 ゾウのウンコを食べる糞虫だけでも100種類以上になるらしい。『ふんコロ昆虫記』(トンボ出版)の編著がある塚本珪一さんによると、日本には145種類の糞虫がいるそうだ。こうした地球上の糞虫たちの個体数を言いだしたら、まさにガンジスの真砂ほどに数知れないだろう。
 むろんかれらにも好みがある。オーストラリアの糞虫はカンガルーなどの堅いウンコを好むので、びちゃびちゃのシュークリーム状にはちっとも見向きもしない。硬めのカリントウが好きなのだ。こうした糞虫には朽木や腐食植物をウンコとして食べるものもいる。そこには共生をこえる事態が進行してきた。

 ぼくがびっくりしたのは、オガサワラゴキブリにまつわる出来事だ。
 このゴキブリは熱帯性昆虫で、鳥の糞(ふん)に寄ってくる。糞を食べるためではなく、植物を食べるためだ。鳥の糞と尿がまじったものは窒素とリンに富むためで、それだけで栄養満点なのである。
 糞まじりの土を掘り返して草木を齧るうちに、ゴキブリは寄生虫マンソン眼虫の卵をふくんだ鳥の糞を食べる。そうすると、寄生虫の幼生はゴキブリの体内で何度か変態をして、やがてシスト状態になっていく。シスト(syst)というのは微小生物がつくる包膜や包嚢のようなもので、細胞体や幼生が仮眠あるいは休眠状態になることをいう。ウンコ環境にはこのシストが重要な役割をもつ。
 次にこのゴキブリを鳥がパクリと食べるときがくる。ところがここで事態はおわらない。ゴキブリと一緒に食べられた寄生虫は温かい鳥の体内でまんまと孵化し、食道を伝わって咽頭まで上がってくるらしい。わずか5分で虫はたちまち涙管に達して眼に入り、今度は瞬膜にひそんで成長する。成熟した寄生虫はそこで交尾してちゃっかりと卵を産む。その卵が鳥の涙で流されて鳥の糞尿と一緒に排出される。
 こうしてその鳥のウンコに、またゴキブリが惹かれて寄ってくる。その繰り返し、その繰り返し‥‥。「行く春や鳥啼き魚の目は涙」(芭蕉)。
 これは、糞尿生態系が寄生虫を循環させているとも、寄生虫が糞尿生態系を循環させているともいえる出来事だ。意外な「涙のチカラ」(1548夜)を感じさせる出来事でもあった。

 もともとバクテリアや菌類や糞虫や寄生虫のような微小生物にとっては、排泄物などという段階がない。土壌・草木・腐食・朽木はかれらと同態の環境であり、かれらの生き方そのものなのである。かれらこそが食物連鎖の断点や隙間をていねいに補ってくれているのだ。
 われわれの文明は糞尿と悪臭を生活の眼前から消し去って、なんとか下水道に流し、あとは済まし顔でいるけれど、これは自然と生き物の循環サイクルの片方だけを断ち切った対処だった。本書は、この片割れの文明、片肺飛行の文明に、いつしか排泄物が反撃を加えるだろうと予告する。

 糞食(ふんしょく)をするのはバクテリアや昆虫だけではない。シカは子鹿が生まれてから一カ月はそのウンコを食べる。
 動物たちにとっての糞食は上等な栄養なのである。ウサギはタンパク質と水溶性ビタミンを摂取し、ハツカネズミはビタミンB12と葉酸を摂る。実験用のハツカネズミに糞を食べさせないようにすると、すぐにビタミンB12とビタミンKの欠乏症をおこすことがわかっている。

 われわれはウンコを食べないが(オシッコを飲むという療法はあるらしいけれど)、人間社会でもそれなりにウンコは利用されてきた。窒素とリン酸が含まれているため肥料として活用できたことが大きい。鶏糞・牛糞・人糞が肥料すなわち下肥(しもごえ)になる三大ウンコなのである。
 もっとも人糞を下肥にほぼ完璧に活用してきたのはアジアが多く、それが社会制度にまでなったのは中国と日本くらいのもので、各国では成功していない。
 とりわけ日本は人糞を肥料にすることで、都市と農村のバランスを保ち、稲作や畑作という社会経済技術の水準を保ち、都市部における衛生力を高度に保った。著者はそこには日本人の世界に冠たる知恵が生きていると言う。
 実際、17世紀の江戸では船に野菜などの農産物を満載して大坂に送り、大量の人糞と交換していた。18世紀にはウンコ業者はその対価に銀を要求できるほどになっている。そうなったについては、ウンコ収集システムがなければならなかったのだが、そこを長屋の大家が店子(たなこ)から店賃(たなちん)をとることに重ねて収集できるようにした。

肥溜め
農家が半日から1日かけて町場の家に出かけていき、下肥の汲み取りを行っていた。

江戸時代に下肥を売る商人

 日本ほどの人糞リサイクル経済社会はめずらしいが、歴史のなかで人糞を再利用していた例は数多い。
 アステカでは排泄物と有機廃棄物は集められて下肥(しもごえ)や皮なめしのために売られていたし、ペルーではインカ族がトウモロコシの栽培のために排泄物を乾かしてそれを粉末にしていた。12世紀にスペインに住んでいたアラブ人のイブン・アルアッワームは人糞を交ぜて堆肥をつくる技術を書きのこして、この堆肥をつかえばバナナ・リンゴ・桃・柑橘類・イチジク・ブドウがかかる病気が治ると記している。
 ヨーロッパでは排泄物と洗いものに使った雑廃水を園芸に使うのが一般的で、ミラノ近くのシトー修道会では1150年には排泄物と廃水を農業に利用し、ドイツのフライブルクでは1220年には住民がこの方法で牧草地の潅漑を工夫していた。

 欧米が日本と異なるのは19世紀の工業社会になって、未処理の排泄下水を肥料につかうようになったことである。
 ニューヨークでも19世紀半ばの記録に、一部の市民が人糞を下肥として周辺の大型農場に販売する事業をしていたことが示されている。市民はその金で野菜などを購入した。
 20世紀になると、こうした下肥ビジネスをはじめ人糞の再利用が抑制されるようになった。ひとつには化学肥料が出回ったこと、もうひとつには公衆衛生がリサイクルより重視されたことによる。
 ちなみに下肥は英語では「ナイトソイル」と言う。人肥(じんぴ)は「ヒューマニュア」だ。なんとかかっこよく言おうとしているが、あまり定着していない。固体有機廃棄物を意味する「バイオソリッド」として十把ひとからげにされることが多い。

 グアノも利用されてきた。
 グアノというのはコウモリや鳥の糞(ふん)のことだ。鳥の糞はペレットとしてその成分がかなりはっきりわかる。そこには窒素、アンモニア、尿酸、リン酸、炭酸、シュウ酸がたっぷり含まれている。
 このため南米では土壌を肥やすためにつかわれてきたのだが、1840年代にヨーロッパ人がその戦略的価値を発見した。グアノは肥料にも火薬にもつかえる硝酸アンモニウムの原料となることがわかったのだ。とくにペルーやチリのグアノは硝酸塩が雨で溶脱することが少なく、その質がよく、大いに注目された。その鉱床をめぐって“グアノ戦争”がおこったほどだ。
 ロバート・マークスは『現代世界の起源』のなかで、18世紀から19世紀にかけて人口が爆発したのは、そして近代戦争がおこったのは、南米でグアノの大鉱床が発見されたせいだったという説を立てている。実際にも1865年にはスペインがグアノ採掘をめぐってチリとペルーと戦争をおこしている。
 アメリカはもっとちゃっかりしていて、連邦議会でグアノ島法を可決すると、どんなアメリカ人もグアノに覆われた無人島を合衆国のために領有することができるとした。ミッドウェイをはじめ、太平洋の50以上の島々がこうしてアメリカの手に落ちたのである。鳥の糞は硝酸となり火薬に変じて、世界を戦争に巻きこんだのだ。

リン酸グアノの広告
(有限会社サンジェットアイより)

 このように重要きわまりないウンコなのだが、その正体についてはまちがった知見も誤解も多い。
 最もまちがっているのは、ウンコは食べもののカスだとか、消化しきれなかったものの残りカスだと教えられてきたことだ。これはおかしい。食べものの残滓はウンコの僅か5パーセントにすぎない。
 ウンコを構成しているのは、胆汁などの分泌物、腸壁細胞の死骸、細菌類の死骸、大腸菌などの腸内細菌、未消化の植物繊維、毒物、そして60パーセントの水分なのである。
 そもそもわれわれ温血動物の大半には、口(O)からお尻(A)まで管状の消化管が貫いている。口が外に開いて、肛門がまた外に開いているのだから、これは消化管が“外界”であるということである。すでに稲垣足穂(879夜)がいみじくも「AO円筒」と名付けたように、われわれは体内に「細い管状の外部環境」をもっているというべきものたちなのだ。
 だから消化管には、外から何でも入ってくる。食べものも入ってくるし、さまざまな菌も入る。これに対して筋肉や器官は内部組織であって、これらは無菌の組織たちである。そこで、消化管は外からとりこんださまざまなものを消化しつつ、必要な養分を血液とともに組織におくりこみ、残ったものを細菌・雑菌を含めて尿、ウンコ、胆汁、汗、呼気を介しつつ外に排出するようにしたわけだ。これがAO円筒がやっていることだ。

 もう少しウンコについてのジョーシキを書いておく。シキソクゼクー、シキクソゼクー。
 われわれのウンコ、すなわち人糞が茶色や黄土色になっているのは、なぜか。残りカスのせいではない。胆汁のせいだ。胆汁の中のビリルビンが腸内細菌によって代謝されてステルコビリンになって、あの艶やかな茶色や輝かしい黄金色になる。
 むろん色調はいろいろ変わる。肉食などの動物性タンパク質を多く摂取していると褐色が強くなり、穀物・豆類・野菜が多いと黄色になってくる。
 分量や形状も千差万別だ。食物繊維や炭水化物をたくさん摂っていると、便は大きく太くなり、高カロリー高脂肪のジャンクフード系ばかりを食べていると、細くなっていく。幼少時のウンコが比較的大きいのは括約筋の調節が利かないからで、年齢を重ねるうちにウンコは細く巻かれるようになる。
 成人男子は1日平均で100~250グラムを排便する(尿は一日平均1・2リットルを出す)。これで計算すると、人生およそ80年として、われわれはたった一人で約15トンのウンコを世界にもたらしていることになる。とんでもない量である。しかもこれは人糞だけで、ここに膨大な生物たちの排出量がかぶさってくる。
 都市をつくり、下水道をつくった以上、せめて人間は人間の糞尿くらいはなんとかするべきなのだ。

 では、なぜウンコは毛嫌いされてきたのか。これまでウンコが嫌悪されたり禁忌されてきたのは、主としてあの臭いのせいである。臭いの原因はインドール、スカトール、硫化水素がまじっているからで、これでは臭い。
 しかし、われわれが少しでも草食動物に近づけば話はちがってくるし、ヒトのウンコだって陰干しのように放っておけばそのうち乾燥し、もっと放っておけばついには化石のようになっていく。鉱物学や化石学ではこれを「コプライト」と言っている。「コプロリス」というものもあって、こちらは腸内で固くなってしまったウンコ玉のことだ。いずれも堂々たる地質的産物に近いものであるが、問題はそこまで人間社会は待てなかったということなのである。
 「自分の匂いは懐かしい」とは言うものの、われわれはなかなか自分の排出物にすら愛着をもてなかったのだ。

 その点、動物たちはウンコが平気だった。かれらのウンコは「種の本質」のまま今日までまっとうしてきた代物だったからだ。鳥のペレット、ウサギの円盤状ウンコ、シカやヤギの楕円状ウンコ、いずれも一貫してきた。
 ちなみに、われわれヒト族と似たようなウンコをするのは、イヌ・ネコ・サル・ウシ・ウマである。これらが人家とともに暮らしている動物だったこと、なかでもサル以外はすべて家畜になりえてきたことを思うと、なんとも感慨深いものがある。われわれはかれら家畜とは、ウンコの状態においてごくごく近いものたちだったのだ。

動物のウンコ
(絵本『みんなうんち』より)

 ウォルトナー=テーブズは排泄物と人間社会とのあいだに、心理学的にあまりに曖昧で、どうにも歪んだ関係がディープ・インプリンティングされてきたことも、心配している。きっとフロイト(895夜)が肛門性欲や肛門禁忌を強調しすぎたことにも原因があるだろうと書いている。
 この歪んだ関係は「世界中でウンコの呼び名がなかなか決まらない」という、考えてみればそうとう異様な国際事情にもあらわれている。
 たしかに、そうだ。日本でだって決まっていない。うんこ、ウンコ、うんご、うんころ、雲古、ウンチ、うんちょ、うんにゃ、うんぴ、ふん、糞(くそ)、糞便、大便、便(べん)、糞尿、ばば(ばばさん)、ばっこ、まる、くそまる、まんぐー、ぽん‥‥云々。こんなふうに国内各地でつかわれてはいるけれど、どれも正式名称にはなっていない。
 辞書屋たちの腰も引けている。ぼくは小学校のセンセイが「ウンコさん」と言っているのを聞いて、なんだかとてもがっかりしたものだ。せいぜいウンチで通してほしかった。

絵本『うんぴ・うんにょ・うんち・うんご—うんこのえほん』
巻末に特大ポスターがついている。

 世界中がそうなのだ。英語の“SHIT”も、とても市民権を得ているとは言いがたい。あれはウンコの名称というより、吐き捨てたような「糞ったれ!」なのだ。「クラップ」(crap)も投げ捨てたようなニュアンスである。
 そのほか、マニュア、ダング、オーデュア、フラスなどがあるようだが、いずれもアヤメにもカキツバタにもなれないでいる。イスラム社会の「ナジャス」だって、不浄物として当初の当初から避(よ)けてきた用語になっている。タイ語のウンコには「不潔な妖怪」という意味すらあるらしい。
 これでは科学者も社会学者もジャーナリズムも困る。論文にも記事にもなりにくい(笑)。それなのに誰も責任ある提案をしていない。みんながみんな、ウンコの呼び名を憚ってきたのだ。ウンコは歴史を通じての「憚りもの」なのだ。
 そこで、世界トイレ機構の創設者であるジャック・シムが大決心をして「エクスクレメント」(排泄物)とするのが一番だと提案したらしいのだが、広まらなかった。そこにはウンコ臭さがなかったのだ。著者もこの件に関してはお手上げのようだ。「ブルシット」(牛の糞)がぴったりした感じがすると言うのだが、自信はないらしい。
 一方、海洋生物学者だったラルフ・ルーウィンは排泄物をめぐる語彙をすべて収集して、その集大成本に「メルド」(MERDE)というタイトルをつけた。“Merde : Excursions in Scientific, Cultural, and Socio-historical Coprology”(メルド:科学的、文化的、社会歴史学的糞便学への旅)である。英語の言い回しをたくみにフランス語ふうに避けたようだが、これもさっぱり市民権を獲得していない。

“Merde : Excursions in Scientific, Cultural, and Socio-historical Coprology”

 さて、本書は終盤にさしかかって、「いったいウンコは誰のものなのか」という問いを何度も発していく。また、ウンコは「文明のダークマターなのか」とも問う。そして、この問いを生態学や疫病学や、社会制度や政治政策だけで解釈するのも、解決するのも、限界がありすぎると述べる。
 たとえば森林生態学のボーマンやライケンズたちは「森にひそむ糞のネットワーク」を研究してはいるのだが、糞虫の実態ほどにはその他の糞ネットワークがまだまだわかっていないと言う。
 糞便がもたらす細菌やウィルスの感染経路の研究も、なかなか充実しない。鳥インフルエンザは渡り鳥の糞(ふん)と飼育ニワトリのあいだに原因があるのだろうが、それがどんな経路やどんな分量によって発症するにいたるのかは、ほとんどわかっていない。対策は家畜たちの発症を知ってから大量のニワトリを殺すだけなのである。
 この問題を解くには、ではわれわれにとって「渡り鳥」とは何なのかという茫漠たるモンダイにまで心を広げていかざるをえないのだ。

 もっとめんどうなモンダイは、家畜たちが食べている飼料に、とっくに薬剤耐性菌が含まれていて、ここには「ウンコとクスリの複雑回路」さえできあがっているということである。
 イベルメクチンという駆虫剤がある。ヒツジ・ウマ・ブタ・ウシの消化管と肺にいる銭虫・シラミ・ダニ類・ウシバエなどを駆除する能力が抜群で、農家にも獣医師にもよろこばれている。しかし、イベルメクチンは糞を化学処理してきた虫やバクテリアも殺す。ウンコはたんなるウンコではなくなっているのだ。

 そこで、新たなリサイクルこそが構想されるべきだということになってきた。そしてここに「バイオソリッド」という糞尿有用システムが登場するのだが、これがまたなかなかの難問なのである。
 バイオソリッドは都市部の糞尿と下水を再処理して窒素・リン・銅・鉄・モリブデン・亜鉛などの有用成分を適量に精製保持しつつ、有害物質と過剰な重金属を慎重に取り除いて得られるものをいう。
 いま、バイオソリッドは世界中の都市の下水処理から生成されている。そこまではいいのだが、このバイオソリッド生成のために加えられている数々の薬剤がすでに新たな生態系にくみこまれているということに、かなり複雑なモンダイが潜在する。
 かくていまやウンコを今日の文明の課題にするには、かなりの学術理論やシステム工学が総動員される必要がある。そこで、ジェイムズ・ケイは生態系と社会システムとの高度な「混合」と「編集」の可能性をさぐり、そこに生命、エネルギー、物質、情報、廃棄物、価値観などのファクターがどのように入り乱れて関与するかをあきらかにしようとした。
 とくに畜糞処理が、子供の貧困、母子保健、人口抑制、クジラの減少、農薬汚染、鳥インフルエンザ、コレラ流行、サルモネラ症、子供の肥満、交通事故などとなんらかのチャンネルとルートによって響きあっていることをあきらかにした。

 この見方には「レジリエンス」(復元力)という視点がいかされている。
 文明が基準としたい状態を想定し、その状態がどの程度の毀損や過剰や欠乏を示しているかということから、その「復元力」を計測し議論しようというものだ。まだ始まったばかりの試みだが、すでにカナダの生態学者C・S・ホリングらの研究にもとづく「ネットワーク・レジリエンス・アライアンス」(NRA)なども活動している。
 NRAのメンバーのあいだでは「パナーキー」という合言葉が人気をもっている。われわれのあいだに見られる自然や社会における複合的で多層的な発展・崩壊・変化の総体を「パナーキー」と呼ぼうというのだ。すでにパナーキー力学が提唱されているらしい。

 かつてアーサー・ケストラーは、社会やシステムを「ハイアラキー」(階層秩序)と捉えるのではなく、入れ子型の「ホラーキー」と捉えるべきだと提案した。その主著はぼくが工作舎で刊行した『ホロン革命』に詳しく述べられている。
 ケストラーは、自然や世界は二つの顔をもつヤヌスのようなもので、生物・人間・家族・社会・領域・国家・民族・言語・価値観は、それぞれ独自の内部規則をつくりながらも、その全体とのフィードバックをもつ「ホロン」(関係的全体子)によって相互作用をおこしているという考え方を示した。ホロンがつくる構造がホラーキーなのだ。
 NRAの「パナーキー」はこのホラーキーをさらに発展させたものだった。元トロント大学の環境研究所の所長をしていたヘンリー・レギアーは、さらにケストラーのホラーキーとNRAのパナーキーを合流させた「ホロノクラシー」というシステム観を提案もした。

 そもそも生態系は生産者と消費者と分解者からできている。
 自然界での生産者は太陽光と環境中の幾つもの要素をつかって、生産物、すなわち食物をつくりだしている。その生産物を利用しているのが他の生物と人間とバクテリアという消費者である。この消費者は生産物の利用・合成・転換が得意になっていく。しかしこれらはすべて死んだ生物となり、多くの廃棄物を出すことになる。そうすると、これを膨大な微生物たちが分解する。分解者がいなければ生産者も成り立たない。
 このような生産・消費・分解は、自然界だけでなく、社会のあらゆる場面でおこっている。途中に工場や市場が介在するのでわかりにくくなるだけで、全体としては社会も生産・消費・分解の多重サイクルの中にある。
 モンダイは、これらのどこに「レジリエンス」をおくかということである。そのためには通常科学の普及や知識の民主化ばかりをしていても、どうにもならないことが多い。ウォルトナー=テーブズは本気で焦っている。
 そして、静かだけれど厳然として、こう告げた。「諸君、いのちのコストとウンコのコストはとても近いのだ!」。

⊕ 排泄物と文明 ⊕

 ∃ 著者:デイビッド・ウォルトナー=テーブズ
 ∃ 訳者:片岡夏実
 ∃ 発行者:土井二郎
 ∃ 発行所:築地書館株式会社
 ∃ 装丁・装画:中西一矢(CULINAIRE)
 ∃ 印刷・製本:シナノ印刷株式会社
 ⊂ 2014年5月20日発行

⊗ 目次情報 ⊗

 ∈ 序章 フンコロガシと機上の美女
 ∈∈ 第一章 舌から落ちるもの
 ∈∈ 第二章 糞の成分表
 ∈∈ 第三章 糞の起源
 ∈∈ 第四章 動物にとって排泄物とは何か
 ∈∈ 第五章 病へ至る道-糞口経路
 ∈∈ 第六章 ヘラクレスとトイレあれこれ
 ∈∈ 第七章 もう一つの暗黒物質
 ∈∈ 第八章 排泄物のやっかいな複雑性とは何か
 ∈∈ 第九章 糞を知る-その先にあるもの

⊗ 著者略歴 ⊗

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ(David Waltner-Toews)
グエルフ大学名誉教授。獣医師、疫学者、作家、詩人と多彩な顔を持ち、「国境なき獣医師団」創設者として、動物と人間の健康、コミュニティの持続可能な開発、貧困の解消に取り組んでいる。その著書はノンフィクション、小説、詩など多岐にわたる。福島第一原子力発電所での事故直後の2011年4月には、著書 Food, Sex, and Salmonella : Why Our Food is Making Us Sickの1章「チェルノブイリ後の食物連鎖における放射性物質汚染」が、サイエンス・メディア・センターによって邦訳・公開されている(http://smc-japan.org/?p=1620&cpage=1)。