才事記

香水

パトリック・ジュースキント

文芸春秋 1988

Patrick Suskind
Das Parfum 1985
[訳]池内紀

 前代未聞の鼻の小説だ。全ページにわたって、ありとあらゆる匂いと臭いが立ちこめる。
 そこに一人の鼻男がうごめいている。なんともこれは鼻が主人公なのである。これだけ聞けば、目をそむけたくなるというか、鼻をそむけたくなるようにおもわれるだろうが、いやいや、そうとうにおもしろい。

 主人公は1738年生まれのジャン=バティスト・グルヌイエという天才肌の男で、パリが悪臭に満ちていたころの事件を扱っている。なかでも悪臭たちこめるフェール街とフェロヌリー街とのあいだの一角には数百年にわたって死体が送りこまれていた。
 グルヌイエはそこに生まれた。鼻が麻痺していてもおかしくはない舞台設定である。そのうえ、グルヌイエは生まれ落ちたときから異常だった。
 陣痛が始まったとき、25歳になったばかりの母親はフェール街の魚屋の店先で腐りかけていたタラの鱗を落としていた。赤ん坊が生まれかけても彼女は平然としている。これまでも4人の子が生まれかけたのだが、その場に産み落としては魚の臓物といっしょにセーヌ川に投げこんできた。
 ところがこのときは、自分の包丁で臍の緒を切ったまではよかったのだが、不覚にも出血がひどくてふらふらと倒れそうになってしまった。そこへ赤ん坊の泣き声が聞こえたので、人々が覗きこんで調理台の下の赤ん坊を見つけて抱きあげられてしまった。母親は嬰児殺しの疑いをもたれ、まもなく首をはねられた。

 グルヌイエはこうしてとんでもない状態でこの世に生をうけ、捨子孤児収容所に預けられ、悪臭とともに育っていく。
 まず乳母に売りとばされて、テリエ神父の手に落ちる。その理由もおかしなもので、グルヌイエのつむじのところがキャラメルのようないい匂いがしたというのだが、実際は酢漬けキャベツの臭いがするだけだった。
 こんなぐあいで、この物語には異常な街に鼻持ちならない異常な人物たちばかりが次々に登場してくるのである。テリエ神父も怪しいのだが、マダム・ガリヤールは心を失ったミイラのような女で、幼いころに父親に鼻の付け根を火掻き棒で殴られてこのかた、嗅覚がない。グルヌイエはこのマダムが育てた。当然ながら毒虫のような男になっていった。
 ただ、きわめて妙な特技があった。匂いに関する言葉を憶えるのがめっぽう得意で、それが既存の言葉でまにあわなくなると、今度はしきりに木々や草花や食品をくんくん嗅いでは、言葉をつくっていったのだ。いや言葉をつくったのではなく、匂いのボキャブラリーで身体全体を埋め尽くしていった。グルヌイエにとっては芋虫もなめし皮も、なにもかもが匂いの辞書で嗅ぎわけられたのだ。
 それにしても、こんな発端でこの先の物語が無事にすすむはずはない。仮に物語がすすむとしても、こんな事態ばかりでは物語が破綻するだろう。が、逆なのだ。読者はこの異常にぐいぐいと引きつけられていく。

 1753年の9月、国王ルイ15世の即位記念日に花火が打ち上げられた。このときグルヌイエはセーヌ川から上がってくる未知の匂いを捉えた。
 言ってみればミルクと絹が交じったような匂いだが、悪臭のなかでその一筋の匂いを追っていくと、その正体がある屋敷の内庭にいる娘であることがわかった。この世のものとはつかないほどの美少女である。グルヌイエは長いあいだ娘を凝視し、溜息をつき、やがて背後に忍びよって首を締めあげた。
 死体になった娘のありとあらゆる箇所をグルヌイエは嗅ぎ分け、その香りを胸いっぱいに吸う。
 さあ、これで殺人事件がおこったのだ。で、いったいこのあと何がおこるのか。その期待をさしおいて、作者はグルヌイエを香水調合師兼手袋製造人ジュゼッペ・バルディーニに出会わせる。グルヌイエは香水屋に勤めることになってしまうのだ。当時、パリにあった13軒の香水屋のひとつである。
 グルヌイエは第1日目にして、とんでもない香水をつくった。親方はそれに「ナポリの夜」という名前をつけた。バルディーニ香水店はたちまちパリの話題をひっさらい、その香りはヨーロッパのセンセーションになっていく。
 かくて物語は一転、なんとも馥郁たる香りに満ち満ちた場面の連続になっていく。このあたり、香水好きが読んだら涎が垂れるにちがいない。

 しかし読者は香りに酔ってはいられない。
 グルヌイエが悪性の病気に罹り、梅毒やら天然痘やら化膿症やらの膿にまみれてしまう。この転換には、お手挙げである。作者の才能はよほどのものなのだ。
 こうしてグルヌイエは南方に送られていく。オルレアンをへて、1756年には2000メートルの火山プロン・ド・カンタルの頂上にまで行った。人間の匂いから遠去かろうとして、主人公は俗界を捨てここまで来たのだった。グルヌイエはそこでたった一人になって、住処をつくりはじめ、7年を費やして「匂いの楽園」にしていった。ここではグルヌイエは"香りのツァラトゥストラ"そのものになっている。
 さて、いったいこんなふうに主人公を至福に包んでおいてどうするのかと見えたとき、ここで作者は文学史上最も奇怪な自己撞着をグルヌイエに与える。それは、グルヌイエが自分の体から何も嗅げなくなっていたという自己撞着だ。グルヌイエは悩み、迷い、模索する。かくしてグルヌイエがついに楽園から出てきたときは、出山釈迦のごとくに髪と髭が伸びほうだい、襤褸にまみれた聖人まがいなのである。

 この先、話はどうなったかって? とても説明がつくものじゃない。あいかわらず前代未聞がつづく。
 もう筋書をあかすことはしないでおくが、次々に殺人事件がおこるのである。殺された娘は24人にのぼる。一人の美しい娘とその父親が登場し、グルヌイエとのあいだで世にも珍しい形而上学的な姦淫がおこっていく。

 まったくなんという文学なのだろうか。
 サドなのではない。ユイスマンスでもない。香りのセリーヌとか、匂いのグリーナウェイといったほうがいい。
 これは誰もが指摘していることだし、ぼくもそう確信するが、作者がアラン・コルバンの『においの歴史』(藤原書店)を読んだことはまちがいがない。コルバンはまさにグルヌイエの時代前後の悪臭都市パリを扱った。それはそれでおもしろかったのだが、ぼくはジュースキントのこの作品を読んで、コルバンを忘れてしまうほどだった。コルバンよりジュースキントのほうが数段に魂胆が深いのだ。
 聞くところによれば、ジュースキントは本書が評判になったのちは姿をくらまして、どこかの別荘にいるらしい。いったい何を考えているのだろう!