才事記

アマール・アブダルハミード

アーティストハウス 2002

Ammar Abdulhamid
Menstruation 2001
[訳]日向るみ子

 4人の男女が登場する。それ以外は性交ないしはレズビアンを含む同性愛に耽る男女をのぞいて、登場しない。でも、それらの男女はある手法によって語られる。舞台はシリアのダマスカス。時はまさに現代である。
 キンダ・カヤーリは1990年にアメリカのウィスコンシン大学で女性研究の博士号をとったのち祖国のシリアに帰った30歳半ばの女性で、すでにアラブ・イスラム社会の女の生き方をテーマにした小説や随筆で名を馳せはじめている。
 ナディーム・カナワーティはキンダの夫で、ウィスコンシン大学で歴史学教授をしているとき、まだ学生だったキンダを知って1年後に結婚した。イスラム史学の第一人者だが、『我、異端者』などという風変わりな自伝も書いている。
 ウィサーム・ヌーラディーンは、このナディームとキンダ夫婦の隣に住む隣人で、結婚してまだ日が浅い。ハッサン・アジルクリーがこの物語の主人公にあたるはずだが、異常に嗅覚が鋭いという体質をもっている以外はとくに特徴もない青年である。ただし、この異常な嗅覚は女性たちのメンスの匂いに特別に過敏になっているため、ハッサンはつねにその嗅覚から逃れたいと願っている。

 作者のアマール・アブダルハミードは1966年にシリアのダマスカスに生まれた。父親が映画監督、母親が女優。3歳でカトリックの全寮制の学校に預けられ、長じてダマスカスの私立学校に入った。1983年に卒業すると宇宙飛行士になりたくてモスクワに行くが、ソ連の空気になじめず、8カ月で挫折した。
 帰ってきたアブダルハミードは、やがてイスラム原理主義に惹かれるようになり、その信念を抱いたままアメリカに渡ってウィスコンシン大学に入った。アメリカに行ってみて、あまりにアラブ・イスラム社会に対する偏見が強いことにショックをうけ、イスラム共同体にとけこみながらも、イスラム思想やイスラム文化を欧米に叩きつけることを好むようになる。
 ところが、1988年に発表されたサルマン・ラシュディの『悪魔の詩』に対してホメイニ師が“死刑”を宣告したことをきっかけに、イスラム原理主義にも疑問をもつようになった。その後はアメリカからダマスカスに戻り、小さな出版社をおこしているうちに、小説を書くようになった。この作品が処女作である。
 カトリック、イスラム原理主義、シリア、ソ連、アメリカという現代を象徴する文化を跨ぎながら、しかもセックスというテーマに挑んだこの若い作家は、いまやたらに注目されている。それにしてもぼくは、『月』というタイトルに騙されてこれを買ったのだが、それが月経のことであるとは、書店の近くの喫茶店で紅茶を頼んで読み始めるまで、まったく想像もしていなかった。

 ともかく普通の小説ではない。登場人物の名前が冠された小見出しが最初から最後まで入れ替わり立ち代わり続いていて、そのつど「抜粋」「心情」「出来事」「ささやき」「想念」「独白」「記憶」「予見」「注釈」といった別々のコラムが、まるでウェブマガジンのサイトに切り貼りされているかのように構成されている。
 これはどうみても安直な手法だし、英語から翻訳されたかぎりの文章を読むかぎりは、お世辞にもうまいとはいえないのだが、それなのに、この小説にはこれまでわれわれがまったく知らなかった魅力が詰まっている。
 むろんイスラム社会において「性」がどのようになっているかという“内部告発”が、これだけ手にとるようにわかるという小説がほかにないという事情が一番大きい。ヴェールを被った女性たちは大半が欲求不満で、おそらくはその多くがレズビアンをこっそり楽しんでいるらしいということも暗示されている。
 ラマダーンに入ったときの男たちの性欲もたいへんなもので、そのためたいていの妻たちが暴力的ともいえる夫の性欲に喘いでいるか、うんざりしているらしいことも伝わってくる。ともかくもイスラム社会では異常性欲こそが“陰の常識”なのである
 しかし、こんなことが“告発”されているだけでは文学にはならない。このことが文学の中で何に吸収され、何に飛び散り、何に暗示されるかということが表現される必要がある。どうも作者はそのように“文学する”ことにまだ慣れていないだろうに、ところが読者は作者が用意した“文学の装置”にまんまとひっかかる。とくにハッサンの嗅覚が読者を幻惑する。
 では、それなら、この小説は第453夜に紹介したパトリック・ジェースキントの『香水』のような嗅覚記号に満ちた小説なのかというと、そうではない。ひたすらダマスカスの半径1キロ以内の人物たちの性愛の葛藤が描かれるだけなのだ。

 正直いえばぼくとしては読みはじめてすぐに、第161夜のウラジミール・ナボコフ『ロリータ』か、第395夜のピエール・クロソウスキー『ロベルトは今夜』ほどのキリキリと絞りあげられた作品の質感を予想したのだが、そういうものではなかった。
 むしろこの小説では、官能、良心、背徳、惧れ、性愛、期待、哀感、思索、反省、喜悦というものが、ごくごく平凡に、できるだけ淡々と語られていくのである。どこにも加速装置はなく、どこにも過剰な表現は用意されていないのだ。そして、そうであるがゆえにかえって、イスラム社会にひそむ闇のように深い「性」と「人間」と「社会」の関係がイスラミック・カリグラフィーか、シリア絨毯か、アラビアンタイルのモザイクのように浮かび上がってくるのだった。
 きっと、これは『存在の耐えられない軽さ』のような映画になるといいのではあるまいか。そこで初めて、この作品のもつ意味が多くの社会に普遍的に共通するテーマを扱っていながらも、しかしイスラム社会が長期にわたってひたむきに醸造してしまった密造酒のような味と香りを発揮するのではないか。
 さいわい作者の両親は映画関係者である。『月』というタイトルも悪くないし、作者がこの作品のなかで使った「毒と蜜」もいい。それにぼくはハッサンの演技が見たいし、『コーラン』の流れるなかのレズビアンの場面も見てみたい。できればナディーム・カナワーティとキンダ・カヤーリは夫婦がもうちょっと暗殺の標的になっていて、これをたとえばシリア政府が苦々しく保護せざるをえないという矛盾した緊迫が“その映画”に付け加わっていれば、申し分がないだろう。