才事記

ラスト・オブ・イングランド

デレク・ジャーマン

フィルムアート社 1990

Derek Jarman
The Last of England 1987
[訳]北折智子

 日本でデレク・ジャーマンの作品を公開しつづけてきたのは浅井隆である。《ザ・ガーデン》ではプロデューサーも引き受けていた。デレクがエイズ・キャリアーであることはよく知られていたので、そのたびにわれわれはハラハラしていた。
 デレク・ジャーマンの映像は《ジュビリー》(1978)が決定的に侵食的だった。それまで《セバスチャン》(1976)や《テンペスト》(1979)などが発表されていたが、このエリザベス朝を代表する占星術師ジョン・ディーと天使アリエルが、道化たちと未来のロンドン(キングズ・ロード)を訪れると、そこはパンク・ファッション乱れ交じる暴力と略奪のデカダンの日々だったという映像は、たいていの若者の感覚を昏倒させて癒しがたい傷をのこしていった。
 ジャック・スミスをニューヨークに訪れたとき、すでにそうしたデレクの名がとどろいていた。「インタビュー・マガジン」の編集長のイングリット・シシーが「デレクに会いたい?」と聞いたから、「もちろん」と答えたが、そのときは電話してみたらロンドンに帰っていた。あとでわかったのだが、そのときデレクは《ドリーム・マシーン》を撮っていた。撮っていたといっても、デレクの映画はどれも爪の先に火をともすような低予算だったから、きっと自宅まがいのようなところで撮っていたのだろう。
 
 本書は1987年に発表された映画《ラスト・オブ・イングランド》の記録で、イメージ・シナリオで、エッセイである。それとともに1986年12月22日にデレクがHIV陽性の宣告を受けた前後の記録にもなっている。だから、「今朝、私がエイズのキャリアーだと告げたその若い医者は、沈痛な表情をしていた」といった文章が随所に挟まれている。
 その日、あなたはエイズよ、と言われたデレクは「心配しないで、これまでだってクリスマスは好きじゃなかったから」と医者に微笑んだ。デレクはそのときお気にいりの薄黒いオーバーコートを着ていて、数週間前の父の葬儀にもこれを着ていた。そして、自分が病院でエイズを宣告されることを、すでに予感し、覚悟していた。
 この話は胸をつまらせるものだが、デレクはその足で文房具屋に立ち寄り、2つのものを買っている。ひとつは1987年の日記帳、もうひとつは遺書を綴るための深紅の書式用紙だ。こういう場面が次々にあらわれる本書は、デレクの数多い記録のなかでも最も象徴的な一冊となった。

 デレク・ジャーマンは1942年1月31日に生まれた。父親はイギリス空軍の爆撃機の花形パイロットだった。戦後は工学産業協会の会長にまでなった。1946年、その父にともなってイタリアに引っ越した。門番小屋の老女にかわいがられ、その孫のデヴィッドと無邪気に親しくなった。デヴィッドがデレクの最初の“恋人”だ。
 数年たってイギリスの寄宿舎に入り、ある夜、別室の9歳の少年のベッドに上ったというだけで学校側から糾弾された。遊んだだけだったのに、デレクは全校生の前に引き出され、恥辱を受けた。孤立し、夢見がちになり、絵や草花を相手に遊ぶ少年となり、ほかの生徒とシャワー室や個室などで一緒になると、かえって嫌悪をおぼえるようになっていた。
 こうしてデレクは「子供の魂」を失った。ニーチェ(1023夜)の「童子」を捨てさせられたのである。デレク自身は、13歳から18歳まで、いっさいの性的な出来事から無縁になってしまったと綴っている。
 寄宿舎を出ると、毎日、家からロンドンのストランド街まで列車で通学していた。ある夕方、一人の会社員がデレクに性器を露出して見せた。デレクはそのようなことをされる自分に嫌気がさすのだが、その夏にヒッチハイクをしていたとき、ある男の車に乗り、そのまま襲われた。4時間にわたる格闘のすえ、泣きじゃくったデレクは自動車の外に放り出された。

 ロンドン大学キングズ・カレッジで美術史・歴史学・英文学を修めた。1962年、20歳になったデレクはロンドンで一人暮らしをはじめ、同時に学んでいたスレイド美術学校でアレン・ギンズバーグ(340夜)の詩『吠える』を読み、ウィリアム・バロウズ(822夜)に夢中になり、ニコラウス・ペブスナーのもとで建築を学んだりするうちに、自分と同じ感覚の持ち主が世の中にいることを知った。
 探しさえすれば自分の同類がいるのだということは、デレクを行動的にさせた。デレクが見つけたのは神学部の学生で、日曜日になると彼に会いたい一心でブルームズベリーからベスナル・グリーンまで歩いた。
 22歳になったとき、旧友の家に泊まった夜に、その旧友の年上のカナダ人の友人がデレクのベッドに入ってきた。ロンというその男はデレクを求め、デレクはついに溜まっていたものを爆発させた。初めて男を知ったのだ。翌朝、男は消えた。デレクは煩悶しウィスキーを呷り、ハサミでそれまで描いた絵をメッタ切りにした。その日まで、デレクは「世界中で変態は自分ひとりだ」と思っていたらしい。
 
 1964年、アメリカへ行く。映像の冒険のためではない。ロンに会うためだ。すかんぴんでニューヨークに着いて、安宿ニッカーボッカー・ホテルに泊まった。何をどうしていいかわからないので、ロンドンで知りあった聖職者に電話をし、落ち合った。二人でイエローキャブに乗ると、すぐさま聖職者はデレクを抱きすくめ、その夜はどの男がデレクと寝るかという「聖なる飽食」の晩になった。
 デレクは強姦・輪姦まがいの夜を這々の体で逃げ切るのだが、かれらは許さない。ついに脱出してグレイハウンドに乗ってロンの住む町に行く。ロンと安心しきった恋をしばらく満喫したあとサンフランシスコに立ち寄り、ロンドンでは発禁だったバロウズの『裸のランチ』などを買いこんだ。
 ふたたびロンドンに戻ったデレクは、新たな世界と交信しはじめた。デイヴィッド・ホックニー、パトリック・プロクター、オジー・クラークと交流し、「ラ・ドゥス」「コロニー」「スープポット」などのクラブに出入りした。いずれもモッズ・カルチャーのハブである。こうしたなかデレクは絵画があまりにも限定的で、自分の世界を表現するには限界があると感じ、映像作家になる決断をする。デレクの内部に揺動していたゲイ・カルチャーが頭を擡げ、その感覚を裏切らないことを誓った。
 1971年、デレクはケン・ラッセルの依頼で《肉体の悪魔》のセットを担当したのを皮切りに、スーパー8カメラで自主制作映画にとりくむようになった。先ほどあげた《セバスチャン》が第一作で、科白はすべてラテン語、濃厚なホモセクシャル・シーンが連続した。ローマの百人隊長セバスチャンが皇帝ディオクレティアヌスの夜のお伽を命じられ、これを拒んだばっかりに辺境に流されて殺されるというストーリーだ。
 映画業界の反応はさんざんだったが、デレクは平気だ。ゲイの同志たちにメッセージを贈ることが目的だったからだ。デレクは低予算のまま《ジュビリー》《ドリーム・マシーン》《イマジニング・オクトーバー》《カラヴァッジオ》を撮りつづけた。
 
 エイズが判明してからのデレクには、さまざまな恐怖が忍びよっている。それを「黒い死の恐怖」とよんでいる。ペストに擬した黒死病のイメージだ。その恐怖は「厳然たる存在」をもって突然にやってくる。デレクは一晩中、爆風に見舞われる。これまで抑えこんできたすべての感情が吹き上げてくることを、凝視し、そして戦慄する。
 本書にはそうした恐怖の細部は報告されてはいない。けれども、その恐怖を映像に高めるためのイマジナリー・エフェクトがどういうものであるかは、さまざまな映像言語によって指摘されている。デレクは《ラスト・オブ・イングランド》のあと、《ザ・ガーデン》を撮り了える。
 さすがに編集中に体調不良となって病院に担ぎこまれるのだが、それでも1991年には《エドワードⅡ》を、さらに《ヴィトゲンシュタイン》に挑んで哲人にひそむゲイ感覚の描写にとりくんだ。随所にデレクの戦慄が走っている。
 1993年、視力を失いつつあったデレクは最後の作品に向かった。75分にわたって青色が映し出されるだけだった。《ブルー》と名付けられた。デレクを知る者はこれを見て、みんな泣いた。ふりかえって、映画《ラスト・オブ・イングランド》が、デレクの病いとその解放のための集大成だったのである。どこかでご覧いただきたい。そこにはぼくのカケラも入っている。