才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

棟梁

技を伝え、人を育てる

小川三夫

文藝春秋 2008・2011

装幀:大久保明子  聞き書き・編集:塩野米松

小川三夫の顔付きがいい。
不揃いの男や木を
ぐいっとまとめる力が見える。
法隆寺の宮大工。
西岡常一棟梁の一番弟子。
その仕事ぶりや言動は
テレビや雑誌でもおなじみだが、
やっぱり読み耽るのがいちばんだ。
ちょっと叱られているようで、いい。
塩野米松がみごとに活字にしてくれている。

 小川三夫(みつお)は一年のうち、家にいるのは二日くらいだ。それも正月の二日間だ。休むのが嫌いなのだ。仕事していたほうが気分がいいらしい。
 小川は言わずと知れた日本(世界)を代表する宮大工の棟梁だ。昭和44年、法隆寺歴代棟梁家の西岡常一(つねかず)に弟子入りして、その後は鵤工舎(いかるが・こうしゃ)を守りつつ、40年以上をへた。還暦になったとき、塩野米松に「これが最後やな」という話をした。
 ぼくより3つほど年下だが、その仕事ぶりといい、顔付きといい、無骨な男たちと不揃いの木をまとめる腕っぷしといい、棟梁というにふさわしい。眩しい男だ。

 塩野米松は聞き書きの名人で、自身も小説や童話を書いてきた。何度か芥川賞の候補になっている。角館(かくのだて)の出身で『失われた手仕事の思想』(草思社・中公文庫)や『木の教え』(草思社)などの職人伝をまとめたら、天下一品だ。
 西岡と小川とは、すでに『木のいのち 木のこころ』の天地人篇(草思社・新潮文庫)でも、『不揃いの木を組む』(文春文庫)でも、また『宮大工と歩く奈良の古寺』(文春新書)などでも、一緒に本をつくっている。いわば小川三夫の耳であり、筆なのである。
 ぼくは昔からこの手の職人談義や芸談を読むのが大好きなのだが、この本も愉んで読んだ。四分(よんぶ)叱られているようで、五分(ごぶ)教えられ、残り一、二分は溜飲が下がった。

塩野米松が伝統職人達の知恵を聞き出し編集した『手業に学べ』全2巻(小学館 1996)

 本書で小川棟梁は、技が磨かれ人が育っていくとはどういうことかという心得を話している。
 独特の喋り言葉なので、その極意を伝えるには喋りっぷりの大半をそのまま写すしかないのだが、そうもいかないから、以下に摘まむ。摘まみながら、ぼくがそこからどんなことを感じたか、合点したか、教えられたかも少しく加えようと思う。

 鵤工舎は30人ほどが仕事を一緒にしている。20~30年のあいだに100人ほどが入ってきて、これくらいがずっと残ってきたそうだ。具合がいい人数なのだろう。
 ぼくが工作舎、松岡正剛事務所、編集工学研究所、イシス編集学校をやってきて、そこで一緒に仕事をしてきたスタッフがいつも20人ほどだった。40人、50人になることもあったが、落ち着かない。大工の仕事と編集の仕事は、相手が「木」と「情報」の違いということもあってかなり異なるけれど、案外共通するところも少なくない。とくに共通するのは「人」だ。
 塩野米松によって炙り出された小川三夫の言葉を紹介しながら、ぼくが見てきた事情も挟んでみたい。

20数人の編集工学研究所スタッフと松岡(2014年1月)

 弟子入りした小川青年に西岡棟梁が最初に命じたことは、二つある。ひとつは、棟梁が削った鉋屑(かんなくず)を見せて「これと同じように削れるようにしろ」だった。向こうが透けて見えるようなみごとな鉋屑だったようだ。それを窓に貼って、毎晩刃物を研いだ。
 もうひとつは「一年間はラジオを聞くな、テレビはいらん、新聞も読まなくていい。ただひたすら刃物を研げ」。そう、言われた。18歳からの弟子入り希望だったが、この最初の教えをずっと守った。小川はあとでわかる。修業はそうやって何かに「ただ浸る」ことがいちばん大事だったのだ、と。

 ◆→同感だ。若いうちに何かに「浸る」ことを体感できていないと、アトがもたなくなる。たんに好きな趣味に浸るのではない。仕事に関係のある何かの作業に続けさまに、数年ほど浸るのだ。ぼくは20代・30代を通じてノーテーションに浸った。読書に耽ったのは、数には入らない。ラクすぎる。
 ノーテーション(ノートとり)は、そのつど工夫がいる。すらすら書くと何も把握できない。把握というのは、把ったり握ったりすることだが、情報や知識を把り方、握り方ごとノートに移すので、工夫がいるのだ。ノートとりはのろのろしていては、いけない。意味に形が出てこない。いささか鋸や鉋を研ぐのに近い。

連塾 最終講「本の自叙伝」構想メモの一部

 宮大工の弟子はすべて住み込みで修業する。寝泊まりも食事も一緒だ。これで徒弟になる。なぜ、そうするのか。カラダをつくるためであり、叱られ方を学ぶためだ。
 大工のカラダと野球やサッカーをするカラダは違う。この大工独特のカラダを最初に実感するのが重要だ。それには大工の食べ方、大工の寝方、大工の道具の持ち方、大工の風呂の入り方、みんな体感しなくちゃいけない。
 カラダができるとアタマもできる。その大工のカラダができていないうちに、焦って仕事をしようとするとアタマだけになる。これでは一人前の大工にゼッタイになれない。

 徒弟制度については、塩松が別の本で全国各地の親方と徒弟の実情を追っていて、いろいろ示唆された。徒弟だなんて高度資本主義からすればよほどの非合理だが、“日本の大工”のカラダをつくるには、やはり絶必なのである。

鵤工舎の若手大工と50代の小川三夫

 ◆→編集の仕事でどんなカラダになるといいのかは詰めてないが、ぼくは工作舎時代には「カラダの90パーセントは精神だと思え、魂理(こんり)だとみなせ」と言っていた。あまりの暴論だったろうが、ぼくはそうしてきた。
 編集は思考と取材と表現のプロセスを同時に進行させる仕事なので、それくらい心と頭の負担を過剰にしていないと、もたないのだ。もっともおかげでぼくのカラダはいまやめちゃくちゃだ。そのかわりアタマをカラダにしてきたような気がする。

 叱られ方を最初におぼえることも徒弟制のいいところだ。
 怒鳴られるとき、拳骨をもらうとき、グチを言われるとき、ケチをつけられるとき、みんな受け入れられるようにならなくてはいけない。 これで「ひがみ根性」が叩き治せる。
 それだけではない。小川から見ると、叱ってみれば「逃げ出すだろう奴」の見分けがすぐつくらしい。大工は嫌々するものじゃない。嫌なら辞めればいい。好きならどんなにガマンしてもやれるようにならなくてはいけない。ところが、若いときはみんなここをごまかしたがる。それをわからせるために叱るのだ。

 ◆→弟子やスタッフにどう叱るか、これは最近の学校や会社や役所などの組織で、最も悩ましいところだろう。パワハラ規制などというものがあって、誰も自由な叱り方ができなくなってしまったのだ。
 30代のころのぼくはほぼ同世代か10歳程度の年齢差のなかで仕事をしていたので、毎日が言い合うほどの編集現場だった。とくに高橋秀元とはやりあった。遠慮しなかった。40代の厄年をこえて、松岡正剛事務所という数人の仕事場になり、一緒に暮らすようになって、叱るのではなくて注文をつけるようにした。50代、編集工学研究所ができてからは見込みのある者に叱るようにしてきた。ところが本人はその意図がわからないらしい。そうなると、ついついめんどうくさくなって叱らなくなった。
 ほんとうは棟梁や親方やボスが、何を叱るのかを聞き出すのがすぐれた才能なのだが、なかなかそういう逸材にめぐりあえない。困ったことだ。丁寧に食らいついてくる者が少ないのだ。

工作舎(1980年代)の書斎で執筆をする松岡

『ハレとケの超民俗学』(工作舎)
30代前半の頃に高橋秀元と幾度も語り合い、神話と民族の謎を巡った対談本

 小川三夫は栃木の矢板の銀行員の家に生まれた。母君は裁縫の仕事をしていたようだ。高校の成績は55番中の54番だったが、ちっとも苦にしていなかったらしい。
 高校2年のときの修学旅行で奈良に行き、法隆寺を見てこれが1300年前の建物だと聞いたとき、なんだか胸の奥から感動した。自分はいつかこういうことに従事してみたいと思った。
 高校を出て奈良に赴き、法隆寺にかかわっている人に会いたいと言った。西岡棟梁を紹介されたので弟子入りをせがんだら、「道具を使えるようにしてから来い」と言われた。東京の家具屋に住み込んだが、道具のことは教えない。長野県の飯山の仏壇屋に入った。仏壇や神棚なら法隆寺に似ていると思ったのだ。
 やっと21歳で西岡棟梁の家に住み込めるようになった。仕事はない。昼は法輪寺に行って木拵え(きごしらえ)をし、夜は刃物を研ぎつづけた。あとは島根県の日御碕(ひのみさき)神社の社殿修復の仕事がきていたので、それを図面にする仕事をした。見よう見まねだったが、全身で浸るようにした。
 こうして弟子入りして5年目に法輪寺の仕事の一部を任せられた。26才だった。棟梁は「これは4500人をまとめる仕事だ」と言った。びっくりした。法輪寺の仕事は人工(にんく)が延べ4500人も従事するのだ。棟梁って、ヤバイと思った。

 ◆→ どんな仕事にも多くの仕事人がかかわっている。
 ぼくが最初に担当した「外の仕事」は小澤衣裳店という貸衣装屋のパンフレットづくりだったが、このときは6人の同意と納得が必要だった。仕事の相手先の担当は一人じゃないんだということを初めて知った。
 次に4人で「遊」づくりを始めてみると、執筆者、テープおこし、手伝いのスタッフ、写植屋、写真家、デザイナー、版下づくり、印刷所、取次担当者、書店担当者など、仕事の流れに入ってくる相手が一挙に数十人単位でふくらんでいくのがわかった。仕事というもの、どれだけの軍勢を相手にしているかを知ることから始まるのである。

『遊』(1980年11月号)の「遊人紹介」
プロもアマも、作家も校正者も、本書に関わった人々を同一のページで紹介した

 大工の仕事は腕のいい職人を集めればうまくいくとはかぎらない。そういうことは素人のプロデューサーが考えることだ。
 建物づくりには、いろいろな作業がある。掃除、材運び、片付け、素屋根造り、飯の支度、図面読み、墨付け、木拵え、組み上げ‥‥等々。これらを飯場(はんば)を通してみんなでやらなければならない。そのメンバーに凹凸があって当然なのだ。
 そもそも大工の仕事は一人でできない。なぜなら大工仕事では、1人では柱一本、梁(はり)一本すら動かせない。最低2人がいる。持ち上げたら持ち上げたで、それを置く「馬」(支え)を用意する奴もいる。だから自分以外にいつも“3人”を感じている必要がある。ここが肝心だ。ここにはまた安全というものも見張られる。
 一方、親方や棟梁は、そこに男棟梁一匹がいるだけで建物がうまく建てられるというような、そういう気概をもった存在でなければならない。西岡棟梁はそういう人だった。しかしそうなるには、やはり3人ずつの気が合うことが、ゼッタイ条件なのだ。
 小川三夫も自分が棟梁への道を歩むにあたっては、いまのうちに自分で弟子をとらなければならないと思い、最初の2人を重視したようだ。本書によると、静かでひたむきな青年を選んだようだ。

 ◆→ぼくは弟子をとるというふうにはしてこなかった。工作舎時代にブロックハウスで7~8人で同居したときは、共同性のほうを重視したし、そこで何かを教えこむつもりはなかった。それでも、松岡事務所をつくるときに吉川正之君に住み込んでもらい、料理と経理という“台所”を任せたときと、引っ越し後に太田香保に住み込んでもらってやはり経理とマネージを預けたときは、ぼくの「方法」を仕込まなければならないと思っていた。

40代の松岡と、サポートをする松岡事務所のスタッフ

 ◆→3人ずつで仕事が進んでいくというのは、大工でなくともよくわかる。ただし、ソフトな仕事ではこの3人単位を適確に実感して仕事をしている連中には、なかなかお目にかかれない。とくにパソコン時代以降の若い世代はこれがヘタクソで、ついつい横並びを意識しすぎて仕事の立体感を失っている。

 大工の組織は、棟梁→大工頭(だいくがしら)→大工→引頭(いんとう)→長(ちょう)→連(れん)、というふうな序列になっている。
 棟梁が西岡常一だとすると、大工頭が小川三夫である(副棟梁という呼び名もあった)。大工はまさに「大きな工(たくみ)」という意味で、人の上に立って段取り指揮もできなくてはいけないし、辛抱がなければならない。その大工を現場で支えるのが引頭で、ここが一人前になっていないと仕事はうまくいかない。
 次の長は3、4年修業を積んで技もだいぶん身についているという連中のことだ。長というだけに、道具使いに長じている必要がある。連は新米から2~3年あたりの道具が研げる職人たちををいう。
 このなかでメインとなるのはやはり大工たちだ。鵤工舎では大工になると二宮金次郎の像を与えるらしい。
 小川はこのほか、10年以上の修業を積んでそこそこの腕を見せるようになった者たちに「匠」という称号を与えるようにしたようだ。この人、いつも何かを見直している。

 ◆→組織のしくみは、職能や業種によって異なっていたほうがいい。ぼくは部長・課長という言い方は好まない。ましてチープな経営学の本などで会社組織をつくるのはもってのほかだと思ってきた。
 そんなふうに経営音痴であることもあって、ずいぶん勝手なことをしてきたとも思う。工作舎ではF・R・Gの3グループにした。Fはフロント(前衛)、Rはリア(後衛)、Gはゲリラ(遊撃隊)の略だ。これでマネジメントがうまくいくはずなかったが、大いに痛快な日々をおくれたはずだ。

 ◆→イシス編集学校では「守・破・離」で役割を変えた。「守・破」には変わらぬ学匠がいて、そこにその期ごとの師範と師範代と番匠が選ばれる。「離」は二人の別当のもとにまったくべつのチーム「火元組」(ひもとぐみ)が編成されて、これを総匠が統括するようにした。
 しかし、これらは学衆(生徒)を相手に編集術を指南する陣容なので、これらをふわりとまとめていく事務局や教務局が必要だった。そこでこれを「学林」と名付けて、佐々木千佳に局長を任せた。

「離」の火元組が集う別当会議(赤坂時代)

 小川三夫は、職人組織においては「育つ」と「育てる」とではまったく違うんだと言う。職人は育てようとしても、本気の職人は育たない。かれらが育つのは当人に「執念」がなければムリなのだと言う。
 また、職人たちが一緒に仕事ができるようになるには、いくら頑固でもいくら大胆でもかまわないが、その根本に「やさしさ」と「思いやり」が身につかないと一人前にはなれないとも断言する。一緒に飯を食い、一緒の現場にいて思いやりがないようでは、仕事が荒れてくるのだ。
 とくに自慢したり、見た目の素振りを見せようとする連中は、必ず現場の空気を壊す。汚してしまう。そういう奴はどんな活動をしても、一貫していない。そこで小川はそういう連中をうまく辞めさせるのも、棟梁や大工頭の仕事なのだと言う。小川は部下を辞めさせるのも名人だったらしい。

 ◆→なるほど、「育つ」と「育てる」はかなり異なることだろう。ぼくも、自分に子供がいないこともあり、「育てる」ほうについてはとんと自信がない。けれども次々に才能が開く「場」はかなり用意してきたように思う。ただし、ぼくもかなり「人」本位なので、そのような「場」が経済力を発揮できたかというと、はなはだ心もとない。

 ◆→「場」については、ぼくの場合は組織の内部だけが重要だとは思ってこなかった。内外の場というか、縁側というか、その気があれば参画できる私塾のような場というか、30代のころからそういう場をつねに用意するように心掛けてきた。こうして、遊塾、時塾、半塾、幹塾、連塾などをつくってきた。

1979年11月工作舎で開かれていた「遊塾」最終回の様子

 本書のなかであらためて感心したことはいろいろあったが、とくに「現場ではムダ口がない、ラジオも鳴っていない、鼻歌をうたう奴もいない」ということにはハッとさせられた。「人の動きや道具使いの音に独特のリズム感があって、それだけで心地いいもんや」というのだ。
 たしかに、現場にそれなりの活動音があれば、それ以外の装飾音などいらないだろう。ないほうが活動の本来が響く。まさに「鍛冶屋の槌音」こそが現場の音なのだ。
 西岡・小川の鵤工舎にはこれまで100人以上が入ってきた。そして20人~30人くらいが継続して残ってきた。やめていった連中には、学生時代の饒舌や騒音や友達関係を引きずっている男性が多かったようだ。道具の音だけがしている現場に浸れなかったのである。
 継続できない連中には、或る特徴があった。休みの日に仕事のことをすっかりオフってしまうのだ。「休みに仕事から心が離れてしまう奴もいるが、それではなかなか仕事は勤まらないんだねえ。それに今は時間が速すぎるよ」。

 ◆→仕事には仕事がたてる音とリズムがあるというのはたしかに理想だが、ソフトウェア系の仕事ではなかなかそうはいかない。せいぜいキーボードの音であるが、最近はそれらもノートパソコンからスマホにまでダウンサイズされて、心地よい音もしないようになってしまった。
 そこで大事になるのは「声」なのである。どういう声がいいかというのではない。どういう「言葉づかいで語るのか」ということが大事だ。ミーティングがいい例だろう。ただし、仕事場の「声」はミーティング以外でも独特でありたい。青物業界には青物業界の、ファッション業界にはファッションの、スタジオ音楽業界にはスタジオミュージシャンたちの、ソフトウェア業界にはソフトウェアの声が生まれる必要があるのだ。
 われわれの仕事にとっては、まさに言葉づかいが道具使いなのである。

鵤工舎の作業現場

 小川三夫は、こんな叱責3ケ条ともいうべきをあげている。「失敗するから叱られる」「決心できないから叱られる」「遅いから叱られる」。
 おそらく現場では、このどれでも職人は叱られたり、注意されるのだろう。小川は「叱られるのが修業なんや」というモットーの持ち主なのでこれでいいのだろうが、「失敗するから叱られる」や「遅いから叱られる」は何度も刷りこまれないと効果を発揮しないかもしれない。職人たちも苦い経験がなかなかいかせないこともあるだろう。
 しかし「決心できないから叱られる」のほうは、これはなかなかの本質を衝いている。 感心した。そうなのだ、「決心」こそはどんな仕事であれ、仕事人の根本スキルなのである。

鵤工舎の食卓の様子

 ◆→なかなか決心がつかないというのは、仕事をしている者ならよく感じていることだろう。しょっちゅうおこることだ。けれどもよくよく見てみると、そういうときには「決心がつかない」と自分で勝手に感じているだけで、たいていは選択肢が足りなかったり、タイミングをはかりかねてぐずぐずしていることのほうが多い。
 ほんとうに「決心がつかない時」に気がつくなら、それは仕事やプロジェクトの核心に近づいたということで、そのことに気がつくだけで実はそうとうな成長をもたらすものになるはずだ。

 ◆→「遅いから叱られる」にも、いろいろのパターンがある。手が遅いというのがごくごく一般的ではあるけれど、むしろ自己愛もしくは自己憎悪から脱しないまま、キャリブレーション(習熟)を試みようとしていない例が多い。
 相手が何を待っているかがわからずに、仕事が遅くなっていることも少なくない。この場合は手が遅いのではなく、「関係の読み取り」がとろいのだ。気になるのは、理解が遅いということだろうが、しかし、この克服はそれほど難しくはない。仕事の一部始終をできるだけアタマに入れたり、身にまとわりつかせればいい。ぼくは必ずしも手が速いわけではないが、自分がその仕事に着手するときの段取りとスキルの想定と道具の準備とチームづくりを、ほぼ同時に進行させてこの難儀をクリアしてきた。

 小川には「手考足思」(しゅこうそくし)というすばらしいモットーがある。文字通り「手で考えて足で思う」ということだが、もう少し詳しくいうと、「ここらでいいか」とか「ここから先をどうしようか」と迷うようなときは、ともかく手を動かしなさい、足で動きなさいということなのだ。
 こうも言っている。「考えさせるためには、最初に教えちゃだめだ。考える癖を付けなくちゃいけない。ということは、いつどんなときでも試練じゃなければいけないわけだ。それには甘やかしちゃいけねえ。仕事が辛ければ辛いほど、気が付くものなんだ。この執念のものづくりが手考足思でひらくんだ」と。

鵤工舎の新入りは、入社したその日から自分の道具をもつ

 ◆→仕事をしていると、のべつ「ここらでいいか」に出会う。そう思ったときは、「ここら」でいいはずはない。すぐさま先に進むべきだ。だいたい仕事をしていて「ここら」と立ち止まるのは、その仕事の佳境がちっとも出現していないときだ。
 ちょっと難しいのは「ここから先をどうしよう」のほうだが、この場合も「先」がわからないだけであって、おそらくはふだんのヨミがあまりに足りないだけなのである。
 こう、思っていたほうがいいだろう、「ここから先」が自分にとっての未知の領域で、かつそのためにフル動員できるスキルと仲間がいるかぎりは、必ずや「突入!」に向かうべきである、と。

 西岡常一や小川三夫は、ヒノキ(檜)は鉄やコンクリートよりも強いと確信している。小川が法輪寺を仕上げたとき、西岡棟梁は「鉄を使ったか」と一言訊いたらしい。どうしても使わなければならないところに使いましたと言ったら、棟梁はポツリと「そこから腐るな」と言った。
 鉄は錆びて木を腐らせるし、鉄を入れるために開けた穴が強度を鈍らせるのである。「もっとひどいのはコンクリートだろう」と小川は確信している。コンクリートの土台はいずれ砂と水に戻るのではないか。小川棟梁はそう思っているのだ。これは暴論だろうか。そうではない。

法輪寺三重塔再建のために用意された丸柱

 ◆→こういう「確信」は、科学的にどうだとか技術的にどうだとかという議論からは生まれない。まず「確信してしまうかどうか」なのだ。こういう「確信」こそはいわば仕事人にとっての先手必勝である。ぼくがスタッフたちを見ていると、この先手必勝力があまりに足りないように思う。

 大工の仕事は「規模の把握」から始まる。建物の規模が決まれば柱の太さや材料はだいたいアタマに浮かぶ。たとえば、平面を描いて柱間(はしらま)が決まると、ここはこのぐらいの木柄(きがら)でいいだろうというふうに決める。ここには、重さを受けるのに必要な太さと、見た目でこのくいがいいだろうという、その両方がある。
 計量と分量は違うものなのだ。計量というものはきちんと測っていくのが常道だが、分量というのは目で決まる。カラダで決まる。いまの建築事務所の連中はそれを計算だけでやる。そんな計量だけのものは仮りの建造物にすぎない。そこには人が住んだり、神さまや仏さんが住むのだから、感覚や感性で決めてあげるものが入らなきゃいけない。
 鵤工舎にかぎらず、大きな建物を造るところは、原寸図を引く。コンピュータの中の設計図ではない。形板(かたいた)を使う。それが原寸型になる。だから、必ず現場で修正がある。小川は言う、「その乱れをなおすのが刃物なんだ。そこですべてがきれいになる。そこに安心と余裕と美しさが出る。それは手やコンピュータで引いた線とは違うんだ」。

松岡が監修した奈良県発行の情報誌『NARASIAQ』2号での小川三夫氏のインタビュー。鵤工舎で女性や外国人を含め130人以上を迎え入れた話や、長年使用している台鉋などを掲載した

 ◆→現場での「修正」はたいへん重要だ。あとからの修正は修繕ともいうが、やっぱり重要だ。レヴィ=ストロースはそれを「ブリコラージュ」と言った。ぼくはそれらをまとめて「編集工事」と言う。
 それにしても三木棟梁が、「乱れを修正するときに刃物がモノを言う」と断じているところが、なんともすばらしい。PCもよほどカスタマイズしておくべきなのである。

 棟梁の言いっぷりには、思いがけない説得力がある。以下のような文言には「脈動」がある。
 責任というのは失敗をしたときに始めてわかるんだな。ああ、自分は責任をとらなかったんだと、失敗をしたときに初めてわかる。これを逃げたら、そいつは一生ダメになるんだよ。
 失敗を他人のせいにするのは、最低だ。もってのほかだねえ。けれども、他人の失敗を自分のせいにするのも、やはりダメなんだ。そんな気持ちをもっていては、だらだらした仕事ぶりが治らない。これではいつまでも「覚悟」ができっこない。覚悟があれば、仕事をしながら修正できるはずなのにねえ。

西岡常一の副棟梁としてチームを率いた小川三夫

 ◆→だらだらした仕事ぶりというのは、似たようなことばかりをぐるぐる回している仕事ぶりをいう。こういう連中は、一日の達成感、一週間の計画力、一カ月の実行力がまことに乏しい。いったん、多くの仲間や客を相手にした料理をつくるとか、見知らぬ者たちの集合体をツアーコンダクトしてみるといいだろう。自分がいかに同じことを繰り返して一日を過ごしているか、気がつくだろう。

 いまは、昔のように曲がった木を使わない。使いづらいからだろう。しかし、曲がっていたってかまわない。芯を決めてしまえばいいのだ。
 最近はすぐれた木工機械がいくらでもあるから、機械を使えば寸法通りの面が真っ平らな材が手に入る。そうなると、設計屋も大工も「面」で計算するようになる。そして面が通らない材は使えなくなる。
 建具屋の仕事なら、部材が小さいから芯まで見る必要がなくてもいいことが少なくない。それでついつい「面」からの仕事になる。これは面仕事だ。
 小さいものなら面仕事でいい。けれども最近は大工まで面仕事になってきた。こんなことをしていると文化が痩せていくばかりじゃないか。その結果、独創力がなくなって、大企業や欧米の競争に負けることになる。
 もっと芯仕事をしたほうがいい。芯仕事ができないと不揃いの木で建物が造れないんだよ。

 ◆→実は編集の仕事もまた「不揃いの木」を使いこなすことなのである。それは「不揃いの情報」とか「不揃いの知識」というものなのだが、それだけに編集にとりかかるということには、面仕事と芯仕事の違いを見抜く力が要請される。
 この場合、学問や学術の力を借りすぎると面仕事が多くなる。そこで、そこからはしょっちゅう芯を見いだしていなければならない。マスメディアを見てばかりいても面仕事に堕する。珍しいことを通りいっぺんに面を連ねて並べるのがメディアの常套手段であるからだ。
 できれば、独自に芯の歴史や芯の文化をあらかじめ学習しておくといい。面から芯へではなく、芯から面に向かうのだ。

鵤工舎の集合写真

 本書は小川三夫が西岡棟梁から教わった「斑鳩大工の口伝」の紹介でおわっている。建物や大工仕事がわからないと理解できないものもあるだろうが、さすがに含蓄がある。

 ・神仏を崇(あが)めずして伽藍社頭を口にすべからず。
 ・伽藍造営には四神相応の地を選ぶべし。
 ・堂塔建立の用材には木を買わずに山を買うべし。
 ・木は方位のまま使うべし。
 ・堂塔の木組は寸法で組むべからず。木の癖で組むべし。
 ・木の癖組みは工人の心組みなり。
 ・百工あれば百念あり。
 ・百論を一つに統(す)ぶる者こそ匠長の器量なり。

 この最後の二つが、まさに棟梁の心得なのである。匠長とは棟梁のことをいう。百人百様(百人百用)の考え方や腕を一つにまとめきること、それが棟梁の器量というものだというのだ。
 小川三夫はそれができなくなったときは、すみやかに棟梁から降りるべきだと戒めてきたそうだ。
 ぼくは棟梁になれたことがない。そろそろ編集棟梁をめざすべきなのだろう。

⊕ 棟梁 ⊕

 ∃ 著者:小川三夫
 ∃ 聞き書き:塩野米松
 ∃ 発行者:村上和宏
 ∃ デザイン:大久保明子
 ∃ 発行所:株式会社 文藝春秋
 ∃ 印刷:図書印刷
 ∃ 製本:加藤製本
 ⊂ 2011年1月10日発行

⊗ 目次情報 ⊗

 ∈ はじめに
 ∈ 第一章 西岡棟梁との出会い
 ∈ 第二章 修行時代
 ∈ 第三章 鵤工舎
 ∈ 第四章 「育つ」と「育てる」
 ∈ 第五章 不器用
 ∈ 第六章 執念のものづくり
 ∈ 第七章 任せる
 ∈ 第八章 口伝を渡す

⊗ 著者略歴 ⊗

小川三夫(おがわ・みつお)
1947年、栃木県生まれ。高校のとき修学旅行で法隆寺を見て感激し、宮大工を志す。21歳の時に法隆寺宮大工の西岡常一棟梁に入門。唯一の内弟子となる。
法輪寺三重塔、薬師寺西塔、金堂の再建では副棟梁を務める。
1977年、独自の徒弟制度による寺社建築会社「鵤工舎」を設立。数々の寺社建築の棟梁を務める。
2003年「現代の名工」に選出。
2007年棟梁の地位を後進に譲り引退する。著書に『宮大工と歩く奈良の古寺』(文春新書)、『不揃いの木を組む』『木のいのち木のこころ〈地〉』(草思社)等がある。