大槻ケンヂ
ボクはこんなことを考えている
メディアファクトリー 1993 角川書店 1996
ISBN:4889912991

 いつしか麻布の松岡正剛事務所で筋肉少女帯を聴く者がふえていた。そのころ事務所には、木村久美子、澁谷恭子、吉川正之、まりの・るうにい、ぼく、そして犬が二匹と猫が七匹住んでいた。通いは高橋秀元ただ一人。
 誰かが筋肉少女帯を聴くから、ぼくも聴くようになった。そこはどこかでいつも音楽が鳴っているスペースだったのである。そのころは仕事が終わると全員でメシをつくって、それを食べながらテレビを見て、そのあともビデオを借りて映画を見るか、ミュージックビデオを見るというような、そんな気分の弛緩と世事の情報をたのしむ日々が多かったのだが、それでもそれがすむと、それぞれの仕事を再開していた。
 バイトで野田努や山田智行が通うようになると、ハウスやヒップホップやロックやポップスがかかる。ごく短いあいだだったが、筋肉少女帯はわが事務所の人気バンドのひとつだった。そのうち誰かが大槻ケンヂの本を買ってきた。小説らしい『新興宗教オモイデ教』と『グミ・チョコレート・パイン』(ともに角川文庫)は放っておいたのだが、あるとき『ボクはこんなことを考えている』をパラパラ読みはじめて、感心してしまった。これはミュージシャンにしておくのはもったいない。みごとな分類魔なのである。
 
 書いてあることがほんとうにおこったことかどうか、見当はつかない。話題は彼の周辺におこった世事の情報だが、ほとんどが痛烈に思い当たる感情に訴えてくる。そのため、気分の弛緩がおこる。しかも、そのハコビとカマエは現代の諧謔に徹していて、読んでいるあいだずうっと(といっても一時間もかからないが)、ニヤニヤさせてくれる。
 たとえば「文学な人」が出てくる。文学をヘタに論ずる人のことではなく、その存在が文学な人である。著者のファンである一人の妙な娘とその母親は大槻の家にまで押しかけて、「お家を探すのに三日かかりました」「電車を乗りついで来たんですよ。目黒で荷物を盗まれましてねぇ」。なんだメンドーくさいと思っていると、「ホラ、目黒っていえば権力の手先がいますからね」と言って、大槻をドキッとさせる。
 この母娘は、いま静かな暴動が各地で始まっているのだが、それを知っていてこれを守れるのは大槻ケンヂだというのだ。そして、このことを知っている人がもう一人いるという。もう諦めた口調で大槻が聞く。「それは誰ですか」「それはねえ……」「それは?」「天地茂です」。これが大槻のいう「文学な人」の正体である。
 レコード会社のディレクターも出てくる。だいたい筋肉少女帯は売れない。いまどきハードロックを聴く数なんて知れていて、そのころの大人たちでこのバンドを応援しているのは松岡正剛事務所くらいのものなのだ。しかし、バンドが生きていくにはそこそこのヒットが必要だ。ヒットするにはコマーシャルと提携する必要がある。
 そこでディレクターは大槻に「明るくキャッチーでポップな歌詞」を書くように頼みこむ。トレンディドラマ風でさわやかなやつである。これでタイアップのスポンサーをとろうというのだ。大槻は呻吟して歌をつくった。タイトルは「ゴーゴー蟲娘」。翌日、大槻は「すまん、こんなもんしかできなかった」とディレクターに詫びを入れる。ディレクターも淋しそうに「残念だよ」とポツリと言った。全員に気まずい空気が流れ、大槻もいっそ首をくくって詫びようかとおもう。
 そのとき苦渋に満ちた顔でディレクターが声を振り絞って言った。「大槻、これ、殺虫剤のタイアップとれんかな」。
 
 大槻ケンヂにかぎらないが、この手の世事感覚情報エッセイにはある種の原則のようなものがある。この原則は「世相をちぎる分類力」によって支えられている。順番に説明しよう。
 第一に、何が恐怖だったかということを大事にする。コワイことだ。その恐怖はなんでもない世事のなかに落ちているべきもので、心配していたらやっぱり出てきたライスカレーが黄色すぎたとか、そうなったら困るなとおもうようなバーに入ったら、案の定、黒いセーターのママが「なんたって音楽はブルースね」と言って、ブルース問答を仕掛けてきたとか、そういうことである。これが恐怖の原則である。
 第二に、興味をもった現象や傾向をすかさず定義づけるというふうにする。むろん造語も厭わない。どんどん分類する。本書でいえば「文学な人」をはじめ、「天動説の男」「ゴーカイさん」(これはプロレスラーの北尾光司のこと)、「ぬるりひょんの詩人」(森高千里のこと)、松田聖子や忌野清志郎に愛されるとか好かれるとおもいこんでいるのは「妄想の人」とか「私のもの病人」、なんだかお金をかけたくなる趣味に走りそうな気分は「バブルな想い」。そのほか「おマヌケ映画」「猟奇オドロバンド」「意味無し男」などなどだ。こういう定義づけをして、常識化してしまうのだ。これが勝手分類定義の原則だ。
 第三に、ここぞとおもった出来事や人物や現象については、その特徴をいろいろな分野の用語で連発する。さきほどのプロレスラー北尾光司でいえば、「天動説の男」「ゴーカイさん」、そして間髪をいれずに「困ったちゃん」というふうに分類する。そのとき強引なあてはめを恐れない。ケーシー高峰はジェームス・ブラウン、玉川カルテットはボブ・マーリィ、リゾート旅行はジャンボ鶴田というふうに。これは特徴あてはめの分類原則である。
 第四に、おもしろそうなことについては、すぐにもっとおもしろそうな方向へ引っぱっていく。たとえば本書で大槻は日光江戸村に初めて行って感動するのだが、そこでパブロフの犬のように展開する時代劇実演に驚く。そこで一息ついてはいけない。こういうときはすぐにそのおもしろさを子供のころに見た「おしどり右京捕物車」を思い出しつつ、「おしどり右京洗濯物とりこみショー」にまで高めてあげるのである。拡張おもしろ主義の原則である。
 第五に嫌いなもの、好きになれないことを、徹底しておおげさにする。このばあいは好きなことを決して高尚にしてはいけない。ちょっと恥ずかしいこと、たとえばUFOやモリナガ「小枝」やジューシー稲荷寿司が好きだということを、ちゃんとあげておかなければならない。そのうえで嫌いなものをズバリとあげる。ちなみに大槻が嫌いなものは、本書では石野真子。これはキレイダ・キライダ分類の原則だ。
 
 大槻ケンヂとは、その後、出会うことになった。夜中に突然の不思議な電話をもらったのがキッカケで(電話の中身は機密情報)、その後は中華料理を食べたり、さらにぼくや金子郁容やいとうせいこうが司会をしている舞台のゲストに招いたりもした。
 ふだん会う大槻と舞台に出たときの大槻は、たいていのゲーノージンがそうであるのだが、さすがにちがっていた。舞台ではあくまでプロなのだ。クモの巣化粧も入念になっている。観客やカメラも意識する。けれどもふだんの大槻はそれ以上におもしろい。そのおもしろさには舞台とは異なる「間」があって、その「間」こそがのちにこれらの体験をエッセイに綴るときの観察の源泉になっているのかとおもわせた。
 とはいえ、大槻ケンヂが異常すぎるほどの分類人生のクローニンであることもあきらかで、本書にも書かれていたが、ファンの少女が自殺騒ぎをおこすと若白髪がすぐ出てしまうような、そういう人知れぬ苦労もしょっちゅう体験している。あのヘアスタイルはそうした若白髪を隠すためのものだったようだ。

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